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アート

死体で遊べ 『骨』『オオカミの家』

クリストバル・レオンとホアキン・コシーニャの『骨』と『オオカミの家』を見てきた。https://www.imageforum.co.jp/theatre/movies/6510/
(公式サイトがhttpsの証明書のエラー起こしてたので、イメージフォーラムの方のサイトのリンクを貼る)。

どちらも最高だったので、考えたことを書いておく。『骨』についてはネタバレがどうのこうのという作品ではない気もするが、『オオカミの家』についてはオチまで書いてしまうので、ご注意をば。
見てない人は、とりあえず以下の短編を見て、彼らが最高だと分かってくれたら、すぐに映画館に向かえばいいと思う。
『Lucia』

『Luis』



それでは、『骨』と『オオカミの家』の話に入る。
この二つの作品はどちらもdiscovered footage、つまり「発表者とは別の人物が撮影した映像を発見した」という体裁の映像である。『フェイクドキュメンタリー「Q」』や『テレビ放送開始69年 このテープもってないですか?』や『The Backrooms』などの世界的なモキュメンタリーホラーのブームの中でも多用されている手法だ。なぜこの手法がよく使われるようになったかについては、メディアについての不信感の増大とか色々考えられるだろうが、今回は置いておく。
そもそもこの手法自体は映像表現よりも歴史が深く、『ドン・キホーテ』など枚挙に暇がないほどだ。元々は「これは実話なんだぞ」という偽書への権威づけに使われていたようだが、今は「作者(ということになっている人物)をフィクションの中に取り込んでしまう技法」として使われることも多いと思う。つまり「動画の撮影という行為自体が話のテーマに関わってくる」ということだ。
ここで急に告白するのだが、僕は物心ついた頃に『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の洗礼を受け、その後何度も何度も見続けたことから、何を見てもメタフィクションだと思ってしまう癖がついている。
なのでこの話もここからメタフィクションの話になる。
メタフィクションというと、筒井康隆の『脱走と追跡のサンバ』のように、作中で「フィクションとは何か?」と議論するような作品を思い浮かべる人もいるかもしれないが、それほど露骨ではない例も多い。私は勝手に「明示的メタフィクション」と「暗示的メタフィクション」と呼んだりしている。明示的メタフィクションはやもすると鑑賞者を冷めさせる効果を持ったりしてしまうが、暗示的メタフィクションは見ている時は気づかせず、後で「よく考えると、これは作品についての作品なんだ」と気づかせたりできる。私の好きな例だと『リトルウィッチアカデミア』が実はアニメ業界を描いているという監督がインタビューで答えてたりする(敵がピクセル魔獣と言いうおそらく手書きアニメの敵としてのCGを表している魔獣を使役したりする)。
discovered footageは「撮影」自体をテーマに絡めることにより、暗示的メタフィクションの道具になりうる手法である。『フェイクドキュメンタリー「Q」』なども「映像って存在がそもそも怖いよね」という「映像とは何か」を問うメタな作品になっていると私は考えている。「フィクションではない」という「ドキュメンタリー」を模したフィクションである「モキュメンタリー」が「メディアとは何か」を問う力を持つのはとても面白いし、実に自然なことなんだと思う。
ここから『骨』もまたメタフィクションである、という話をしていきたい。
『骨』は工事現場から発見されたフィルムを補修したということになっていて、その年代は1901年で、それが本当なら世界最初のコマ撮りアニメーションということになってしまう(実写部分を含まない世界初のアニメーション作品はおそらくエミール・コールの『ファンタスマゴリー』でこれは1908年、これに影響を受けた世界初のコマ撮りアニメーション作品はラディスラフ・スタレヴィッチの『美しいリュカニダ』でこれが1911年だ)。しかもそれは「死体を使ったコマ撮りアニメーション」という空前絶後なものだとまで言う(ちなみに前述の『美しいリュカニダ』は昆虫の死体を使ったと言われていたりする)。
その映像は、一人の女性が骨に呪術をかけて、二人の男性を呼び出すという降霊術的なものだ。映像の中ではその女性は人形として表現されているが、おそらくその映像の撮影者自身を表しているものと思われる。
つまり、映像の作者自体が作品内に登場しているわけだ。
女性(の人形)が骨に呪術をかけると、骨は動き出し、肉が部分的に復活する。ただ、それらは非常にぎこちない動きしかしないし、骨の繋ぎ方も無茶苦茶である。
このぎこちない動きの不気味さは(アリ・アスターが指摘するように)直ちに、ヤン・シュヴァンクマイエルやブラザーズ・クエイを思い出させる。
作品の中では女性の人形が糸のようなもので、肉片や骨を操っている様が描かれている。
私はこのシーンで「人形が人形使いをしているんだ」と気づいたのだ。
つまり、この作品は「ある種のコマ撮りアニメーションを撮影する様をコマ撮りアニメーションにした作品」と捉えられる。そう捉えれば、この作品は明らかにメタフィクション的要素を持つ。
ここで思い出されるのが、製作者の二人の「映画とは儀式やまじないや呪いのようなものだ」という証言だ(映画パンフレット8ページ)。
それも踏まえるとこの作品は「映画を儀式と捉えている制作者が、儀式としての映画を描いた」とも捉えられる。
ではなぜ死体なのか? これについては(ほぼ単なる感想になってしまうのだが)私としては「そう、そうなんだよ!」と言う強い納得感が実はあるのだ。
私は「ヤン・シュヴァンクマイエルのコマ撮りアニメーションは(性的ではない意味で)死体愛好的だ」とずっと考えていたからだ。
これについて初めて気づいたのが、ブラザーズ・クエイの『ストリート・オブ・クロコダイル』の原作のブルーノ・シュルツの小説『大鰐通り』を読んでいたときだった。ストーリーなんて何にも覚えていないが、とにかく少年時代に小物を集めている描写と、その子供部屋が世界に広がっていく妄想が印象的だったのだ。
私はそれを読んで「これは支配欲だ」と思った。次の瞬間、ヤン・シュヴァンクマイエルの作品の多くが完全に理解できたような気持ちになった。
例えば次の『自然誌(組曲)』(ダゲレオ出版の『シュヴァンクマイエルの不思議な世界』では『自然の歴史(組曲)』とタイトルを誤訳されている)。


友人にこれを見せたら「全く面白くない」と言われて困ったのだが、まあ確かに何が面白いのかわからない面はある。
私が考えるに、ここにあるのは「物を動かすのが楽しい」と言うめちゃくちゃ幼稚な快感である。
これは先ほど私がブルーノ・シュルツの短編を読んでいたときに感じた「子供の支配欲」とほぼ同じものだ。
上記の作品では単純に動かすだけになってしまっているが、例えば傑作『男のゲーム』などでは、シュヴァンクマイエルが、「人の形をした単なる物」に対して暴力的な支配欲を及ぼしている様が見ていて本当に楽しい。


そして、ここでシュヴァンクマイエルによって動かされているものは、ある意味で「死体」なのだと思う。
『自然誌(組曲)』では標本であるし、『男のゲーム』では粘土で作られた人体である。標本は普通の意味で「死体」であるし、粘土で作られた人体は生きている人間には不可能な仕方で乱暴に破壊される。
なぜ死体なのかと言えば、それは生きているものは思ったように動かないからだ。もちろん人体などを使ってコマ撮りアニメーションを作るのは不可能ではないが、それには配慮が必要で、支配を及ぼし切れる存在ではない。
シュヴァンクマイエルは圧政下のチェコスロバキアで、自由な内的生活を確保するためにこのような手法を使った、と言う解釈がある。シュヴァンクマイエルの世界は、彼が支配できる世界をどうにか作ろうとした結果だ、と。だからこそであろうが、彼の世界は(もちろん全てではないが)、どこか呑気で明るく乱暴で幼稚だったりするのだろう。
10年ほど前の私はこの自分の「発見」に狂喜した。「学生たちが映画を撮ろうとするが、完璧主義者の監督が自分の指示に従わない俳優に業をにやしてみんな殺してしまい、死体を使ったコマ撮りアニメーションを撮る」という短編を当時構想していたことを今でも覚えている(結局この作品は描かれることはなかった。ただ、少しズラして『Natural Historie』と言う作品に昇華された)
だから、私は『骨』を見たときに、「その手があったかあ!」と思ってしまったのだ。
「コマ撮りアニメーションが死体愛好的であることを、『死体を使ったコマ撮りアニメーションの撮影』をコマ撮りアニメーションで撮影することによって、撮影する」
こんな完璧なやり方があったのか、と映画館で唸ってしまった。
そして似たことをやっていながら、シュヴァンクマイエルとは全く別の緊張感を出していることにもとても驚いた。
シュヴァンクマイエルにおいて、「コマ撮りアニメーションの支配力」は子供の楽園のような世界を作り出す。それに対してクリストバル・レオンとホアキン・コシーニャの二人の世界において、この支配力は非常に追い詰められた世界における、最後の抵抗のように繰り出される。これは、現在まで続くチリの政治的な不安定性への、シュヴァンクマイエルの場合とはかなり異なる反応と見ることができるだろう(事前知識なしで見るだけでは『骨』の登場人物たちが実はチリの政治史における重要人物だと言うのはよくわからないだろう。この人たちがどんな人物たちなのかは作品の理解にとってかなり重要なので、ぜひパンフレットの新谷和輝氏の解説を読んでほしい)。
『骨』において、主人公の女性が、儀式を行なって死体に影響力を行使したのは(コマ撮りアニメーションを撮影したのは)、単に支配力を行使したいという幼児的な欲望の発散ではなく、彼女に強い圧力をかけている世界をなんとか変えようとしてのことだった。
しかしこう書いてみると、世界を変える手段として、コマ撮りアニメーション(に限らずアートの手法)はなんとも心許ない。
そんな心許なさ、そしてそんな心許ない手段が最後の手段だからこその必死さ、をこの作品は纏うことに成功している。おそらく、discovered footageという手法もまたそこに貢献していると思う。
主人公の女性は、死体を操る側であると同時に、彼女もまた死体なのだ。この映画ははるか以前に撮影された、世界を変えるための祈りでありまじないであるが、残念ながら世界は変わっていない。
軍事政権崩壊後、一時は安定してきたと思われたチリの政治は今も数々の矛盾に苦しんでいるという。

さて、『骨』についてあまりに長く書きすぎたので、『オオカミの家』について語る余力がなくなってきたしまったが、『骨』以上の傑作であるこの作品について全く語らないわけにもいかないので、もう一踏ん張りして書いてみる。
この作品にも「コマ撮りアニメーション=死物への支配力」という図式は当てはめられる。
またその支配力の行使が、社会からの暴力的な圧力(ここではコロニア・ディグニタの強い支配)へのか細い抵抗として行われることも同様である。
彼女は支配から逃げ込んだ小屋の中で、自分を守るために内的世界を小屋に投影する。そこに、どうにか外界から自分を守ることができる、安心できる世界を作ろうとする。ただそれはいつもオオカミの影に怯える不安な世界だ(これと同様の不安がこの二人の作品で「部屋」がモチーフになることが多い理由であろう)。それが、この作品の凄まじい光景だと考えることができる。
しかし、ここで描かれているのは、そのような暴力的な支配から逃げてきたはずの少女が、また他者に対して暴力的な支配を及ぼそうとする「暴力の再生産」の構図でもある。
彼女は匿った二匹の豚を「コマ撮りアニメーションの力」で人間に変える(ところで逃げたのは三匹の豚のはずだが、もう一匹はどこへ行ったのだろう。もしかしたら主人公自身かもしれない)。しかも、最終的には金髪碧眼のドイツ人に変えようとするのである。
これは、コロニア・ディグニタから逃げてきたはずの彼女が、コロニア・ディグニタのナチス的世界観をしっかり取り入れてしまっていることを表している。
そして、支配しようとしたものに反抗された彼女は、最後にはコロニア・ディグニタにドイツ語で助けを求める。そして「私はずっと君の中にいた」と言ってオオカミが彼女の中から現れる。豚にミルクを与える映像に被せられた「お前も育ててやろうか」という声には背筋が凍った。
コマ撮りアニメーションの支配力を暴力的な世界の支配力への抵抗として使っているアーティストの作品と考えると、ここにはやはり「抵抗としてのフィクションもまた暴力なのだ」というメタフィクション的な批評的メッセージが隠れていると見ることができそうである。
我々がアートに求める力の一つが「現状に対するオルタナティブなものへの想像力」だが、それがどれくらい現状から自由なのかはしっかり考える必要があるのだ。
そのような作品が「コロニア・ディグニタの独裁的指導者であるパウル・シェーファーの視点でものを考える」ことから作られた、というのは何重にも捻れていて興味深い。この作品は「支配からはそう簡単に逃げられない」ということを支配の側から描いている。それによって支配の恐ろしさを描いているわけだが、「支配からはそう簡単に逃げられない」というメッセージ自体はどこまでも真面目に取り合わなければいけない、独裁者からの恐ろしい挑戦状なのだ(だからこそパンフレットには臨床心理学者である松田英子氏の「トラウマがある人たちには観てほしくない」という正直な意見も書かれている)。

フラクタル時計作った


フラクタル時計

時間によって模様が変わって結構面白い。
そのうちさらにいじるかとりあえず公開。 

山田康雄の飄々とした歌声 『まるで世界』

『みんなのうた』の話題が続いたので、一番好きなのを紹介しておこう。

文句なしに良い。良いものは理屈なしに良い。

ただそれでは、何のための記事なのかわからないので、まあ関わっている人たちを軽く紹介して、終わりとしようか。
歌っているのは、ルパン三世の声やクリント・イーストウッドの吹き替えで有名な山田康雄。

ダーティハリー [DVD]
クリント・イーストウッド
ワーナー・ホーム・ビデオ
2000-04-21

作詞は不条理演劇で有名な、別役実(この苗字の来歴をたどると、「べっちゃく」と読むのがより古いらしい)。「づくしシリーズ」などのエッセイが大好きだ。あと彼が脚本を書いた、アニメーション映画『銀河鉄道の夜』も大傑作。


銀河鉄道の夜 [Blu-ray]
田中真弓
KADOKAWA / 角川書店
2014-05-30

作曲は池辺晋一郎。オーケストラや合唱曲やオペラなどを多数作曲し、『N響アワー』への出演とか、黒澤明作品への曲の提供とか、いろいろ華々しい経歴はあるが、個人的には『未来少年コナン』の音楽というイメージである。最初に意識したのがそこだからな。
未来少年コナン 1 [DVD]
小原乃梨子
バンダイビジュアル
2010-01-27

どこかマグリット的なシュルレアリスムの雰囲気ただようアニメーションを手がけている大井文雄は、今はCGアニメーションを制作し、ノルシュテインやラウル・エルヴェやアレクサンドル・ペトロフなどアート・アニメーション界の錚々たるメンバーが参加した、アニメーションによる連句作品『冬の日』でも独特の世界観を繰り広げている。 
連句アニメーション 冬の日 [DVD]
池辺晋一郎
紀伊國屋書店
2003-11-22

 
子供向けの作品に無駄な力を注いでくれるのは、NHKのいいところなのかもしれないなあ。 

あけましておめでとうございます

今年の抱負は、「わかりにくいものをわかりやすく、わかりやすいものはわかりにくくする」である。
学問の専門家・細分化、それに伴う日常からの乖離によって、学問の成果を分かりやすくすることの必要性が、強く訴えかけられている。
私自身も科学や哲学の高等概念はもう少し分かりやすく表現できるのではないか、という気持ちがあるととともに、ヴィクトル・シクロフスキーやウィリアム・エンプソンの文学理論やグスタフ・ルネ・ホッケの芸術理論を鑑みると、逆に「わざとわかりにくいことをいう」ことにも一定の意味があるような気がするのだ。
散文の理論
ヴィクトル シクロフスキー
せりか書房
1971-01

曖昧の七つの型〈上〉 (岩波文庫)
ウイリアム・エンプソン
岩波書店
2006-04-14



そこを整理すると共に、実作に活かしたい。
というわけで、「わかりやすくする」手法の定番としての「視覚化」と、その対極として「非視覚化」を推し進めたい。そのために、小説以外のものもどんどん作っていこうと思っている。
去年は「Pure Data」を始めたから、早速「Processing」を初めて、ぼちぼち動くものを作っている。Javaはやったことあるから、言語自体は簡単だ。
何か見せられるものができたら、ここに上げるかも。

疲れたので五分間休憩 『Take Five』


とかいって、45分この動画を見ることになる。
ジャズに5/4拍子を持ち込んだウェストコースト・ジャズの名作。カヴァー曲はこれら以外にも、しこたまある。

ロシアのアニメーション作家Ivan Maximovによるアニメーション化

DVDの『ロシアアニメーション傑作選集』に収録されていて、見つけた。
ロシア・アニメーション傑作選集 Vol.1 [DVD]
ジェネオン エンタテインメント
2007-02-23



作曲者自身による続編『teke Ten』


しかし『Take 11』は最初に聞いたときは笑った。さすがFarmers Marketだ。
Speed /Balkan /Boogie
Farmer's Market
Kkv
2011-02-24

 
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