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2019年10月

交通警備員の覚醒

風雨に耐え交通整理をしていた交通警備員は悟った。
自分こそ支配者なのだ、と。
現代社会において道路交通網は社会の運営に必要な物資を輸送する血管である。止まってしまえば社会全体が機能不全に陥る。
今彼は赤色誘導灯によってそれをコントロールしている。彼こそが社会の支配者でなくて、誰が支配者なのであろうか。
彼は自分の力を試すために、まずは片側交互通行になっている道路に、対向車が来ているにも関わらず車を誘導した。
必然的に車同士は正面衝突し、運転者は自らのフロントガラスを突き破り、相手のフロントガラスへと突っ込んで絶命した。
彼はそれを見て良しとした。
しかしそれを見ても、良しとしなかった者があった。工事の現場監督である。その男は哀れな凡夫であった。
そのような存在に、怒髪天を衝く勢いの怒りようで迫られても、彼は気圧されることはなかった。自分は今や、道路交通システムと接続し、不死者へと存在の階梯を登ろうとしているのである。
彼は赤色誘導灯を一振りした。トラックが現場監督を轢き潰した。
現場にいた他の作業員たちは、事故車の周りに集まっていたが、何事かおかしなことが起こっていることに気づき、それが一体なんなのかも分からずパニックになって逃げていく。今やどうでもいい存在どもではあったが、手に入れたばかりの全能感に酔いしれた彼は、幼気な子供が蟻を戯れに殺すように力を振るった。
逃げまどう者たちの目の前で世界が歪んだ。彼のゆっくりと扇を振るように動かすような手の動きに合わせて、道路が左右に波打ち始めたのだ。
走っていた車がハンドルを切り誤ってスピンし、歩行者たちを跳ねていく。
一人の男が慌てて車の入れない脇道に入ろうとする。それを地面から竹のように次々と生えてきた柱が遮る。その先端に赤青黄色と色とりどりの標識が花ひらいた。
人々の脚に白線が絡みつき引きずり倒す。立ち上がった横断歩道の縞模様が逃げ場を塞ぎ、狭いところへ犠牲者たちを押し込める。こうして殺戮は近代の道路交通システムが追求して止まなかった卓越した効率性を確立していく。
自らの指揮棒が奏でる阿鼻叫喚に聞きいり、自らの絵筆が描いた地獄絵図を眺めて、彼はますます良しとした。
そして自慢げに赤色誘導灯を撫でさすりながら、次に自分が何をすべきか考えている。
パトカーのサイレンが近づいてくる。最初の一台を、意味を教えてもらった覚えがあるが思い出せない道路に描かれたひし形で突き刺し、慌てて逃げようとした数台をメビウスの輪状にループさせた道路に閉じ込めた。これで、しばらくは警戒して近づいてはくるまい。
一人一人の警察官はそこら中に転がっている肉塊がかつてそうであったような哀れな凡夫に過ぎない。しかし、それらを動かしているのは本物のシステムだ。
そのシステムが、システムと同化し大きな力を手に入れようとしている存在に気づいたのだ。
そのシステムにとって彼は、生物体にとってのガン細胞だ。システム全体の統制から離れ、輸送網から勝手に物資を取得し、際限なく成長を始めようとしている、滅ぼさざるを得ない存在。滅ぼさなけらば、自分が滅ぼされる存在。
それではガン細胞にはできないことをやってみせよう、彼は考えた。
地面が震え、地割れが起きて電柱が倒れる。そして電線や光ケーブルがちぎれて、垂れ下がり、地中から顔を出す。
彼はそれを掴む。彼の体がビクンと震える。高い電流が一気に駆け巡り、彼の筋肉が収縮する。そして発火して、焼け焦げ始める。
しかし彼は感じていた。体内に満ち溢れる情報を。
全地球を覆い尽くした通信システム。それはこのいくつもの小システムが緩く連結された巨大なシステムを円滑に運用させるのに不可欠な神経網だ。その脳なき生命体全体から、人類の脳程度にはとても治らない量の情報が眩い光に乗って送られてくる。
それが彼の体を貫き、膨張させ、勃起させ、破裂させた。
絶頂とともに内部を撒き散らし、生命体としての彼の活動は停止した。
しばらく遠巻きに見ていた警察官たちは恐々と彼に近づき、その「死」を確認した。
そして、それは通常の死として処理された。彼の体が通常の死体であるのと同じように。
一人の交通警備員が、おそらくは仕事のストレスか何かが原因で発狂し、現場監督や同僚を突発的に殺傷した。そして現場にあったいくつかの自動車を暴走させて歩行者を轢き殺し、事故の結果ちぎれて垂れ下がった電線を自ら掴んで自殺した。
そんな今の世の中ではどこにでも転がっている話として書類にされ、ニュースとして報道されてすぐに忘れ去られてしまった。
しかし、その「死」は本当に通常の死だったのだろうか。
彼の野望はどうなったのだろうか。単なるガン細胞としての存在を越えるために、道路交通網だけではなく、通信システム網にも接続しようとした彼の野望、血管だけではなく神経網も乗っ取ろうとした彼の野望は。
それは誰にもわからない。
もしかしたら、すでに変化は訪れているのかもしれない。ちょっとしたニュースや宣伝やドラマの端々に、彼の姿が現れる。ちょっとした雑音や人には聞き取れない音波の中に、彼の声が混ざる。人々の噂話に現れる「知り合い」とか「誰か」とは彼のことではなかろうか。匿名掲示板やSNSに突然現れては消える実態のない人物はもしかしたら彼ではなかろうか。
しかし、我々はそれに気づくこともできない。
我々は彼のようなシステムそのものではなく、システムの一部に過ぎないのだから。

マイリトルポニー最終回 感想 取り急ぎ

本日2019/10/13日、アメリカでMy Little Pony Friendship is Magicが最終回を迎えました。
私は2012年のシーズン3が始まる前にハマったので足掛け7年ハマってたことになります。
当時興奮して、かなり長い連続評論を書いたのも懐かしい思い出です。

http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1492286.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1497113.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1497292.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1498711.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1498755.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1500025.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1499801.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1500094.html

さて、最終回ですが、基本的に上記の評論で書いた神話的な世界観が貫徹されたことも嬉しく感じました。しかし、7年の間に、マイリトルポニーには様々な要素が付け加わりました。その年月にも想いを馳せずに入られません。

当時私が注目したのは、世界各地に伝わる神話の構造やモチーフをこのアニメが見事に拾っていることです。世界各地の神話に同様な構造やモチーフが存在するのは、ある意味ではそれが我々人類にとってわかりやすくて面白いからです。それを有効に活用するのはとてもいいやり方です。
例えばマイリトルポニーにはアースポニー・ペガサス・ユニコーンの三種族が存在しています。アニメ内時代劇においては、それぞれ農民、戦士、天界の運行を司る魔法使いとして描かれていて、これは「主権・戦闘・生産」の三つの区分がインド・ヨーロッパ語族の神話に共通して見られると言うデュメジルの「三機能仮説」に一致します。馬の姉妹というのも、デュメジルがインド・ヨーロッパ神話に共通して見られる「馬の兄弟」のパターンと似ています。それが太陽と月と関連づけられることも、珍しくありません。
また、S1の冒頭を飾るナイトメアムーンとの戦いは、天岩戸の神話と同様に日食を意味する同時に、夏至の祭りに太陽が一度死に再び復活すると言う、新しい季節の一周りを祝う「死と再生の神話」でもあります。
そして、S2の冒頭を飾るディスコードとの戦いは、世界各地の神話に繰り返し語られる、混沌に対する秩序の勝利そのものです。
それらの世界観の裏に「調和」という軸が存在します。三種族が仲違いをした時、その調和が崩れ、恐ろしいウィンディゴが世界を極寒の破滅へと突き落とします。この不調和こそ、エクエストリアにとって、どんな悪役より一番恐ろしいものなのです。
そして、三種族を調和させるものこそ、副題にもある「友情」なのだ、ということがこの物語の大きなテーマなのです。

上記評論を書いたS2までは、そのような神話的世界がマイリトルポニーの大きな魅力でした。しかし、
S3でトワイライトはプリンセスになります。おそらく、当初の予定ではこれくらいで物語を終える予定だったのではないでしょうか。しかし、物語はまだまだ続き、マイリトルポニーにはそれから濁流のような様々な要素を受け入れ続けるのです。

S3の後では、エクエストリアス・ガールズという、「人間化(擬人化という言葉は不正確なので私は使いません)」シリーズが始まります。最初は不安がられましたが、一作目がそこそこ好評で、二作目『レインボーロックス』が作られ、これがものすごい大傑作だったことによって、今でも続くスピンオフシリーズになっています。
トワイライトのロマンスの相手で1作だけの予定だったフランシュセントリー君が、ファンの間でプチ炎上したことにより、その後微妙な変遷を経ることになることはもはや懐かしい思い出です(日本では彼を爆破するMADが流行りました)。
また一作目の敵役サンセット・シマーは二作目以降第二の主人公となり、私の一番好きなマイリトルポニーのキャラの一人にもなりました。

S4では古くからのファンには故郷のように懐かしいあの場所が失われショックを与えられると同時に、ドラゴンボールにも例えられる戦闘シーンが注目を浴びました。実際、予算が上がったのか、背景や動きのクオリティがかなり上がったように思えました。

そして重要なS5。スターライトグリマーの登場です。
彼女はある意味サンセットシマーの鏡のような存在でした。どちらも闇のトワイライトスパークルとしての属性を持っています。しかしサンセットシマーは他人を蹴落とす「行き過ぎた利己主義」の化身として、スターライトグリマーは全ての人間が自己を抑圧する「ゆきすぎた平等主義」の化身として。
共産主義のパロディとも見られたディストピアストーリーはヒューゴー賞の候補にもなりました。
マイリトルポニーが、このような政治的とも見られるテーマを扱うことに驚く声も聞きました。
しかし、これはシーズンが長続きするにあたって、とても自然なことだと今では私は思っています。
マイリトルポニーの面白さは、「友情」を「調和」の源と見なして、神話的に意味づけする一方、「友情のとても身近な問題」にとても細かい目配りをしてくれるところでした。
神話的なファンタジーに見せかけて普段している話は「一緒にオーディションを受けたら友達しか受からなくて、嫉妬してるんだけど応援しなくちゃいけない」「友達の友達がガラが悪くて付き合いにく。この前その子が万引きするところを見てしまった」みたいな、非常に(胃が痛くなるほど)リアルな友情問題なのです。
そして、S4以降、主人公たちがだんだんと大人になっていく、という変化が起こります。彼女たちは、エクエストリアの大人のポニーとしてキャリアアップして、様々な環境の変化を被って行きます。その中で友情問題として、社会の様々なリアルな問題を自然に扱って行きます。
一足とびに政治問題に直結させないところもマイリトルポニーの丁寧さではありますが、そこまでいけば少し足を伸ばせば簡単に政治信条の問題にもなるわけです。
それが、調和を見出すものとしての「行き過ぎた利己主義」と「行き過ぎた平等主義」。
これって、いわゆる「自由」と「平等」という、民主主義の要でありながら相矛盾しかねない二つのものの問題なわけです。そして、どうしてフランス共和国の標語は「自由、平等、友愛」だったのか、という問題にもつながるかもしれません。
それをサンセットシマーとスターライトグリマーという二人の魅力的なキャラに結実させるのは見事というしかありません。
特にスターライトグリマーは、最初仲間になると知った時、サンセットシマーとキャラが被らないかと心配だったんですが、S6以降、mane6とはまた違うトラウマ持ちの大人として見事なキャラ付けをされて、本当に惚れ惚れとしてしまいました。トリクシーとの関係性も、関係性のオタクはぜひ見て欲しい塩梅に仕上がっております。

mane6が大人になっていくことによって、マイリトルポニーは政治的なニュアンスを隠し持つようになります。
つまり、単純な調和の神話ではなく、「民主主義の神話」としての要素を持ち始めたのです。
私は別に民主主義を完璧な政治制度だとは思ってはいません。しかし、マイリトルポニーの歌い上げる「民主主義の神話」にはかなり感動させられたと告白します。
「民主主義の神話」と聞いて怖気付きそうな人には、「そんな怖いものじゃないし、基本的には身近な友情のメンテナンスをひたすらする話だから安心して」とも念のために言っておきます。
友情という身近な問題と、民主主義の問題、そして世界の調和が、なんとなく地続きになってるのが、マイリトルポニーの世界観の魅力だと、最終的には考えています。

その象徴が、トワイライトが作った友情の学校なんだと思います。
友情の学校によって、トワイライトはポニー以外の様々な種族との調和を図ろうとします。
多種族との調和は、初期のシーズンでもバッファロー相手にテーマになったことがありますが、羊は無造作に扱われ、おそらく特にテーマとして考えられてなかったと思われます。
しかしトワイライトがプリンセスになったあたりから、急に裏テーマとして少しずつ導入されました。
それを、学校という場を舞台に様々な種族の6人の生徒を中心に描き始める。
これも、ファンの間では賛否両論あったと記憶します。
6人の生徒の失敗が描かれるわけですが、これはmane6がやっていたことの繰り返しではないか。mane6はそれだけでシリーズ全体を引っ張るように入念に造形されていますが、この新たな6人の生徒はそれと比べるとキャラが弱いのではないか。
全て、一理あると私は思っていました。
しかし、この展開はかなり計算されたものだったと最終回後は思えます。
つまり、友情の神話を民主主義の神話に繰り上げするに当たって、学校という場、そして友情の魔法の伝授が必要とされたのでしょう。
世界を支えるものである以前に、社会を支えるものとしての「友情」と「調和」。そしてそれを次の世代へ引き継ぎ社会を支える施設としての「学校」。
そのために、難しい生徒6人のキャラ作りにあえて挑戦したのでしょう。
そして、これが最終回への大きな伏線になるわけです。

最終回、三種族の不和によるウェンディゴの出現を止めるきっかけになったのは、粗末な箱の上に乗った演説でした。
英語ではsoapboxといえば、演説のための間にあわせの台のことです。on a soapboxで演説をしているという意味になりますし、soapbox自体が演説することを意味する動詞にもなります。
それによって事態が好転することが、民主主義の神話でなくしてなんなのか、と言いたい。
英雄ではなく、異種族が合わさって調和を実現することによって、世界を救う物語が、民主主義の神話でなくしてなんなのか、と言いたい。

そして最終回、全2話で高らかに神話を歌い上げたのにバランスを取るような、いつもの日常回。
ラストバトルの後にmane6が向かったドーナツ屋と同様に、S1のラストを思い起こさせ、ファンへの思いやりを感じます。
ここで友情はもう一度、調和という神話的概念でもなく、民主主義という政治的概念でもなく、いつもどこか調子悪くて、いつもメンテナンスしなくてはいけない、厄介だけど付き合ってはいけない身近な問題に戻ります。
友情は面倒なものです。なのであまり背負いすぎず、上手に荷を下ろして上手く付き合いましょう。そうすれば悪いものではないですよ。といういつもの順当であまり面白くないかもしれないけど、何度確認しても忘れがちな結論に帰ってくるのです。
これぞマイリトルポニー。まさにマイリトルポニー。
いいアニメでした。
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