けんさく。

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書評

Land of Lispと実践Common Lispを読み終わった

Land of Lisp
M.D. ConradBarski
オライリージャパン
2013-02-23


実践Common Lisp
Peter Seibel
オーム社
2008-07-26

Common Lisp本、とりあえず片っ端から読んでいこうかと計画してる。
On Lispは、マクロに関する本だったが、これらはもっと色々な応用例を見せてくれる。

Land of Lispは狂った漫画が一番の特色だが(大好き。こういう漫画描きたい)、プログラミング本の特徴としては、古のBasic本みたいに、簡単なゲームを作りながらCommon Lispに入門できる。
しかし、みんなちゃんと遊べるから偉い。
graphvisを出力にして、超簡易GUIを作るとか、面白いアイディアだと思う。
clispの拡張機能を作るとはいえ、自分でwebサーバーを作っちゃうのも面白い。
ただし、書いてあるコードだとchromeではエラーが出て、firefoxだと単なるテキストになってしまった。なので、簡単なhttpのヘッダーを頭につけてやるとちゃんと動いだ。
この本もOn Lispと一緒で、最終目標はマクロでDSLを作ること。それこそがやはりLispの魂。
この本ではSVGを生成するDSLを作って、それをwebブラウザで表示してゲームを作ってる。
しかし感動したのは、簡単なマクロを使って遅延評価を取り入れ、非常にエレガントにゲームのアルゴリズムを作ってること。
ゲームの木を全て表現するデータ構造を使って、あとは遅延評価を取り入れれば、出来上がり。
もちろんより良いレスポンスを求めたければ木の無駄な枝を刈り取る必要がある。
予想以上に伝統的なAIプログラミングだ。
On Lispには書いてないようなformatやloopの話が載ってるのも面白い。ポール・グレアムはloop嫌いだしね。
loopとformatの黒魔術をガンガン使ったショートコードゲームはめまいがする。
ただし、書いてないことも多い。CLOSについてはコミックに書いてあるだけ。packageには触れもしない。マクロについても最後に重要な役割を果たすけど、ちゃんと書いてあるとは言い難い。

『実践Common Lisp』も実践の名に恥じぬ本。
特にバイナリを色々いじるのが面白かった。他のプログラミング言語の本でも滅多にバイナリを直接いじることはない。
この本ではmp3ファイルのメタデータを取得して、SQLライクなデータベースを自作してる。面白い。
あとWebプログラミングもできる。その際、htmlを吐き出すテンプレート言語を自作する。面白い。
やはりこの本も目標はマクロを使って、バイナリデータを表現するクラス階層表現言語やデータベースへのクエリ言語やhtml生成言語などのDSLを作ること。ここにもLispの魂。
この本もloopとformatについては詳しく書いてある。
さらにpackageについてや、eval-whenなどの高度な機能についても説明してある。
実際に製品を作ろうとすれば必要になる知識だろう(しかし、まだ外部のパッケージ管理等、現代的なエコシステムには必要なものが欠けているが、これはここ数年で進歩した部分なので、書いてないのは当たり前だ)。
しかし、欠点としては、高度が全く関数型的ではないことだ。何でもかんでもとにかくloopで書こうとする。そもそも再帰に関する説明が全くない。

次は『実用Common Lisp』を読むぞ

On Lispを読み終わった

On Lisp
ポール グレアム
オーム社
2007-03-01


面白かった。
途中から「ポール・グレアム頭いいなあ!」と思うだけの本と化している気配はあるが、とにかく流れを追っていくと、ポール・グレアムが頭がいいことがわかる本だ。
Lispのマクロをガンガン書いてくれる本というのがそもそも貴重である。そして、ポール・グレアムがマクロを駆使して、分配束縛、パターンマッチ、非決定計算、擬似prologによる簡易論理プログラミング、ATNによるパーサ、簡易オブジェクト指向、などを短いコードでどんどん実現していく。
これはめくるめく体験と言って良い。
これを読んでLispのマクロが書けるかと言われると微妙である。実際に書こうとするとまた苦労しなくてはいけないだろう。
実際この本はマクロを教えてるというより、ポール・グレアムのマクロカタログ、と言った方がいい感じになっている。あんまり教えてはくれてない。
でも、Lispを問題領域にぴったり寄り添った言語(DSL)に育てていく。そのためのLispの上にLispを置いて、抽象化の層をどんどん追加していく。というLisp独特の考え方は学ぶことができる。
そして何より一番はマクロの力を知ることができる。
自分で素早くマクロを書くことはできなくても、この本を読んでおけば、「これってポール・グレアムが賢く解決してたタイプの問題だよなあ」と気づくことができる。
そうするとマクロを試してみようとするし、そうすればマクロを書く苦労もできるし、マクロを書く能力も上がっていくという寸法だ。
マクロの書き方を教える正しい方法って、もしかしたらまだ開発されてないんじゃないか、って気もする。

ここから、Lisp本をとにかく読んでいって、どこかに書評をまとめよう。
そして、いつか自分でLispの本でも書こう。

経営者の資本主義とは実は社会主義なのかもしれない


これは歴史学者が、最近様々なところで猛威を振るう「測定と評価」について書いた本だ。
例えば大学改革で、研究の効果をインパクトファクターとかなんやかんやの指標を測定して評価して、予算を与える。
よく聞く批判では、学者は本当に良い研究ではなく、指標がよくなるようにチューニングされた研究をしようとしてしまうし、指標をあげようと不正をしたり、そもそも数字を改竄してしまったりする。
そしてそもそもそのような「測定と評価」によって研究業績は伸びていないし、下がりさえする。
更に言えば、もともと測らなくてよかった数値を測定するために、研究者たちに追加の雑務が与えられ、研究する時間を削いでしまう。
最後に、研究者はそのような目先の評価を求めて研究しているわけでは必ずしもないので、そのような評価づけは、研究者のモチベーションを下げたり歪めたりする。
etc...
と言う感じだ。そしてこれは著者の実感でもあり、そこで著者は教育・医療・警察、などの公共性が高く、そして同じように近年「測定と評価」の方法論が導入された他のジャンルについても事例を集め、どこでも似たような問題が発生していることを突き止める。

さて、そう言う意味ではこの本はひたすら事例を集めた本だ。私などはこの手の本は少々退屈だったりする。しかし、私がこの本を結構好きな理由は、この本には実に良質なアイロニーが含まれていることだ。それは、これらの「改革」が、市場から離れた分野に対して「経営者の視点」を取り入れようとしていることだ。
市場が導入できるジャンルであれば、市場が勝手に最適化していくので、滅多に間違ったことは起きない。
しかし、これら市場の導入が難しい公共事業では、どうしても無駄が多い。
そこで市場の申し子である「経営者の視点」を導入すれば、無駄が省けるだろう、と言う発想だ。
そして、「経営者の視点」を導入した結果、教師や学者や医者や警察官の行動を監視し、測定し、ランクづけをし、能力給をあげたりペナルティを与えたりする、と言う手法が導入される。
確かに経営者ってこう言うの好きかもね。従業員を監視したがるし、従業員を評価して、ボーナスをあげたりペナルティをあげたりすれば、頑張って働くと思ってる。数人知ってるよ。
しかし著者はこれに、とてもクリティカルな寸評を与える。
「それって社会主義ってやつでは?」
これは一級品のアイロニーだ。憎んだ相手から離れよう離れようとした結果、その憎んだ相手と見分けがつかないくらいそっくりになってしまうとは。
でも、笑ってる場合じゃないかもしれない。
これはこの本に書いてある話じゃなくて、僕が勝手に考えている話だけど、ここには何かもっと普遍的なものがあるかもしれない。
何が言いたいかと言うと、経営者の多くって資本主義の申し子ではあっても、実は資本主義を全く理解しておらず、彼らの考える資本主義って、実はミニ社会主義なのかもしれないってことだ。
資本主義は統計的現象であり、そして統計を理解している人は少ない。
資本主義的に見れば、ある成功した経営者が、成功した理由は偶然と見たほうがいいかもしれない。偶然、と言う言葉の意味は、同じその「成功した経営者」が成功していない可能世界が想像しやすい、と言うことだ。
資本主義にとって、いくつもの経営者がランダムに動いてくれれば、その中から偶然1つが、その状況下で正しい選択肢にたどり着き、生き残ればいい。そうしてある程度無計画に広く問題空間を探索できることが資本主義の強みだ。
この時、たまたま偶然正解にたどり着いた経営者は、自分が成功した理由を理解しているとは限らない(と言うか多分理解していない)。
ところが、当の経営者にとってはこの世界での彼の成功は、必然的で絶対に変えられないものに見えるかもしれない。そして自分が成功した理由を、彼がたまたまその時考えていたことが正しいからだと勘違いするかもしれない。
そんなか彼にとっての資本主義は「俺が様々な情報を評価して、俺の考える通りに進めばうまくいく」である可能性が高い。
そしてそれって社会主義の計画経済だよね、って話になる。
経営者が一見社会主義を嫌うのは、それが国家という「ビジネスのわかってないやつの社会主義」だからであり、そして「わかってないやつ」が彼の邪魔をしようとしてくるからに過ぎない。
「わかってないうえに邪魔してくるやつらの社会主義」は嫌いでも「自分の社会主義」は嫌いじゃないのだ。
これからも、人類はたまたま成功した経営者とかに色々な舵取りを頼み続けるだろう。
その度に、人類は同じ轍を踏む可能性がある、

ガストン・バシュラールの傑作通俗科学哲学所『科学的精神の形成』

最初に断言しておく。批判的なこともちょっとだけ書くが、これはめっぽう面白い本で読む価値がある。

ただ私がこの本を面白いと思う理由は、私の読書経験に由来するがゆえに、多くの人の理由とはずれるかもしれない。

この本は17世紀から18世紀の通俗科学書を徹底的に読み込み、その主張や特徴を述べながら、批判的に紹介する本である。
まずこの本の面白さの源泉は紹介される通俗科学書の面白さである。
静電気でほこりが引っ付くから静電気は糊だ、みたいな話を筆頭に、静電気を使って紙の人形を立ち上がらせてダンスさせて、「これが生命の誕生だ」などと語りだしてしまったりと、なにやら『トンデモ本の世界』めいた活況を呈している。
ただバシュラールの筆致はあくまでまじめで、これらの今から見ると奇妙な科学もどきに対して、まっとうな分析を試みている。
例えば、「希少価値を実質価値と見誤っている」という分析は、当時の医学書が必ず宝石の効用について語っているという事実に関する分析である。いわゆるパワーストーンであり、この愚劣な信仰は今もなお続いている。
また当時のアニミスティックな現象理解の仕方が、今でも人間のデフォルトな理解方法であると断じて、それを教育の問題につなげた、「教師は生徒の頭を空っぽの白紙だと思っているが、生徒の頭の中は空っぽではなく、間違った知識が詰まっているので、それをどうにかしないと話が始まらない。浮力の実験を見た生徒は誰も『水が押したから木片が上に上がった』などと思わない。『木片が上に浮かぼうとした』と考えるのだ」という指摘は、今現在も当てはまる。例えば吉田甫『学力低下をどう克服するか』では、子供が日常の中で自然に手に入れる計算能力を理解せずに、それと関係なく計算を教えようとすることにより子供の能力が破壊されているという結構衝撃的な報告が載っている。これも子供の精神を空っぽの白紙と考えてしまうことの弊害であり、バシュラールの批判は教育を詰め込みではなく、日常生活で得た知識の再構成と考えるべきだという提言ととらえることもできる。
また上の浮力の話からつながるが、「当時の通俗科学書は物理の言葉ではなく、生物の言葉に帰着させることを最終目標としている」という分析も面白い。
今も「励起=excited」などの言葉に残るが、当時はこれらは文字通り「興奮している」ことを意味していた。静電気などによって、無機物がざわざわと動き回っている状態は、生命なき物質が「興奮している」のであり、すなわち生命なき物質が「生命化」されている、と受け止められることが多かった。冒頭のように、静電気による小さな人形のダンスがいとも簡単に生命と解釈されてしまうのは、こういう世界観を背景に見ればわかりやすい。
当時は世界の基底に「生命的な現象」がある、言い換えると世界の基底的な構造は「生命に関する言語」でうまく語れる、と信じられていたようだ。
初期の生物学で「原形質」のような「生きている物質」が信じられ、初期の進化論ではこれが生命の祖先だと考えられたり、有機化学で「生命力」がなければ有機化合物は作れないと考えられていたりしたのも、ガルバーニにおける動物電気もメスメリズムにおける動物磁気も、今となってはバラバラの事象に見えてしまうが、背景となる世界観を共有している。なぜ漫画において目を見るだけで催眠術にかかってしまうのかも、同じ地下水流が続いていることを把握していないと、理解することは難しいだろう。
これは何も17世紀・18世紀に限った話ではなく、古代ギリシャ哲学やストア派の哲学を学んだものは誰でも、世界を生き物のように理解したり(種子的ロゴスというやつがその一種だ)、様々なものを生物的な言い方で把握しようとしたりするのが、とても一般的だったことに気付くだろう(アリストテレスの哲学も彼が生物学を主戦場に研究していたことを抜きには理解しきれない)。
そして今でも、科学の専門教育を受けたものでもなければ、相変わらず世界を生物の言葉で理解しようとするのだ。
これは自然だ。なぜなら我々は普段、多くの時間を人間を代表とした生き物と過ごしているからだ。
しかし19世紀以降の専門化した科学の中で、我々は様々な事象を生物の言葉に翻訳しようとしてことごとく失敗した。対して、物理の言葉に翻訳するのはたくさんの成功例がある。
相変わらず一部の人間は生物の言語に拘泥したりはするものの、科学界の趨勢は今のところ決まっている。
私にとっていわゆる「物理主義の哲学」とは以上のような経験則であり、ある種の哲学者のするような規範的な議論で覆されるものではない。覆すとしたら経験的な証拠だけである。私には哲学者の議論が、物理主義が経験則であることを理解しない議論か、もしくは経験則を「哲学」と呼ぶことへの反感にすぎないように見えることも多い。
バシュラールのこの本は、学問の基底言語がだんだんと生物から物理へと移っていくその過程を我々に教えてくれているようで、とても興味深い。

しかし、私がこの本で一番面白いと思っていることは上記の点ではない。それはこの本の議論をこの本自体に適用することが可能な点だ。
この本でバシュラールが一番いいたいことを乱暴に要約すると「科学ってのはこういうものではない」という点だと思う。
バシュラールはこれらの通俗科学書を紹介しながら、なぜこれらが現代的な意味での科学ではないかに答えを出そうとする。
そのために、これらの通俗科学書の特徴を上げていく。
・面白い実例がたくさん載っている。
・日常に役に立つ情報がたんまり載っている。
・結果としてこの本は専門的な科学書に比べてとても楽しい読み物になっている。
そこから逆にこれらの本に書かれていないことは何かということが浮かび上がる。
それは例えば、適切な抽象化、適切な形式化である。
バシュラールの鋭い指摘の一つは、ケプラー以前の天文学において、楕円は円の崩れたものであって、決して円が楕円の一種と見られたことはない、というものである。
それまではガリレオですら、天体には円運動をする本性が備わっていると考えていたし、コペルニクスもあくまで円運動にこだわった。円こそ完全な図形である以上、円運動の一般化としての楕円運動など想像もされなかった。この思考法がギリシャ以来の伝統だったのだ。
それを乗り越えるためには、別の形式化が必要だったのだ。想像をたくましくすれば、ケプラーやニュートンは世界を数学で記述しようとする傾向が強かったことが重要だったのではと思える。円や楕円を数学的に記述するために厳密な定義を与えようとすれば、どうしても円は楕円の特別な場合になる。たとえ数式で表そうとしなくてもアポロニウスの円錐曲線のレベルでもそれは明らかだ。
科学を正しく運用するためには、いつでも正しい抽象化、正しい形式化は何か、という問題に目を配らなくてはいけない。バシュラールは単に事実を並べるだけで、なんの抽象化も行おうとしない通俗科学書から、逆にその教訓を取り出す。
この指摘は現代にも届く。今でも訓練を受けなければ、我々は日常言語の抽象化とは別の抽象化がありうることにすら気づけないのだ。それは例えば小学校教育において、ひし形は平行四辺形か、長方形は正方形か、などという妙な議論がいまだにされていることからもわかる。

しかし、ここでこの本の全体について振り返ってみよう。この本、『科学的精神の形成』はどんな本であろうか。
・前時代の通俗科学書についてたくさんの面白い実例が載っている。
・そこから科学について考えるために役に立つ教訓がたくさん書いてある。
・結果として現代的な小難しい科学哲学の本よりもずっと楽しい読み物になっている。
これは何かに似ていないだろうか。そう、これはこの本がネタにしている通俗科学書に似ているのだ。
そしてこれらの通俗科学書と同様に、この本では科学とは何かについて役に立つこまごまとした教訓はあるものの、それを俯瞰的に眺めるための適切な抽象化、適切な形式化をしようとしている節は全くない。
バシュラールが科学哲学が科学足りうる、または科学であるべきと考えていたかどうかは私は知らない。そんなこと考えたこともない気がするし、訊いてみたら否定的に答えるような気もする。しかしもしそれらの問いに肯定で答えるならば、バシュラールの批判はこの本自体にまっすぐ刺さることになるのだ。
時々その本で提示した分析手法が全くその本に適用可能な本というものがある。有名なところではフロイトの『精神分析入門』こそがフロイト的に精神分析が必要に見えることだが、私のお気に入りは、ノースロップ・フライの『批評の解剖』である。かつて偉大であった神話がロマンス、悲劇、喜劇、アイロニー、とだんだんと凋落するものの、再び神話として再臨するというジャンル論は、20世紀最高の神話だと思っている。
閑話休題
バシュラールの本はやはり素晴らしい。科学について考えるときに、科学の歴史について無視することは絶対にできないことを教えてくれる。
これはクーン以降の科学哲学の流れとも合致していると思う。抽象化・形式化を目指した英米系の科学哲学は大陸系の歴史学的なエピステモロジーと合流して、その違いはあまりなくなってきている感じがする。
これはバシュラールが考えた科学への道とも一致する。やはり適切な抽象化・形式化こそが肝要なのだ。様々な行き止まりにぶつかりながらも、一度論理実証主義を経由することが科学哲学にとって必然だったと私は思う。
しかしバシュラール自身はその道を歩まなかったことも強調しなくてはいけない。バシュラール自身の科学哲学は専門的な科学哲学にはつながっていない。
この本は通俗科学に関する哲学書であると同時に、通俗的な科学哲学書どまりなのだ。それをそのまま専門的な哲学につなげようとする道は行き止まりだ。
それは決して否定的な評価とばかりは言えない。
通俗科学書には専門的な科学書にはない役割がある。それと同じように通俗的な科学哲学書、そして通俗的な哲学書にも、専門書にはない役割があるはずだ。
専門的な学問はどこまでも一般性を目指す役割がある。しかし一般性を目指した結果、どうしてもそこからあふれ落ちてしまう個別的なものがある。
その結果、どうしても専門的な学問は、そのままでは日常に応用しにくい形になることも多い。
もちろん長期的にはそれら一般化に乗らなかった個別的なものも、より高度な一般化によって拾われると信じたいし、私は信じている。しかし、長期的に言えば我々はみな死んでいるし、人類は滅亡している。長期的な話では現に困っている人を救えない。そこで専門的な科学が拾えなかったものを救う、現場に密着した実践的知が必要とされる。通俗科学もその一端を担うものの一つととらえられる。
そしてこの役割を果たすためには、その専門的科学と通俗科学の間の違いを、書くものにはしっかりと、読むものにもある程度は、意識されていないといけないと思うのだ。
バシュラールの不幸の一つは、通俗科学哲学であったものを、何を間違えたか専門的な哲学であると勘違いして読まれ、その影響を受けてしまった者があらわれてしまったことかもしれない。
それは多分彼らがマーティン・ガードナーの『奇妙な論理』や『トンデモ本の世界』を読んでいないことが原因かもしれない(と半分冗談で言ってみる)。どちらも科学哲学を志す者に読んでほしい(科学を志す者にももちろん読んでほしい)本ではあるが、これ自体は科学哲学の専門書ではありえない。評価するための軸が全然違う。



同じようにこの本も科学哲学を志す者、科学を志す者にぜひ読んでほしい本である。科学に関してはともかく、科学哲学や科学教育に関してはアイディアの宝庫なのではないかと思ってる。
ダメなのはこの本に影響されて、この本の手法を一般化して科学哲学をやろうとすることである。その前に、戸田山和久やソーバーなどをちゃんと読んでほしい。

科学と証拠―統計の哲学 入門―
エリオット・ソーバー
名古屋大学出版会
2012-10-20


そして、できればもう少しライトで非専門家も気楽に読めるちゃんとした通俗科学哲学書、専門知へのリスペクトを失わず、そのうえで自分たちに何ができるか真摯に考えてしかも面白い通俗科学哲学書が欲しいね。
通俗と専門の間に正しい良い関係が築かれることを切に願うよ。

『パヴァーヌ』のヨーロッパ中心主義 及び 歴史の必然性について

『パヴァーヌ』は宗教改革がカトリックに潰されたヨーロッパにおいて、科学や技術、商業などの発達がキリスト教によって抑えられながらも、人々が強く生きていく様を説得力をもって描きだした歴史改変物の傑作である。
パヴァーヌ (ちくま文庫)
キース ロバーツ
筑摩書房
2012-10


内燃機関に取って代わられることなく発達した蒸気機関や腕木信号などの、現実には花咲ききらなかった技術に関わる人々の現実的な描写はディティール豊かで、読んでいて楽しいし、そこに人が生きている感じがする。
圧政の元でも知識を伝える草の根組織や人の根元に根ざした自由への欲望が遂に狭い世界をひっくり返すのも気持ちがいい。
ただ最後の科学技術に対する二面性に関するメタ的な(ナチスまで持ち出して実際の歴史を参照する)文章は蛇足だし、入れるならちゃんと物語に組み込むべきだ、という話はまあいいとする。
読んでいて気になり、今回の話の導入にしたいのは、「なんかものすごく自然に世界がヨーロッパだけだと思ってない?」という点だ。
話の筋がヨーロッパ中心なのは当たり前なので仕方ないとはいえ、世界史的視線を持とうと思えば、世界観の根幹にアラブや中国が微塵もないのはどうかと思う。いったいこの世界、ヨーロッパが長い惰眠を貪っているあいだ、広大なアジアの諸国は何をしていたのか。
そう考えると、この小説の世界観の根幹には何か欠陥があるようにも思えてくる。
しかしそれをちゃんと問おうとすると、「なぜヨーロッパに近代科学が生まれ、アラブや中国では生まれなかったのか?」という難しい問いまで引き受けてしまうことになるから厄介だ。
いくつかの答え方があるだろう。ジャレド・ダイヤモンドは『銃・病原菌・鉄』で中国ではなくヨーロッパで近代科学が生まれたのには、世俗の権力が分散していたからではないか、と仮説を出している。


中国では唯一の世俗の権力の中心である皇帝の命令で、簡単に科学研究が圧迫された。しかしヨーロッパは当時群雄割拠状態で、だから科学が権力からの圧力をあまり受けなかったのだと。
しかしこの考え方でアラブが近代科学を生まなかった理由が説明できるだろうか。
また反対からの答え方もある。山本義隆は『16世紀文化革命』で、科学革命の前に出版革命があり、宗教の権威だけでなく、市井の技術者までが出版で持っている知識を発表できるようになったことを描いている。
一六世紀文化革命 1
山本 義隆
みすず書房
2007-04-17


ではなぜそれほど印刷技術が普及したのか。それはその前に宗教改革があったからだ。ヨーロッパでは中世後期からワルド派異端やジョン・ウィクリフの運動など、聖書を民衆の言葉に翻訳しようという運動がかなりあった。それはカトリックの権威から真理の源泉である聖書を自分たちのものへと奪いかえす意味があった。
パキスタンの科学者フッドボーイはイスラム圏では印刷技術自体はあったが、それでコーランを印刷しようとは考えなかったと言う。手で写したものでないと聖性が宿らないと考えたのだ。
イスラームと科学
パルヴェーズ フッドボーイ
勁草書房
2012-01-31


しかしもしかしたらそれ以上にイスラム圏にはカトリックに当たる統一的な宗教権威が存在しないことが、作用しているのかもしれない。聖なる言葉を多少の乱暴狼藉しても取り返さなくてはいけない相手がいないのだ。
この考え方では世俗と宗教との違いはあれど、抑圧的な権威が近代科学の誕生にプラスと効果を果たしている。
より偶然的な因子を考えるなら、ちょうど良いタイミングのアメリカ大陸への到達があるかもしれない。16世紀文化革命以前の学問は全て結局は古典の注釈である。正しい知識とは古い本に載っている知識である。文化というものは古ければ古いほど進んでいて正しい。
それがかつての我々全てが共有する基本的思想だった。ルネサンスとはその最たるもので、古くて偉い文化に帰ろうというものだ。決してルネサンスは科学革命の前段ではない。歴史は蛮族の進入による文化凋落と古い文物の再発見によるルネサンスの繰り返しだ。その連鎖を断ち切ったのが16世紀文化革命と17世紀科学革命なのだ。
そのあいだに横たわるのが「古いものが正しい」という常識の打破だ。フッドボーイは未だにイスラム圏ではこの常識が残っていて、丸覚え教育へと繋がっていると書いている。そして宗教改革はここにおいてはなんらプラスの効果は及ぼしてはいない。
ここで重要なのが、おそらく山本義隆が描いた市井の技術者たちによる出版ブームなのだろうが、アメリカ大陸における文化や生態系の報告はその大きな源泉の一つだった。
これによりヨーロッパは初めて聖書に一切記述のない自然や文化と大量に出会ってしまったのだ(往生際悪くアメリカ大陸にヘブライ人の幻を見ようとした人間も多いが)。新しいものの波がルネサンスを押し流した。もちろんルネサンスが起きて文化的に発達した状態だったのが受け入れるための準備になっていたのであろうが。
ここまでを乱暴にまとめると、「近代科学の誕生にはいろいろな偶然の要素が絡んでいる」という面白くもなんともないものになりかねないのだが、分かることは、確かに当時のヨーロッパが近代科学の誕生の場として他より良い状況にいたことは確かだとしても、決してヨーロッパだけにしか起き得ない状況ではないはずだという事だ。
もしヨーロッパが惰眠を貪れば、人間の抑えきれない本能により、それまで沈滞していた歴史ある国の人々がむくりと起き上がって宗教的世俗的圧迫に打ち勝って世界をひっくり返していたであろう。その結果人間が幸せになるかどうかなんて御構い無しに。
最近の研究によれば、狩猟採集民は半日仕事をすればあとは遊んでいても生活ができ、食生活から自然に産児制限も出来て相当豊かだったらしい。狩猟採集民は農耕を知らないのではなく、知っていてもメリットを感じられないのでしないのだ。


もちろん環境が変化すれば死ぬしかなく、場合によっては絶滅するかもしれない。そうすると新しい種がニッチに入り込むだけで、自然界ではじっと起きていたことに過ぎない。しかし人間は変に知恵があったから、農耕なんか始めちゃって、おかげで人類は「技術発達→生産量増加→人口増加→環境悪化→生産量減少→人口減少→振り出しに戻る」という狩猟採集生活より貧しくなってから一万年近く全く生活の向上に繋がらなかった生死を賭けた発明と努力のループに陥ってしまった。ここに戦争など各種競争のファクターを加えれば、このプロセスは事実上不参加の揺らされないものとなる。人間は遺伝子進化の軛から離れ、崖を岩が転げ落ちるように文化進化の断崖絶壁を転げ上がる。人類の生活レベルが向上したのはたかだかこの二三百年に過ぎない。
これからも人間の技術は発達し続けるだろうがそれは我々の幸せと直接的関係はない。幸せになる確率の方がもちろん高いし、ここまでの成果は死亡率の低下といい自由度の飛躍的な向上といい目を見張るものだが、今後ともずっとそうとは全く限らない。しかしだからと言って我々にこれを止めることなどできないのだ。このプロセスにおいて個人にできることはかなり限られている。生物学と経済学の陰鬱な最適化の波に翻弄されるしかない。
『パヴァーヌ』において遅かれ早かれ世界はひっくり返ってしまったように。ひっくり返る前の世界だっていろいろ困ったところはあったけど、それなりに良いものだったのにね。
でも『パヴァーヌ』の登場人物がみんな単に翻弄されるだけの存在じゃなかったように、全く何もできないわけじゃない。
そして何ができるかを見極めるためには、自分が通ったあとに残していく廃墟を見つめながら後ろ向きに邁進する歴史という名の天使をしっかりと見据えなくちゃいけない。そのなかで我々が主人公ではないということも含めて。この世の中を動かしているのが、英雄などの個人の意思決定などではなく、冷徹な最適化のプロセスだと理解すれば、最適化のパラメータをどうにか変化させて少しでも望みの結果に近づけるという方針が立つ(もちろん歴史に必然性も普遍法則はないというポパーの小言を胸に刻み付け続ける必要性は忘れないこと)。
おそらく、私が思弁的SF小説というものに一筋の希望を見るはここら辺が理由なのだろう。
小説とは基本的に個人主義の宣伝ジャンルであるが、思弁的SFは対照的に「人類」を主人公に据えることが可能なものだからだ(『幼年期の終わり』を読もう)。個人という様々な物質の四次元の時空ワームの成す結び目を世界観の中心に据えるのに私は限界を感じている。しかし我々が「個人」という視点を捨てることはおそらくない(集団的知性を意思決定のベースにするのは、情報の伝達速度の面から言って判断のタイムラグが大きすぎ非効率であろう)。
思弁的SF小説は人類全体と個人のバランスをとりながら、あるのかないのかもわからない着地点を想像させてくれる。『パヴァーヌ』もそんな、架空の歴史を振り返ることで未来に思いをはせさせてくれる、いい小説であった。
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