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2016年02月

推理小説を読まねば

ふと推理小説論を書きたくなった。というのも推理小説とは何なのかが急に分かってしまったのだ。ところが推理小説なんてほとんど読んでいないのだ。だから推理小説を読まなくてはいけない。たとえ推理小説とは何なのかが分かってしまっていても、推理小説を全く読まずに推理小説論を書くのはさすがに気が引ける。それくらいの常識は私にだってある。
というわけで何から読もうか。
 

フラクタル時計作った


フラクタル時計

時間によって模様が変わって結構面白い。
そのうちさらにいじるかとりあえず公開。 

Нежное Это(Nezhnoe Eto)いいよね

ロシアの音楽事情とかよくわかんないけど。ロシア語も分かんない。
 
PVも独特な絵柄で面白い。
 


とりあえずアングラなものなんだろうなあ、くらいの感じしかわかんない。

 

化石素(ペトリン)は愛の弁明となるか? 早田文蔵と小栗虫太郎

Hi! ネットキッズのみんな!
今日もネットの海で情報を渉猟しているかい?
21世紀の教養あるネット民であるみんなは、当然古典語にも精通し、いつだって情報のソースを確認し、論文や小説を原語で読みこなし、必要なら追試験だってしちゃってるよね?
さて、そんな君たちは当然小栗虫太郎が好きだろ? まさか『黒死館殺人事件』しか読んでいないなんて無精者はおるまいね。まあ、ロンドン大火の銅版画の部分が面白すぎて、他の部分を忘れてしまうから仕方ない面もあるけどね。
というわけで今回の話は小栗虫太郎の『人外魔境』だよ。


その中でも特に「水棲人(インコラ・パルストリス)」だ。
この小説集、全体的に香ばしい感じだけど、この「水棲人」で一番おもしろいのはやっぱ「化石素(ペトリン)」だよね。
簡単なあらすじ

三上重四郎は学生時代に『化石素堆積説(ペトリン・セオリー)」なるものを発表した気鋭の医学者である。「化石素(ペトリン)」とは、植物において一つの種類が絶滅に近づくと組織中に現れるもので、これにより植物は化石として残るのだという。そして彼は動物の血中においてもペトリンが存在することを発見し、アルゼンチンにおいて移民であり多くは混血であるアルゼンチン人と滅び行く原住民であるパタゴニア人の血中のペトリンを比べて、アルゼンチン人のほうがペトリンが多いことを発見した。つまり滅び行く種族はアルゼンチン人であるのだ。なのにパタゴニア人が減少しているのは、冷酷なアルゼンチン政府の政策によるに違いないことが、これにより証明された。そこで彼はパタゴニア人保護区を政府に作らせるための運動を指揮するのだが、運動が盛り上がったところで彼は行方不明になってしまう。一体彼はどこに消えたのか? そんなある日、流れ者の一人が秘境「蕨の切り株(トッコ・ダ・フェート)」 の奥で出会ったと語る、沼の底から立ち上がった『水棲人(インコラ・パルストリス)』の身体的特徴が三上と一致したのは偶然なのか? 
ってな感じに話は進む。
しかし、小栗虫太郎も奇態なことを考えるものだ、と思うかもしれない。しかしこの「化石素堆積説(ペトリン・セオリー)」、そのものズバリの元ネタがある。
実際にこれを発表したのは台湾総督府の依頼で当地の植物を研究し、東大付属植物園長にまでなった早田文蔵(1874~1934)である。
petrin theorieについては、彼の労作『植物分類学』(1933)第一巻に紹介されているらしいが、これはちょっと手に入れにくいので、これが解説されている『日本科学技術史大系 第15巻 生物科学』だったら大学図書館行けば見つかるだろうから、気になる人は読んでみてくれ。amazonでも一応手に入るみたいだぞ。

ここまで聞いて、みんなは早田文蔵ってのはどんな奇人だったのかと思うかもしれないが、なかなかどうしてすごい人なのだ。
彼が反ダーウィニズム思想の系譜において燦然と輝く理由は、彼が大正8年に『理学会』に発表した論文「自然分類の原理を論ず」にある。
彼は生物の系統が樹状になっていることを否定する。つまりダーウィニズムの基本である、系統樹をなす生物の系列を否定するのだ。かれは「生物は生物から生まれる」ことを否定し「生物は無生物より生じ、無生物に還る」と主張し、よって生物と死物は互いに相互関係で結ばれ、したがって生物には源など存在しないと断ずる。さらに「物質不滅勢力常住の法則」という「エネルギー保存則」めいたものを持ちだして、 過去現代未来において生物の量は変わらないと言い始め、よって生物は進化増大したり退化減少したりしない、と結論付けるのだ。
ダーウィニズムの完膚なきまでの否定!
そして、系統樹を否定した結果、彼の生物のシステムは網目状に関連しあうものとなり、その歴史は拡散と収縮の繰り返しとなる。
彼に言わせれば、系統分類論なるものは一神教からの先入観であり、キリスト教圏の偏見となる。もっと万有神論(アニミズム)の発想を持つべきだ。そもそも親の代で2人、祖父母の代で4人、その前は8人、21代前なら、104万人以上になり、先祖は指数関数的に増えてくんだから、祖先が少なかったら変じゃないか。
つまり世代は永劫に継続し、それを支えるのは各自相互の関係に基づくところの〈愛〉である。万物を支える〈絶対的愛〉。それと比べれば、系統分類者は親子の直線的絆しか持てない〈相対的愛〉にすぎない。
どうだまいったか、てなもんである。 
彼はこの分類学を「動的分類学」と名付けた。その具体的な方法論は、まず様々な生物の形質(形の特徴)を数値化し、それを多次元空間にプロットした後、低次元空間に射影してパターンを探そうと言うものだったらしい。
ビッグデータを毎日活用しているネットキッズならピンときただろう。今の統計学で言えば、「多変量解析におけるクラスター分析」みたいだ。しかし1910年代~1930年代という時代ではこの発想はあまりに早すぎた。
他にも生物は系統樹にならず、ネットワークになるという発想も今なら生きる。ガレージで気軽に大腸菌をベクターに遺伝子改造実験できる時代を生きてる君たちならすでにお馴染みの「遺伝子の水平伝播」だ。単細胞生物なら日常だし、植物やホヤ、昆虫などでも例が知られている。つまり細かく言えば、やっぱり生物のシステムは系統樹をなさず、ネットワークにならざるをえない。ここでも早田文蔵は時代を先駆けていた。もちろん最適化問題を解くときの計算量を考えたらネットワークの方が樹よりずっと高いし(「アルゴリズムとデータ構造」はものを考えるための基礎教養だから、ちゃんと勉強しないとダメだよ)、樹でも十分いい近似だから、だいたいは樹でいいんだけどね。
ただ偉い学者がこんな奇抜なことを言い始めちゃったから、当時はかなりショッキングだったらしい。右翼に刺殺された社会活動家でもある生物学者山本宣治は、実際の家系図を調べることで、先祖が指数関数的に増えていくことを否定している。そりゃそうだわな。
それ以上に余人を面食らわせたのは、〈愛〉などという面妖な用語と、コンピュータでもなければとても実行できなさそうな網目状の分類である。一体この発想はどこから?
論文中で自分でも語っているように、なんと彼は天台宗華厳経の教理から発想を得たのだ。「動的分類学」は「帝網」、すなわち、インドラの宮殿に掛けられた全ての宝玉が他の宝玉を映し出し、それが無限に続くというなんともフラクタルな網が発想の元なのだ。
そうすると〈愛〉の出所も何となく分かる。仏教で言う「慈悲」、すなわち「全ての生命を平等に慈しむ心」が発想の根源であろう。 
理論の価値は、それがどこから発生したかによらないとはいえ、これはさすがにちょっと怪しむ。その出所が見えるがゆえに我々日本人にはちょっと受け入れがたい。
そういう意味では、裏が見えない分だけ西洋人のほうが受け入れやすかったのかもしれない。
オランダの高名な植物学者H・J・ラムが1936年に発表した、生物学における系統樹という「図像」の使用の歴史をたどった先駆的科学史研究論文「Phylogebetic symbols, past and present (being an apology for genealogical trees)」の冒頭には、「ブンゾウ・ハヤタの高貴なる精神を追悼して」と二年前に急逝した早田文蔵に捧げられたエピグラフが飾られているらしいし、また1960年台に一時的に流行した、進化論研究が生物の分類学を大きく書き換えようとしていたことの反動として、「逆に生物の系統を一切無視して形だけで分類をしちゃえばいいじゃん」という方法論「表形分類学」や「数量分類学」の教科書「Principles of Numerical Taxonomy」にも早田文蔵への言及があるらしい(表形学的アプローチは、生物分類の基礎哲学としては、完全に進化論に依拠した「分岐学」に取って代わられたが、いち早く数値化と統計的手法を導入したその方法論自体は今でも生きている)。
早田文蔵の思想や独特な図表については次の2つを見て欲しい。

様々な図像にあふれた美しく楽しい本である。
目玉と脳の大冒険―博物学者たちの時代 [単行本]
荒俣 宏
筑摩書房
1987-04
様々な楽しい挿話に溢れるほか、「化石素(ペトリン)」についてはこの本で知った。
あと、進化論思想の発展に関する歴史的な経緯は次が分かりやすい。

理系と文系と貫く各種「歴史科学」の可能性と重要性への確信、及びそれらへの統一的視座が持てる。
進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)
エリオット ソーバー
春秋社
2009-04

今科学哲学を知りたいなら、ソーバーの本を読んでけ。
割と最近では、「照葉樹林文化論」で有名な中尾佐助が早田文蔵の動的分類学の発想を元に、生物学を超えた普遍的分類学を構想している。

 さて、ここでもともとの話に戻ってこよう。では、なぜ早田文蔵は「化石素(ペトリン)」などというケッタイな概念を作らなくてはいけなかったのか。
それは化石が証拠付ける「絶滅」が、ダーウィン的な「生存競争」の証拠ではないことを示すためではなかったか。
つまり、このままでは化石は〈絶対的愛〉の存在を否定してしまいかねない。生物たちは相互の〈愛〉ではなく、あくまでも自分及び自分の子孫に対する〈相対的愛〉を追求することにより反映し、その生存競争に負けたものは絶滅し、ただ化石として存在の痕跡が残る。
そんな世界観をどうにか打倒したくて、ひねり出されたものが「化石素(ペトリン)」ではなかったか。
これがあれば、化石が証拠付けている「絶滅」は「革命」というよりは「禅譲」に近くなる。あくまで運命を受け入れただけなのだ。おそらく運命を受け入れるのも〈愛〉ゆえなのだろう。
つまり「化石素(ペトリン)」とは、「愛の弁明」として作られたのだ。
ポパー激怒。
さて、そうすると、 「水棲人」のストーリーも一段と趣きのあるものになる。
本来なら血中に「化石素(ペトリン)」の多いアルゼンチン人は自らの運命を受け入れて滅びていかなくてはいけない。にも関わらず悪逆非道なことに、若く、これから反映する種族であるところのパタゴニア人をいじめている。これを大和魂の保持者である三上は黙って見ておれなかったのだ。なんとかしてパタゴニア人を開放しなくては。
この「滅び行くヨーロッパにいじめられている現地人を勇敢で優しい日本人が助ける」という構図と発表年代になんだかきな臭いものを感じられたら合格だ。でもまあ別にこの作品で白人がいつも悪役なわけではないからあまり敷衍はしないでおこうな。
さあ、みんなもネットばかりしてないでたまには本屋や図書館行って本も読もうな。あとたまには外に出るのもいいぞ。生物採集なんかいいんじゃない? 
じゃね。Bye! 
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