けんさく。

けんさく。が、いろいろ趣味のことをやるページです。

2015年03月

ウォシュレットの罠

先日、ブックオフのトイレに入ったら、やけに洋式便器の前の床が濡れている。
掃除したのかな? くらいに思ってそのまま、用を足し、いつもどおりウォシュレットの洗浄機能を使ったとき、異変に気づいた。
「止める」のボタンが効かないのだ。
しまった、罠だったか。
「気をつけたまえ、この国は今、罠だらけだからな」
と鳥に言われていたのを忘れてしまっていたわけだ、私は。
きっと床が濡れているのは、私以前に罠にかかった哀れな犠牲者が、意を決して立ち上がった結果なのだろう。そうすれば、センサーが反応して流水が止まる。しかし多少の被害は免れまい。
で、私はどうしたかって?
幸い「乾燥」ボタンがあったので、乾燥モードにしてから立ち上がった。
でもこれは今回が幸運だっただけといえよう。
なぜか知らないけど「乾燥」がないタイプも多いんだよなあ。 

観光をしない旅行

レーモン・ルーセルは、ただ移動するだけの旅行をよくしたそうだ。窓のない馬車に乗ってただ何処かに行って、何もせずに帰っていく。
あらゆる有用性から隔たったまさにルーセルの世界だ。
そして私はとてもこの行為に共感を抱く者だ。
普段行かないところに移動中というのは何か、周囲を特殊な空間にするところがあり、それが感じられれば最悪景色なんていらないのだ。 そしてその空間に包まれていると、実に読書が捗る。
というわけで私は時々、読書をするための旅行に行く。
さすがにルーセルみたいに何もせずに帰っていくほど人間が出来ていないので、ネットで調べた古本屋を回ることにしている。観光地など目もくれず、ひたすら古本屋三昧だ。
なんと楽しい旅行だ。
地元の古本屋に行っても、正直欲しいものは滅多にないのだ。それが旅行すると必ずと言っていいほど発見がある。
まあ、私に棚を荒らされてないってだけだろうけどさ。

星座と欲望

前回書いたfanficの翻訳のときに知った話。
「desire」という言葉は「欲望」を意味しているが、この「sire」の部分はもともとは「sides」で、「星」もしくは「星座」という意味だ。
「星からもたらされるものを待っている」状態からい今の意味になったらしい。
同様の語源からきている単語が「consider」で「よく考える」という意味だが、もともとは「星をよく観察する」という意味だったらしい。
事ほど左様に昔の人にとって、星「星の影響」は今よりずっと身近なものだったのだ。
「disaster」つまり「災害」を意味する単語は「悪い星」を意味していたし、「influenza」は星からの「influence 」によって起こると思われていた。
機械時計の発明は、昔は修道院の規則正しい生活のためと言われていたが、今では天体観測のために正確な時間が必要だったからの方が主流だ。というのも暦は人の運命を左右する超重要技術だったのであり、そのために数学も発展した。『ルパイヤード』で有名なオマル・ハイヤームは、本職は天文学者であり、非ユークリッド幾何学の先駆けとなる思考を残している。その影響か、今でもイランの閏年の入れ方は、公転周期の誤差を考えると無意味なほど正確を期しているとか。
ケプラーもルドルフ2世の占星術師であった。彼は魔術的なほど世界の構造的微を信じてやまなかった。惑星の軌道とプラトン多面体との関係の仮説や、公転周期と音を対応させれば惑星たちが和音を奏でている確信などについて書かれた本が残っている。そしてこれらの研究が、ニュートンの微積分の研究へと繋がっていくのだ。
天文学とは当時の実用的な科学であり、当時は今より科学と人々日常的な精神が近いところにあった。ガリレオ、ケプラー、ニュートンらによる科学の発展が占星術的な当時の人々の心に与えた影響は大きい。それが占星術を次第に実用的な学問の座から落としたのだ。
「使えることがえらい」とプラグマティストを気取った人間が気楽に言ってくれることがあるが、何が「使える」かどうかは、その人が所属する文化圏の世界観によって決まるのだ。ウィリアム・ジェイムズも『プラグマティズム』の冒頭でチェスタートンの言葉を「ある人を知りたいときに一番重要な情報は彼の世界観だ」を引いている理由だ。
昔の人の世界観が分からないと、昔の人にとって何が役に立つものだったのか見誤ってしまい、我々の世界がどこから来たのか見誤ってしまう。
今の人たちは、昔ほど「星の影響を信じてはおるまい。それでも私たちの生活を支える幾つかのものは、「星の影響」を信じる心性によって作られたのだ、歯車を組み合わせた機械や微分積分を使ったニュートン力学などだ。
たまには我々とは随分異なる昔の人の精神構造に想いを走らせ、そんな心から出てきた科学や技術が自分の故郷である精神にどれだけの影響を与えたかを想像してみるのも面白いだろう。

英語の練習に、好きなアニメの海外のfanficでも訳したらどうかと思う

理由

  1. 海外のファン活動はテキスト文化なので、英語のfanficはしこたまある

  2. プロの小説と違って文法的に簡単であることが多い(文法的に間違ってることもある。andを複数続けてたりとか)

  3. 実際に使われている単語を覚えられる(mesmerizeで「魅惑する」とか、galvanizeで「元気づける」とか、科学史的に面白い単語が割りと普通に使われててびっくりした)

  4. モチベーションを保ちやすい(面白い小説は訳すのが難しく、つまらない小説はモチベーションが上がらないが、キャラ愛のミーハー根性なら、小説がつまらないのもカバーできる)


てな感じに思うんですけど、どうでしょうか。ちなみに実践してたりします。発表する予定はないが。

デザインを学ぶとは、人工物全てへのより良い視線を学ぶことだ

高校までに教えておかなくてはいけないのに、なぜか教えられていないことが幾つもある。
例えば、理科で失敗史を含めた科学史、社会で数式を含んだ経済学、言語の授業で修辞学と論理学などが足りていない。
それと強く思うのが基礎的なデザインを美術の時間に教えるべきである。
デザインというものは、何も華々しいものばかりではない。本の表紙とか、製品の見栄えだけに限らないのだ。それは書類とか、ちょっとしたお知らせとか、家具や机の配置とか、デザイナーでなくても誰にでも必要なものなのだ。デザイナーでない人達のためのデザインの名著としてしられるのが、これである。

世に出回っている書類のデザインはどれも驚くほどレベルが低い。一列になっている情報の抽象化の階層が異なっていたりすることなどしょっちゅうだ。そんな書類を見るのも嫌で、記入などもってのほかだ。
せめて上の本にある、近接、整列、コントラスト、反復のデザイン4原則だけでも学んでほしい。
そうすれば、書類ももう少し読みやすく書きやすいものになるだろう(本当はウェブアプリ化してほしいんだけどさ)。
とにかく、まずはデザインというものへの視線を全ての人がもつことが先決である。
「デザインの視線」とはつまり、「使う人の身になった視線」である。
穴埋め式の書類を読むといつも思うのが、「これを作った奴は書類に書き込んだことがないに違いない」ということだ。じゃなかったらあんな書類野放しにしない。説明書を読むときもそう思う。「説明書よんだことあんのか?」。
阿呆なUIに出会うために、「これを作った奴は一度でいいから使ってみたのか?」と怒り心頭に発して、怒髪天の収まる気配なしだ。
つまりそれらを作った奴は、使う人間の気持ちを考えたことがないのだ。人間としての根源的な能力に欠けているのではなかろか?
使う人の身になってみると困るだろうな、というものを作ってはいけない。
デザインの視線を学んだ者は、作る者ではなく使う人の身になって、物を見ることができる。そこに、作る者からは見えなかった様々なものが映る。そこにはひらめきからくる感動がある。悪いデザインに気づいた時も良いデザインを目撃した時もだ。それは、自分とはぜんぜん違う人間に感情移入することによって発生する文芸的感動に似ているかもしれない。
たとえば、

には、

のようなガスコンロのデザインが酷いものだ、という話が書いてある(こんな例に使ってしまい、このコンロには悪いが)。
これでは、つまみと口の関係が全く直感的ではないからだ。
簡単な解決策として、上記の本には、口を台形に並べればいいと書いてある。
そうすれば、一番右の口と一番右のつまみを対応させて、以下同様である。
その記述を読んで私は、デザインを学んだ者が持つ物への視線に感動したのだ。
逆に良いデザインとして、

には、
が紹介されている。
これは、上から見ても量が分かるメジャーカップである。
感動的に美しくないだろうか? まるで数学問題の美しい解法(証明問題における芸術的発送の転換、図形問題における神の一手のような補助線)を見たような。
これらから分かるように、デザインを学んだ者は、日常の「ちょっと困った」に敏感なのだ。
どのつまみがどの口に対応しているのか瞬時に判断できない。計量カップを使うのに、いちいち屈まなくてはいけない。
普通の人なら「そういうものだ」と思って済ましてしまうことを見逃さず、改良できるもの、改良すべきものと捉える視線。人類の進歩の原動力。これこそ、全ての人間に持っていてほしいものだ。
平凡な会社員の日常にもそういうことは多々ある。
「同じ形式の書類を何回も書いてるなあ」
書類のテンプレートを作成すべきである。
「定期的にメンバー全員にメールを出すの面倒だなあ」
業務の自動化を進めるべきである。
「この作業何回もやってるなあ」
これも自動化案件だが、そもそもその作業が必要なのか考えるべきだ。
上記の、書類が書きにくい、書き方が覚えられない、書きたくならない、というのもこれである。その書類に何か問題がないか、そもそもその書類は本当に書かなくちゃいけないことなのか。その欄は本当に必要なのか。つまずくたびに考えるべきなのだ。
それを多くの人は「そういうものだ」「書類がかけない自分が悪いのだ」「書類がかけないあいつが悪いのだ」と考え過ぎである。俺が悪いんじゃなくて、書類が悪いんだと何回言っても彼らは聞いてもくれないんだよ、f*ck'!
大多数の人がデザインを学び、書類を読みやすく書きやすくし、無駄なものを極力省いてくれれば、「生産性が上がる」とまでは言わないものの、私達のストレスはずいぶん少なくなるはずだ。少なくとも俺のストレスは減る。

デザインを学んだ者の視線は、一種の意地悪さも持つものの、そこには少し皮肉なユーモアが宿っている。そんな視線を持って街に出るのは楽しいだろう。看板や標識やらに文句をつけながら歩くのは。
例えば実に練られたデザインを持つApple社の製品もこんな実におかしな表示をしでかしてくれる。
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私の持っているのはiphone5だが、Safariに何か入力した後、iphoneを90度強く振ると、この表示を再現できるはずだ。
どちらを押しても同じような気がするこの表示にユーモアを感じないだろうか? 感じられてほしいと思うのだが。
「取り消す」「取り消さない」じゃダメだったのか?
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