(※脚注)「局所的解釈」とはいわば「誤読の自由」の精緻化である。「誤読の自由」と言ってしまえば、何でもありになってしまうが、実際にはどこまではその解釈で読めるのか、どこから誤読なのか、ということを指定する(指定しようとする)態度が必要なのだ。 こう考えれば例えば『ドグラマグラ』のような全域的解釈をそもそも持ってなさそうな作品や、『舞踏会に向かう三人の農夫』のようなぎりぎりで全域的解釈を裏切られるような作品の読書体験を説明しやすくなるし、私の「魅力的な局所的解釈が全域的解釈にならなかったら、そこを切り取って、それが全域的解釈になってしまうような作品を作ってしまう」という創作論も説明しやすくなる。 この解釈論はもともとは、ウンベルト・エーコの「理想的読者論」を理論的整合性の高い形にブラッシュアップしようとする過程で、数学における「層(sheaf)」の理論からの類推で得られたものである。もう少し、理屈っぽい言葉で詳しく説明したものを、数学同人誌『The Dark Side of Forcing』に書いて、コミケで売ろうかと計画している。