色々考えたので書いておこう。
作品の核心についての情報を含むので、そこのところはご注意を。動画サーヴィスなどでもよく配信されているはずなので、ぜひ見てほしい。

 
この映画の主人公ヴァージルは、凄腕の老鑑定士である。冒頭のレストランでの一人での食事風景(潔癖症を表す手袋、レストランの出した誕生日のお祝いへのそっけない態度)にあらわされるように、孤独な人間である。
人付き合いより、絵画と付き合っていたほうが性に合っている人間。顧客を騙して貴重な絵を贋作だと偽り安く値をつけ、それをオークションに出して友人の画家ビルに買わせて回収をしたりしている。
そして彼以外だれも入らせない秘密の部屋に、大切な肖像画のコレクションが壁一面に展示されている。
その彼が恋に落ちるのがこの映画の主な筋書きだ。
彼に依頼が入る。両親の残した美術品の売りたいからカタログを作ってほしい、と。ヴァージルは最初は断るものの、しぶしぶ依頼を受ける。しかし、依頼人となかなか会えない。この時点でプライドの高いヴァージルは怒りを感じる。
依頼人のクレアは一切人と会わないという。一面に立体的な風景が描かれた壁から出てこない。声だけが聞こえる。なんともばかげた話だ。
ヴァージルは建物の中の美術品を鑑定していく。その中で地面に落ちている不思議な部品に気づく。歯車だ。なんだろう。ヴァージルの好奇心が刺激される。
ヴァージルは知り合いの修理屋にそれを持ち込んで、復元させる。それはどうやらオートマトン、自動機械人形のようだ。
それはヴァージルの大学時代の研究課題でもあった。ヴァージルは次第にこの件にのめりこむ。
同時にヴァージルはクレアと何回も会うことで、彼女自体に興味を持ち始める。ヴァージルは隠れて彼女の顔を見ようとする。若い、魅力的な女性だ。老ヴァージルは若いクレアに恋に落ちてしまったのだ。
様々なすれ違いや危機を乗り越え、恋は成就する。彼は初めて女を知る。彼の老いた肉体と若い美しい肉体を並べたベッドシーンは、冒頭にヴァージルがしていた手袋と対比すると趣が深い。ヴァージルはそれまで誰も入らせなかった秘密の部屋にクレアを入れる。そしてヴァージルは鑑定士を引退することに決意する。これからは、クレアのために生きるのだ。
そして、すべてがうまくいったと思った瞬間。すべてが反転する。クレアは彼の目の前から消える。彼の大切な肖像画コレクションとともに。そこにはあの復元された自動機械人形だけが放置されていた。
憔悴したヴァージルは老人施設に入って、無為の生活を送る。彼はすべてを失ったのだ。

さて、私がこの映画でとても感動したのは、ヴァージルが間違った相手に恋をしたのではなく、正しい相手に恋をして、身を持ち崩したことである。それこそがこの映画の悲劇性を際立たせている。
まずヴァージルは鑑定士であり、絵に魅入られた男である。人間よりも絵のほうが好きな男だ。
なぜだろう。ヴァージルは言う。「どんな偽物の中にも真実がある」。この言葉はいわばこの映画のテーマのようなものだ。形を変えながら繰り返し繰り返し現れる。
まずヴァージルは肖像画の瞳の光の描き方が「V」の字になっていることから、それが偽物だと鑑定する。贋作士が自分のイニシャルを潜ませたというのだ。しかし実はそれは本物で、ヴァージルはそれを手に入れるために策を弄しているのだ。「V」はヴァージルのイニシャルでもあると考えると面白い。
そして、ヴァージルはクレアに惹かれるにあたって、まずクレアの家の床に転がっていた自動機械人形に興味を持つ。
それが彼の大学時代の研究課題でもあったからであろう。しかしここにも同じテーマが流れている。ヴァージルはポーが『メルツェルの将棋差し』で語ったトルコ人をはじめとした、歴史上の自動機械人形の例を挙げる。どんな質問にも答える自動機械人形があった。中には小人が入って操作していた。しかし不思議なことに、質問への答えはすべて正しかった。これはまさに「どんな偽物の中にも真実がある」というテーマだ。
さらにクレアは、テラスから庭園の風景が、まるで本物と見まがうような立体感で描かれた壁の向こうに隠れていた。これは「トロンプルイユ」と呼ばれる手法の一種のだまし絵だ。まるで本物と見まがうようなリアリズムで描かれた絵はだまし絵となるのだ。
なぜなら、そもそも絵はすべて偽物であり、遠近法はすべてだまし絵、ということもできるからだ。
なぜヴァージルは絵に魅せられているのか。それは彼が偽物を通した本物にしか没入できない人間だからだ、と言えるかもしれない。なぜ彼は肖像画に魅せられているのか。彼は絵という偽物を通してしか、人間と向き合うことができないのだ。
偽物を通さないただの現実など、彼の趣味ではない。
クレアはそんな彼の為に作られた格好の罠だ。彼はよく作られた自動機械人形があればその中をのぞかざるを得ず、トロンプルイユの壁の向こうに誰かがいればのぞかざるを得ない人間なのだ。
クレアはまさにそのために作られた自動機械人形だ。偽物にしか恋のできない彼がクレアに恋をしたのは必然だったのだ。
結果として彼は、自動機械人形の中に隠れていた小人を見つけてしまった。真実という名の小人を。
クレアの建物の前にあるパブ。そこにいつも女の小人がいる。人並外れた記憶力を持ち、店の客にそれを披露している。そしてパブの窓からすべてを目撃していた。
彼女の名はクレア。建物の本当の持ち主。壁からめったに出ないはずの偽クレアが建物を何度も出入りしているのを正確な日付で覚えている。
彼女は映画の撮影の為と聞いて建物を貸し出していたのだ。ここで「映画」という言葉が出てくるのが少し面白い。おそらく脚本も書いたジュゼッペ・トルナトーレ監督の、映画が作りものであることへの自虐と矜持なのではなかろうか。願わくば、映画という偽物の先にも一抹の真実のあらんことを。
この本物のクレアは、まさに自動機械人形の中の真実を話す小人だ。そしてそれは「偽物の中の真実」なのだ。
ではその真実とは何であろう。それはまさに「ヴァージルとは何者か」ということではなかろうか。つまり「偽物しか愛せない男」であることを、ヴァージル自身が突き付けられた、ということではなかろうか。
どんなによくできた絵であろうと、それは「よくできた偽物」でしかない。その「よくできた偽物」しか愛せないことを、「よくできた偽物」であるクレアによって暴かれたのだ。
実際に暴いたのは彼の年来の友人であり共犯者であるビルだ。ヴァージルが才能がないといつも軽んじていたビル(クレアの母親を描いたという肖像画は実は、ビルが偽クレアを描いた絵だったが、ヴァージルは一瞥して「大した出来ではない」とだけ言ってそれ以降全く注意していなかった。偽物の中の真実を見逃したのだ)。ヴァージルのことをよく知るビルが、偽クレア、修理屋、修理屋の恋人、と登場人物を念入りに配置して、すべての仕掛けを作った。そういう意味では私にはこの映画はビルからヴァージルへの愛憎の映画に思えてならない。
ビルは、いわばこの映画の映画監督だ。映画という壮大な偽物の空間を作って、愛するヴァージルをその罠の中に招き入れた。すべてが作り物の嘘の空間の中に。
ヴァージルが嵌った罠は我々映画を見る者が嵌った罠と同じだ。少しずつ映画という名の自動機械人形の破片を落とし、我々はそれを自分の意志で拾ったつもりになっているが、いつの間にか罠の中にどっぷりつかって正しい判断ができなくなり、最後に偽物に恋をしている自分という真実を突き付けられる。ヴァージルと違って我々はすべてを失わなくて済むだけ幸せだ。
ビルが作ったこの空間こそが自動機械人形であり、自動機械人形の中の小人、とはヴァージルのこと、と考えると、なぜ老人施設でヴァージルがぐるぐる回るアスレチック機械の中に入れられていた理由もわかる。
そして最後のシーン。チェコのカフェ「night & day」。偽クレアが語っていた思い出の場所をヴァージルは訪れる。歯車だらけの時計カフェ。そのカフェの実在は、偽クレアという偽物が語った嘘ばかりの思い出話の中から見つけた、数少ない真実。ここでも「偽物の中の真実」。そして歯車。このカフェは自動機械人形でもある。歯車の中で一人座るヴァージル。彼は「自動機械人形の中の小人」だ。
そして彼は店員に「人を待っている」という。映画の冒頭とは全くの逆だ。
自分という真実を突き付けられ、誰も来ないことを知りながら、それでも彼は存在しないクレアを待つしかない。彼は存在しないものにしか恋ができない男であり、存在しないものを待つことしかできない男だからだ。まさにそれこそ彼が突き付けられた真実である。
我々はどうか? 我々は何を待ってる? それが存在するものだと自信を持って言えるだろうか?
監督がこの作品をハッピーエンドだといったらしいが、なかなかひねくれた意味で、というほかない。なるほどヴァージルも我々もビルと監督の手ほどきで、偽物の中の真実にたどり着くことが、自動機械人形の中の小人を見つけることができた。それがどんなに見たくない真実、自分という名の醜い小人であろうと、これはなるほどありうる唯一の終わり、という感覚が持てるものだ。

いい映画だった。