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謎と真実

化石素(ペトリン)は愛の弁明となるか? 早田文蔵と小栗虫太郎

Hi! ネットキッズのみんな!
今日もネットの海で情報を渉猟しているかい?
21世紀の教養あるネット民であるみんなは、当然古典語にも精通し、いつだって情報のソースを確認し、論文や小説を原語で読みこなし、必要なら追試験だってしちゃってるよね?
さて、そんな君たちは当然小栗虫太郎が好きだろ? まさか『黒死館殺人事件』しか読んでいないなんて無精者はおるまいね。まあ、ロンドン大火の銅版画の部分が面白すぎて、他の部分を忘れてしまうから仕方ない面もあるけどね。
というわけで今回の話は小栗虫太郎の『人外魔境』だよ。


その中でも特に「水棲人(インコラ・パルストリス)」だ。
この小説集、全体的に香ばしい感じだけど、この「水棲人」で一番おもしろいのはやっぱ「化石素(ペトリン)」だよね。
簡単なあらすじ

三上重四郎は学生時代に『化石素堆積説(ペトリン・セオリー)」なるものを発表した気鋭の医学者である。「化石素(ペトリン)」とは、植物において一つの種類が絶滅に近づくと組織中に現れるもので、これにより植物は化石として残るのだという。そして彼は動物の血中においてもペトリンが存在することを発見し、アルゼンチンにおいて移民であり多くは混血であるアルゼンチン人と滅び行く原住民であるパタゴニア人の血中のペトリンを比べて、アルゼンチン人のほうがペトリンが多いことを発見した。つまり滅び行く種族はアルゼンチン人であるのだ。なのにパタゴニア人が減少しているのは、冷酷なアルゼンチン政府の政策によるに違いないことが、これにより証明された。そこで彼はパタゴニア人保護区を政府に作らせるための運動を指揮するのだが、運動が盛り上がったところで彼は行方不明になってしまう。一体彼はどこに消えたのか? そんなある日、流れ者の一人が秘境「蕨の切り株(トッコ・ダ・フェート)」 の奥で出会ったと語る、沼の底から立ち上がった『水棲人(インコラ・パルストリス)』の身体的特徴が三上と一致したのは偶然なのか? 
ってな感じに話は進む。
しかし、小栗虫太郎も奇態なことを考えるものだ、と思うかもしれない。しかしこの「化石素堆積説(ペトリン・セオリー)」、そのものズバリの元ネタがある。
実際にこれを発表したのは台湾総督府の依頼で当地の植物を研究し、東大付属植物園長にまでなった早田文蔵(1874~1934)である。
petrin theorieについては、彼の労作『植物分類学』(1933)第一巻に紹介されているらしいが、これはちょっと手に入れにくいので、これが解説されている『日本科学技術史大系 第15巻 生物科学』だったら大学図書館行けば見つかるだろうから、気になる人は読んでみてくれ。amazonでも一応手に入るみたいだぞ。

ここまで聞いて、みんなは早田文蔵ってのはどんな奇人だったのかと思うかもしれないが、なかなかどうしてすごい人なのだ。
彼が反ダーウィニズム思想の系譜において燦然と輝く理由は、彼が大正8年に『理学会』に発表した論文「自然分類の原理を論ず」にある。
彼は生物の系統が樹状になっていることを否定する。つまりダーウィニズムの基本である、系統樹をなす生物の系列を否定するのだ。かれは「生物は生物から生まれる」ことを否定し「生物は無生物より生じ、無生物に還る」と主張し、よって生物と死物は互いに相互関係で結ばれ、したがって生物には源など存在しないと断ずる。さらに「物質不滅勢力常住の法則」という「エネルギー保存則」めいたものを持ちだして、 過去現代未来において生物の量は変わらないと言い始め、よって生物は進化増大したり退化減少したりしない、と結論付けるのだ。
ダーウィニズムの完膚なきまでの否定!
そして、系統樹を否定した結果、彼の生物のシステムは網目状に関連しあうものとなり、その歴史は拡散と収縮の繰り返しとなる。
彼に言わせれば、系統分類論なるものは一神教からの先入観であり、キリスト教圏の偏見となる。もっと万有神論(アニミズム)の発想を持つべきだ。そもそも親の代で2人、祖父母の代で4人、その前は8人、21代前なら、104万人以上になり、先祖は指数関数的に増えてくんだから、祖先が少なかったら変じゃないか。
つまり世代は永劫に継続し、それを支えるのは各自相互の関係に基づくところの〈愛〉である。万物を支える〈絶対的愛〉。それと比べれば、系統分類者は親子の直線的絆しか持てない〈相対的愛〉にすぎない。
どうだまいったか、てなもんである。 
彼はこの分類学を「動的分類学」と名付けた。その具体的な方法論は、まず様々な生物の形質(形の特徴)を数値化し、それを多次元空間にプロットした後、低次元空間に射影してパターンを探そうと言うものだったらしい。
ビッグデータを毎日活用しているネットキッズならピンときただろう。今の統計学で言えば、「多変量解析におけるクラスター分析」みたいだ。しかし1910年代~1930年代という時代ではこの発想はあまりに早すぎた。
他にも生物は系統樹にならず、ネットワークになるという発想も今なら生きる。ガレージで気軽に大腸菌をベクターに遺伝子改造実験できる時代を生きてる君たちならすでにお馴染みの「遺伝子の水平伝播」だ。単細胞生物なら日常だし、植物やホヤ、昆虫などでも例が知られている。つまり細かく言えば、やっぱり生物のシステムは系統樹をなさず、ネットワークにならざるをえない。ここでも早田文蔵は時代を先駆けていた。もちろん最適化問題を解くときの計算量を考えたらネットワークの方が樹よりずっと高いし(「アルゴリズムとデータ構造」はものを考えるための基礎教養だから、ちゃんと勉強しないとダメだよ)、樹でも十分いい近似だから、だいたいは樹でいいんだけどね。
ただ偉い学者がこんな奇抜なことを言い始めちゃったから、当時はかなりショッキングだったらしい。右翼に刺殺された社会活動家でもある生物学者山本宣治は、実際の家系図を調べることで、先祖が指数関数的に増えていくことを否定している。そりゃそうだわな。
それ以上に余人を面食らわせたのは、〈愛〉などという面妖な用語と、コンピュータでもなければとても実行できなさそうな網目状の分類である。一体この発想はどこから?
論文中で自分でも語っているように、なんと彼は天台宗華厳経の教理から発想を得たのだ。「動的分類学」は「帝網」、すなわち、インドラの宮殿に掛けられた全ての宝玉が他の宝玉を映し出し、それが無限に続くというなんともフラクタルな網が発想の元なのだ。
そうすると〈愛〉の出所も何となく分かる。仏教で言う「慈悲」、すなわち「全ての生命を平等に慈しむ心」が発想の根源であろう。 
理論の価値は、それがどこから発生したかによらないとはいえ、これはさすがにちょっと怪しむ。その出所が見えるがゆえに我々日本人にはちょっと受け入れがたい。
そういう意味では、裏が見えない分だけ西洋人のほうが受け入れやすかったのかもしれない。
オランダの高名な植物学者H・J・ラムが1936年に発表した、生物学における系統樹という「図像」の使用の歴史をたどった先駆的科学史研究論文「Phylogebetic symbols, past and present (being an apology for genealogical trees)」の冒頭には、「ブンゾウ・ハヤタの高貴なる精神を追悼して」と二年前に急逝した早田文蔵に捧げられたエピグラフが飾られているらしいし、また1960年台に一時的に流行した、進化論研究が生物の分類学を大きく書き換えようとしていたことの反動として、「逆に生物の系統を一切無視して形だけで分類をしちゃえばいいじゃん」という方法論「表形分類学」や「数量分類学」の教科書「Principles of Numerical Taxonomy」にも早田文蔵への言及があるらしい(表形学的アプローチは、生物分類の基礎哲学としては、完全に進化論に依拠した「分岐学」に取って代わられたが、いち早く数値化と統計的手法を導入したその方法論自体は今でも生きている)。
早田文蔵の思想や独特な図表については次の2つを見て欲しい。

様々な図像にあふれた美しく楽しい本である。
目玉と脳の大冒険―博物学者たちの時代 [単行本]
荒俣 宏
筑摩書房
1987-04
様々な楽しい挿話に溢れるほか、「化石素(ペトリン)」についてはこの本で知った。
あと、進化論思想の発展に関する歴史的な経緯は次が分かりやすい。

理系と文系と貫く各種「歴史科学」の可能性と重要性への確信、及びそれらへの統一的視座が持てる。
進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)
エリオット ソーバー
春秋社
2009-04

今科学哲学を知りたいなら、ソーバーの本を読んでけ。
割と最近では、「照葉樹林文化論」で有名な中尾佐助が早田文蔵の動的分類学の発想を元に、生物学を超えた普遍的分類学を構想している。

 さて、ここでもともとの話に戻ってこよう。では、なぜ早田文蔵は「化石素(ペトリン)」などというケッタイな概念を作らなくてはいけなかったのか。
それは化石が証拠付ける「絶滅」が、ダーウィン的な「生存競争」の証拠ではないことを示すためではなかったか。
つまり、このままでは化石は〈絶対的愛〉の存在を否定してしまいかねない。生物たちは相互の〈愛〉ではなく、あくまでも自分及び自分の子孫に対する〈相対的愛〉を追求することにより反映し、その生存競争に負けたものは絶滅し、ただ化石として存在の痕跡が残る。
そんな世界観をどうにか打倒したくて、ひねり出されたものが「化石素(ペトリン)」ではなかったか。
これがあれば、化石が証拠付けている「絶滅」は「革命」というよりは「禅譲」に近くなる。あくまで運命を受け入れただけなのだ。おそらく運命を受け入れるのも〈愛〉ゆえなのだろう。
つまり「化石素(ペトリン)」とは、「愛の弁明」として作られたのだ。
ポパー激怒。
さて、そうすると、 「水棲人」のストーリーも一段と趣きのあるものになる。
本来なら血中に「化石素(ペトリン)」の多いアルゼンチン人は自らの運命を受け入れて滅びていかなくてはいけない。にも関わらず悪逆非道なことに、若く、これから反映する種族であるところのパタゴニア人をいじめている。これを大和魂の保持者である三上は黙って見ておれなかったのだ。なんとかしてパタゴニア人を開放しなくては。
この「滅び行くヨーロッパにいじめられている現地人を勇敢で優しい日本人が助ける」という構図と発表年代になんだかきな臭いものを感じられたら合格だ。でもまあ別にこの作品で白人がいつも悪役なわけではないからあまり敷衍はしないでおこうな。
さあ、みんなもネットばかりしてないでたまには本屋や図書館行って本も読もうな。あとたまには外に出るのもいいぞ。生物採集なんかいいんじゃない? 
じゃね。Bye! 

デイヴィー・ジョーンズのロッカー

ゼラズニイの『心はつめたい墓場』を読んでいたら「デイヴィー・ジョーンズのロッカーでも踊った」という言葉があった。
ロジャー・ゼラズニイ
早川書房
1984-04

デイヴィー・ジョーンズなんてキャラクターいなかったからなんのことかなと思った。この言葉は様々な世界の名所(「チベットのスキー・ロッジからデイヴィー・ジョーンズ・ロッカーまで、軌道上ステーションでのハロウィーンからデルフィでのメーデーまで」)に行った、という独白に再登場するので、固有名詞かとも思ったがどうも違う。いろいろ調べて分かったのだが、どうやら「海底」を意味する慣用表現らしい。
デイヴィ・ジョーンズの監獄 
デイヴィ・ジョーンズとは船乗りたちが信じていた悪魔らしく、語源的には旧約聖書に出てくる巨大な魚に飲まれた聖人「ヨナ」に関係があるらしい。そういう名前のパブの店主が船乗りを酔っ払わせて売り払っていた、といううそ臭い伝説もあるとか。なるほどなるほど。
当時はインターネットもなく、おそらくさしもの浅倉久志もそのまま訳してしまったのであろうか。
しかし、今これを訳すとしたらどうだろうか。そのまま「海底」と訳すのはあまりうまくない。なぜならこの文章は、読者に少し「うん?」と思わせることが目的だろうからだ。
ゼラズニーが活躍した時は、SFがそれ以前よりも知的に、場合によっては難解になっていった時期だ。この短編小説の他の部分では、洒落た会話として、「ミクロプロソプスのイブ」だの「アダム――カドモン」だの「われわれ、堕ちた霊魂は、このマルクトでいっしょにがんばらなくちゃ」だの、カバラの用語が一切説明されずに使われている。ここは読者の知識を試しているわけで、全ての人がすんなり読めるわけではないように書かれている。
そうすると、「Davy Jones's Locker」も同様の意図があると考えていいだろう(「floating Palace of Kanayasha」という言葉は、インターネットで検索してもこの小説以外hitしなかった。さらなる研究が必要である)。
だったら、ここも日本語にするなら、ある程度知識がある人にはすんなり分かるけど、そうでない人にはピンと来ない言い回しをうまく選ぶべきではなかろうか(おそらく「デイヴィー・ジョーンズのロッカー」ではその効果は出ない。あまりに馴染みがないから。逆にカバラはそのままでいいのだ。アメリカでカバラを知っている層と、日本でカバラを知っている層はそれほど違わないだろうから)。
そこでいろいろ考えたのだが、例えば「安徳天皇の墓所」なんてどうだろうか。少し知識のある人なら、安徳天皇が壇ノ浦の戦いで海中に没したことくらい知っている。そうすれば「安徳天皇の墓所」で海底を意味することもそれほど不自然であるまい。
と思ったのだが……
安徳天皇陵墓ってあるんかい! なんでやねん! 


ちなみに『心は冷たい墓場』は未来を生み出す理系と過去を夢見る文系が時代という名の女を取り合って時を超えた神話的痴話喧嘩をする素晴らしい作品でした。 

幼いころの記憶に出会う 『ぼくはむく犬』

誰しも幼いころのあやふやな記憶というやつはあると思う。
例えば、おぼろげに覚えているが、題名もはっきりとした内容も覚えていない映画やテレビ番組などだ。
主人公の父親だか母親だかが、頭蓋骨にでっかい機械で針を突き刺されているのを、主人公が泣きながら見ている、ずいぶん画面が赤っぽかった気がする映画を、幼いころテレビで見たような気がするが、未だに招待がつかめない。何だったのか? そもそも本当に見たのか? 夢だったのではなかろうか?
その中の幾つかは、その後正体が分かる。母親の実家で見た、ほぼ骨だけの上半身がぴょんぴょん跳ねて人間の脳みそを食おうとする映画は『バタリアン』だった。途中まで見たとき、強烈なデジャブにクラクラして、「俺これ見たことあるわ!」と叫んでしまった。 迷惑なやつだ。
バタリアン HDリマスター版 [DVD]
クルー・ギャラガー
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2014-08-02


森卓也の『アニメーションのギャグ世界』を初めて読んだ時も、知らない世界に足を踏み込んだのではなく、ひどく懐かしい世界に足を踏み込んでしまって、困惑したのを覚えている。「ああ、あれってテックス・アベリーという男が作ってたのか!」

 






というわけで、最近もまたあの日の謎がひとつ解けたので。報告したい。
私が幼かったころは、ディズニーのビデオはポニーキャニオンが販売していた(今はブエナビスタ)。その頃の、吹き替え声優は今と違って、必ずしも原語の声そっくりだったわけではないが、それなりに味があって愛好者も多い。また分かりやすさを重視してか原語にないナレーションが入っていて、原語にないことからこれを嫌う人も多いが、土井美加と江原正士のナレーションは非常に芸達者で耳に心地よい。特に私にとって江原正士の仕事で最初にイメージするのはディズニー短編アニメのナレーションである。
私はオリジナルにしっかり敬意を払うのなら、ヴァージョン違いは多いほうがいいと思っている。吹き替えも様々ある方が、比べることができて面白い。だからこそ旧吹き替え版も新吹き替え版も愛でればいいのではなかろうか。 
旧吹き替え版のディズニーアニメは今では入手が難しくなっているが、ニコニコで「旧声優陣」などのタグ検索をすればかなり見つかる。ちなみに動画サイトではディズニーアニメは最新作品でもない限りあまり消されない。 日本人のディズニーに関するイメージはほとんど根拠不明の都市伝説にすぎない。
さて、書いたとおり旧声優陣による吹き替えはニコニコで見られる。これで万事解決かというと、そうでもないのだ。
古いビデオなどを見たとき、一番懐かしいのは本編ではなく、実は宣伝とかであったりする。ドラえもんのスペシャルの録画のエポック社の妙なおもちゃとかね。ニコニコで昔のCMなどを延々と見てしまったりするのもそこにある。しかし宣伝は無数にあるので、意中のものは結局見つからなかったりする。完全な時間の無駄じゃないか(憤怒)。
 だから、CMカットは完全にしない主義。少し残しておくのだ。
さて、ディズニーの話に戻ろう。ポニーキャニオン版のディズニービデオの最後には、いろいろなディズニー作品の宣伝が入っていた。名曲『星に願いを』をバックにワイヤーフレームのシンデレラ城が橋の向こうから近づいてくる。それが終わると、高速度撮影で植物の成長を記録した映像やら、傘を開いて舞い降りるメリー・ポピンズやら、様々なディズニー作品の紹介がみんな大好き矢島正明の優しい声でされるのだ。
ああ、あの映像が見たい。本編よりよっぽど見たい。
そして、確かそんな中で、一本のビデオだけ、他のよりたくさんの作品を紹介していたのがあったはず。それらの作品の中で、私の中に強烈な印象を残したものがあったのだ。
それは一人の少年が何らかの理由で毛むくじゃらの犬になってしまう、というものだった。
確か一本はモノクロで、もう一本はおそらくそれの続編と思しきカラーの映画の日本だった。
恥ずかしながら、私は昔から肉体が強制的に変形される様に、(おそらく性的な)興奮を感じるたちだった。
いわゆる固めフェチ(人間が石化されたり、ブロンズ化されたりすることに、性的興奮を覚える人々。例としては、ハン・ソロ、ポロムとパロム、『ドラえもん のび太の魔界大冒険』、ヒッポリト星人、etc)の人たちの心情にも大きな共感を持つが、個人的に好きなのは、人間が魔力など超自然的な力により動物など人間ならざるものに変えられるさまだ。オウィディウスの『変身物語』が好きなのもそれが理由かもしれない。ベルニーニの『アポロンとダフネ』とか最高だよね。ヴェルサイユ宮殿の『ラトナの泉水』も悪くない。
他にも、『オデュッセウス』とか『解放されたエルサレム』とか『高野聖』とか『旅人馬』とか『ピノキオ』とかetc。狼男ものも世に多い。『An American Werewolf in London』の唐突な変身シーンが好き。『狼男アメリカン』などという糞な邦題をつけた輩は万死に値する。
それら皆、私にある種に妖しい興奮を呼び起こすのだ。
そんな私の原体験が、あのディズニーの作品紹介だったのかもしれない。
で、その映画は結局何なのか。
私はずっとその映画の題名を「ぼくは毛むくじゃら」だと思っていた。しかし、その題名で調べても何も出てこない。
一体あれは何だったのだろうか。やっぱり夢だったのか。 
そう思っていた先日、もう一度ググってみた。するとどうであろう。検索エンジンの進歩の成果なのか、とうとう真実が明らかになったのだ。
『ぼくはむく犬』というディズニー製の映画の存在が明らかになったのだ。第一作はやはりモノクロの1959年製で、『新・ぼくはむく犬』が1976年のカラー映画である。年代的にも合ってる。やはり夢じゃなかったのか! それにしても、「毛むくじゃら」と「むく犬」。まあまあの精度と言って良いのではないか? 
ちなみに、『ぼくはむく犬』は1996年(同名)と2006年(『シャギー・ドッグ』)にリメイクされているらしい。


さらについでに言っておくと、実は私はこれらの作品をあまり見る気はなかったりする。何故かと言うと、正体がわかったことにより、あらかた満足してしまっているからだ。
そういうもんかもしれないね。
とにかく分かってすっきりした。 
ちなみにこの記事を書いていて知ったのだが、「尨」と書いて「むくいぬ」と読むのだな。勉強になるなあ。 

歯茎ケア用の歯磨きアセスLが赤いことにずっと疑問を抱いてきたが

これはもしかしたら、歯茎から血が出ていても分からなくして、使用者を安心させるための工夫なのではないか、という気がしてきた。

なんというか、歯茎と同じようなサーモンピンク色しているんだ、これが。
しかし、これよりもアクアフレッシュのほうに異様さを感じない感性がいつの間にか育てられていることにも驚きを感じるが。
Minuette_id_S2E3
ちなみに、このポニーは本来「Minuette」という名前ですが、ファンの間ではあちらの歯磨き粉とよく似た色合からその商品名「Colgate」と呼ばれ、二次創作では歯医者とかにされてます。キューティマークは砂時計なのにね。歯ブラシのキューティーマークを手に入れるためにタイムスリップするフリーゲームとかある。
これもよく考えるとすごい色合だが、向こうの人たちは、歯磨き粉どころか、こんな色の飴なんかを平気の平左で舐めてたりするから怖い。 

先日見かけた謎の小学生

小学生と中学生の兄弟。電車のロングシートで私の隣。
兄はずっと将棋の本を読んでいる。弟に話しかけられてもほとんど何の反応もしない。
弟、大きな声で歌を歌っている。
その歌詞は、
「地獄に落ちろ! エーガーワ!」(おそらく元巨人の江川卓投手のことであろう)
「サヨナラばかりの、コーバヤシ!」(いわゆる「江川事件」で江川とトレードされて阪神に移籍した小林繁投手であろうか。開幕戦、完封直前の2アウト1塁3塁に敬遠を大暴投してサヨナラ負けをしたことがある)
ときどき彼はこの歌の面白ポイントを兄に解説している。しかし上述の通り兄は生返事である。
「でねでね、こっからが面白いんだよ! 変な英語の、ナーガシマ!」(当然長嶋茂夫監督のことであろう。江川の入団時期を考えると、第一期監督時代の後期、79年か80年のことと考えるほかない) 
「でね、最後がやべーんだよ!  聞いて聞いて! 悔しかったら、勝ってみろ!」
おそらくこれは1980年前後に巨人阪神の試合開始前に行われていた野次合戦であろう。
ここまで歌ったところで、兄が立ち上がって、「降りるよ」と通告したことにより、歌は止まった。
実に傍迷惑な少年だったが、一体何者だったのであろうか? なんでそんな古いこと知ってるんだ? ウェブのおかげで妙に古いことを知っている人間は(私も含めて)増えたが、それにしてもである。
謎は深まるばかりだ。 
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