公式サイト
物語の力に関しての物語であり、映画の力に関する映画だった。
映画の冒頭に語られる口上は、まさに主人公クボが物語を語るときに最初に語る口上だ。
そして、この映画自体とクボが語る英雄物語とほぼ一致している。
クボが語る物語。それはクボが母親から受け継いだ物語。それはクボの父親が、伝説の武具を手に入れ、義父である月の皇帝を倒す物語。
しかしその物語はいつも尻切れトンボで終わってしまう。なぜならクボはその物語の結末をしらない。それはクボの母親がその結末を語ることができないからだ。
そんなクボが祖父である月の皇帝に追われて、冒険の旅に出て伝説の武具を手に入れようとする。
この物語はクボが最後まで語れない物語の結末を手に入れるための物語でもある。
この入れ子構造によって、この映画はディレイニーが『アインシュタイン交点』で構築したものと同様の「メタ神話」としての構造を持つ。
「メタ神話」とは私の勝手な造語で、物語自体が神話的モチーフや神話的構造を持ちながら、同時に作中で「神話とは何だろうか。それは我々とどういう関係にあるのか。必要な物なのか。どう活かせばいいのか」等の問いが主要なテーマとして扱われる作品のことである。
最近だと、トム・ムーアの『ソング・オブ・ザ・シー』が同じような構造を持っていた。こちらの映画では、現代の主人公がハロウィーンの日に不思議な地下世界に迷い込み、冒険をする。そこで様々な神話を長い髪の毛として生やしている不思議な老人に出会うが、そこでこの映画自体が神話の一つであることが示唆される。
そして冒険から帰還したことにより、主人公は「愛する者との別れ。また、誰かを受け入れること」という、現世における切実な問題に、ある種の答えを手に入れる。それは万能な答えではないが、着実な一歩前進であるような答えを。
これは、神話における「冥界下り」のモチーフであり、一度異界に降りて冒険を終えた主人公が現世に帰ることによりヒーローとなる。ただ、この場合のヒーローとは、「妹の存在を受け入れることができる」というとても身近なものだが、しかし、これは神話の物語が現代にどんな意味を持てるかに真摯に向き合った結果である(同じような構造の物語として『オーバー・ザ・ガーデン・ウォール』がある。これについての分析はこちら)。
それに対して『KUBO』では、クボは一見もっと正統的な神話のヒーローとしての属性を付与されているようにも見える。
彼は片目である。もう片方の目は祖父である月の皇帝に取られてしまった。両目を取られると、彼は完全に人ではない「彼岸の存在」になってしまう。
これはクボが人と人ならざる者、此岸と彼岸の中間的存在であることを表しているし、片目であることにより、尋常ならざる魔力を得るというモチーフは北欧神話を始め、世界中にある。
そしてクボは三味線を弾き、物語を語る。それによって折り紙がヒーローや化け物の形に勝手に折られ、音楽と物語に合わせて、縦横無尽に駆け巡る(いつの時代か知らんが、紙のコストもそんなに低くないだろうに、と思ったが、魔法の力で再利用しているのであろう)。
これは、ギリシャ神話でやはり冥界下りするオルペウスを思い起こさせる。彼は音楽で神通力を発したと言われる。
その後の冒険でこの魔力は大いに活用されるが、それ以上にこの設定は、先述のメタ神話的構造をより本編に関わらせる。
神話や物語とは何かを問う物語で、武器になるのはまさに物語の力であり、映画の力なのだ。語りと音楽に合わせて、命の無いものが動き回り、人々を興奮させる様子は、まさにストップモーションアニメーションそのものである。つまりストップモーションアニメーション作品内で、ストップモーションアニメーションの隠喩が魔力として扱われているのである。
私はこういう作品が好きで、最近の良作だと『リトルウィッチアカデミア』においても、作中の魔術はアニメーションの技術自体の暗喩になっていた。また、トム・ムーアの別の作品、『ブレンダンとケルズの秘密』においては「絵を描く」ことに魅せられた主人公の「絵を見、そして絵を描く」という体験が魔術的アニメーションによって表現されていた。デフォルメされたアニメーションだからこそ発揮される魔術性は作中において「絵を描くことによる魔力」が本当に発動する場面で最高潮に達する。
メタ神話がみんなこういう構造を持つわけではない。先述した『アインシュタイン交点』では、「地下迷宮に潜むミノタウロス」などの神話的難関を主人公が突破していく神話的物語でありながら、神話とは何かを考えるたびでもあった。ただ、その問い方は主人公たちが直接的に「神話とは何か」という議論をし始めてしまうタイプのものであった。これを私は「明示的メタフィクション」と呼んでみようと思う。
『アインシュタイン交点』においては、この旅がさらに、「神話とは何か」と問いながら作品を構想する作者自身の旅とオーヴァーラップするところが文句なしに面白いのだが、実験的であり、エンターテインメントとしては夾雑物が多いことも否めないと思う。
同様の明示的メタフィクションによるメタ神話はゼラズニーの短編集『キャメロット最後の守護者』収録の「心はつめたい墓場」などにもみられる。私は彼らはミシェル・ビュトールらと並ぶ、『若き芸術家の肖像』や『ユリシーズ』を真摯に受け止めたジョイスの後継者だと思っている。
ジョイスやビュトールは現代に生きる個人の神話とは何かを模索したが、主人公達が比喩的ではなく本当に神話的冒険に旅立つわけではなく、メタ神話とは言えなかった。ディレイニーやゼラズニーは実際に神話の旅に旅立ちながら神話とは何かを問い始めた。しかしその問いは直接的であるように見えることもあった。
それに対して、上記の『ソング・オブ・ザ・シー』や『ブレンダンとケルズの秘密』や『リトルウィッチアカデミア』や『KUBO』では、メタフィクション的要素をうまくエンターテインメント要素の後ろに隠しながら、伏流水として物語に反映させている。私はこれを「暗示的メタフィクション」と呼ぼうと思う。そこにおいて共通に見られる手法が「描くという行為、語るという行為、奏でるという行為、作品を作る行為、の持つ力の隠喩として作中の魔力を描く」というものだ(「書く」という行為について、ジョイスの『若き芸術家の肖像』がこの方向性の萌芽を持っていたと思ってもいいかもしれない)。
それによって、物語が我々にとってどんなに重要な物なのかを描こうとしているのだ。
これは、ジョイスやディレイニーらの系譜が、実験的作品ではなく、エンターテイメントとして根付いたのだと私は思っている。
実際上記の頭でっかちな知識がなくても、『KUBO』は文句なしに楽しい物語だ。
クボが三味線を奏でながら、聴衆に囲まれて、血沸き心躍る物語をアニメーション付きで語る導入部は文句なしに興奮する。
丁寧に描かれた中世から近世のどこかの時代と思われる日本の風景は、十分説得力を持つ。村民の服装も貴人の服装もどちらもとても自然で、Twitterでも指摘されていたが川本喜八郎の諸作を参考にしているのかもしれない。盆踊りの音楽が炭坑節なのは笑ってしまったが。近代化以前の盆踊りの音楽がどんなだったかなんて、日本人でも知らない(私も知らない)。
そういえば「盆」という言葉は出なかったようだが、「先祖が帰ってきて会話が出来る日の祭り」という設定は明らかに盆であり、その日に墓参りをして先祖と会話をし、出店の出るお祭りをして皆で踊り、最後には先祖を無事に彼岸に返すため灯篭流しをするなど、とても自然に描かれている。
そしてこれは先ほどの『ソング・オブ・ザ・シー』の物語の日がハロウィーンであったことを思い浮かばせる。ハロウィーンももともとは祖霊が帰ってくる日であり、盆もハロウィーンも結局は此岸と彼岸が近くなる日だ。
このようにこの映画は、日本の風習を丁寧に調べ、それを世界どこでも普遍的に通用するモチーフにすることがとてもうまい。
出色は「祖父や叔母にさらわれてしまうから」という理由で夕暮れには家に帰らなくてはいけない(神話や昔話における「禁止」のモチーフだ。これをやぶることによって主人公は不本意ながら冒険に出なくてはいけない)主人公が、死んでしまった父を想い、なぜ自分には来てくれないのか、話しかけてくれないのか、と思い悩みながら灯篭流しを眺めているうちに、黄昏時になってしまうシーンだ。風が吹き、灯篭が消える。川の向こうの闇の中から、叔母が「クボ、クボ、こっちにおいで」と呼び掛ける。
片目であることで彼岸と此岸の間の存在であることを運命づけられた主人公が「盆」「黄昏時」「村はずれの森のほとり」「墓場」「川のほとり」に川の向こう側から人ならざる彼岸の存在に呼びかけられる。演出が上手くて無茶苦茶怖いシーンだが、神話的モチーフの使い方組み合わせ方として額に入れて飾りたいほどうまい。唸るほかない。
ここからクボの三つの武具を手に入れる物語が始まる。猿とクワガタという奇妙な仲間を連れて。
荒れ果てた奇妙な遺跡、沢山の剣が刺さった骸骨、湖の底、荒れ果てた城。この冒険自体が死のモチーフに溢れていることに注目してもいいだろう。やはりこの旅は冥界下りなのだろう。
この辺りの感想は他の人たちがたくさん語ってくれるだろうから簡潔にしよう。外国の方にとって日本の風景で印象に残るものの一つとして、猿と雪の組み合わせがあると聞くことがある。普通猿は南国のイメージだからだ。だから猿なのだろう。
あと武者のイメージとしてクワガタを持ってきたのも面白い。なるほど日本の武者の姿はクワガタに似ている気がする。
この奇妙なパーティの掛け合いはもっともっと見ていたかった。最初はクワガタのことを怪しんでいた猿がだんだんとクワガタを信頼していく様子もよかったし、片親のクボが「挟まれてご飯を食べるの初めて」というシーンもジンとくる。
二人が言い争いをするのを「また?」と言うクボはまさに親の喧嘩を見せられる子供だ。
雑魚寝から起きたときに、クワガタの脚が猿の上に被さっていた時のあの心の騒めきはなかなか忘れられないだろう。
アクションも良い。クワガタの弓矢も良いし、猿の剣劇も良い。敵の叔母の二刀流と鎖鎌も良い。ここはストップモーションアニメの華であり、そうそう言葉で語りつくせぬ部分なので、もしここまで読んでまた見ていないという人がいたら、絶対に劇場に足を運んでほしい。
で、大きなネタバレなのだが、猿はクボの母親が人形に自らの命を吹き込んだ姿であり、クワガタはクボの父親が敵の呪いで姿を変えられた姿である。
実は、三人の旅は、離れ離れになっていた家族の旅だったのだ。
そしてそのことが明らかになって、感動の再開、と思いきや、次の瞬間には二人とも命を奪われてしまう。
ここは数少ない不満点の一つで、ここのところもう少し盛り上げても良かったのでは、と思わないでもない。
しかしクボは母親が残したヒントを頼りに、最後の武具のありかを知る。それは彼らが育った、最初の村だ。
見ている者は、クボが村に行くシーンで鐘の音がいやに印象に残る演出をされていたことをここで思い出すことになる。
クボは月の皇帝に焼かれてしまい、村人は今は山に隠れている村に戻る。そして、すべての武具を手に入れて、晴れて英雄になれたはずのクボは、両親の仇である祖父、月の皇帝に最後の戦いを挑む。
月の皇帝は両目が見えていない。この意味はクボが片目であることと合わせると明らかだ。彼が夢の中で最初に現れた時の全景のアニメーションはまさに絶景だ。網膜に焼き付けよう。
しかし、伝説の武具を集めて英雄になったはずのクボは月の皇帝に勝てない。
そもそも月の皇帝は死なないのだ。勝てるはずがない。
そしてここが最高なのだ。
物語の強敵が不死者で、そいつをどう倒すかが物語上重要な要素になることは多いが、この映画での不死者の倒し方は特に面白かった。
ここで、この物語のテーマが再び顔を出すとは全く思っていなかった。
ここでクボは答えを出すのだ。
なぜ我々に物語が必要なのか。それは我々が死ぬからだ、と。
大切な者を失い、自分もいつか死ななくてはいけない。そんな受け入れがたいものを受け入れざるをえないからこそ、自分の人生に意味づけが必要なのだ。だから人は物語を聞くのであり、物語を語る。そしてそれを次の世代に受け継がせる。自分は死んでしまった人たちの物語を受け継いでいることのよって、喪失を受け入れることができるし、あとの世代に自分の物語を受け継がせることによって、自分の死にも意味づけができる。
クボが最初物語に結末がつけられなかったのは、彼や彼の母親が父親の死を受け入れられていなかったからだ。そしてだからこそクボは彼岸からの誘いを跳ねのけられない。
物語に結末をつけることを受け入れることにより、クボは死すべき生者たちの一員になることを選んだのだ。
「盆」とはまさに、祖先の物語を今一度思いだし、受け継ごうとする風習だ、とこの物語内部においてはとらえられるだろう。
戦いの中でそのことに気付いたクボは、とんでもないひっくり返しをする。
死すべきものだから物語が必要であり、不死者には物語は必要ではない。ならば、物語を注入してしまうことによって、不死者を死者にしてしまうのだ。
いやあ、映画館でものすごく興奮した。その手があったか、と唸ってしまった。
こうして、月の皇帝は片目が白内障で濁った、ただの老人にされてしまったのだ。
物語を何も持たないので自分が何者かもわからない老人に、おずおずと顔を出した村人たちが、彼がどんな人物だったかの物語(嘘)を吹き込む。
こんなんで大丈夫かと思う老人を、クボは「自分がついているから大丈夫だ」と安心させる。
こうしてクボは、両親の死を寂しく思いながらも受け入れ、川に灯篭を流す。
という感じなのだが、実は疑義がある。
例えば、最後の武具が最初の村にある、ということ。これは少々出来過ぎではないか?
この村に逃げ込んだ母親も、武具がここにあることには気づいていなかった。なのにその村に武具があるなんて、偶然が過ぎないだろうか。
こういうのを「ご都合主義」という。作者の指が見えてしまうとして、通常は忌避される。
この部分は、クボが最初の村に戻ってくる必要性から要請されたと考えられる。
なぜ、クボは最初の村に帰ってこなくてはいけなかったのだろう。
その部分を考えるために、「全域解釈」と「局所解釈」という概念を導入してみよう(※脚注)。
「全域解釈」とは作品のすべての要素を受け入れても成り立っている解釈である。それに対して「局所解釈」は作品の一部だけを読めば成り立っている解釈であり、場合によっては作品の他の部分を読んでしまうと、矛盾して成り立たなくなってしまうものも含んでいる。
実は『KUBO』には作中のあるシーンと矛盾するがゆえに全域解釈にはならないが、別の局所解釈があるように思える。
それは、この冒険の旅が一瞬の出来事であった、という解釈だ。
なぜそんなことが言えるかというと、クボが月の皇帝を倒すために三味線を持って歌物語を奏でた瞬間、川に浮いていた灯篭に火が付いたからだ。
これはクボが盆の日の黄昏に叔母たちに襲われたときに灯が消えた灯篭だ。川はずっと流れていなかったのだ。
これは時間が流れていなかったと解釈できるだろう。
そもそもこの物語の冒険が冥界下りと考えるなら、それが無時間の世界と考えてもそれほど不自然ではないのではないか。
何が言いたいかというと、平たく言ってしまえば「これって夢オチではないのか?」ということである。
「夢オチ」も三大がっかりオチの一つと数えられる存在なので、ご都合主義を脱しようとしてがっかりオチに帰着してしまうのではあまりうれしくない気もする。
しかしそうすることにより、この物語のもう一つの側面が見えてくる気がするのだ。
三つの武具を手に入れる冒険をあくまでクボの夢だと考えると、この物語は、父親の死、そして母親の死をクボがどう受け入れるかの物語ととらえることができる。
死んだはずの父親と母親がどうして冒険の中で生き返ったかと言えば、それは物語の中で一度、現実には起こり得なかった家族団欒を疑似体験して、その後両親の死も疑似体験するためである。
物語という形をとることによりクボは両親の死を受け入れることができるようになる。
それによりクボは最後に灯篭を流すシーンにおける精神状態に至ることができる。冒険が実際に起きたことと考えれば、盆に父親がクボに話しかけなかった理由は彼が生きていたからだと解釈できるし、夢だと解釈すれば、クボが父親の死を受け入れられていないからだと考えられるだろう。
もしあくまで冒険が夢だと考えるならば、思い切って超自然的な現象はすべて起きていなかったと考えることもできよう(これは村が焼かれていたこと、等のシーンと明らかに矛盾してしまうために、物語の全域解釈としては認められない)。
すると、この物語はクボが父親と母親の死を受け入れ、さらに両親を迫害した祖父を受け入れ、そしてクボの語る物語によって祖父も、クボを受け入れるようになる、そういう喪失された家族をどうにかそれなりの形で始め直そうという物語に考えることもできる。
それはまさに『ソング・オブ・ザ・シー』の主人公が神話的冒険の先に見つけたものが、母親の喪失を受け入れ、そして母親の喪失の原因となった妹を受け入れる、ということであったこととまさに対応する。
この映画もまた、神話的冒険を体験することが、身近な、だからこそ切実な問題と付き合うための一助となる現代的な物語だったと言えるかもしれないのだ。
私はこの解釈が正しい解釈だという気は全くない。冒険が実際に起こったという解釈では、村に戻ってくるのがこのままでは無理がある。夢だという解釈は、面白い点もあるけど、全体的には興ざめな点も多い。どちらも満足させられるように、作品をさらに練ることも可能だが、作品が分かりにくくなる可能性もある。
作品というものに最高の形が必ずしもあるわけではなく、大概がいくつかのトレードオフの中から、何かを選ばなくてはいけない。
というわけで、私はこの映画は今のこの形がとても良いと思っていて、多少の難点のある大域的解釈と見どころがある局所的解釈の合わせ技でこの作品を楽しむのが、自分としては今のところの最適解と思っているのである。
ここまで読んでいる人はもう最低でも一回は見てるはずなので、ぜひもう一回見ましょう。字幕と吹き替えはどっちもみよう! シャーリーズ・セロン姐さんも田中敦子姐さんもどっちもイイ!
(※脚注)「局所的解釈」とはいわば「誤読の自由」の精緻化である。「誤読の自由」と言ってしまえば、何でもありになってしまうが、実際にはどこまではその解釈で読めるのか、どこから誤読なのか、ということを指定する(指定しようとする)態度が必要なのだ。
こう考えれば例えば『ドグラマグラ』のような全域的解釈をそもそも持ってなさそうな作品や、『舞踏会に向かう三人の農夫』のようなぎりぎりで全域的解釈を裏切られるような作品の読書体験を説明しやすくなるし、私の「魅力的な局所的解釈が全域的解釈にならなかったら、そこを切り取って、それが全域的解釈になってしまうような作品を作ってしまう」という創作論も説明しやすくなる。
この解釈論はもともとは、ウンベルト・エーコの「理想的読者論」を理論的整合性の高い形にブラッシュアップしようとする過程で、数学における「層(sheaf)」の理論からの類推で得られたものである。もう少し、理屈っぽい言葉で詳しく説明したものを、数学同人誌『The Dark Side of Forcing』に書いて、コミケで売ろうかと計画している。