スティング [Blu-ray]
ポール・ニューマン
ジェネオン・ユニバーサル
2013-02-20

詐欺の映画である。詐欺師が詐欺師をだます映画である。そして観客も騙してしまう映画だ。見事に騙されるので嘘だと思ったら騙されたと思って見てみることをお勧めする。
誰かと親密になる一つの方法は「秘密を共有する」ことだ。こちらから秘密を教え、できれば相手からも秘密を教えてもらう。あまり人目に触れさせたくない秘密だったらなお良い。それによって二人は、お互いに相手を裏切れなくなる。相手のことを信用せざるをえなくなってしまうわけだ。
ここから分かることは相手を詐欺に引っ掛ける良い方法は、相手に詐欺の片棒を担がせてしまうことだ。誰も自分が詐欺の片棒を担いでいるとは公表したくないし、されたくない。だから相手も自分を裏切らないはずだと思う。まさか自分が騙そうとしている相手が、相棒と思い込んでいる人間と裏で繋がっているなんて思いもよらずに。
人は自分が騙す側だと思っているときに、まさか自分が騙されているなんて想像しないものなのだ。呑気な生き物である。
 この映画はその「自分が騙す側だと思っている人間が騙されている」「味方だと思っていた人間が実は敵だった」という構造が入り組んで現れる。
まず主人公フッカーはせこい詐欺師で、追剥役と被害者役とそれを助ける通行人役の三人で詐欺を働く。本当の被害者の前で寸劇をし、追剥を追っ払ったあと、怪我をした振りをする被害者役の代わりに「組織の金」とやらを運んでもらおうとするのだ。その時に本当の被害者の財布と「組織の金」をまとめて布に包んでうまい金の隠し方を伝授する。 そして、その時にすり替えた鼻紙の束を本当の被害者に渡すのだ。本当の被害者は「もうけたもうけた」とその金をネコババしようとして、その場から立ち去ってから驚くという寸法だ(この時点で「味方だと思っていたら敵だった」が二重になっている。被害者は味方のふりをして相手を騙すが、そもそも最初から相手は味方なんかではなかったのだ。そして騙すつもりが騙される)。
ところがそこから話は転がり始める。実は騙した相手は本当の「組織の金」の運び屋だったのだ。「嘘から出た真」とはこのことだ。 
そしてフッカーは親代わりの師匠をギャングに殺されてしまう。そして彼は復讐を誓う。それも「詐欺による復讐」を。
フッカーは金を得てもすぐにギャンブルですってしまう馬鹿である。そのギャンブルも明らかにいかさまで、「騙す側が騙される」のテーマがここでも現れる。そのフッカーが詐欺を学ぶために師匠に紹介してもらった「凄腕詐欺師」のゴンドーフは逃亡中の身であり、酒に酔ってベッドから転げ落ち、酔い覚ましに服を着たままシャワーを浴び、洗面台の氷水に顔を突っ込む娼婦のヒモである。
逆に敵であるギャングのボスのロネガンは女にも酒にも手を出さないキッチリした人間で、娯楽と言ったらポーカーくらい。味方を隙だらけに描いて、敵をむしろ潔癖に描くのは定石だ。
主人公側はまずロネガンをいかさまポーカーでコテンパンにする。その手順も楽しい。相手を油断させるために、酒に酔ったふりをする。顔に化粧水みたいに酒を刷り込む。酒でうがいをする。酒ビンの中に水を入れて飲む。実際に酔ってはいけない。あくまで酔ったふりだ。初登場の情けなさとは大違いだ。酒の種類がジンなのは、値段の割に度数が高くて「労働者の酒」「不道徳の酒」とみなされていたからであろうか。
ゲーム中も相手の名前をわざと何回も間違えてみせ、ロネガンをイライラさせる。勝負師の基本戦術。
怒ったロネガンは部下に命令してカードを入れ替えさせる。ゴンドーフにはそこそこ強いカードが行くが、ロネガンには勝てない。ところが土壇場でゴンドーフはカードを入れ替えなおして、さらに強いカードにしてしまうのだ。映画ではぎりぎりまでゴンドーフが相手のいかさまに気付いているのか見せず、「このままでは負けてしまう」と思わせる。良い演出だ。
怒り心頭のロネガン、それでも金を払おうとする。しかし財布がない。 実はゲームが始まる前に女にスらせたのだ。後で金を払うと言うロネガンをゴンドーフは口汚く罵り「後で若いのを使いにやる」と言い残して去っていく。屈辱の極み。
さあそこで主人公の登場だ。ゴンドーフの使いとして現れた彼はロネガンにゴンドーフを一緒にハメようと持ちかける。
ここから先、フッカーがロネガンの差し向ける殺し屋から逃げながら同時にロネガンに正体がバレないように立ち振る舞う面白さは無類である。詳しくは書かないが、最強の殺し屋の正体やゴンドーフを追うFBIの暗躍などに、いちいち「騙すものが騙される」の構造が繰り返される。それが全体の大きな「騙し」に流れ込む。
それこそ「観客を騙す」最大のトリックだ。実はここでも「騙すものが騙される」の構造がある。映画を見ている観客は主人公側である詐欺師達に当然感情移入する。彼らがロネガンに比べて隙の多い人間的な描かれ方をしていることも大きな効果を持っている。こうして感情移入している時に、つまり相手を味方だと信じきっている時に、人は自分が騙されているなんて思わないものだ。実際観客達は主人公目線で共に死線をくぐり抜けて、時には一緒に騙され時には相手の詐術を見破ってきたのだ。ストックホルム症候群の条件は揃っている。そこをこの映画は突いてくる。この映画は観客に全ての情報を与えているわけではないのだ。
そしてこの映画において主人公達がロネガンにしかける「最大の騙し」がまさに「映画的」であることによって、この映画の構造はウロボロス的な趣すら備える。
ゴンドーフは競馬の元締めだと名乗り、そして寂れた空きテナントに競馬のチケット販売所のセットを作ってしまう。そして客の振りをしてくれる詐欺師達をオーディションで決めていくのだ。
これはスタジオに作ったセットにオーディションで選んだ客を配置して観客を架空の世界に誘う「映画」とまさに対応している。
そう考えるとこの映画は、「映画とは何かを描いた映画」だとすら主張可能かもしれない。この映画ではセットを作りキャストを決めていくという映画の裏舞台を見せることにより、映画を作る楽しみを観客達に疑似体験させるのだ。
しかしそれは疑似体験に過ぎない。いくら我々が感情移入しようとこれは映画に過ぎないのだ。我々は映画を作る側ではない。単なる観客なのだ。
もう一度書こう。それこそこの映画の最大のトリック。一見裏舞台を見せて自分も仲間に入れて貰えたと、映画という詐欺の片棒を担がせてもらっていると思ってしまう観客の油断を突いて、この映画のラストを観客の思い込みをひっくり返す。一番重要なカードはずっと伏せられていたことにそこでようやく気づかされる。
しかし悔しくはない。ただただ爽快だ。もう一度見たくなる。永遠の傑作である。