けんさく。

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2015年06月

remix小説の勧め

先日、自作小説をremixしながら考えた。
現代人は忙しい。しかしその中で近代民主主義教育の賜物である満たされぬ表現欲に悩む人も多い。その矛盾をどう解決するか。それは全ての人間を燃料として磨り潰しながら加速を続ける社会の中で幸せになるための重要な問題ではなかろうか。
その解決策として、remix小説を考えてみた。
remix小説とは、幾つもの無関係に作られた短編小説を切り刻み、ある小説の場面と別の小説の場面を乱暴に接続することによって、面白さを産もうという試みである。
この手法の良い所は、まずすでに素材となる小説が幾つかあれば、小説を書く必要がない、というところである。例えば暇を持て余していた学生時代に小説を書いていたが、社会人になってからはなかなか時間が取れない、という人には強く薦められる手法であることが、ここから分かる。
しかしそのような次善の策としてではなく、もっと積極的なものとしてこのremix小説という手法を捉えてみたい。これは小説というものの見方を変えることを要請しているのかも知れないのだ。
例えば、これから小説を書くときは、あとでremixすることを前提とする、と考えてみたらどうだろう。何が変わるだろうか。
まず、その小説が単品で面白いことすら要求されなくなる。もちろんそれを発表する際、完成作ではなく素材であることを明記しておくべきだろうが。また張った伏線を解決することも必ずしも必要なくなる。他の作品で解決してしまえばいいし、解決されていない伏線は他の作品との糊代になりうるかもしれない。
これは忙しい人間が小説をあいた時間に書くためには良い傾向ではなかろうか。少ない時間ではなかなか綿密な構成は望めないものだ。しかし緩い構成で書いた小説は素材と考え、それが溜まればremixして、書いた時点では思いもしなかった場面同士の意外なつながりによって面白さを得るなら、細切れにされてしまった時間でも有効に使えるかもしれない。
小説というものは、映画や漫画などの他のジャンルに比べて、細かいところまでコントロール可能である。それが小説の良さ(どこまでも緻密な設計が出来る)でもあるが、窮屈さにもつながる。全てをコントロールしてしまえば、所詮一人の人間の脳髄に収まる広がりしかその作品は持てないのだ。
ギリギリまでコントロール下において、絶妙にコントロールされない成分を導入する。それが小説を面白くする精髄である。
remix小説という手法の確信はまさにそこだ。書いていたときには自分でも気づけなかった作品同士のつながりを発見する。それは自分の知らない自分を発見することでもあるだろう。
それだけではない。全ての小説はremixするための素材であるとして、これからは小説を読むのだ。そうすれば青空文庫は死んだ作品の墓場ではなく、自分を見てくれと蠢きざわめく生きた作品たちに満ち溢れた場となるだろう。そして自分の作品も、他人の作品の素材として考えるのだ。自分の作品が切り刻まれ、種子となって世界に散らばっていくさまを見ることほど幸せなことはないと思うようになるのだ。
伝統的な文学研究者が考えてきたこととは違って、文芸にとって重要なのは作者ではないし、一つ一つの作品ですらない。重要なのは幾つもの作品が織りなす大きな流れである。作品というものには、必ず大きく露わにはなっていない隠された部分がある。切り刻んでremixすることによって、作品の隠された可能性を露わにすることができるのだ。
さあ、お手軽に革命を起こそう。今からこれからこの瞬間から!

今年もコミケ出ます

The dark side of forcing
金曜日(一日目) 東地区 "パ" ブロック 54a
数学の同人誌を配布します。
今回で五回目!
というわけでサークルカットはこれ!
 C88サークルカット

remix小説 『頭脳改革』


 1時間、幸せになりたかったら酒を飲みなさい。
 3日間、幸せになりたかったら結婚しなさい。
 8日間、幸せになりたかったら豚を殺して食べなさい。
 永遠に、幸せになりたかったら釣りを覚えなさい。(中国の諺)
 
 
 とある山の中、男が渓流釣りをしている。彼の前に流れる川はかなり急だが、水はきれいそうだ。魚だっていないことはないだろう。だが、彼の横に置いてあるバケツには、水と、あと小魚のみ。本来なら設置してある釣竿や、そこから垂れた釣り糸に注がれるべき視線が、宙をさまよっているところから判断すると、随分と長いことこの状態が続いているらしい。あくびをひとつ。
 その後ろから男が近づいてくる。登山をしていて、近くを通ったのであろうか。男のバケツをのぞいて、
 「釣れますか?」
 と訊く。釣り人は不機嫌そうに答える。
 「見りゃわかるでしょう」
 登山客はもう一度バケツの中をのぞく。
 「あんまり釣れてないように見えますが………」
 (ちっ、いやみなやつだな)
 と小声で釣り人はつぶやいたが、釣れてないのは本当なので反論ができないようだ。
 釣り人は大きめの岩に座り込んでいて、登山客はその後ろに立ち、流れを眺めている。その状態がしばらく続いた。すると突然登山客が、釣り人の耳元で、他に誰かがいるわけでもないのに、秘密めかして囁いた。
 「大物を釣らしてあげましょうか?」
 「ハァッ??」
 思わず素っ頓狂な声が出てしまったようだ。この男いったい何を言っているのだ。
 「どうでしょうか。悪い話ではないと思いますが?」
 釣り人は、最初はふざけているのかとも思ったが、この男の顔を見ているうちに、もしかしたら真面目も真面目、大真面目なのではないかと、だんだん不安になってきた。
 一体この男何者だ。大物を釣らす、なんてどうやって? 釣りの達人か何かなのか? その割には道具も何も持ってはいないようだが……… 大体、達人だって毎回大物が釣れるわけでもあるまい。それじゃあ、なんだろう、大物が釣れることを保障できるような人物って。たとえばこの川の精霊か何かとか。ああ、そうか、さっき持って帰って捨ててやろうと、転がってた空き缶をビニール袋に入れてたのを、この川の精霊が見ていて、恩返しに来たのかもしれない。でも、いまどき清掃登山のボランティアも珍しくなくなったし、それくらいで恩返ししてくれるかな? じゃあ、もしかして、こいつは悪魔の類かもしれない。大物を釣らしてやる代わりにこの契約書に血でサインしろ、さすればお前の魂は私のものだ、ハーハッハッハッハ………って釣りくらいで魂を売るやつなんているのかな? いるかもしれないけど、とりあえず俺は違うしなぁ。じゃあ、じゃあさ、一体全体こいつは結局何者なわけよ? ああ、ただ単に穴場を知っているってだけかも知れんな。
 というようなことを釣り人は約三秒で考えた。そして最後には興味も勝って、どうやって大物を釣らしてくれるのかお手並みを拝見しようじゃないか、ということを決心したであった。
 「じゃあ、釣らしてみせてくださいよ」
 するとその登山客は背負っていた荷物を降ろすと、釣り人の横に立って川の流れを覗き込んだ。そして、深呼吸すると、二の腕を耳につける型通りの姿勢で、川に飛び込んでしまった。
 ザブン!
 
 前回までのあらすじ
 親の仇を倒すために、剣術修行の諸国放浪をしていた稀近(まれちか)は、行く先々でなぞの組織の刺客たちと遭遇していた。しかし、彼らを倒しながら、確実に剣士として稀近は成長していくのであった。そんな折、伊賀に立ち寄った稀近は、なぞの忍術使いにより絶体絶命の窮地に立たされたのであった。


 「はーはっはっはっは。我が奥義、『分け身の術』が貴様にやぶれるかな?」
 「く、くそ、いったいどれが本物なんだ」
 正眼の構えで立つ稀近の周りには、幾つもの忍者の姿が見える。それが同時に動くと、森の中で視界も悪いため、幾つの像が見えているのかすらもわからない。もちろん、そのほとんどすべては残像にすぎないのだ。どうにかしてこの技を見破らなければ。
 「そーら。ぼけっとしてるんじゃないぞ」
 スッと、背筋に悪寒が走る感覚がした。後ろに気配するので、刀を体の正中線に立て、振り返りながら飛び下がる。しかし、見えたのは、日の光が刀に反射した、一瞬の閃きだけだ。刀の先が頬をかする。一瞬遅れていたら頚動脈だ。手の甲で顔をぬぐうと、袖まで赤く染まる。
 「俺の一の太刀が皮一枚とは、なかなかいい反応をするじゃないか。だが、つぎはどうかな?」
 このままではだめだ、やられる。
 そのときだった。心の中に直接呼びかけてくるような声が、響いてきたのだ。
 (稀近よ、よく聞け)
 (この声は。お師匠!)
 ふと、上を見上げると、青空に懐かしい師匠の顔がうっすら浮かぶような気がした。
 「そらそら、よそ見していると、首から上と首から下が、さようならしちまうぞ」
 どうやら相手には聞こえていないらしいことに、稀近は気づいた。それでは、これは遠くにいるお師匠が、直接私の心に話しかけているのか?
 (稀近よ、よく聞くのだ。上辺だけの幻なんぞに惑わされてはいかん。真実を見極めるためには、雑念を振り切って、心の目で見るのじゃ。そして理力じゃ、理力を使え)
 (心の目、すなわち心眼!なるほど。しかしいったいどうやって?ぼやぼやしていて、気づいたらすでに俺の体は傷だらけだ。くそっ、こうなったら賭けるしかない)
 稀近は、一念発起すると、心をできうる限り静めて、目を軽くつぶった。敵の忍者はそれを見てあざ笑うように言った。
 「おいおい、もうあきらめちゃったのか? 念仏でも唱えるってんなら、唱え終わるまで待ってくれるなんて思わないほうがいいぜ」
 しかし、稀近の心は内側へ内側へと、沈んでいった。外側への一切の知覚の扉を閉じ、今まで閉じていた心の目を開こうとしたのだ。次第に外界の物音は背景に後退し、最後にはほとんど聞こえなくなる。触覚もまた然り。世界には自分しかいなくなり、それ以外は静寂の海。すると次第に、心のふたが開けられ、その中にあるものがあふれ出そうとしているのがわかるのだった。
 見えた!見えたぞ!心の目によって見える、今この眼前にありありと! いくつもの虚像の中でどれが本物なのかも見えるし、そいつをどうやって倒せばいいかも見えるぞ! 俺の一撃を敵が避けようとするが、避けきれずに致命傷を受けてしまうのも、そして奴はあの俺を付け狙う組織の一員であるが、結局その組織の正体も今回はわからずじまいなのもみんな、ちゃんとちゃんと見えるのだ! それだけではない。俺はこの後傷ついた体を引きずりながら、山を降りようとするが、あまりの痛みに気を失ってしまう。俺が気がつくと、そこは小さく粗末な農家の家の中だ。一人の優しい農家の娘が、偶然薪を取りに山に入っていて、助けてくれたのだ。彼女は、俺が回復するまで手厚く看護してくれる。そしていつしか二人の間には、単なる偶然を必然のように感じさせるような思いが、育っていったのであった。しかし、俺にはやらなくてはいけない使命があるのだ。あの憎き父の仇、あの隻眼の男を探し出すまでは、俺は立ち止まるわけには行かないのだ。ごめんよ、お冬、君と俺とは双曲線のように、一度接近することはあっても、最終的には交わることのない運命なのさ。「ああ、なんて好いたらしいお方。なのにあなたは出て行こうとなさる。こんなにお慕い申し上げているのに、こんなに身を焦がしているのに」俺は、未練を残さないように、ある夜こっそり寝床を抜け出し、旅を再開した。まだ、怪我が治りきったとは言いがたいのだが、しかしこれ以上ここに残れば、俺の理性の歯止めがいつまできくかどうかもわからない。俺は敵討ちのための恨みだけで生きている人間なのだ。剣の交わり以外の、人同士の交わりなど、俺には必要ない。いや、そんなもの、してはいけないのだ。俺は明日もわからない、いつ死ぬかもわからない人間だ。いつ死んでもいいようにしていなければ。
 俺は町に出た。町にいれば、奴ら、つまり俺を付けねらう奴らに見つかる可能性も高い。怪我が治りきらない俺にとっては危険だといえる。しかし、町に出なければ情報収集もままならないのも確かだ。俺は、まず町外れの茶屋に入った。
 そこで俺は、幼馴染のさっちゃんに出会ってしまったのだったグハァァッ
 「命の取り合いをしてるって時に、目をつぶってニヤニヤしてんじゃねぇ!!!!」
 
 彼は後悔していた。なぜこんなことになったのだろうかと考えていた。だが彼はまだこれからどんなことが起こるか知らないし、よってもっと後悔することも知らない。
 毛の長い絨毯ですら消しきれない足音を立てて、あれがまた近づいてきた。喚き声、怒鳴り声、そして突然噴き出すけたたましい笑い声をともなって。何を言っているのかはほとんど分からない。分かるのは、時々立ち止まって叫ぶ、「そこにいるのは分かっているんだぞ」と、時どき発作的にドアを開けた時の勝ち誇った「そこだ、そこにいるんだろ」だけだ。しかし、何かの確信があるわけでなく、当たるを幸い、手当たり次第にドアを開けているだけらしい。その探している誰かが誰なのかも、分かっている形跡はない。彼を探しているのでもないのだろう。要は、噂は本当だったということだ。噂を信じていなかったわけではない。噂を信じたからこそここにいるのだ。だが、ここまでとは思っていなかったのだ。彼は女中部屋のクローゼットの、古びたお仕着せのあいだに身を潜ませながら、心底後悔した。
 だいたい、彼はもうこの町にはいないはずだった。昨日、遅くとも今日には、汽車に飛び乗って、こんな辺鄙な場所からおさらばしているつもりだったのだ。あまり長い期間、同じ地域で稼ぎ続けるは危険だし、それにもうすぐ熱砂の季節が来る。野外では目も開けていられないし、それに砂が家に入らないように戸締りも厳重になり、仕事がしにくくなる。それなりの収穫もあったし、そろそろ引き上げて、どこかカジノのあるリゾート地で羽を伸ばしたい、と候補地の表を頭の中に作ろうとしていながらグラスを傾けていた、あの酒場でのことだった。この屋敷の話を聞いたのは。
 ―あの気違い屋敷知ってるだろ。
 ―ああ、それがどうかしたのか。
 ―あそこ、もう十年近くなるだろ。
 ―おい、何の話だよ。混ぜろよ。
 ―だから、気違い屋敷のじいさんの話だよ。
 ―何だよ、それ。詳しく話せよ。
 ―知らないのか、お前。あの、アタラテ山の麓にでっかい屋敷があるだろ。
 ―ああ、あるな。あそこって、誰か住んでるのか。俺はてっきり……
 ―住んでるも何も。昔はかなりはぶりが良かったらしいぜ。いろんな事業に手を出してぼろ儲けだ。ところが家主のじいさん、十年くらい前に頭のねじをどこかに落っことしたらしくて、それ以来家族は出て行くし、使用人もみんなやめちまって、今では大昔から仕えているじいやだかなんだかが、一人で身の回りを世話しているらしいんだが、やっぱ一人ではあんなでかい家の世話までは手がまわらず、家は荒れ放題ってわけだ。
 ―へえ、あそこ人が住んでたんだ。俺はてっきり……
 ―で、話は戻るけど、あのじいさんがどうしたんだ。
 ―そうそう、あそこ、気が狂う前は相当あくどいことまで手を出してたらしくて、奥さんが出て行くときに持っていった分を引いても相当残っているらしくて……
 ―それで。
 ―しかも、あのじいさん、おかしくなる前から相当の変人だったらしくて、銀行とかそういう類の物の一切信じなかったらしくて、あの家の中に金とかそういう物の形でためこんでるらしいんだよ。
 ―なんでお前がそんなこと知ってるわけ。
 ―そりゃお前、俺も噂を聞いただけなんだけど……
 人気のない屋敷なら潜りこむのも簡単だろう。それに頭のイカれたじいさんと年老いた使用人なら見つかっても大丈夫だ。もし何か獲物があったら、見っけもん、何もなくても痛くもかゆくもない。だったらここでの仕事おさめとしても悪くはない。そのときには彼にもそう思えたのだ。
 だが、今はとてもそうは思えない。とうに夜半を過ぎているのに、一向にこの家主は落ち着こうとしない。錠をこじ開ける前に灯りが点いていないことは確認した。だがこのじいさんが手に持って歩き回っている小さな燭台の光りには気がつかなかったのだ。廊下を抜き足差し足で歩いていると、廊下の曲がり角の向こうから、このじいさんのたてる騒音が聞こえてきて、思わず手近にあったドアに飛び込んだ結果がこうだ。そのときに何か物音でも聞こえたのだろうか、これだけ広い屋敷の中で、今夜の捜索区域をこの近辺と定めたらしく、じいさんは同じところをぐるぐる回り続け、当てずっぽうに誰かを、何かを探し続けている。このドアが開かれるのも時間の問題と言えそうだ。「今日こそ必ず見つけてやる。私の人生を台無しにしおって。今日こそ必ず、今日こそ必ず」とぶつぶつ呟きながら、足早にこの部屋の前を通り過ぎたのを確認してクローゼットから這い出し、ドアに耳をつけて、足音を追う。足音が変わる。階段を昇って行くようだ。今しかない。音を立てないようにドアを開け、身を滑り出させる。階段があるほうの反対側にいけば、窓があって外に出られるはず。足音を立てないように、だができるだけ急いで、いつ気が変わって戻ってくるかもしれない階段の方へと意識を向けながら、角を曲がって前を向くと、途端に目がくらんで立ちすくんだ。
 光り、蝋燭、人。なんで。むこうにいった筈なのに、階段を昇ったはずなのに。顔の前に手をかざして光りをさえぎろうとする。目が慣れてくる。いや違う。あのじいさんよりさらに年老いた、枯れ木のような男が、わざわざ寝巻きから着替えてきたのであろうか、使用人の制服に身を包み立っている。ベルトの尻のところに差し込んでいた鞘からナイフを抜き放つ。左手で目を覆い、刃を持った右手を前に突き出し腰を低くする。いつだって殺しは最終手段だ。できることならもうやりたくない。
 蝋燭の炎に下から照らされて、ぼうっと生気のない顔が浮かび上がる。目はまっすぐ彼を見ているが、まるで体を通り抜けて向こうの壁を見ているようだ。さもなければ何も見ていないよう。ナイフを閃かせても何の反応もない。なんだ、こいつも狂ってるのか。可愛そうに。どこにも存在しないものを探し続ける主人に十年近くも仕えていたら、頭の一つや二つおかしくなってもおかしくはない。
 「ようし、そこから動くなよ。あんただって死ぬのはいやだよな。動かなければ死ななくてすむんだ。あんな主人への忠義のために命を投げ出す必要なんかないってもんだ」
 微動だにせずに右手に燭台をもってまるで自分自身が大きな燭台に成り果てたように突っ立っているその姿から目を離さずに、彼はナイフを構えたまま老人の横を迂回する。そしてすばやくナイフを鞘に戻して、一目散に一番近くにあった窓に取りすがる。手探りで金具を探す。錆びていて、動かない。もう一度抜いたナイフの柄で何度か叩いてようやく金具が外れる。しかし窓自体に相当ガタが来ていて、なかなか体が通るまで開かない。そのとき、窓の外の景色が動いた。違う、動いたのは影だ。斜め横に伸びていた影が真正面に来て、短くなる。動いているのは窓の外のものではなく、光源。
 
 前回までのあらすじ
 親の仇を倒すために、剣術修行の諸国放浪をしていた稀近(まれちか)は、行く先々でなぞの組織の刺客たちと遭遇していた。しかし、彼らを倒しながら、確実に剣士として稀近は成長していくのであった。そんな折、伊賀に立ち寄った稀近は、なぞの忍術使いにより絶体絶命の窮地に立たされたのであった。


 「はーはっはっはっは。我が奥義、『分け身の術』が貴様にやぶれるかな?」
 「く、くそ、いったいどれが本物なんだ」
 正眼の構えで立つ稀近の周りには、幾つもの忍者の姿が見える。それが同時に動くと、森の中で視界も悪いため、幾つの像が見えているのかすらもわからない。もちろん、そのほとんどすべては残像にすぎないのだ。どうにかしてこの技を見破らなければ。
 「そーら。ぼけっとしてるんじゃないぞ」
 スッと、背筋に悪寒が走る感覚がした。後ろに気配するので、刀を体の正中線に立て、振り返りながら飛び下がる。しかし、見えたのは、日の光が刀に反射した、一瞬の閃きだけだ。刀の先が頬をかする。一瞬遅れていたら頚動脈だ。手の甲で顔をぬぐうと、袖まで赤く染まる。
 「俺の一の太刀が皮一枚とは、なかなかいい反応をするじゃないか。だが、つぎはどうかな?」
 このままではだめだ、やられる。
 背後で、地面を強く蹴る音がした。ぎりぎりまで集中していたからこそ、そのかすかな音に気づき、瞬間的に反応できて、振り返った。しかし、相手はほとんど体当たりするように飛び込んできており、こちらはのけぞりながら振り返っているため体勢が悪い。受けが間に合わない。終わった、と稀近は思った。体がこわばる。幾つもの死線を潜り抜け、死の恐怖などとっくに克服したと考えていたにもかかわらず。しかるべき痛みが感じられるのを彼は待った。
 しかしそれはなかなか来なかった。いったいこれはどういうことだ?稀近は異常に気がついた。周りから音が消えていた。そして、今まで速すぎてほとんど見えなかった忍者の動きが、まるで油の中を泳いでいるように、ゆっくり見えたのだった。これはいったいどうしたことだ、と稀近は考えた。
 そのときだった。心の中に直接呼びかけてくるような声が、響いてきたのだ。
 (稀近よ、よく聞け)
 (この声は。お師匠!)
 ふと、上を見上げると、青空に懐かしい師匠の顔がうっすら浮かぶような気がした。前にも経験があるのですぐにわかったが、これは遠くにいる師匠が直接心に語りかけているのだ。
 (今、おぬしは人間の限界に挑戦しようとしているのじゃ。人間は普段、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚、の五感によってこの世界を認識しておる。じゃが、極限状況に追い詰められた人間は、その状況を正確に認識するため、視覚以外の感覚を締め出し、そしてその視覚を極限まで張り詰めさせる。その際、恐るべき集中力を発揮させることになる。それがお前が今見ているその景色じゃ)
 なるほど。人が死ぬ寸前に走馬灯を見る、という話を聞いたことがあるが、瞬間的に一体どれほどのものが見えるのかといぶかしんでいたが、それもこの時間の引き延ばしで納得ができるのかもしれない。しかし今はそんなのんきなことを考えている暇はない。
 (行け、稀近、人間の潜在能力の力を見せ付けてやれ)
 「な~る~ほ~ど~、こ~ん~な~お~そ~い~う~ご~き~だ~っ~た~ら~か~ん~た~ん~に~よ~け~ら~れ~る~ぜ~、っ~て、あ~れ~、お~れ~の~う~ご~き~も~お~そ~く~な~っ~て~、(ズッバシューッ)うわあ~ち~が~で~た~、こ~れ~じゃ~は~な~し~が~ぜ~ん~ぜ~ん~ち~が~う~じ~ゃ~ね~か~!~!~」
 そのとき、敵の忍者の唇がゆっくりと、次のような言葉を言うように動くのが見えた。
 「な~に~わ~け~の~わ~か~ら~ん~こ~と~を~い~っ~と~る~ん~だ~、け~っ~と~う~の~さ~い~ちゅ~う~に~、こ~わ~く~て~き~で~も~く~る~っ~た~か~!~?~」
 ズバァァァッシューーーーーーーーーーーー
 川平彩子は極彩色の死の夢から悲鳴とともに目を覚まし、夜の暗い静寂に響くその余韻に耳を澄ました。卵を内側から割って這い出ようとする胸の鼓動と、頭蓋の奥で羽ばたく耳鳴り以外、何も聞こえない。毛布を握りしめてしばらく震えているとだんだん落ち着いて来て、もうあの金粉をまぶしたような夢の内容も、定かには思い出せなくなる。彩子は水を飲もうと、ベッドから降りて、素足のままぺたぺたと廊下に出る。きっとまだ少し寝ぼけているのだろう。あの夢のお腹の中にいるみたいに床や壁がぐにゃぐにゃして、裸の足の裏がひたひたと濡れているみたいに感じる。深呼吸して、気をとりなおすと、壁のぐにゃぐにゃは止まった。でも廊下の床は相変わらずぬらぬらと湿っている。大きな蛞蝓が這い回ったみたいだ。常夜灯に反射して、きらきらとその道筋が見える。それは廊下を真っすぐに進んで、明かりがついたままのキッチンに入っていっている。そこに倒れていたのは、いつも遅く帰ってくる父親だった。まだスーツも脱がないまま、床に倒れふしているその体の周りが、薄緑の粘液でべたべただ。
 お父さん!
 彩子は驚いて駆け寄り、肩を揺らそうとするが、手のひらについたキャベツの汁のような臭いの糸を引く液体に思わず手を引っ込める。顔や手など、肌が出ているところはもう表情が見えなくなりそうなほど、どろどろになっている。でも服を着ているところは、まだ湿っている程度だ。一体これはどういうことなんだろう。理解できず、立ち尽くしていると時間だけが過ぎていき、そのことに驚いて、母親の寝室に走る。
 お母さん! お父さんが!
 意味のある言葉は何も出てこず、ただ叫びながら、シーツに包まれた母親の体を揺らす。シーツがじっとりと濡れていた。意味のない叫びすら、喉に引っかかって出てこなくなる。
 お母さん?
 母親の体の向きをごろりと変えると、長い髪が頬や首筋にべっとりと絡み付いている。耳や鼻や口、それだけでなく体中の毛穴からしみ出してくる青臭い粘液が、枕にしみ込んだあと堅く乾きはじめて、体の向きを変えると一緒についてくる。シーツ自体も、母親の体と一体化してしまっている。彩子はたじろいで、ベッドから離れようと後ずさる。背中にごつんと何かが当たる。半年前、生まれたばかりの弟だ。弟の体はすっかりもう粘液に包まれて、おぼろげな影としかその体が見えない。粘液は固く固まって、その中から弟を助け出すことも、もう出来そうにない。
 こぽこぽと何かが泡立つ音。母親の口が動いている。彩子は、懸命に手を動かして、固まりかけの気持ちの悪い液体を、母親の口の周りから取りのける。
 ごめんね。
 母親が言った。
 お母さん! 大丈夫なの!?
 しかし彩子の声は母親には届いていないようだ。ただ、存在だけは感じているのだろう。
 今まで黙ってたけど、あなたはわたしたちの本当の子どもじゃないんだよ。
 なんで今そんなことを言い始めるんだろう。彩子には理解できない。
 あなたはね、施設から貰ってきた、魂のない人間なの。
 魂? 一体何のこと?
 魂は肉食で大食いだから、みんながみんな魂を持っていると、魂たちは餓死してしまうの。だから、あなたみたいに魂のない人間が必要なの。ごめんね。
 母親の声にごぼごぼという音が混ざる。
 いつか言おうと思ってたんだけど、こんなに早くこの日が来るとは思っていなくて……
 お母さん? お母さん!
 彩子は一生懸命にその液体を払いのけようとするが、まるで井戸のように後から後からそれは湧いて出る。いつの間にか、母親の体もすっかりぶよぶよと弾力のあるゴム状の物質に覆われてしまう。
 自分の手の周りでも黄緑色のものが固まろうとしているのを感じて、彩子は急いでまたキッチンに向かう。スーツが内側から破れ、すっかり人間サイズの何かに変わってしまった父親を跨ぎ、一心不乱に水道で手を洗う。手洗い用の石けんではなかなか落ちず、食器洗い用の洗剤まで使って、なんとかそれを洗い流したとき、彩子はしばらく忘れていられた現実に向かい合わなければいけないことに気づいた。でも、一体どうすればいいのだろう。警察、救急車、親戚、友達、思いつくあらゆるところに電話を掛けたが、機械音声以外の誰かが出ることは無かった。
 しばらくして、電気が消えて、電話も繋がらなくなった。
 それからはずっと、明けそめていく東の空を、母親の寝室の窓から眺めていた。魂の無い人間も夢をみるのだろうかと、考え続けながら。
 
 前回までのあらすじ
 親の仇を倒すために、剣術修行の諸国放浪をしていた稀近(まれちか)は、行く先々でなぞの組織の刺客たちと遭遇していた。しかし、彼らを倒しながら、確実に剣士として稀近は成長していくのであった。そんな折、伊賀に立ち寄った稀近は、なぞの忍術使いにより絶体絶命の窮地に立たされたのであった。


 「はーはっはっはっは。我が奥義、『分け身の術』が貴様にやぶれるかな?」
 「いや、わが奥義はいいからさ、いい加減そろそろお前、疑問に思い始めねえか?」
 刀を持った右手を無造作に下にたらして、左手をちょっと待ったという風に前に出して稀近が言う。その周りをいくつもの忍者の姿が見える。
 「俺のほうはなんだかもう、厭きてきちまったんだが。これでもう三度目だろ」
 「何をとち狂ったことを言ってるんだ。ぼさっと突っ立ってると死ぬぜ!」
 スッと、背筋に悪寒が走る感覚がした。後ろに気配するので、刀を体の正中線に立て、振り返りながら飛び下がる。しかし、見えたのは、日の光が刀に反射した、一瞬の閃きだけだ。刀の先が頬をかする。一瞬遅れていたら頚動脈だ。手の甲で顔をぬぐうと、袖まで赤く染まる。
 「俺の一の太刀が皮一枚とは、なかなかいい反応をするじゃないか。だが、つぎはどうかな?」
 「あぁもう、頭の堅い分からず屋め!やりゃあいいんだろ、やりゃあ。やってやろうじゃねえか」
 なんだかわからんが投げやりに、稀近は正眼の構えを取った。しかしだからといって、何かよい策があるわけではない。いくつもの虚像の中からたった一つの本体を見分けるにはどうすればよいのか。
 そろそろだな、と稀近は思った。そして案の定、心の中に直接呼びかけてくるような声が、響いてきたのだ。
 (稀近よ、よく聞け)
 (はい、お師匠、今回は何でしょう)
 ふと、上を見上げると、青空に懐かしい師匠の顔がうっすら浮かぶような気がした。これは遠くにいる師匠が直接心に語りかけているのだ。
 (稀近よ、よく聞け。ESPじゃ、ESPを使うんじゃ)
 (はぁっ!?)
 稀近の心の中の声が裏返った。
 (師匠、なんだか自棄になってませんか?)
 師匠はそれには答えず、自分の話を続ける。
 (ESPとは「Extra Sensory Perception」(感覚外知覚、超感覚的知覚)の略で、普通は知覚系の超能力に使われる言葉じゃ。PK(サイコキネシス)とは通例区別されるが、エスパーという場合はごっちゃにされることもある。お前はこれからテレパシーを使って、相手の心を読み、分け身の中の実体を見破るのじゃ)
 (テ、テレパシーといってもいったいどうやって?)
 (それはじゃな、相手の脳内の量子干渉パターンをじゃな、こちらの脳内のそれと、EPRパラドックスなどによって知られる量子のもつれ状態に持ち込んで、スピンネットワークの…)
 (いや違いますって。原理の説明じゃなくって、具体的に私がどうすればよいのかです。ていうか、そんなことできませんよ)
 (今、現にやっておろうが)
 (あっ、これ、テレパシーだったんですか!)
 (そうじゃ、お前はエイリアン・アブダクションによって記憶の操作を受けているから覚えていないのも仕方がないが、逆行催眠を施せば、きびしいESPの修行も思い出すじゃろう)
 (そういやあ、そんな気もしてきました)
 (いけ、稀近!お前のアストラル体のヴァイブレイション・パワーを見せてやるんじゃ!)
 (うん、いまいち納得できないこともあるけど、心を読むことができれば、本体がわかることは事実だ。悩んでいても話が進まないから、やるだけやってみるか)
 稀近は、一念発起すると、心をできうる限り静めて、目を軽くつぶった。敵の忍者はそれを見てあざ笑うように言った。
 「おいおい、もうあきらめちゃったのか?念仏でも唱えるってんなら、唱え終わるまで待ってくれるなんて思わないほうがいいぜ」
 しかし、稀近の心は内側へ内側へと、沈んでいった。外側への一切の知覚の扉を閉じ、今まで閉じていた心の耳を開こうとしたのだ。次第に外界の物音は背景に後退し、最後にはほとんど聞こえなくなる。触覚もまた然り。世界には自分しかいなくなり、それ以外は静寂の海。すると次第に、心のふたが開けられ、その中にあるものがあふれ出そうとしているのがわかるのだった。
 最初はまるで遠くに聞こえるさざなみのようだった。慣れてくると次第にそれが人の思考の声だとわかってきた。
 (何だこいつ、目つぶって、動かなくなっちまった)
 これは明らかに敵の忍者の思考だ。これなら勝てる。どこにやつがいるかも、いつ次の攻撃が来るのかも、手に取るようにわかる。自分が有利になったことを感じると、稀近にも余裕ができてきた。
 (相手の心が読めるんだったら、すぐに倒してしまうのは損だ。できる限りの情報を手に入れるべきだろう。こいつがあのよくわからない組織の一員なのか。その組織の正体は何なのか。そして、父上の敵の隻眼の男は関係があるのか。どうせこいつは下っ端の一人だろうから、たいしたことは知らないのかもしれないが、やってみる価値はあるだろう)
 稀近はさらに精神を集中する。すると、表面には現れない、深層構造までが見えてくる。
 (こいつさっさと片付けて、帰ったら何食おうかな)
 (こんなときに何を考えてるんだ。自分が反対に追い詰められていることも知らずに)
 (部屋の掃除もしなくちゃいかんよなぁ…あと、この任務が終わると給金があるはずだから、それを何に使うかも考えとかないと……こっちは命かけてるんだから、もっといい待遇をしてもらっても……)
 人間というのは、まじめな顔をしても、大概頭の中はろくなことを考えていないものである。たとえ、命の駆け引きの場であろうと、ふと油断する瞬間、どうでもいいことを考えてしまうことはよくあるものだ。
 稀近は、表層付近に目的のものがないことを確認すると、深く深く、心の海の中を潜っていった。
 (あの饅頭、全部食べちまったかな…そろそろ、終わらすか……腹減った………殺す………金…………女………)
 次第に思考は文の形を成さなくなり、言葉は単語の形に分解され、最後には、図像や音声の断片的なイメージへと融解していく。その中に、おそらく敵の組織の構成員の顔もあるし、上層部らしき人物もいる。だが首領らしき人物はいないし、隻眼の男の姿もない。もしかしたら、今の任務の意味も知らないかもしれない。
 稀近は次第に、そのイメージの乱舞に翻弄され始めた。
 (心の奥底とはこんなにも混乱したものであるのか。さまざまな記憶、思考のかけら、欲望、などがまるで、赤熱した刃のように俺の心に突き刺さる。いくら敵から情報を探るためとはいえ、これ以上これを続けるとやばそうだ。そろそろ上がらなければ……おや?……こいつ、この男どこかで見たことがあるような気がする………確か、俺の目的であるはずの…………隻眼の男!………そうだ隻眼の男だ!………どうして忘れていたんだろう………そのためにこの男の心に入り込んだのに………この隻眼の男を捜すために、この男を半殺しにして、情報を引き出そうとしたんだろ……あれ、そうだっけ………そもそもこの隻眼の男は親父を殺した男のはず………でも俺に親なんていたっけ?…………俺は生まれたときから訓練所にいたんだから親なんて………あれ、やべえ、なんかわかんなくなってきた!)
 彼は、意識の深層から大急ぎで浮かび上がり、表層の光の世界に戻ってきた。目を開けて、懐かしき色と音と手触りの世界を確認すると、目の前には相変わらず目を瞑ったままの、標的の剣士の姿があった。
 (まだやってやがるぜ。殺しはしねえが、腕の二三本切り落としてやろう)
 剣士の周りをぐるりと囲んでいた、忍者の多数の影が、急にその半径を小さくし始めた。そしてその影の中のいくつかが四方八方から輪の中心めがけて、同時に飛び掛った。その中心である剣士にまったく動く気配がなかった。忍者の影が同時に切りかかった。しかし、その直後叫び声を上げたのは忍者のほうだった。
 「ぎゃーーーーっ!?」
 忍者はもんどりうって倒れた。そして自分の右手を不思議そうに見つめている。どうして自分が叫びをあげたのかまったくわからないからだ。稀近のほうも自分の右手を不思議そうに見つめている。どうしてひじから先が地面に落ちているのかまったくわからないからだ。
 「ぎゃーーーーっ!?」
 次の叫び声を挙げたのは稀近の方だ。ようやく痛みで術が解けたのだ。
 「ちょっと待って、え?これどういうこと?ちょちょちょちょっとタンマ、タンマですって!」
 忍者のほうも正気づいて、稀近に刀を振り上げながら叫んだ。
 「タンマもマンタもあるかーーー!」
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まかぶる

 彼女がそんなことになっているなんて全く知らなかった。
 思えば、あのときから一度も連絡しあわなかったし、どこにいて誰と会っているのかも知ろうとしなかった。自分には関係のないことだと思っていたからだ。分かれるまでには本当にいろいろなことがあって、結局二人でいることが互いのためにならないと結論が出てしまった。それでも分かれたときにはお互いの前途を祝福しあい、できるだけ悪い印象を持たないでいられるようにしあおうと話し合い、それはそれで約束通りの結果をもたらした。立つ鳥跡を濁さず。悪い印象を持たないためによい印象も賢明に封印し、あの頃の自分とはできる限りつながりを断って生きてきたのだ。だからひょんなことから、彼女が今スラム街で暮らしており、経済的にも人間関係的にも相当まずいことになっている、古いたとえを使うなら、スープの中にどっぷり浸かってしまっているということを聞いたときには、誰の話をしているのかしばらくよく分からなかった。しかし、話を聞いているうちに、なぜかものすごく懐かしいような、そして同時に急に胸の奥にしこりができたような気分になり、居ても立ってもいられなくなってしまった。あのときあれほど好きだった人が今困っている。それなら助けにいかなくてはいかないような気がしたのだ。
 自分にこんな気持ちがあったなんて、なんだか意外だった。うがった見方をするなら、あのときお互いの成功を誓い合ったくせに、全く世間的成功をつかんでいなかった私に引け目を感じていたのが、彼女の方がそれよりも社会的に下にいたので余裕が出て、人に施そうなんて了見を起こしたのかもしれない。
 とは言え、偽善だろうがなんだろうがやらないよりはやったほうがいくらかましである。私はわずかな貯金を下ろして、護身用のナイフをポケットに潜ませて貧民窟に向かった。
 一番近いサブウェイの駅に降りて、そこからは徒歩のはずだ。だが正確な道順が分からない。正確な地図すら手に入らない。仕方なく駅員に道を聞くと、当然のことながら奇異な顔をされる。あのような場所に好き好んで行くまともな人間はいない。行かなければいけなくなれば、どうあがいても行くことになるのだ。私はどうしてもそこに行かなくては行けない事情を懸命に話して、僅かな情報でも得ようとした。
 それならば、橋の老人に聞くのが一番だ。
 そう彼は教えてくれた。
 その老人はすぐに見つかった。町と町の境界になっている川を渡す橋は一つしかなく、その下に老人は奇妙な住処を作って暮らしていた。まるで地上に乗り上げた船のような形の、ダンボールや捨てられていたと思しき木材、そして大量のブルーシートから成る構築物が川から湧き出る霧の中に浮いている。実際この橋が出来るまでは唯一の川を渡る手段であった船を核として作ったらしい。そして今は橋の下で問わず語りを続けるこの老人こそ、かつてはその船の熟練した操り手、この川の唯一の渡し守であったのだ。彼は今でもこの川の向こうの街について知らぬことはないと誰もが認めている。
 しかし話してみると、昔のことばかりで、なかなか欲しい情報が出てこない。辛抱強く話を聞いていても、何かを探しにこの街に来る者は多いが見つけて帰ったものはいないだの、無事に帰りたければこの町のものを食べてはいけないだの、この町の水は全てこの川から引いていて、飲むと物忘れが激しくなるから飲んではいけないだのといった、奇矯な助言をたくさん戴くことになるばかり。とにかく老人はこの橋の存在について強い懸念を持っているらしい。いつか大変なことになるぞ、と何度も何度も繰り返す。私は老人の話を遮って、老人の手に札をねじ込む。彼はそれを不思議そうにまざまざと見つめ、昔は鳥の姿が刻印された銀貨一枚で、人々を二度と帰らぬ彼岸に運んだものだ、とつぶやいた。そしてしばらく何かがぷかぷかと浮いている川を見つめたあと、誰をお探しだ、川向こうの住人だったら誰でも知っているぞ、とようやく私の目を見て話し始めたのだった。
 橋を渡ると、すぐに街の様子が変わる。人通りも車通りも少なくなり、道端にごみが目立ち、壁にはところ狭しと独特の書体の落書きがされ、窓の多くが割れたまま放置されている。人々もスーツではなくブカブカのTシャツやスウェットに身を包み、露出した肌には何らかの集団への帰属を表すものと思しき色とりどりの花や鳥や様々な空想的動物の刺青が、真空恐怖的に彫り込まれている。平日の昼間から彼らの足取りは怪しく、視線は宙を彷徨う。蹴飛ばされたゴミ箱の横には、涎を垂らした痩せた女が、微動だにしないまま座り込んでいる。
 路地裏の入り口に屯する奇妙な髪型をした数人の若者たちが、こそこそとこちらを伺いながら、異様に顔を寄せあって何かをしゃべっている。私は目を合わせないようにしながら、早足でその場を立ち去った。
 薄どんよりと曇った空に潰されそうとしている元集合住宅とでも呼びたくなるような場所に、彼女は住んでいた。ドアをノックしてもなかなか反応がなく、もしかして留守なのだろうかと思い始めたころに、中でかすかな物音がする。やはりいるのだ、と思ってさっきよりも強くドアに拳を叩きつける。ドアが軋んで小さく開き、怯えた眼がチェーン越しに隙間から覗く。彼女だ。どんなにやつれてしまっていても、どんなに荒れた生活が肌に深い刻印を残していても、それは彼女だった。
 涙を懸命にこらえている私とは逆に、彼女には私が誰なのかなかなか分からないようだった。分かっても、どうして私がここにいるのか、何のためにいるのか、全く理解できずに両手で口を覆って、立ちすくむだけ。
 こんなところにいちゃだめだ。一緒に帰ろう。
 しかし、彼女は首を横に振るだけ。ほろほろと涙を流しながら、ふるふるとただ首を振るだけ。
 昔みたいに一緒に暮らそう。そう。ただ昔に戻るだけだよ。
 嬉し涙を堪えながら、私は言った。
 昔には戻れないよ。もう、どこにも戻れないよ。
 彼女はそう言った。自分の爪先ばかり見つめて、私の顔を決して見ようとはしなかった。
 なぜだい。なぜだめなんだい。
 私は彼女の肩を掴んで、問いかけた。できるだけ乱暴にならないように、彼女を怖がらせないように気をつけながら。
 わたしはもうここのものになってしまったの。ここの水を飲み、ここのものを食べてしまったから。だからもうここから出られない。そんなことをしたら、きっとあのひとたちはわたしを許さない。
 あのひとたちって誰のこと。怖い人たちがいるんだね。大丈夫。誰にも気付かれずに出て行けばいいよ。
 本当に怖い人たちが出てきてしまったときに、どうするのかは全く考えがなかったが、それでも不安げな様子を見せまいと、私は彼女の肩を揺らしながら、懸命に説得した。彼女は納得した様子は見せなかったが、あえて反対するつもりもないようだった。
 ふと彼女の肩が記憶にあるものより、ずっと痩せていることに気づく。まるで骨だ。指先から彼女の苦労が私の体に流れ込む。何かを考える前に、私は彼女を抱きしめていた。
 私たちは何年かぶりに愛しあった。窓の外からは怒号と銃声、そして数人が走り去る音が聞こえた。私は薄い壁の向こうの紛雑な世界をシーツに包まって追い出し、この狭いシングルベッドが二人を乗せて数学的秩序の支配する冷たい宇宙空間の真空中をどこまでも等速に直線に進んでいるように、ただ彼女を抱きしめ続けた。私たちのまわりを、ただふたりじめにされた惑星たちが重力の逆二乗則にのみ則って回る。次第に宇宙は中心を失い、相対性の中に溶け込んでいった。
 まどろみの中から起き上がり、私は出かける潮時が訪れていることに気づいた。窓の外も静まっている。
 急いでこの町を出よう。
 服を急いで来ているときに、急に喉の乾きを覚えた。私は洗面所に言って、レバーに手を伸ばす。透明な水が蛇口から流れだした。カップを探す。どれもこれも汚れている。きれいなものを探すが、見つからない。しかたがないので、ましなものを選んで、洗う。少しほてった体に、水の冷たさが染み入る。その肌に、そして骨に染み入る冷たさに何かがあった。この町に来るときに渡った川を思い出した。あの浮いていたものは何だったのだろう。あのときは気にもしなかった。あれは骨だったのではなかろうか。そしてその骨が岸辺に手を伸ばそうとしていたのを見つめていた老人は何を言ったろうか。
 何をしているの。
 彼女が突然話しかけてきた。明るい洗面所から、暗い寝室にいる裸の彼女を見ると、闇の中にぼうっと白いものが浮いているようだ。
 なんでもないよ。すぐに出かけるから服を着て、持っていくものを鞄に入れて。あんまり多くは持っていけないけど。
 私は流れる水を見つめたまま、そう答える。今度は、私が彼女を見つめられなくなってしまったようだ。視界の隅にわずかに映る彼女の姿が妙に恐ろしくて、振り返ることが出来ない。
 わかったけど、なんで水を出しっぱなしにしてるの。
 喉が、乾いてね。
 飲めばいいじゃない。
 いや、いい。
 なんで。
 いいんだ。喉は乾いてなかったんだ。
 嘘だった。今では、喉を掻きむしりたくなるほどの渇きを感じていた。なのに、水を飲むことはできなかった。死ぬほど水を求めているからこそ、水から目を話すことが出来ないほど焦がれているからこそ、恐怖もまた大きかった。
 そんなことより、早く出かけよう。
 私は懸命な努力でレバーを上げ、水を止めた。そしてタオルで汗を拭いて、ぼうっと突っ立っている彼女に目を合わせないまま、その横をすり抜けようとした。
 一つだけ約束してくれる。
 なんだい。
 この町から出るとき、絶対に後ろを振り返らないでくれる。
 なんで。
 なんでも。
 分かった。それくらいお安い御用だ。
 本当によ。約束よ。
 ああ、約束だ。
 僅かな荷物を抱えて、私たちは部屋から出た。真夜中だった。川から溢れだしたと思しき霧が濃く、鬼火のような青白い街灯の列がわずかに道を浮かび上がらせるばかり。光も音も手探りに進もうと突き出した腕もみな飲み込んでしまう濃霧の中で耳に入るのは、自分の呼吸の音、自分の心臓の音、そして薄氷を踏みわたるごと戦々恐々たる自らの歩みの音のみ。
 自分のだけ。なぜ彼女の足音は聞こえないのだろうか。
 付いてきてるよね。
 思わず振り返りそうになった私は、彼女との約束を思い出し、前を向いたまま問いかけた。
 大丈夫、ここにいるよ。
 彼女は答えた。あの懐かしい、愛おしい声で。今はか細く、頼りなげになってしまっているが、こんな太陽の光も差さない街ではなく、どこか南の温かい場所で、例えば道にの脇に棕櫚が生えているような海の近くなんかで、楽しく暮らせば以前の鳳仙花のように弾ける笑い声を取り戻してくれるはずだ。
 私は出来る限り怪しまれないように、何気ない風をよそおって歩き続けた。道は覚えている。来た道を逆に帰るだけだ。しかし昼と夜の違いもあり、行きと帰りでは全く景色の見え方も違う。あまっさえこの文目も分かぬ闇の中、まっすぐの道でも迷宮になりうる。まるで霧が建物の石や煉瓦や木を溶かして、でたらめな配置に組み直しているような気分だ。心なしか、足元の地面も蠕動するように揺らめいてはいないか。まるで牛頭の怪物の渦巻く内蔵の中を歩いているかのように。
 先ほどの角を曲がったとき、彼女はちゃんと付いてこれたろうか。よく似た交差点で間違えて曲がってはいやしないだろうか。
 付いてきてるよね。
 また振り返りそうになるのを、懸命に堪えてそう問いかける。本能が呼びかける行動を起こさないようにするには、血がにじむほど唇を噛み締め、手のひらに爪を立てなければいけなかった。
 大丈夫、ここにいるよ。
 その声に再び安心する。でもその声はなぜかどこか遠くから聞こえてくるようだった。まるで深い深い井戸の底から。そしてそれは今にも消えそうな響きを持っていた。私は安心した途端に不安になる。
 灯りだけがぼんやりともった空っぽのショウウィンドウに裸のマネキン人形が一つだけ一瞬で凍りついたような格好で立っている。まるで時間から置いてけぼりにされたかのようだ。通り過ぎざまに奥を覗くと、バラバラになったマネキン人形が山を成していた。どこからともなく音の悪いラジオが聞こえてくる。旅客機が三機もやのために着陸できなくて、飛行場の上を三十分も旋回しているとの放送だった。こういう夜は湿気で時計が狂うからと、ラジオはつづいて各家庭の注意をうながしていた。またこんな夜に時計のぜんまいをぎりぎりいっぱいまで巻くと湿気で切れやすいと、ラジオは言っていた。私は旋回している飛行機の燈が見えるかと空を見上げたが見えなかった。空はありはしない。時々すれ違う人々は顔も輪郭も失って、ただの茫洋とした影が足音も行く宛もなく彷徨うとしか見えなかった。その実体のない影が、泡沫のように視界に湧いては消える。自分のまわりの世界が全て雲散霧消してしまったかのようだ。ただじっとりとした湿気だけが体に纏い付き、肌の表面に蛞蝓が這い回ったような膜を作り、体の中にまで入り込んできては遠くでたくさんの蚯蚓がうねっているような音を立てる。
 付いてきてるよね。
 私は気づいたら三度目の問を投げかけていた。
 大丈夫、ここにいるよ。
 その声はどこから聞こえてくるのかも、もう分からなかった。遠くといえば遠く。近くといえば、まるで耳元から聞こえてくるかのようだった。まるで彼女が声だけの存在になってしまった気がした。
 もうすぐ橋だ。橋までいけばなんとかなる。橋までいけば、二人はもう自由になれる。
 私は走りださんばかりに急いでいた。今自分が歩いている道が正しいのかどうか確信が持てなかった。まるで夢の中で走っているかのようだった。足がもたついた。霧が急に粘性を高め、体に纏わりついて前進を阻んだ。額や脇や背中から滝のような汗が出て、凍えるほど寒かった。
 薄れていく意識の中、私は霧がさらに濃くなったのを感じた。とうとう道すら見えなくなった。それでもまっすぐ進む。進むしかないからだ。
 そうすることで、とうとう活路が開かれた。霧のカーテンの向こう側にうっすらと何かが見えた。それは橋だった。希望へと掛けられた小さな橋だった。
 あれだよ。あの橋を超えればもうこの町の外だ。あそこまで行けば、誰も君を追いかけてなんかこないよ。
 私は喜びのあまり後ろを振り返った。そして彼女の手をとろうと腕を伸ばした。
 そこに立っていたのは、骸骨だった。白い骨のまわりに蛆のたかった腐った肉がこべりついていた。そして目ばかりがぎょろぎょろとこちらを見つめている。私の伸ばした手は彼女の前で止まった。彼女が腕を伸ばして、私の指先に触ったとき、私は思わず腕を引っ込めた。それは冷たかった。それは死んでいた。
 それは死だった。
 言ったでしょう。わたしは帰れないって。わたしはここのものを食べたの。人から貰った薬も吸った。注射も打った。だからわたしの体はここの世界のものに入れ替わってしまった。それはもう、もとの世界とは違うの。
 彼女は舌が腐り落ちたがらんどうの口腔の奥の喉の底から、ガラガラ声で喋った。
 だから振り返るなって言ったのに。
 わらわらと影たちが彼女の後ろに集まり始めた。
 わたしはここの水を飲んで、何もかも忘れようとしていたのに。もうすぐ何もかも忘れられたのに。影になれたのに。あなただって、ここの水を飲んでくだらないあっちの世界のことなんか忘れてしまえば、影になって一緒に暮らせたのに。
 それはやはり体中の肉が腐り落ちて、蛆だらけの死者たちだった。
 あなたはわたしに恥を搔かせたの。分かるよね。
 どんどんそれは集まってきて、涎を垂らして唸りながら、私に迫ってきた。
 みんなあなたの新鮮な肉が欲しいの。わたしも欲しい。わたしを愛してるなら、くれるよね。
 私は膝が笑うのを必死に止めながら、走りだす。
 あなたのこと好きだから、あなたを食べてもいいでしょ。そうだよね。
 たくさんの死者を引き連れた彼女はすぐに追いかけてくる。邪道なことに死者たちの足は早い。足がもげ、腕がはずれ、ずたぼろになって崩れ落ちながら、それでも這ってでも進もうとする。それを踏み潰しながら、死者の群れが津波のように押し寄せてくる。
 このままではすぐに追いつかれ、四肢を引き裂かれてしまうだろう。私はポケットを漁った。碌なものが入っていない。とれたボタンと糸くず、そしてファミリーマートのレシート。心もとないが、ないよりまし。とにかくこれで逃げ切らないといけない。
 橋の入り口で私は、まずとれたボタンを投げつけた。するととれたボタンは瞬く間に巨大化し、空飛ぶ円盤群と化して夜空を覆った。そして急降下したかと思うと、死者の群れに怪光線を雨霰と降り注ぐ。たちまち彼らは火だるま、すぐさま灰と化す。これは助かるかもしれない、そう思えた。思えた途端、空飛ぶ円盤は次々墜落し、中から頭ばかり大きくて手足の長い蛸のような生物が出てきて、ゴホゴホと咳き込んでは青い血を吐いて動かなくなる。どうやら悪性の感冒にかかってバタバタと倒れているらしい。
 橋の中程で私は、次に糸くずを投げつけた。すると糸くずはあっという間に大きく膨らみ、立派なアフロヘアを頭に頂いた黒人達に変わると、ドラム、ベース、ギター、オルガン、ホーンセクション、そしてヴォーカル全ての楽器が打楽器になったような強烈なビートで、繰り返しの多い魔術的な曲を弾き出しはじめる。死者たちはその魔力に抗えず、狂ったように足を踏み鳴らしてはリズムに合わせて手を打ち鳴らし、脱皮しようとする蛇のように身をくねらせながらダイダロスが発明したと言われる迷宮的ステップを踏み、熱狂の渦を成して踊り続けるかと一瞬期待したが、全くそんなことはなく黒人音楽家たちをすぐさま食い殺して、私を追いかけ続ける。黒人音楽家たちも腹から内蔵をぶら下げながら、血に植えた歯をむき出しにして群れに合流した。
 橋の終わりで私は、最後にファミリーマートのレシートを投げつけた。するとレシートはあれよあれよという間に何畳もの広さに広がると、空飛ぶ絨毯になって、空を舞う。そして死者たちを乗せてますます加速して私に迫りだした。
 何の役にも立たないどころか、全くの逆効果ではないか。やはりポケットの中の屑などに頼るんではなかった。
 振り返れば、生きとし生けるもの全てを喰らい尽くしながら地表を蹂躙する死者たちがまるで津波のようで、あの橋の下の老人の住居であった船が、その上を揺さぶられながらも滑ってくる。あの老人は、
 そうれ見晒せ、戯けた橋など掛けた結果がこれよ。自らいた種の収穫、今受け取るがいい。
 と叫びながら、死者たちの中に櫂を差し込んで、波の上で船体を保ちながらその先へと加速しようとしている。その櫂さばきは錆びていないようだ。しかしつぎはぎの船の方がすぐに限界が来てバラバラになり、たちまち死者たちの流れに飲み込まれてしまった。
 このままでは私もすぐにああだ。
 そう焦りながら、地下鉄の階段を降りる。狭い入り口が一時的に流れを押しとどめてくれる。その間に改札口まで何とかたどり着いて、駅員のドアをガンガン叩いた。何事かと出てきた駅員の顎に猿臂を食らわせ、腰のホルスターから拳銃を奪い、階段を転げ落ちてきた死者たちの脳天に銃弾を食らわせながら、改札を乗り越える。さすがに脳髄を吹き飛ばされれば死者たちの歩みも止まるらしい。しかし数匹動きを止めたところで後から後から湧いて出てこられては何の効果もない。むしろこの銃には別の役に立ってもらうことにしよう。肉を引き裂かれて内蔵を貪り食われる駅員の叫びを背中で聞きながら、私は邪魔な客を蹴落とし蹴落としプラットフォームに急ぐ。
 運良くちょうど電車が入ってきたところだ。しかし私が行きたまま食われる客の悲鳴もすぐ背後まで迫ってきている。私は運転席に飛び込んで、銃を突きつけながら、さっさとドアを閉めて出発するんだ、と運転手を脅した。しかし、運転手には何がなんだか分からないらしく、ただ落ち着け落ち着けと喚くだけ。
 落ち着いてられるか。
 ぼろぼろに崩れて溶けて半ば流動化した死者たちが、生けるものの血を、脳漿をすすりながら、階段を雪崩のように降りてくる。手足を失っても這いずりまわって、命を求めるそのさまは、蛆虫のようでもある。
 奴らが開けっ放しの電車のドアから車両の中に入ってくるのを見て、私はとうとう引き金を引いた。運転手の額に小さな穴が開き、後頭部が柘榴の実のようにはじけ飛んだ。窓にべたりと真っ赤なアクションペインティング。
 私は殺人の余韻に浸る暇もなく、まず運転席のドアの鍵を全て閉じ、もう車両のドアを締めるのはやめて、見よう見まねで発車する。すでに中は阿鼻叫喚だ。首に歯を突き立てられた女が泣き叫びながら運転席のドアを叩く。助けて、助けて、と動く口もすぐにゴボゴボと吹き出す血の噴水と化す。血を失った生者たちは、すぐにまた立ち上がり、今度は自分たちが新しい犠牲者を選ぼうと、うつろな目をして歩き出す。自分たちもそのような生ける屍になることを拒んだ者達は、開きっぱなしのドアから高速で過ぎ去っていく地面に飛び降りて、おそらく死んでしまう。
 車内に生ける者が絶えたころ、運転席のドアの反対側に彼女が立った。
 あなたは自分が何をしたか分かっているの。
 彼女は蛆と血に塗れた姿だったが、それでもどこか美しさを秘めているようにも感じられた。
 あなたは生ける者たちの世界へ死を持ち込もうとしている。これからは誰も永遠に生きることはない。わたしは毎日千人の人間を殺してやる。それがわたしを辱めたあなたへの罰だ。
 私は前方に見えた光に急ブレーキを踏みながら、それに答える。
 ならば毎日1500人の子どもたちが生まれるようにしよう。
 死者たちは慣性に振り回され床を転がる。その好きに、私は追いすがる死者にも邪魔をする生者にも分け隔てなく鉛の玉を食らわせながら、地上への階段を駆け上がった。
 待て。待ちなさい。
 地面の底から響いてくるような彼女の恐ろしい声が、響き渡る。私は階段を登り切ると、傍らにあった巨大な岩を持ち上げて、地下鉄の駅の入り口に置いた。
 死者の国はこうして生者の国と分けられ、人間たちは死ぬようになったのである。その岩は今でも出雲国の伊賦夜坂にある。
 私は目の穢れを清めるために、川の水で目を洗った。そのときに流れた涙の中から生まれたのが、太陽の神と月の神と、そして大海原の神である。私と彼女の可愛い子どもたちだ。
 
 
 
 ※この作品は、川端康成の短編小説「片腕」をサンプリングして一部分はそのまま、一部分は改変して使っています。サンプリング元としては、新潮文庫『眠れる美女』を使用しました。
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