左下にもリンクを貼っておいた。
https://twitter.com/tannakaken
twitterを始めたほうが諸事連絡やイベント参加の宣伝などで、いろいろと便利なんだろうなあ、とは思いながら、それ以外の時間をただ日常のことをつぶやくことに費やしても面白く無いので、アカウントだけとって一切つぶやいていなかった。
他人の日常のつぶやきを眺めるのも正直面白くないし、読んだ本の映画の感想とかは、ちゃんと評論のレベルまで高めてブログに書きたいと思っている。頭の中駄々漏れになっているのも、コンピュータ様による人類痴呆化プロジェクトの一貫ではないかと訝しんでいるくらいだ(Lineなどで、誰かに用意してもらった画像を唯々諾々と使って、自分の頭で考えて文章を書くことを放棄してしまうのもまた同様だ。それに反抗してふたばで拾ってきた画像を貼る俺も立派な馬鹿だが)。
書くなら、未来永劫残ってもいいものを書きたいし、残るつもりで書いている。過去ログのどこを読んでも面白いブログにしたい。
それに比べると、twitterは根本的に流れていくものである。たまたま会話の流れが採取されて、残されてしまうこともあるが、それ以外の有象無象のつぶやきは、忘却の彼方へ流れ去ってしまう。
連絡事項や宣伝ならそれでいいだろう。しかし、そこに思考を垂れ流して何が面白いのか。
そんなものは、仲間と面と向かい合ったバカ話だけで十分ではないか、という気持ちがある。パソコンの前にいるときは、孤独でいたい。パソコンの前は孤独に思索に励む場所だ。
てなわけで、誰に頼まれたわけでもないのに、苦行に励むことにした。
一切事実については呟かない。絶対に架空のことしか呟かない。
そんな人力botみたいなアカウントを作ることにした。
このアカウントで本の感想を書いてたら、それは架空の本の感想だし、映画の感想を書いてたら、それは架空の映画であるし、どこかへ行ったというなら、それは架空の場所である。
コミケの通知とかは、もしかしたら実際のコミケかもしれない。それは読者の判断に任せる。
とりあえず始めたものの、何を書いていいか分からない状態だ。ネットや本棚を架空のものを探して、飛び回っても、なかなかネタは出てこない。まっしろな入力欄を眺めながらウンウン唸っている。
でもこれぞ、「何かを書いている」という実感の得られる時間であり、「ツールを周到かつ華麗に誤用する」という現代における芸術のあるべき姿を目指したものになっているものではないだろうか。
https://twitter.com/tannakaken
twitterを始めたほうが諸事連絡やイベント参加の宣伝などで、いろいろと便利なんだろうなあ、とは思いながら、それ以外の時間をただ日常のことをつぶやくことに費やしても面白く無いので、アカウントだけとって一切つぶやいていなかった。
他人の日常のつぶやきを眺めるのも正直面白くないし、読んだ本の映画の感想とかは、ちゃんと評論のレベルまで高めてブログに書きたいと思っている。頭の中駄々漏れになっているのも、コンピュータ様による人類痴呆化プロジェクトの一貫ではないかと訝しんでいるくらいだ(Lineなどで、誰かに用意してもらった画像を唯々諾々と使って、自分の頭で考えて文章を書くことを放棄してしまうのもまた同様だ。それに反抗してふたばで拾ってきた画像を貼る俺も立派な馬鹿だが)。
書くなら、未来永劫残ってもいいものを書きたいし、残るつもりで書いている。過去ログのどこを読んでも面白いブログにしたい。
それに比べると、twitterは根本的に流れていくものである。たまたま会話の流れが採取されて、残されてしまうこともあるが、それ以外の有象無象のつぶやきは、忘却の彼方へ流れ去ってしまう。
連絡事項や宣伝ならそれでいいだろう。しかし、そこに思考を垂れ流して何が面白いのか。
そんなものは、仲間と面と向かい合ったバカ話だけで十分ではないか、という気持ちがある。パソコンの前にいるときは、孤独でいたい。パソコンの前は孤独に思索に励む場所だ。
てなわけで、誰に頼まれたわけでもないのに、苦行に励むことにした。
一切事実については呟かない。絶対に架空のことしか呟かない。
そんな人力botみたいなアカウントを作ることにした。
このアカウントで本の感想を書いてたら、それは架空の本の感想だし、映画の感想を書いてたら、それは架空の映画であるし、どこかへ行ったというなら、それは架空の場所である。
コミケの通知とかは、もしかしたら実際のコミケかもしれない。それは読者の判断に任せる。
とりあえず始めたものの、何を書いていいか分からない状態だ。ネットや本棚を架空のものを探して、飛び回っても、なかなかネタは出てこない。まっしろな入力欄を眺めながらウンウン唸っている。
でもこれぞ、「何かを書いている」という実感の得られる時間であり、「ツールを周到かつ華麗に誤用する」という現代における芸術のあるべき姿を目指したものになっているものではないだろうか。