フランソワ・オゾンの『焼け石に水』を見て、そのラストシーンに感動したので、書き留めておこう。ネタバレしたからどう、と言う作品ではないが、(ボヤかしてはいるが)軽くネタバレしているので、そう言うの嫌で、この作品を今後見る予定のある人はご注意をば。
焼け石に水 [DVD]
ベルナール・ジロドー
パイオニアLDC
2003-01-24



この映画はドイツの映画監督ファスピンダーの19歳の時の未発表の戯曲を元にしたという映画だ。ストーリーは簡単、というかほぼ存在しない。

一人の青年が結婚を考えているガールフレンドとのデートをすっぽかしてセクシーな中年男性の家を訪れる。そこで青年は精神の不安定さを露呈させながらも、中年男性とベッドインする。
次の幕では二人は同棲している。優しそうに見えた中年男性は、青年に対する暴力的で支配的な態度を隠さない。彼の言葉は、自分は彼がいなければ何もできないダメな人間なのだ、という劣等感を青年に刻みつけて支配しようとするものだ。
二人は罵り合いの喧嘩をしながら、まだベッドインする。
そこへ、中年男性の昔の恋人で、モロッコで性転換したという元男性の女性と、青年のガールフレンドが現れる。
青年とガールフレンドは中年男性のベッドでセックスして、中年男性から逃げようとするが、見つかってしまう。ガールフレンドは中年男性の色気にメロメロになり、中年男性の昔の恋人と3人でベッドイン。しかし中年男性は若い女ばかり抱くので、昔の恋人はつまらない。

そんな感じで、大したことは何も起こらない。
登場人物達の会話と、刻々と変わる力関係は丁寧に演出されている。
リアリズムを感じる。
でもだからなんだ、と言う気持ちも起こる。
登場人物にはなんの目的もない。大した考えもない。なにも考えずに、なにも目的を持たず、ただ快楽のみを求め、そして最後に登場人物の一人が死ぬ。特になんの意味も、なんの考えも、なんの目的もなく。
ただなんとなく死ぬ。
登場人物達はそれなりのショックを受けるが、電話の向こうにいて画面に出てこない今にも死のうとしている人間の母親も含めて、皆妙に無感動だ。多分セックスと快楽は続く。
この世界において、いくら人が死んでもセックスと快楽は続くように。

リアリズムはリアリズムでも、身も蓋もないリアリズムだ。

終盤に至り、私の心は深く沈んでいた。こうしてこの映画は終わるのだ、ただのなんの意味もない何にも面白くない人生の縮図を見せられて。特にオチもなく。
人生になんのオチもないのが普通なように。

そう思った瞬間だ。

登場人物の一人が窓を開こうとしたのだ。
しかし窓は何かに引っかかって開かなかった。
そしてカメラが引いていき、窓を開けることを諦めた人物を遠くから映しながら、この映画は終わってしまった。

ただそれだけだ。

だが、私は感動していた。

なぜその登場人物が窓を開こうとしたのかは分からない。
死体があるので気分が悪くなって、空気を交換しようとしたのかもしれない。
この映画の登場人物の行動に意味や理由なんてないと先ほど自分で書いたばかりだ。
理由も定かでない行為が、あっけなく失敗する。

多くの映画は何か目的を提示して、その上で失敗させ、その後成功させる。
失敗するにしても、意味があることが多い(意味もなく主人公がひどい目にあい続け何の救いもない山野一『四丁目の夕日』と言う作品もあるが、これは特異例だ。この映画と同じく)。


しかし、この映画はなんの目的も提示しない上に、しかもうまくいかない。目的がないので、なにがうまく行っていないかさえよく分からないが、この映画を見れば何かがうまく行っていないのは明らかだろう。
当然うまくいかないことにも意味はない。

その全てが、「なんの意味もなく窓を開こうとしてしかも開かない」という、ストーリー上なんの意味もないワンシーンに込められているのだ。

それによって、窓を開こうとするありふれた行動は、人生を表す所作となる。象徴となるのだ。

何を大げさなと言われるかもしれない。実際わざと大げさ目に表現している。
監督もこのシーンを(スピノザ風に気取って表現するならば)「永遠の相のもとに見られる」シーンとして描こうとしていると私は信じている(ナボコフの小説に対して同じ感覚を時々感じる)。
透明な対象 (文学の冒険シリーズ)
ウラジーミル ナボコフ
国書刊行会
2002-12-01



まるで宗教画だ。
本当にそうなのかは別として、いい宗教画を目の前にすると私は、画家が「自分が描いているものは永遠の存在なのだ」と信じているのを感じてしまう。
それらの絵の中においては、来ている服や、ちょっとした動作にも意味がありうる。
世界の隅々まで神の計画であり、意味を持ちうる世界。

本当にそんな世界を信じた人がいたかどうか知らないが、信じられるなら面白いと思う(信じたいと言っているわけではない)。

ルカーチは意味の充満した世界を失ったことにより、叙事詩が終わり、小説が始まったとして、それを「先験的な故郷喪失」と呼んだ。
小説の理論 (ちくま学芸文庫)
ジェルジ・ルカーチ
筑摩書房
1994-12



ルカーチの言うことが本当かどうかはよく分からない。叙事詩の作者たちがそんな世界を信じていたかどうかもよく分からないし、我々がそれを喪失してしまったのかどうかもよく分からない。
そもそもマルクス主義自体が私にとっては「神話」とか「叙事詩」の範疇に思える。それ以外にも相変わらず星が自分を導いていると信じられる世界観に住んでいる人もたくさんいる気がする(最近、ジョン・C・リリーの自伝『サイエンティスト』を読んで、その実例が一つ増えた)。
サイエンティスト―脳科学者の冒険
ジョン・C. リリー
平河出版社
1986-10



だが、とりあえず、我々はそういう世界にどうも憧れを持っているようだ、というのは各種宗教や陰謀論者を見ている限り確かな気がする。

意味に満ちた世界は楽しい。安心だ。分かりやすい。
物語芸術においても、見過ごしてしまいそうな細部が伏線であったことがのちに分かり、大きな意味を持っていることがわかるのは楽しい経験だ。
苦労や失敗が最終的に成果を生むのは、溜飲が下がる。
現実がそうなっていなかろうが、フィクションの中で欲望を充足させられるのは、人間にとって重要な経験である。日々を生きる糧にもなり、明日を変える原動力にだってなる。現実逃避が現実を変える能力がないなんて思ったら、大間違いだ。

物語への指向性は、歪んだ世界認識をもたらす危険性が高いゆえに注意が必要だが、我々がこの世界に生き、新しい発見を続けていくのにとても重要な能力だと思う。安易に否定することも肯定することも避けたい。

だからと言って、人類が皆欲望まみれの意味中毒者・物語中毒者なのか、というとそんなこともなさそうだ。世界の本当の意味を教えてくれる宗教に全ての人がハマるわけではないし、物語の御都合主義にはそれなりの批判も集まる。
多くの人にとって、信じたり楽しんだりするには、それなりの(その人にとっての)質が要求されることが多いのだ。
神話の時代と比べたら、それなりにその基準が厳しくなっているのではなかろうか。

そして実は私も宗教画が好きなわけではない。
興味深いとは思っているので、お勉強のつもりで見ていることの方が多い(感動することももちろん何回もあったが)。
単なる宗教画は身も蓋もないリアリズムと同じくらい退屈と思っているし、同じくらい面白いとも思っている。

皆、意味とリアリズムのいいバランスを求めているのだろう。そのバランスは作品によって様々であり、そのバランスが意味側(欲望充足側、御都合主義側)に偏っているからと言って、馬鹿にすることはよくないと、もう一度強調しておきたい。それこそ物語のパワーであり、表現を支えてきたし、現実も変えてきたと思っているからだ。

しかし、中には、そのバランスを求めるのとは全く別の方向を目指した作品もある。

単に(世の平均から見て)バランスが悪い、のとはまた別だ。多くの場合、リアリズムに振り切った作品は「リアリズムに振り切っているバランス」を目指した作品だし、逆も然りだ。
個人的な印象では、その手のバランスの悪い作品は、退屈になりがちに思える。

私が言いたいのは、あるバランスを目指すのではなく、異なるバランスを混ぜてしまう作品だ。例えば、ある種の作品は、リアリティのバランスを一方の端から対極へと一気に振り切ってしまう。

『焼け石の水』もそう言う作品だ。
そして私は多分、急にリアリティバランスが変わる瞬間が好きなのだ。
先ほど言及したナボコフが好きなのも、そう言う瞬間を提供してくれるからだ。



身も蓋もないリアリズムの世界が、一瞬で宗教画と化す。
奇跡に思う。
意味の希薄な世界を眺めていたはずなのに、瞬間的に意味の充実した世界に反転する。

窓を開ける、という日常的な所作が、何処かへの逃亡とか、自由への希望を表す所作になり、そしてそれが失敗に終わることが、上記の所作の闇雲さを強調し、この映画の表現する人生への絶望の象徴となっている。

「世界に意味がない」と言う「意味」が世界に充満する。

おいおいジョイスか?
と言うのが、それを見ていた私の正直な感想だった。
ダブリナーズ (新潮文庫)
ジェイムズ ジョイス
新潮社
2009-03-02



大事なことなので、もう一度書いておこう。この映画において見事であり、私をいつでも興奮させるのは、単に身も蓋もないリアリズムでもなく、単に宗教画でもない、その瞬間的な反転なのだ。

陰鬱な映画を90分も我慢した甲斐はあった。