けんさく。

けんさく。が、いろいろ趣味のことをやるページです。

2015年05月

マイリトルポニーといえば尻だよな

というわけで、ポニーの尻でも見て心を落ち着けよう。

これで辛い世界でも強く行きていけるね
 

ネット時代の新しい数学書のスタイルがあるはず

数学の勉強会をやってると、数学書なんか読まない人にはあまり想像できないかもしれないが、何ページにも渡って証明が続く、ということが稀によくある。
しかしこれは人間に多大な認知的負荷をかけているような気がしてならない。はっきり言って証明する事柄の条件すら忘れてしまう。
証明の途中で「Aが成立しているので」と書いてあるのだが、なぜAが成立しているのかよくわからない。皆で侃々諤々議論をしたのだが、よく本を読み返すと、証明すべきことに「Aが成立しているとき」という条件がほぼ書いてあった。
そのとき笑いながら「電子書籍なら、ぜひいま議論をしているときに認めていることのリストがパンくずリストみたいに見えるといいね」などと話していた。
しかしよく考えてみると、電子書籍化によって改良すべき部分はたくさんあるような気がする。
例えば、いまのところよくある数学書は目的に対して一直線すぎる気がしている。もっと別解や別証明を載せてもいいはずだ。
例えばある証明は計算しやすいが、別の証明はより一般の場合に拡張しやすい、などと違いがある。数学書を一冊だけ読んでもよくわからないのは、紙幅の関係でそのどちらか一方だけ書いてあることが多いからだ(念頭にあるのは、類体論の証明にコホモロジー的手法を使うかどうかや、ζ関数の解析的性質を使うかどうかなどの問題である)。電子書籍はらこのような量的制約もクリアできるかもしれないし、追加の証明をハイパーリンクにしたり、クリックで展開・収納できるようにしたりすれば、見た目をすっきりさせたまま情報を拡充することもできるだろう。
数学的知識はまるで下からツリー上に積み重なっているようなイメージに捕らえられているが、実は他の知識と同様、絡み合ったネットワークをなしている。
これをうまく新しい書籍のフォーマットに落とし込めないものか。

手軽なネタばかり書いていると、

だんだんと手重なネタが残っていくのは必定。
というわけで、書くネタがないわけではないのだが、今ある時間で書けるのかどうか分からないので書けない、という事態ばかり起こってくる。
しかしブログの更新はしたい。
よって、無理やり軽いネタを創りだして書いてしまう。
すると、重いネタを少しずつ書くというわけでもないので、重いネタはアイディアの段階に留まり続けてしまう。
こうして根本的な問題は解決されないまま、ネタの慢性便秘化ばかりが進行していく。
ほら、今回だって手軽なネタを無理やり捏造してしまっている。

いや、無理してまで更新せんでも、という話だ。
たまには執筆に専念してもいいんやで(自分へ語りかける) 

思考のモラル 『幻想の古代史』

歴史の本でもあり、良質な科学哲学の啓蒙書でもあり、またなによりエンターテイメント性あふれる読み物になっている。
幻想の古代史〈上〉
ケネス・L. フィーダー
楽工社
2009-11

幻想の古代史〈下〉
ケネス・L. フィーダー
楽工社
2009-11

まさに「in one sitting」という感じに読み終わってしまった。
もともと教科書として書かれていることもあり、歴史書としてはかなり異質なことに、最初の2章がまるまる科学哲学における「仮説演繹法」の説明に当てられている。
通俗歴史読み物的な「方法論なき歴史科学」に飽き飽きしていたので、まずこれが面白かった。現代において考古学はハイテク化し、自然科学との境界を失っていこうとしている。もちろん、文献を渉猟し、その解釈を熟考するのも大切だが、その議論のプロセスが科学的でなければ、アカデミックな評価を得ることは出来ない。
では、その科学的な議論のプロセスとはなにか。
もちろんそれは一言では示せないし、完全な合意だって得られていない(そもそも得られない)が、ポパー以外なら誰でも認めるであろうものとして、この本では仮説演繹法を紹介する。
仮説演繹法とはなにか?
我々は説明のつかない現象Pを見ると、それを説明するために仮説Hを立てる。そのHは「Hが成り立てば、高い確率でPが成り立つ」という性質を持つものだ(これをPに対してHの尤度が高い、という)。
例えば、「様々な古代文明が普通では考えられないほど高度な技術を持っているのは、古代に宇宙人が地球を訪れているからではないだろうか?」などだ。実際、宇宙人が古代に地球を訪れていたら、古代文明に高度な技術の祥子が残っているだろう。これは別に間違いではない。
これを科学哲学では「アブダクション」という。
仮説演繹法では、今度はこの仮説から何らかの検証可能な結論を導き出そうとする。
例えば、「もし様々な古代文明に宇宙人が訪れていたら、どうなるだろう。きっと同じ技術で出来た物品が全地球的に出土するだろう」などと考えるのだ。
そして、もしその結論が実験や調査によって否定されれば、その仮説は棄却される。もし肯定されれば、その仮説は補強され、さらに同じプロセスを繰り返し、十分に補強されれば定説となっていくのだ。
この手法を使って大きな結果を出した有名な人はハンガリーの医者センメルヴェイスである。彼は病院での出産における産婦の死亡率の異様な高さ(自宅出産の10倍)が医者が死体を触った手を洗わずに妊婦に触ったことが原因と突き止めたのだ(まだ細菌発見前であり、病気は体液の過多や悪い空気で起こると思われており、手を洗うという発想はなかったのだ)。
このことは、科学史・科学哲学の多くの入門書に書いてあるが、この本には最初どんな仮説を出して(患者が死者を弔う牧師の姿を見てショックを受けたからではないか、なんて仮説も立てたのだそうだ)、どんな実験をしたのか(牧師の歩くルートを変えた)を、普通の科学史・科学哲学の本よりも詳しく書いてあるのが、歴史書らしくて面白かった。ちなみにこの本には書いてないが、センメルヴェイスはこのことを世に広めようとするが、なぜ手を洗うと死亡率が下がるのかが説明できなかったり(彼は死体の破片が悪さをしていると思っていたらしい。もう一度いうが、細菌発見以前の話である)、態度が脅迫的だったりしたこともあり、医者がたくさんの死者を出したことを認められない医師の集団に精神病院に入れられそうになって、逃げ出そうとしたところを集団暴行にあい、その怪我が元で死亡している。今も昔も我々は統計データよりも「こうこうこういうプロセスでこうなります」という物語に重きを置きすぎる傾向があるので注意しよう(気功とかホメオパシーとか、統計的裏付けはなくても、効く理由を提示されると納得してしまう人が多い)。
閑話休題。
この「仮説演繹法」を使ってこの本が示しているのは、「超古代文明」「古代宇宙人仮説」「インディアンはユダヤ人の末裔」「全ての生物は神が作った」「地球の寿命は約6000年程度」「恐竜と人類は同居していた」「ダウジングや超能力による発掘」など、考古学における奇説珍説は、大概この前半のアブダクションのところまでで止まってしまっていて、そこから検証可能な結論を導いて検証するという、科学のプロセスを通っていない、ということだ。だから、何らかの仮説に出会うたびに、「ここから検証可能な結論は導けるかな? その結論をこの仮説はちゃんと検証しているだろうか? 何らかの反論があるなら、それにちゃんと答えているだろうか?」と考えるだけで、割りと簡単に論難出来てしまう。
この本では、それを読者に練習させるために、的確な練習問題まで用意している。素晴らしい。
読者は、妙ちきりんだが一度は聞いたことがあり、もしかしたら信じていたかもしれない歴史のトンデモ話を楽しみながら、いつの間にか現代人の教養でありモラルである、科学的思考を身に付けることが出来るのだ。
そうなのだ、これは教養なだけではなく、モラルなのだ。
高度化したエンターテイメント産業によって欲望を刺激され、ひたすらポルノ(「受容者の欲望を満たすためだけの作品」を広義のポルノと呼ぶ)を消費するだけの人々の思考は、どこまでもだらしなくなっていきがちである。
そこに規律と緊張感を与え、より良き生を生きるためにも、科学的思考の桎梏はぜひとも必要なのだ。 
より良き生、それは現代においては「面白い情報を生産する生」にほかならない。
ポルノを消費するだけの消費者が何を喚こうと、彼らが享受している情報、そして彼らが生み出している情報は、質が低く、すぐに腐ってしまう(それどころかこの世に産み落とされた瞬間から腐臭を放つ)。つまりつまらない。
なぜなら、結局どれもこれもどこかで見た意見の引き写しにすぎないからだ。
この本で紹介されているトンデモ話も、最初に出会った時は面白いかもしれないが、少しコレクターを気取って収集しようとすると、とたんに後悔するものばかりだ。何冊読んでも何冊読んでも、同じ話ばかり。多少毛色の違う話があっても、途中から結局いつもの話に経路が収束していってがっかりさせられる。結局この手のものは集合としては興味深いが、個別としては退屈な存在に過ぎない。
当たり前だ。いつもと違う話を考えられるくらいの想像力があれば、自分の言っていることに疑問を持つであろうことは、上での仮説演繹法の説明を読めば分かる。
彼らは時に科学者の凝り固まった想像力のなさをあげつらうが、自分の後頭部にブーメランが突き刺さっていることにも気づけない鈍感さには憐れみすら覚える。
山本弘を始め、多くのSF作家がこれらのオカルトを嫌う理由は簡単だ。「こうなったらどうなるだろう。ああなったらどうなるだろう」というような、SFのシミュレーション的想像力から、これほど離れた存在も他にないからだ。
ネットに溢れる無害有害取り混ぜた珍妙な言説も同様である。想像力の欠片もなく、その結果単調で代わり映えしない。しつこいくらい何回も同じ話をする(同じ人物がしているわけではないのだろうが。ないよね?)。一体何のために? 世界をつまらなくするのがそんなに楽しいのか。救いようがないな。

我々は世界を面白くするために戦わなくてはいけない。そのためにこのモラルをもっと広めなくてはいけないのだ。
一人でも多くの人に、偽の謎より本物の謎のほうがロマンチックで面白いことを知ってもらわなくてはいけない。 
聖書に書いてあることは本当にあったとか、エジプトやマヤのピラミッドを宇宙人が作ったなんて与太話より、人類の精神がどう進化してきたかとか、エジプトやマヤが独自性にあふれる文明をどうゆっくりと発展させてきたのかのほうが、ずっと夢があって、楽しい細部に満ちている。
愚かなオカルトと違って、こちらは日進月歩、年ごとに新しい情報が追加され、目が離せない。
この認識を、私の否定的な話に対して、「ええ、夢が壊れたあ、そんな話聞きたくなかった」などと喚いたあの女のような人にも持ってもらえたら、どれだけ世の中が面白く、そして良くなるだろうか。
あんたら選挙権持ってるんだよ、分かってんの?
これが王政の国だったら、国王が「朕は夢のある話が好きだから事実は嫌い」などと言い始めたことになるんだよ。どうなると思う。革命不可避。いつやるの? 今でしょ!(微妙に古い)
 

ドーモ、The Pinballs=サン、ニワカです

『ニンジャスレイヤーフロムアニメイシヨン』たまらんね。
『ニンジャスレイヤー』は以前から部分的に読んでて、面白いなと思っていたので、今乗りに乗ってるアニメ製作会社であるTRIGGERが作ると聞いて、期待する反面、『キルラキル』が最初期待していたほどには面白くなかったので、少し心配もしていた。
私は別に懐古はしたくないのだ。新しいものが見たいのだ。そのためのネタ探しに古いものを漁るというのなら、いくらでも付き合うが。
そして蓋を開けてみれば。
サイコーじゃん。『Panty & Stocking with Garterbelt』からの流れの、そして『インフェルノコップ』を作ったTRIGGERだ。
第一話は何十回と見てしまった。
 
日本アニメの決定的弱点である「テンポの悪さ」や「意味のない手間暇」を完全に払拭し、目的を達成するためのベストの表現を実現している。
ニンジャスレイヤーのヘヴィなストーリーとチープな表現、殺伐アトモスフィアとマヌケな勘違い日本描写、という拮抗し互いに互いを増幅する対比を、声優やナレーターのどこまでもクソ真面目な演技と妙てけれんな日本語、手抜きFlashアニメ(ただし『マイリトルポニー』や『Wakfu』が好きな人間としては、Flashアニメーションすなわち手抜きという日本の風潮は実際「井の中の蛙」であると指摘せざるを得ないが)と金田パース金田飛び金田エフェクトなど各種日本アニメの真髄的手法によって、見事に再現している。
実際見事。
特にギリギリまで迫力ある表現をしながら、肝心なところでソフビ人形による怪獣ごっこめいたFlashアニメになるところは、腹を抱えて笑うほかなかった。大好きだ。
また、ほぼ毎話のように『ウルトラマンシリーズ』へのオマージュがあるのも、なんか同じバックグラウンドを背負ってるなと感じられて嬉しい。『トランスフォーマー』も好きだし。

さて、もう一ついいのが、各話のEDが毎回変わるところだ。この趣向は別に初の試みなわけではないものの、今回は、OPはBOOM BOOM SATELITES。第1話がBoris、第2話がMelt-Bananaと日本国内よりも海外で人気の高い人たちを使っていることだ。傾向としては、パンクっぽい。
日本のパンクだったりエレクトロニカだったりニューウェーブっぽかったりポストロックだったりノイズだったりとかのアングラバンドは、日本国内よりも欧米で受容されやすいような気がする。もちろんポップなものも好かれるけど、それは日本国内でも情報が流通するのに対して、アングラは日本国内では気にしていないと情報が来ないが、欧米ではそれなりの市場があるからなのか、しっかり名を知られてる気がする。別に詳しくないから、気がしてるだけだけどさ。
そんなちょっと通好みのバンドを積極的に紹介してくれるのは嬉しい。
で、個人的にhitしたのが、第三話のEDを担当した、The Pinballsだった。この人達のことは知らなかった。
 
かっこいい。言葉選びのセンスもキレキレだし、ガレージロックらしい単純で力強い曲も最高だ。
良いバンドじゃん。今までだって、もっと知られてるべきだったけど、これを機会にみんな知るべきだよね。
というわけで、紹介記事を書きたくなりましたとさ。
『アンテナ』
 
歌詞の特徴としては、固有名詞を絶妙に使う、といったところか。でも「サマルカンド」とか「イスカンダル」とか、エキゾチックな言葉を使いながら、実は「感度」とか「シンバル」とか、それより前に出ていた単語と韻を踏んでいるのもにくい。
『ten bears』
 
「想像力と三ヶ月を味方につけて」という詩はなかなか書けないね。
ギリギリまで、詩の意味の全貌を見せずに謎めかしておいて、最後の最後でまさにこれが想像力への賛歌であることが分かる、というカタルシスを、歌詞上の仕掛けと、曲の仕掛けをシンクロさせて実現した傑作だ。
他にもいい曲があるけど、これ以上貼ろうとすると、netに転がっているものを全部貼ることになるから、そろそろやめるけど、これがきっかけで認知度が上がって、カラオケにたくさん入ってくれると嬉しいな。この二曲、DAMにしか入ってないんだよなあ。
歌いたい。
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