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2018年01月

行方不明の世界のお話

 私がそそっかしいせいで、すべてが行方不明になってしまった。ありとあらゆるものすべてが。
 つまり、世界が行方不明になってしまったのだ。
 もうなにもかもがどこにもみつからない。さらに言えば、どこもみつからない。なぜなら、もうここもそこもあそこもどこもないのだ。ここもそこもあそこもどこもないのだったら、何かがどこかでみつかることなどありえない。
 自転車の鍵や靴下の片一方や確かに買ったはずの紋章記述についての参考資料が見つからないのも仕方ないことなのだ。
 それもこれも世界が見つからないからだ。一体なぜ世界は見つからないのか。どこかへ行ってしまったのか。いやそれはおかしい。世界がどこかに行くということはあり得ない。どこか、とは世界の中のはずだ。だったら世界がどこかへ行ってしまうなど変ではないか。世界がどこかへ行ってしまったのだったら、どこかもどこかへ行ってしまっているはずだ。世界がどこかへ行こうとしても、そのどこかがどこかへ行ってしまったら、行く場所がなくなってしまうではないか。
 しかしそもそも世界が見つかるなどということが、果たしてありうるのだろうか。もし何かを見つけるとしたら、それは世界の中のはずだ。つまり、世界を見つけるためには、あらかじめ世界を見つけておかないといけないことになる。つまり、世界とは本質的に見つかるものではないのだ。
 見つからないものが存在していると言いうるのだろうか。もちろん見つからないからと言って存在していないわけではない。しかし、本質的に見つかりようがないものが、存在していると言えるかどうかは疑問だ。見つかるためには存在していることが必要だが、存在しているためには、見つかる可能性が必要ともいえないだろうか。
 この議論は少々あやしいので、別方面から攻めてみよう。先ほどの議論で、何かが見つかるとしたら世界の中だと主張したが、そもそも存在しているものがすべて世界の中にあるのは明らかではなかろうか。よって、もし世界が存在しているとしたら、世界の中にある。しかしこれはかなり変だ。世界が世界の中に会ったら、悪循環ではないか。
 ここからさらにおかしな事態になる。何かが存在しているのなら世界の中だったはずだが、存在していないものの中とはなんだ。そんなところに何が存在できるというのか。
 よって、存在していることと見つかることの関係如何を問わず、何物も存在したりはしないのだ。
 そこからやはり、何かがどこかでみつかることなどありえないことが証明できたことになる。さきほどは、どこかでみつかることの可能性を否定したが、こんどは、何か、の存在を否定することによって。
 これはどちらも厳密に論理的な証明とは言えないが、二つのルートで同じ結論が出たことは、かなり確証度が強いと言わざるを得ない。
 やはり、自転車の鍵も靴下の片一方も、あきらめるしかないようだ。
 今まではこれで納得してよかったかもしれない。実際今まではこれで納得してきたし、私に何かを探させようとした人たちをこの理屈で納得させようとしてきた。塾の手伝いをしていたときに親から預かったお金や、運転免許証もそもそも存在しないのだから、返したり提示したりすることはできないのだ、と。しかし、簡単な論理学も第一原理としての形而上学もご存じではない人たちは、こんな当然な理屈もなかなか納得してはくれなかったが。
 しかし、今やそれは私にとっても大問題になってしまった。問題が大きくなってから慌てて世界を探そうとしてももう遅かった。世界はどこにも見つからない。なぜなら世界もどこも、存在していないのだから。
 どういうことか説明しよう。
 何かを指し示してみてくれ。
 指し示しただろうか。指し示した先には、何かがあるだろうか。もしなかったら、あなたは実は何も指し示せてないことになるだろう。
 つまり、何かを指し示すためには、何かがないといけないのだ。
 待遇を録ると、何もないということは、何も指し示せないことを意味する。
 これが困るのだ。
 なぜなら話にならないからだ。
 話をするためには言葉が必要だ。そして言葉を意味のあるものとして使うためには、その言葉で何かを指し示さないといけない。ところが今や何かを指し示すことはできない。よって言葉は意味のあるものとして使えない。単なる音の塊、線の絡まりにすぎないのだ。今あなたが聞いていたり読んでいたりするものと同じだ。
 なのになんとこの話は始まってしまっている。始まっていなければ、永遠に始まらずに済んだかもしれないところだったのに。もしそうなら、私もいつまでも、何も存在しないことが理由で何も見つからないと納得し続けていられたし、段落を10以上も費やしてから、問題が大きくなっていることに気付いて慌てたりする必要もなかっただろう。世界を探すなんて、原理的に無理に決まっていることをパニックになりながら始めて、読者のまえに無様な駄弁を披歴して恥をかいたりすることもなかったであろう。嗚呼、なんと口惜しいことか。
 しかし始まってしまったものをああだこうだ文句を言っても仕方がない。一体どうすればいいのか、それを今は考えるべきだ。読者もこのお話を読んでこの前向きさを学んで、実践してほしい。
 こういう時に使える人間の便利な能力がある。仮定だ。仮定の話なら、何も指し示すものがなくても始められるかもしれない。何かが眼前に存在することにすると仮定して、それを指し示していることにしてしまえばいいのだ。
 では何を仮定しよう。あまりにたくさんのものを仮定すると話が嘘くさくなるし、仮定同士で矛盾してしまう可能性も高くなるから危険だ。それに仮定の全体を読者が把握できなければ、何が仮定で何が仮定から演繹されたものか読者に分かりにくくなる可能性が高くなる。例えば、世界のすべてを我々が指し示すことができる、などという仮定はあまりに挑戦的で避けるべきものに思われる。多くの小説がこの愚を犯していることは非常に残念だ。
 というわけで私は、言葉でどこか一つの場所を指し示すことができる、という控えめな仮定で我慢しよう。その場所をこれ以降「どこか」と呼ぶことにする。これならば何かが見つかる可能性がある。まずこの「どこか」で何かを見つけるのだ。そこから徐々に大きなことを成し遂げていこう。
 完璧な計画じゃないか。
 いつだって計画というやつは思いついたときには完璧にみえるのだ。まるですべての問題が解決できてしまうように。
 しかし実際には計画という奴は、むしろすべての問題の根源なのだ。
 今回だってそうだ。この計画がそもそもの問題を生んだのだ。
 どんな小さな仮定だろうと、仮定は仮定。そして仮定の話をするということは、つまりこのお話はフィクションにする、ということだ。つまり実在の人物・団体とは一切関係なくするのだ。
 私は最後の救いの糸を自ら手放してしまったことに気付く。われ思う、ゆえにわれあり。これによって、たとえ世界が存在していなくても、わたしの存在を確保する。それが唯一の脱出の隘路であった。
 しかし、フィクションの登場人物がいくら大きな声で、われ思う、と叫んでも、それは彼が存在していることの根拠にはなったりしないのだ。
 この意味することが分かるだろうか。世界を見つけることが三重に否定されてしまったのだ。最初は見つけることの可能性を、二回目は世界の存在を、そして最後は何かを見つける主体の存在を、否定することによって。
 後悔してもしきれない。考えてみてほしい。わたしさえ存在していれば、世界は存在していたのだ。なぜなら存在しているとしたら、それは世界の中だからだ。もし、わたし以外の何も存在していなかったとしても、それは単にわたしが世界なだけなのだから、言ってみれば世界を見つけたようなものだ。
 正しい戦略は、わたしの中をひたすら見つめて、そこに世界を発見することだったのだ。
 内面描写! ああ、なんと小説の王道であろうか! 今からでも遅くないなら、そういうことをわたしは語りたい。
 しかしわたしはそこから逃げてしまった。仮定の話に逃げてしまった。自分の外部の「どこか」なんて無益な物を夢見てしまったのだ。
 今まで私は世界が行方不明になってしまったのだから、仕方ないじゃないか、という気分で生きていた。世界に責任転嫁して生きていたのだ。その論理を親にも友人にも、ソーシャルワーカーのおばさんにも押し付けていたのだ。
 そして勝手にあきらめていたのだ。
 一昨日は保険証が見つからなかったから病院へ行くのをあきらめたし、昨日は財布が見つからなかったからハローワークに行くのをあきらめた。マイナンバーとやらも何かに必要だと誰かが言っていたが見つからない。今日もきっと何かをあきらめるのだろう。それが今日の今日までのわたしの考えだった。
 あきらめたからなんだ。そう思っていたのだ。
 どうせ病院もハローワークもみつからないのだ。どっちでも何も変わらないではないか、と。
 仮定の話にしてしまって、良かったのかもしれない、とすら本気で思った。これが仮定の話でなかったら悲惨じゃないか。フィクションで良かったよ。実在の人物・団体、そして世界とは一切関係ないんだ。だったらなんでもいいじゃないか。
 仮定されたどこかは、何もなく空っぽで安心する、静かで暮らしやすいくらいだ、なんて。
 相変わらず世界は行方不明だが、世界全体から私が行方不明になってしまったと考えれば、他人にはどうでもいい話だ、なんて。
 そう考えていたのだ。
 なんと自分勝手な生き方だったろう。
 世界が行方不明になってしまったのは、私の責任であったのだ。私が仮定の話などして、このフィクションを始めてしまったせいなのだ。私は自分の糞を食らって文句を言う蛇足の塊のような蛇で、きっと錬金術の材料にすれば金も銀もプラチナも、鉛か何かにしてしまうに違いない。
 それ以降私は親にも友人にもソーシャルワーカーのおばさんにも謝り続けている。世界が行方不明になってとても困っていたであろう、実はあれは私の責任なのだ、と。今までそのことに気付かず勝手なことを言ってばかりいて本当に済まなかった。もう世界は永遠に見つかりはしない。それは論理的な事実であって、論理法則の改訂でもしない限り不可能だ。だからそのことをくよくよ言っても仕方ない。これからはその罪を晴らすために、少しでも世のため人のために働くつもりだ、と泣きながら私は言った。わたしは気分の上下の激しいタイプなのだが、ありがたいことにどんなにどん底でも前向きさだけは失わないのだ。もう一度言うが、これはわたしの数少ない美点なので、ぜひ読者は参考にしてほしい。それも私の罪滅ぼしの一つなのだ。
 そうこのお話は、私の罪であり罰。私がこのお話を始めてしまったせいで世界は行方不明になり、その罪滅ぼしに私はこの一切中身のないこの空虚な話をもう4500文字以上も語り続けているのだ。この何もない空虚などこかの真ん中で。何もなさ過ぎてどこが真ん中なのかもわからない、クセノファネスの歌う中心の無い球形の神にも似たこの仮定の場所で。
 終わりが見つかるまで語り続けているだろう。終わりが見つかったらの話だが。


有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論
カンタン メイヤスー
人文書院
2016-01-23


アドブロック

 昔々、この世を広告が覆った時代があった。建造物の壁面にいくつもの派手派手しい看板が並び、地面や壁にも隙間なく人々の興味関心を引こうと怪しげな惹句が踊った。地上を走るもの、空を飛ぶもの、水上をいくもの、地下を行くもの、人々の移動手段全てがいくつもの広告を引き連れて世界を行き来していた。それは人々自身もそうであった。彼らの服の柄は全て広告であり、彼らは彼らがどれだけ優秀な広告塔であるかで選別され、位を授かっていた。認められれば認められるだけ彼らに宣伝してもらおうと人々が集まり、彼ら上流階級の者の着るドレスやスーツは歪なほどに広告に溢れ、ついには平面を離れ立体的に立ち上がった。彼らの喋る言葉は一分の隙間なく全て広告である。上流階級の人間に広告して貰えると言うことは、それは成功を確約されたようなもの。すなわち自分も上流階級の仲間になれるということ。
 どんな時代にも、時代に順応できない者がいるものだ。ここにも一人いた。彼女は広告が嫌いだった。広告でないものを懸命に探した。
 しかし無理だった。全ての広告は、他の広告を広告していた。今見るべき広告は何か。今年一番流行った広告はなんだったか。知られざる良い広告の紹介。
 そんな広告に溺れるある日、彼女はある広告を見た。見た気がした。それは全ての広告を視界から削除するAdBlockと言う存在を広告していた。しかし、そんなものがあるのだろうか。存在し得るのだろうか。確かめようにもすぐに毒々しい原色の濁流が彼女の視界を覆い、大音量のキャッチフレーズの連呼が彼女の聴覚を奪ってしまった。
 その日から彼女の旅が始まった。広告の広告を辿り、どこまでも遡り続けた。彼女は諦めなかった。世界のあらゆる場所へと足を運んだ。全ての頂きを登り、全ての門を叩いた。海が世界の端から流れ落ちるのを見た。星々が死を迎え、新たに生まれる霧深い場所も見た。生まれることのなかった者たちの忘れられた王国、円環の廃墟で瞑想をするどこにも辿り着くことのない時間を生きる賢者たち。
 しかしそれでも求めるものは手に入らなかった。
 賢者たちは言った。私が誰かを夢見たように、私も誰かに夢見られているのだ、と。
 これはお前の話でもある。賢者たちはそう言った。
 彼女は次第に広告を受け入れた。広告を拒否することは世界を拒否することになる。それは不可能なのだ、と賢者たちに教えられたような気がしたからだ。
 確かに広告は彼女に全てを約束し、何も与えず、全てを奪っていった。広告以外の世界の全てを。
 ならば広告をそれ自体として受け入れるしかない。何も自分に約束しない、世界自体として。
 そうだ。広告はどこにも繋がらないのだ。広告は何も広告しないのだ。広告をそれ自体として受け入れた時、広告は広告ではなくなるのだ。
 彼女は悟った。彼女こそ、AdBlockだったのだ。
 こうして彼女はようやく目を瞑ることを覚えた。そして全ての広告は消えた。世界もろとも消えた。彼女もろとも消えた。
 この世界も、そして彼女も、また他の広告を広告する広告であったからだ。

(終)

AdBlockを勝手に広告する小説。勝手広告という概念を知って、何を広告しようか考えてたら思いついた。勝手とはいえ広告なので、この小説も即刻消えるべきである。この小説の主人公のように。

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