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映画

『サタンタンゴ』を見た

7時間半の映画
感想を書きたいけど今はとにかく尻が痛い

本当に復讐が何も生まないジャッキー映画『フォーリナー/復讐者』(ネタバレなし)

先日映画館で、『フォーリナー/復讐者』を見てきた。ジャッキー・チェンが終始死んだ目の復讐者を演じることで一部で有名になった映画である。
なるほど、ジャッキーの目は死んでた。最初の方で少し笑顔はあったものの、それも非常に静かな笑顔で、いわゆる「ジャッキー映画的な笑顔」ではなかった。
しかしそれ以上に、とても感銘を受けた点がある。
この作品において、「復讐が何も生まない」ことである。
ネット上で『「復讐は何も生まない」と言って、復讐譚に水を差す人物を揶揄する人がいる』という言説を私は何度か見た。
私は正直、物語をそれほどたくさん享受しているわけではないので、「復讐は何も生まない」を復讐譚に水が差される物語の例をすぐには出せない。
それと、ネットもそれほど享受していないので、『「復讐は何も生まない」と言って、復讐譚に水を差す人物』もあまり見た覚えがない。
『「復讐は何も生まない」と言って、復讐譚に水を差す人物を揶揄する人がいる』という言説は見た覚えがある。
しかし、1つ言えることは、多くの復讐譚において(たとえ作中で「復讐は何も生まない」という主張がなされていようと)、復讐は何かを生んでいることである。
正の方向か負の方向かはともかく、状況を何らかの意味で動かす。それが物語を動かすからこその「復讐譚」のはずだ、普通は。
私も実は小説を書いたりするが、もし復讐をテーマに話を書いたら、素朴に「復讐が状況を動かす話」を書いてしまうと思う。
なので、『フォーリナー/復讐者』には感動した。そして、これを読んでいる人はぜひこの映画を見て欲しい。
この映画でジャッキーは復讐をしようとする。しかし、ジャッキーはほとんど(ほんの、ほんの一部を除いて)、状況を動かすことができない。
ジャッキーは復讐の相手ではない相手をひたすらさいなみ(この人が本当にかわいそうなので見て欲しい)、殺さなくても死んでいたであろう相手を殺す。
大きな状況はジャッキーとは全く関係ないところで動く(フォーリナー、という題がここで生きてくる)。
そして、ジャッキーと関係ないところでも、復讐が復讐を呼ぶ「復讐の連鎖」が起きている(先ほどのかわいそうな人は、ジャッキーの復讐と復讐の連鎖の両方に巻き込まれていて、とてもかわいそうなのだ。自業自得とはいえ、本当にかわいそうなので、本当に見て欲しい)。
ジャッキーの状況を一切変えない復讐の何も生まなさが、状況を変えようとしている復讐が、状況を変えているように見えて、実は何も生んでない様子を際立てているようでもある。
「復讐は何も生まない」という主張をする登場人物が嫌いな人も、「復讐は何も生まない」と本当に考えている人も、「復讐」が好きな人も、みんな見て欲しい。
物語においてはやはり主張するな、示せ、ということだろうか。

『鑑定士と顔のない依頼人』 正しい相手と恋に落ちた悲劇

色々考えたので書いておこう。
作品の核心についての情報を含むので、そこのところはご注意を。動画サーヴィスなどでもよく配信されているはずなので、ぜひ見てほしい。

 
この映画の主人公ヴァージルは、凄腕の老鑑定士である。冒頭のレストランでの一人での食事風景(潔癖症を表す手袋、レストランの出した誕生日のお祝いへのそっけない態度)にあらわされるように、孤独な人間である。
人付き合いより、絵画と付き合っていたほうが性に合っている人間。顧客を騙して貴重な絵を贋作だと偽り安く値をつけ、それをオークションに出して友人の画家ビルに買わせて回収をしたりしている。
そして彼以外だれも入らせない秘密の部屋に、大切な肖像画のコレクションが壁一面に展示されている。
その彼が恋に落ちるのがこの映画の主な筋書きだ。
彼に依頼が入る。両親の残した美術品の売りたいからカタログを作ってほしい、と。ヴァージルは最初は断るものの、しぶしぶ依頼を受ける。しかし、依頼人となかなか会えない。この時点でプライドの高いヴァージルは怒りを感じる。
依頼人のクレアは一切人と会わないという。一面に立体的な風景が描かれた壁から出てこない。声だけが聞こえる。なんともばかげた話だ。
ヴァージルは建物の中の美術品を鑑定していく。その中で地面に落ちている不思議な部品に気づく。歯車だ。なんだろう。ヴァージルの好奇心が刺激される。
ヴァージルは知り合いの修理屋にそれを持ち込んで、復元させる。それはどうやらオートマトン、自動機械人形のようだ。
それはヴァージルの大学時代の研究課題でもあった。ヴァージルは次第にこの件にのめりこむ。
同時にヴァージルはクレアと何回も会うことで、彼女自体に興味を持ち始める。ヴァージルは隠れて彼女の顔を見ようとする。若い、魅力的な女性だ。老ヴァージルは若いクレアに恋に落ちてしまったのだ。
様々なすれ違いや危機を乗り越え、恋は成就する。彼は初めて女を知る。彼の老いた肉体と若い美しい肉体を並べたベッドシーンは、冒頭にヴァージルがしていた手袋と対比すると趣が深い。ヴァージルはそれまで誰も入らせなかった秘密の部屋にクレアを入れる。そしてヴァージルは鑑定士を引退することに決意する。これからは、クレアのために生きるのだ。
そして、すべてがうまくいったと思った瞬間。すべてが反転する。クレアは彼の目の前から消える。彼の大切な肖像画コレクションとともに。そこにはあの復元された自動機械人形だけが放置されていた。
憔悴したヴァージルは老人施設に入って、無為の生活を送る。彼はすべてを失ったのだ。

さて、私がこの映画でとても感動したのは、ヴァージルが間違った相手に恋をしたのではなく、正しい相手に恋をして、身を持ち崩したことである。それこそがこの映画の悲劇性を際立たせている。
まずヴァージルは鑑定士であり、絵に魅入られた男である。人間よりも絵のほうが好きな男だ。
なぜだろう。ヴァージルは言う。「どんな偽物の中にも真実がある」。この言葉はいわばこの映画のテーマのようなものだ。形を変えながら繰り返し繰り返し現れる。
まずヴァージルは肖像画の瞳の光の描き方が「V」の字になっていることから、それが偽物だと鑑定する。贋作士が自分のイニシャルを潜ませたというのだ。しかし実はそれは本物で、ヴァージルはそれを手に入れるために策を弄しているのだ。「V」はヴァージルのイニシャルでもあると考えると面白い。
そして、ヴァージルはクレアに惹かれるにあたって、まずクレアの家の床に転がっていた自動機械人形に興味を持つ。
それが彼の大学時代の研究課題でもあったからであろう。しかしここにも同じテーマが流れている。ヴァージルはポーが『メルツェルの将棋差し』で語ったトルコ人をはじめとした、歴史上の自動機械人形の例を挙げる。どんな質問にも答える自動機械人形があった。中には小人が入って操作していた。しかし不思議なことに、質問への答えはすべて正しかった。これはまさに「どんな偽物の中にも真実がある」というテーマだ。
さらにクレアは、テラスから庭園の風景が、まるで本物と見まがうような立体感で描かれた壁の向こうに隠れていた。これは「トロンプルイユ」と呼ばれる手法の一種のだまし絵だ。まるで本物と見まがうようなリアリズムで描かれた絵はだまし絵となるのだ。
なぜなら、そもそも絵はすべて偽物であり、遠近法はすべてだまし絵、ということもできるからだ。
なぜヴァージルは絵に魅せられているのか。それは彼が偽物を通した本物にしか没入できない人間だからだ、と言えるかもしれない。なぜ彼は肖像画に魅せられているのか。彼は絵という偽物を通してしか、人間と向き合うことができないのだ。
偽物を通さないただの現実など、彼の趣味ではない。
クレアはそんな彼の為に作られた格好の罠だ。彼はよく作られた自動機械人形があればその中をのぞかざるを得ず、トロンプルイユの壁の向こうに誰かがいればのぞかざるを得ない人間なのだ。
クレアはまさにそのために作られた自動機械人形だ。偽物にしか恋のできない彼がクレアに恋をしたのは必然だったのだ。
結果として彼は、自動機械人形の中に隠れていた小人を見つけてしまった。真実という名の小人を。
クレアの建物の前にあるパブ。そこにいつも女の小人がいる。人並外れた記憶力を持ち、店の客にそれを披露している。そしてパブの窓からすべてを目撃していた。
彼女の名はクレア。建物の本当の持ち主。壁からめったに出ないはずの偽クレアが建物を何度も出入りしているのを正確な日付で覚えている。
彼女は映画の撮影の為と聞いて建物を貸し出していたのだ。ここで「映画」という言葉が出てくるのが少し面白い。おそらく脚本も書いたジュゼッペ・トルナトーレ監督の、映画が作りものであることへの自虐と矜持なのではなかろうか。願わくば、映画という偽物の先にも一抹の真実のあらんことを。
この本物のクレアは、まさに自動機械人形の中の真実を話す小人だ。そしてそれは「偽物の中の真実」なのだ。
ではその真実とは何であろう。それはまさに「ヴァージルとは何者か」ということではなかろうか。つまり「偽物しか愛せない男」であることを、ヴァージル自身が突き付けられた、ということではなかろうか。
どんなによくできた絵であろうと、それは「よくできた偽物」でしかない。その「よくできた偽物」しか愛せないことを、「よくできた偽物」であるクレアによって暴かれたのだ。
実際に暴いたのは彼の年来の友人であり共犯者であるビルだ。ヴァージルが才能がないといつも軽んじていたビル(クレアの母親を描いたという肖像画は実は、ビルが偽クレアを描いた絵だったが、ヴァージルは一瞥して「大した出来ではない」とだけ言ってそれ以降全く注意していなかった。偽物の中の真実を見逃したのだ)。ヴァージルのことをよく知るビルが、偽クレア、修理屋、修理屋の恋人、と登場人物を念入りに配置して、すべての仕掛けを作った。そういう意味では私にはこの映画はビルからヴァージルへの愛憎の映画に思えてならない。
ビルは、いわばこの映画の映画監督だ。映画という壮大な偽物の空間を作って、愛するヴァージルをその罠の中に招き入れた。すべてが作り物の嘘の空間の中に。
ヴァージルが嵌った罠は我々映画を見る者が嵌った罠と同じだ。少しずつ映画という名の自動機械人形の破片を落とし、我々はそれを自分の意志で拾ったつもりになっているが、いつの間にか罠の中にどっぷりつかって正しい判断ができなくなり、最後に偽物に恋をしている自分という真実を突き付けられる。ヴァージルと違って我々はすべてを失わなくて済むだけ幸せだ。
ビルが作ったこの空間こそが自動機械人形であり、自動機械人形の中の小人、とはヴァージルのこと、と考えると、なぜ老人施設でヴァージルがぐるぐる回るアスレチック機械の中に入れられていた理由もわかる。
そして最後のシーン。チェコのカフェ「night & day」。偽クレアが語っていた思い出の場所をヴァージルは訪れる。歯車だらけの時計カフェ。そのカフェの実在は、偽クレアという偽物が語った嘘ばかりの思い出話の中から見つけた、数少ない真実。ここでも「偽物の中の真実」。そして歯車。このカフェは自動機械人形でもある。歯車の中で一人座るヴァージル。彼は「自動機械人形の中の小人」だ。
そして彼は店員に「人を待っている」という。映画の冒頭とは全くの逆だ。
自分という真実を突き付けられ、誰も来ないことを知りながら、それでも彼は存在しないクレアを待つしかない。彼は存在しないものにしか恋ができない男であり、存在しないものを待つことしかできない男だからだ。まさにそれこそ彼が突き付けられた真実である。
我々はどうか? 我々は何を待ってる? それが存在するものだと自信を持って言えるだろうか?
監督がこの作品をハッピーエンドだといったらしいが、なかなかひねくれた意味で、というほかない。なるほどヴァージルも我々もビルと監督の手ほどきで、偽物の中の真実にたどり着くことが、自動機械人形の中の小人を見つけることができた。それがどんなに見たくない真実、自分という名の醜い小人であろうと、これはなるほどありうる唯一の終わり、という感覚が持てるものだ。

いい映画だった。

フランソワ・オゾン『焼け石に水』 開かない窓と無意味という意味の充満した世界について

フランソワ・オゾンの『焼け石に水』を見て、そのラストシーンに感動したので、書き留めておこう。ネタバレしたからどう、と言う作品ではないが、(ボヤかしてはいるが)軽くネタバレしているので、そう言うの嫌で、この作品を今後見る予定のある人はご注意をば。
焼け石に水 [DVD]
ベルナール・ジロドー
パイオニアLDC
2003-01-24



この映画はドイツの映画監督ファスピンダーの19歳の時の未発表の戯曲を元にしたという映画だ。ストーリーは簡単、というかほぼ存在しない。

一人の青年が結婚を考えているガールフレンドとのデートをすっぽかしてセクシーな中年男性の家を訪れる。そこで青年は精神の不安定さを露呈させながらも、中年男性とベッドインする。
次の幕では二人は同棲している。優しそうに見えた中年男性は、青年に対する暴力的で支配的な態度を隠さない。彼の言葉は、自分は彼がいなければ何もできないダメな人間なのだ、という劣等感を青年に刻みつけて支配しようとするものだ。
二人は罵り合いの喧嘩をしながら、まだベッドインする。
そこへ、中年男性の昔の恋人で、モロッコで性転換したという元男性の女性と、青年のガールフレンドが現れる。
青年とガールフレンドは中年男性のベッドでセックスして、中年男性から逃げようとするが、見つかってしまう。ガールフレンドは中年男性の色気にメロメロになり、中年男性の昔の恋人と3人でベッドイン。しかし中年男性は若い女ばかり抱くので、昔の恋人はつまらない。

そんな感じで、大したことは何も起こらない。
登場人物達の会話と、刻々と変わる力関係は丁寧に演出されている。
リアリズムを感じる。
でもだからなんだ、と言う気持ちも起こる。
登場人物にはなんの目的もない。大した考えもない。なにも考えずに、なにも目的を持たず、ただ快楽のみを求め、そして最後に登場人物の一人が死ぬ。特になんの意味も、なんの考えも、なんの目的もなく。
ただなんとなく死ぬ。
登場人物達はそれなりのショックを受けるが、電話の向こうにいて画面に出てこない今にも死のうとしている人間の母親も含めて、皆妙に無感動だ。多分セックスと快楽は続く。
この世界において、いくら人が死んでもセックスと快楽は続くように。

リアリズムはリアリズムでも、身も蓋もないリアリズムだ。

終盤に至り、私の心は深く沈んでいた。こうしてこの映画は終わるのだ、ただのなんの意味もない何にも面白くない人生の縮図を見せられて。特にオチもなく。
人生になんのオチもないのが普通なように。

そう思った瞬間だ。

登場人物の一人が窓を開こうとしたのだ。
しかし窓は何かに引っかかって開かなかった。
そしてカメラが引いていき、窓を開けることを諦めた人物を遠くから映しながら、この映画は終わってしまった。

ただそれだけだ。

だが、私は感動していた。

なぜその登場人物が窓を開こうとしたのかは分からない。
死体があるので気分が悪くなって、空気を交換しようとしたのかもしれない。
この映画の登場人物の行動に意味や理由なんてないと先ほど自分で書いたばかりだ。
理由も定かでない行為が、あっけなく失敗する。

多くの映画は何か目的を提示して、その上で失敗させ、その後成功させる。
失敗するにしても、意味があることが多い(意味もなく主人公がひどい目にあい続け何の救いもない山野一『四丁目の夕日』と言う作品もあるが、これは特異例だ。この映画と同じく)。


しかし、この映画はなんの目的も提示しない上に、しかもうまくいかない。目的がないので、なにがうまく行っていないかさえよく分からないが、この映画を見れば何かがうまく行っていないのは明らかだろう。
当然うまくいかないことにも意味はない。

その全てが、「なんの意味もなく窓を開こうとしてしかも開かない」という、ストーリー上なんの意味もないワンシーンに込められているのだ。

それによって、窓を開こうとするありふれた行動は、人生を表す所作となる。象徴となるのだ。

何を大げさなと言われるかもしれない。実際わざと大げさ目に表現している。
監督もこのシーンを(スピノザ風に気取って表現するならば)「永遠の相のもとに見られる」シーンとして描こうとしていると私は信じている(ナボコフの小説に対して同じ感覚を時々感じる)。
透明な対象 (文学の冒険シリーズ)
ウラジーミル ナボコフ
国書刊行会
2002-12-01



まるで宗教画だ。
本当にそうなのかは別として、いい宗教画を目の前にすると私は、画家が「自分が描いているものは永遠の存在なのだ」と信じているのを感じてしまう。
それらの絵の中においては、来ている服や、ちょっとした動作にも意味がありうる。
世界の隅々まで神の計画であり、意味を持ちうる世界。

本当にそんな世界を信じた人がいたかどうか知らないが、信じられるなら面白いと思う(信じたいと言っているわけではない)。

ルカーチは意味の充満した世界を失ったことにより、叙事詩が終わり、小説が始まったとして、それを「先験的な故郷喪失」と呼んだ。
小説の理論 (ちくま学芸文庫)
ジェルジ・ルカーチ
筑摩書房
1994-12



ルカーチの言うことが本当かどうかはよく分からない。叙事詩の作者たちがそんな世界を信じていたかどうかもよく分からないし、我々がそれを喪失してしまったのかどうかもよく分からない。
そもそもマルクス主義自体が私にとっては「神話」とか「叙事詩」の範疇に思える。それ以外にも相変わらず星が自分を導いていると信じられる世界観に住んでいる人もたくさんいる気がする(最近、ジョン・C・リリーの自伝『サイエンティスト』を読んで、その実例が一つ増えた)。
サイエンティスト―脳科学者の冒険
ジョン・C. リリー
平河出版社
1986-10



だが、とりあえず、我々はそういう世界にどうも憧れを持っているようだ、というのは各種宗教や陰謀論者を見ている限り確かな気がする。

意味に満ちた世界は楽しい。安心だ。分かりやすい。
物語芸術においても、見過ごしてしまいそうな細部が伏線であったことがのちに分かり、大きな意味を持っていることがわかるのは楽しい経験だ。
苦労や失敗が最終的に成果を生むのは、溜飲が下がる。
現実がそうなっていなかろうが、フィクションの中で欲望を充足させられるのは、人間にとって重要な経験である。日々を生きる糧にもなり、明日を変える原動力にだってなる。現実逃避が現実を変える能力がないなんて思ったら、大間違いだ。

物語への指向性は、歪んだ世界認識をもたらす危険性が高いゆえに注意が必要だが、我々がこの世界に生き、新しい発見を続けていくのにとても重要な能力だと思う。安易に否定することも肯定することも避けたい。

だからと言って、人類が皆欲望まみれの意味中毒者・物語中毒者なのか、というとそんなこともなさそうだ。世界の本当の意味を教えてくれる宗教に全ての人がハマるわけではないし、物語の御都合主義にはそれなりの批判も集まる。
多くの人にとって、信じたり楽しんだりするには、それなりの(その人にとっての)質が要求されることが多いのだ。
神話の時代と比べたら、それなりにその基準が厳しくなっているのではなかろうか。

そして実は私も宗教画が好きなわけではない。
興味深いとは思っているので、お勉強のつもりで見ていることの方が多い(感動することももちろん何回もあったが)。
単なる宗教画は身も蓋もないリアリズムと同じくらい退屈と思っているし、同じくらい面白いとも思っている。

皆、意味とリアリズムのいいバランスを求めているのだろう。そのバランスは作品によって様々であり、そのバランスが意味側(欲望充足側、御都合主義側)に偏っているからと言って、馬鹿にすることはよくないと、もう一度強調しておきたい。それこそ物語のパワーであり、表現を支えてきたし、現実も変えてきたと思っているからだ。

しかし、中には、そのバランスを求めるのとは全く別の方向を目指した作品もある。

単に(世の平均から見て)バランスが悪い、のとはまた別だ。多くの場合、リアリズムに振り切った作品は「リアリズムに振り切っているバランス」を目指した作品だし、逆も然りだ。
個人的な印象では、その手のバランスの悪い作品は、退屈になりがちに思える。

私が言いたいのは、あるバランスを目指すのではなく、異なるバランスを混ぜてしまう作品だ。例えば、ある種の作品は、リアリティのバランスを一方の端から対極へと一気に振り切ってしまう。

『焼け石の水』もそう言う作品だ。
そして私は多分、急にリアリティバランスが変わる瞬間が好きなのだ。
先ほど言及したナボコフが好きなのも、そう言う瞬間を提供してくれるからだ。



身も蓋もないリアリズムの世界が、一瞬で宗教画と化す。
奇跡に思う。
意味の希薄な世界を眺めていたはずなのに、瞬間的に意味の充実した世界に反転する。

窓を開ける、という日常的な所作が、何処かへの逃亡とか、自由への希望を表す所作になり、そしてそれが失敗に終わることが、上記の所作の闇雲さを強調し、この映画の表現する人生への絶望の象徴となっている。

「世界に意味がない」と言う「意味」が世界に充満する。

おいおいジョイスか?
と言うのが、それを見ていた私の正直な感想だった。
ダブリナーズ (新潮文庫)
ジェイムズ ジョイス
新潮社
2009-03-02



大事なことなので、もう一度書いておこう。この映画において見事であり、私をいつでも興奮させるのは、単に身も蓋もないリアリズムでもなく、単に宗教画でもない、その瞬間的な反転なのだ。

陰鬱な映画を90分も我慢した甲斐はあった。

『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』ネタバレ長文感想&分析

『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』(以下『KUBO』)を見てきて、いろいろ考えたので書いておく。ネタバレは一切自重していないので、そこのところひとつよしなに。
公式サイト
物語の力に関しての物語であり、映画の力に関する映画だった。
映画の冒頭に語られる口上は、まさに主人公クボが物語を語るときに最初に語る口上だ。
そして、この映画自体とクボが語る英雄物語とほぼ一致している。
クボが語る物語。それはクボが母親から受け継いだ物語。それはクボの父親が、伝説の武具を手に入れ、義父である月の皇帝を倒す物語。
しかしその物語はいつも尻切れトンボで終わってしまう。なぜならクボはその物語の結末をしらない。それはクボの母親がその結末を語ることができないからだ。
そんなクボが祖父である月の皇帝に追われて、冒険の旅に出て伝説の武具を手に入れようとする。
この物語はクボが最後まで語れない物語の結末を手に入れるための物語でもある。
この入れ子構造によって、この映画はディレイニーが『アインシュタイン交点』で構築したものと同様の「メタ神話」としての構造を持つ。
「メタ神話」とは私の勝手な造語で、物語自体が神話的モチーフや神話的構造を持ちながら、同時に作中で「神話とは何だろうか。それは我々とどういう関係にあるのか。必要な物なのか。どう活かせばいいのか」等の問いが主要なテーマとして扱われる作品のことである。
最近だと、トム・ムーアの『ソング・オブ・ザ・シー』が同じような構造を持っていた。こちらの映画では、現代の主人公がハロウィーンの日に不思議な地下世界に迷い込み、冒険をする。そこで様々な神話を長い髪の毛として生やしている不思議な老人に出会うが、そこでこの映画自体が神話の一つであることが示唆される。
そして冒険から帰還したことにより、主人公は「愛する者との別れ。また、誰かを受け入れること」という、現世における切実な問題に、ある種の答えを手に入れる。それは万能な答えではないが、着実な一歩前進であるような答えを。
これは、神話における「冥界下り」のモチーフであり、一度異界に降りて冒険を終えた主人公が現世に帰ることによりヒーローとなる。ただ、この場合のヒーローとは、「妹の存在を受け入れることができる」というとても身近なものだが、しかし、これは神話の物語が現代にどんな意味を持てるかに真摯に向き合った結果である(同じような構造の物語として『オーバー・ザ・ガーデン・ウォール』がある。これについての分析はこちら)。
それに対して『KUBO』では、クボは一見もっと正統的な神話のヒーローとしての属性を付与されているようにも見える。
彼は片目である。もう片方の目は祖父である月の皇帝に取られてしまった。両目を取られると、彼は完全に人ではない「彼岸の存在」になってしまう。
これはクボが人と人ならざる者、此岸と彼岸の中間的存在であることを表しているし、片目であることにより、尋常ならざる魔力を得るというモチーフは北欧神話を始め、世界中にある。
そしてクボは三味線を弾き、物語を語る。それによって折り紙がヒーローや化け物の形に勝手に折られ、音楽と物語に合わせて、縦横無尽に駆け巡る(いつの時代か知らんが、紙のコストもそんなに低くないだろうに、と思ったが、魔法の力で再利用しているのであろう)。
これは、ギリシャ神話でやはり冥界下りするオルペウスを思い起こさせる。彼は音楽で神通力を発したと言われる。
その後の冒険でこの魔力は大いに活用されるが、それ以上にこの設定は、先述のメタ神話的構造をより本編に関わらせる。
神話や物語とは何かを問う物語で、武器になるのはまさに物語の力であり、映画の力なのだ。語りと音楽に合わせて、命の無いものが動き回り、人々を興奮させる様子は、まさにストップモーションアニメーションそのものである。つまりストップモーションアニメーション作品内で、ストップモーションアニメーションの隠喩が魔力として扱われているのである。
私はこういう作品が好きで、最近の良作だと『リトルウィッチアカデミア』においても、作中の魔術はアニメーションの技術自体の暗喩になっていた。また、トム・ムーアの別の作品、『ブレンダンとケルズの秘密』においては「絵を描く」ことに魅せられた主人公の「絵を見、そして絵を描く」という体験が魔術的アニメーションによって表現されていた。デフォルメされたアニメーションだからこそ発揮される魔術性は作中において「絵を描くことによる魔力」が本当に発動する場面で最高潮に達する。
メタ神話がみんなこういう構造を持つわけではない。先述した『アインシュタイン交点』では、「地下迷宮に潜むミノタウロス」などの神話的難関を主人公が突破していく神話的物語でありながら、神話とは何かを考えるたびでもあった。ただ、その問い方は主人公たちが直接的に「神話とは何か」という議論をし始めてしまうタイプのものであった。これを私は「明示的メタフィクション」と呼んでみようと思う。
『アインシュタイン交点』においては、この旅がさらに、「神話とは何か」と問いながら作品を構想する作者自身の旅とオーヴァーラップするところが文句なしに面白いのだが、実験的であり、エンターテインメントとしては夾雑物が多いことも否めないと思う。
同様の明示的メタフィクションによるメタ神話はゼラズニーの短編集『キャメロット最後の守護者』収録の「心はつめたい墓場」などにもみられる。私は彼らはミシェル・ビュトールらと並ぶ、『若き芸術家の肖像』や『ユリシーズ』を真摯に受け止めたジョイスの後継者だと思っている。
ジョイスやビュトールは現代に生きる個人の神話とは何かを模索したが、主人公達が比喩的ではなく本当に神話的冒険に旅立つわけではなく、メタ神話とは言えなかった。ディレイニーやゼラズニーは実際に神話の旅に旅立ちながら神話とは何かを問い始めた。しかしその問いは直接的であるように見えることもあった。
それに対して、上記の『ソング・オブ・ザ・シー』や『ブレンダンとケルズの秘密』や『リトルウィッチアカデミア』や『KUBO』では、メタフィクション的要素をうまくエンターテインメント要素の後ろに隠しながら、伏流水として物語に反映させている。私はこれを「暗示的メタフィクション」と呼ぼうと思う。そこにおいて共通に見られる手法が「描くという行為、語るという行為、奏でるという行為、作品を作る行為、の持つ力の隠喩として作中の魔力を描く」というものだ(「書く」という行為について、ジョイスの『若き芸術家の肖像』がこの方向性の萌芽を持っていたと思ってもいいかもしれない)。
それによって、物語が我々にとってどんなに重要な物なのかを描こうとしているのだ。
これは、ジョイスやディレイニーらの系譜が、実験的作品ではなく、エンターテイメントとして根付いたのだと私は思っている。
実際上記の頭でっかちな知識がなくても、『KUBO』は文句なしに楽しい物語だ。
クボが三味線を奏でながら、聴衆に囲まれて、血沸き心躍る物語をアニメーション付きで語る導入部は文句なしに興奮する。
丁寧に描かれた中世から近世のどこかの時代と思われる日本の風景は、十分説得力を持つ。村民の服装も貴人の服装もどちらもとても自然で、Twitterでも指摘されていたが川本喜八郎の諸作を参考にしているのかもしれない。盆踊りの音楽が炭坑節なのは笑ってしまったが。近代化以前の盆踊りの音楽がどんなだったかなんて、日本人でも知らない(私も知らない)。
そういえば「盆」という言葉は出なかったようだが、「先祖が帰ってきて会話が出来る日の祭り」という設定は明らかに盆であり、その日に墓参りをして先祖と会話をし、出店の出るお祭りをして皆で踊り、最後には先祖を無事に彼岸に返すため灯篭流しをするなど、とても自然に描かれている。
そしてこれは先ほどの『ソング・オブ・ザ・シー』の物語の日がハロウィーンであったことを思い浮かばせる。ハロウィーンももともとは祖霊が帰ってくる日であり、盆もハロウィーンも結局は此岸と彼岸が近くなる日だ。
このようにこの映画は、日本の風習を丁寧に調べ、それを世界どこでも普遍的に通用するモチーフにすることがとてもうまい。
出色は「祖父や叔母にさらわれてしまうから」という理由で夕暮れには家に帰らなくてはいけない(神話や昔話における「禁止」のモチーフだ。これをやぶることによって主人公は不本意ながら冒険に出なくてはいけない)主人公が、死んでしまった父を想い、なぜ自分には来てくれないのか、話しかけてくれないのか、と思い悩みながら灯篭流しを眺めているうちに、黄昏時になってしまうシーンだ。風が吹き、灯篭が消える。川の向こうの闇の中から、叔母が「クボ、クボ、こっちにおいで」と呼び掛ける。
片目であることで彼岸と此岸の間の存在であることを運命づけられた主人公が「盆」「黄昏時」「村はずれの森のほとり」「墓場」「川のほとり」に川の向こう側から人ならざる彼岸の存在に呼びかけられる。演出が上手くて無茶苦茶怖いシーンだが、神話的モチーフの使い方組み合わせ方として額に入れて飾りたいほどうまい。唸るほかない。
ここからクボの三つの武具を手に入れる物語が始まる。猿とクワガタという奇妙な仲間を連れて。
荒れ果てた奇妙な遺跡、沢山の剣が刺さった骸骨、湖の底、荒れ果てた城。この冒険自体が死のモチーフに溢れていることに注目してもいいだろう。やはりこの旅は冥界下りなのだろう。
この辺りの感想は他の人たちがたくさん語ってくれるだろうから簡潔にしよう。外国の方にとって日本の風景で印象に残るものの一つとして、猿と雪の組み合わせがあると聞くことがある。普通猿は南国のイメージだからだ。だから猿なのだろう。
あと武者のイメージとしてクワガタを持ってきたのも面白い。なるほど日本の武者の姿はクワガタに似ている気がする。
この奇妙なパーティの掛け合いはもっともっと見ていたかった。最初はクワガタのことを怪しんでいた猿がだんだんとクワガタを信頼していく様子もよかったし、片親のクボが「挟まれてご飯を食べるの初めて」というシーンもジンとくる。
二人が言い争いをするのを「また?」と言うクボはまさに親の喧嘩を見せられる子供だ。
雑魚寝から起きたときに、クワガタの脚が猿の上に被さっていた時のあの心の騒めきはなかなか忘れられないだろう。
アクションも良い。クワガタの弓矢も良いし、猿の剣劇も良い。敵の叔母の二刀流と鎖鎌も良い。ここはストップモーションアニメの華であり、そうそう言葉で語りつくせぬ部分なので、もしここまで読んでまた見ていないという人がいたら、絶対に劇場に足を運んでほしい。
で、大きなネタバレなのだが、猿はクボの母親が人形に自らの命を吹き込んだ姿であり、クワガタはクボの父親が敵の呪いで姿を変えられた姿である。
実は、三人の旅は、離れ離れになっていた家族の旅だったのだ。
そしてそのことが明らかになって、感動の再開、と思いきや、次の瞬間には二人とも命を奪われてしまう。
ここは数少ない不満点の一つで、ここのところもう少し盛り上げても良かったのでは、と思わないでもない。
しかしクボは母親が残したヒントを頼りに、最後の武具のありかを知る。それは彼らが育った、最初の村だ。
見ている者は、クボが村に行くシーンで鐘の音がいやに印象に残る演出をされていたことをここで思い出すことになる。
クボは月の皇帝に焼かれてしまい、村人は今は山に隠れている村に戻る。そして、すべての武具を手に入れて、晴れて英雄になれたはずのクボは、両親の仇である祖父、月の皇帝に最後の戦いを挑む。
月の皇帝は両目が見えていない。この意味はクボが片目であることと合わせると明らかだ。彼が夢の中で最初に現れた時の全景のアニメーションはまさに絶景だ。網膜に焼き付けよう。
しかし、伝説の武具を集めて英雄になったはずのクボは月の皇帝に勝てない。
そもそも月の皇帝は死なないのだ。勝てるはずがない。
そしてここが最高なのだ。
物語の強敵が不死者で、そいつをどう倒すかが物語上重要な要素になることは多いが、この映画での不死者の倒し方は特に面白かった。
ここで、この物語のテーマが再び顔を出すとは全く思っていなかった。
ここでクボは答えを出すのだ。
なぜ我々に物語が必要なのか。それは我々が死ぬからだ、と。
大切な者を失い、自分もいつか死ななくてはいけない。そんな受け入れがたいものを受け入れざるをえないからこそ、自分の人生に意味づけが必要なのだ。だから人は物語を聞くのであり、物語を語る。そしてそれを次の世代に受け継がせる。自分は死んでしまった人たちの物語を受け継いでいることのよって、喪失を受け入れることができるし、あとの世代に自分の物語を受け継がせることによって、自分の死にも意味づけができる。
クボが最初物語に結末がつけられなかったのは、彼や彼の母親が父親の死を受け入れられていなかったからだ。そしてだからこそクボは彼岸からの誘いを跳ねのけられない。
物語に結末をつけることを受け入れることにより、クボは死すべき生者たちの一員になることを選んだのだ。
「盆」とはまさに、祖先の物語を今一度思いだし、受け継ごうとする風習だ、とこの物語内部においてはとらえられるだろう。
戦いの中でそのことに気付いたクボは、とんでもないひっくり返しをする。
死すべきものだから物語が必要であり、不死者には物語は必要ではない。ならば、物語を注入してしまうことによって、不死者を死者にしてしまうのだ。
いやあ、映画館でものすごく興奮した。その手があったか、と唸ってしまった。
こうして、月の皇帝は片目が白内障で濁った、ただの老人にされてしまったのだ。
物語を何も持たないので自分が何者かもわからない老人に、おずおずと顔を出した村人たちが、彼がどんな人物だったかの物語(嘘)を吹き込む。
こんなんで大丈夫かと思う老人を、クボは「自分がついているから大丈夫だ」と安心させる。
こうしてクボは、両親の死を寂しく思いながらも受け入れ、川に灯篭を流す。

という感じなのだが、実は疑義がある。
例えば、最後の武具が最初の村にある、ということ。これは少々出来過ぎではないか?
この村に逃げ込んだ母親も、武具がここにあることには気づいていなかった。なのにその村に武具があるなんて、偶然が過ぎないだろうか。
こういうのを「ご都合主義」という。作者の指が見えてしまうとして、通常は忌避される。
この部分は、クボが最初の村に戻ってくる必要性から要請されたと考えられる。
なぜ、クボは最初の村に帰ってこなくてはいけなかったのだろう。
その部分を考えるために、「全域解釈」と「局所解釈」という概念を導入してみよう(※脚注)。
「全域解釈」とは作品のすべての要素を受け入れても成り立っている解釈である。それに対して「局所解釈」は作品の一部だけを読めば成り立っている解釈であり、場合によっては作品の他の部分を読んでしまうと、矛盾して成り立たなくなってしまうものも含んでいる。
実は『KUBO』には作中のあるシーンと矛盾するがゆえに全域解釈にはならないが、別の局所解釈があるように思える。
それは、この冒険の旅が一瞬の出来事であった、という解釈だ。
なぜそんなことが言えるかというと、クボが月の皇帝を倒すために三味線を持って歌物語を奏でた瞬間、川に浮いていた灯篭に火が付いたからだ。
これはクボが盆の日の黄昏に叔母たちに襲われたときに灯が消えた灯篭だ。川はずっと流れていなかったのだ。
これは時間が流れていなかったと解釈できるだろう。
そもそもこの物語の冒険が冥界下りと考えるなら、それが無時間の世界と考えてもそれほど不自然ではないのではないか。
何が言いたいかというと、平たく言ってしまえば「これって夢オチではないのか?」ということである。
「夢オチ」も三大がっかりオチの一つと数えられる存在なので、ご都合主義を脱しようとしてがっかりオチに帰着してしまうのではあまりうれしくない気もする。
しかしそうすることにより、この物語のもう一つの側面が見えてくる気がするのだ。
三つの武具を手に入れる冒険をあくまでクボの夢だと考えると、この物語は、父親の死、そして母親の死をクボがどう受け入れるかの物語ととらえることができる。
死んだはずの父親と母親がどうして冒険の中で生き返ったかと言えば、それは物語の中で一度、現実には起こり得なかった家族団欒を疑似体験して、その後両親の死も疑似体験するためである。
物語という形をとることによりクボは両親の死を受け入れることができるようになる。
それによりクボは最後に灯篭を流すシーンにおける精神状態に至ることができる。冒険が実際に起きたことと考えれば、盆に父親がクボに話しかけなかった理由は彼が生きていたからだと解釈できるし、夢だと解釈すれば、クボが父親の死を受け入れられていないからだと考えられるだろう。
もしあくまで冒険が夢だと考えるならば、思い切って超自然的な現象はすべて起きていなかったと考えることもできよう(これは村が焼かれていたこと、等のシーンと明らかに矛盾してしまうために、物語の全域解釈としては認められない)。
すると、この物語はクボが父親と母親の死を受け入れ、さらに両親を迫害した祖父を受け入れ、そしてクボの語る物語によって祖父も、クボを受け入れるようになる、そういう喪失された家族をどうにかそれなりの形で始め直そうという物語に考えることもできる。
それはまさに『ソング・オブ・ザ・シー』の主人公が神話的冒険の先に見つけたものが、母親の喪失を受け入れ、そして母親の喪失の原因となった妹を受け入れる、ということであったこととまさに対応する。
この映画もまた、神話的冒険を体験することが、身近な、だからこそ切実な問題と付き合うための一助となる現代的な物語だったと言えるかもしれないのだ。
私はこの解釈が正しい解釈だという気は全くない。冒険が実際に起こったという解釈では、村に戻ってくるのがこのままでは無理がある。夢だという解釈は、面白い点もあるけど、全体的には興ざめな点も多い。どちらも満足させられるように、作品をさらに練ることも可能だが、作品が分かりにくくなる可能性もある。
作品というものに最高の形が必ずしもあるわけではなく、大概がいくつかのトレードオフの中から、何かを選ばなくてはいけない。
というわけで、私はこの映画は今のこの形がとても良いと思っていて、多少の難点のある大域的解釈と見どころがある局所的解釈の合わせ技でこの作品を楽しむのが、自分としては今のところの最適解と思っているのである。
ここまで読んでいる人はもう最低でも一回は見てるはずなので、ぜひもう一回見ましょう。字幕と吹き替えはどっちもみよう! シャーリーズ・セロン姐さんも田中敦子姐さんもどっちもイイ!


(※脚注)「局所的解釈」とはいわば「誤読の自由」の精緻化である。「誤読の自由」と言ってしまえば、何でもありになってしまうが、実際にはどこまではその解釈で読めるのか、どこから誤読なのか、ということを指定する(指定しようとする)態度が必要なのだ。
こう考えれば例えば『ドグラマグラ』のような全域的解釈をそもそも持ってなさそうな作品や、『舞踏会に向かう三人の農夫』のようなぎりぎりで全域的解釈を裏切られるような作品の読書体験を説明しやすくなるし、私の「魅力的な局所的解釈が全域的解釈にならなかったら、そこを切り取って、それが全域的解釈になってしまうような作品を作ってしまう」という創作論も説明しやすくなる。
この解釈論はもともとは、ウンベルト・エーコの「理想的読者論」を理論的整合性の高い形にブラッシュアップしようとする過程で、数学における「層(sheaf)」の理論からの類推で得られたものである。もう少し、理屈っぽい言葉で詳しく説明したものを、数学同人誌『The Dark Side of Forcing』に書いて、コミケで売ろうかと計画している。
アインシュタイン交点 (ハヤカワ文庫SF)
サミュエル・R. ディレイニー
早川書房
1996-06-01


ブレンダンとケルズの秘密 【Blu-ray】
エヴァン・マクガイア
TCエンタテインメント
2018-02-02


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