けんさく。

けんさく。が、いろいろ趣味のことをやるページです。

アート

フラクタル時計作った


フラクタル時計

時間によって模様が変わって結構面白い。
そのうちさらにいじるかとりあえず公開。 

山田康雄の飄々とした歌声 『まるで世界』

『みんなのうた』の話題が続いたので、一番好きなのを紹介しておこう。

文句なしに良い。良いものは理屈なしに良い。

ただそれでは、何のための記事なのかわからないので、まあ関わっている人たちを軽く紹介して、終わりとしようか。
歌っているのは、ルパン三世の声やクリント・イーストウッドの吹き替えで有名な山田康雄。

ダーティハリー [DVD]
クリント・イーストウッド
ワーナー・ホーム・ビデオ
2000-04-21

作詞は不条理演劇で有名な、別役実(この苗字の来歴をたどると、「べっちゃく」と読むのがより古いらしい)。「づくしシリーズ」などのエッセイが大好きだ。あと彼が脚本を書いた、アニメーション映画『銀河鉄道の夜』も大傑作。


銀河鉄道の夜 [Blu-ray]
田中真弓
KADOKAWA / 角川書店
2014-05-30

作曲は池辺晋一郎。オーケストラや合唱曲やオペラなどを多数作曲し、『N響アワー』への出演とか、黒澤明作品への曲の提供とか、いろいろ華々しい経歴はあるが、個人的には『未来少年コナン』の音楽というイメージである。最初に意識したのがそこだからな。
未来少年コナン 1 [DVD]
小原乃梨子
バンダイビジュアル
2010-01-27

どこかマグリット的なシュルレアリスムの雰囲気ただようアニメーションを手がけている大井文雄は、今はCGアニメーションを制作し、ノルシュテインやラウル・エルヴェやアレクサンドル・ペトロフなどアート・アニメーション界の錚々たるメンバーが参加した、アニメーションによる連句作品『冬の日』でも独特の世界観を繰り広げている。 
連句アニメーション 冬の日 [DVD]
池辺晋一郎
紀伊國屋書店
2003-11-22

 
子供向けの作品に無駄な力を注いでくれるのは、NHKのいいところなのかもしれないなあ。 

あけましておめでとうございます

今年の抱負は、「わかりにくいものをわかりやすく、わかりやすいものはわかりにくくする」である。
学問の専門家・細分化、それに伴う日常からの乖離によって、学問の成果を分かりやすくすることの必要性が、強く訴えかけられている。
私自身も科学や哲学の高等概念はもう少し分かりやすく表現できるのではないか、という気持ちがあるととともに、ヴィクトル・シクロフスキーやウィリアム・エンプソンの文学理論やグスタフ・ルネ・ホッケの芸術理論を鑑みると、逆に「わざとわかりにくいことをいう」ことにも一定の意味があるような気がするのだ。
散文の理論
ヴィクトル シクロフスキー
せりか書房
1971-01

曖昧の七つの型〈上〉 (岩波文庫)
ウイリアム・エンプソン
岩波書店
2006-04-14



そこを整理すると共に、実作に活かしたい。
というわけで、「わかりやすくする」手法の定番としての「視覚化」と、その対極として「非視覚化」を推し進めたい。そのために、小説以外のものもどんどん作っていこうと思っている。
去年は「Pure Data」を始めたから、早速「Processing」を初めて、ぼちぼち動くものを作っている。Javaはやったことあるから、言語自体は簡単だ。
何か見せられるものができたら、ここに上げるかも。

疲れたので五分間休憩 『Take Five』


とかいって、45分この動画を見ることになる。
ジャズに5/4拍子を持ち込んだウェストコースト・ジャズの名作。カヴァー曲はこれら以外にも、しこたまある。

ロシアのアニメーション作家Ivan Maximovによるアニメーション化

DVDの『ロシアアニメーション傑作選集』に収録されていて、見つけた。
ロシア・アニメーション傑作選集 Vol.1 [DVD]
ジェネオン エンタテインメント
2007-02-23



作曲者自身による続編『teke Ten』


しかし『Take 11』は最初に聞いたときは笑った。さすがFarmers Marketだ。
Speed /Balkan /Boogie
Farmer's Market
Kkv
2011-02-24

 

踊る線条、舞い飛ぶ立体 形の魔術師オスカー・フィッシンガー

前回書いた、ヴァイマール期ドイツに花開いた抽象アニメーション「絶対映画」。
その中でも特にルットマンの強い影響の下にに現れた一人の天才、それがオスカー・フィッシンガー(Oskar Ficshinger)である。
彼は、抽象アニメーションを実験ではなく、永遠に残すべき「作品」として完成させた。
抽象アニメーションというものがある、ということに知った後で、最初に覚えたのがこの名前である人も多いはずである。

オスカー・フィッシンガー(1900~1967)は、21歳という多感な時期に、当時彼が関係を持っていたフランクフルトの文学サークルを介してルットマンと出会った。彼が抽象アニメーションの世界に引き込まれたのが、ルットマンの強い影響に会ったのは間違いないが、彼は後年、ルットマンの技術自体は高く評価したが、その自分への影響を隠したがった。自分はルットマンに出会うまえから実験を始めていた、と主張していたのだ。
それが本当かどうかはともかく、その次の年ミュンヘンに移って、アニメーションの制作会社を立ち上げた。あと、彼は発明家でもあって、公害のでないガソリン・エンジンなどを売っていたほか、ワックスを次々とスライスして出た模様を撮影して、不思議なアニメーションを作る機械を発明していた。
ルットマンはこれとその商業利用権を買い取り、ロッテ・ライニガーと一緒に作っていた長編影絵アニメーション『アクメッド王子』(1926)の背景効果に使ったのだが、フィッシンガーはこれに、先を越されたと、相当悔しがったらしい。ちゃんとお金払ってるんだから何の問題もないと思うがな。
彼のアニメーション処女作は、このワックス・マシンを使った実験作である。
『Wachsexperimenten』(1926)
(単なる実験なので、全部見る必要は全然ありません)

同時期の実験映像
『Spirals』(1926)

多にも、この時期にいくつかの抽象アニメーション、普通のアニメーション、劇映画の特殊効果などを手がけているらしいが、見たことはない。

1927年にフィッシンガーはミュンヘンからベルリンに移る。
そこでフリッツ・ラングの『月世界の女』の特殊効果を手がけるが、事故で骨折して離脱する。
入院中に彼は、彼を有名にするサウンドトラック付きの抽象アニメーションを作ることを決心する。
それらは簡素に「Studien」とだけ名前が付いていた。
『Studie n.6』(1930)

途中で出てくる「目」状の模様は、プロビデンスの目、もしくはホルスの目かもしれない。晩年は仏教徒として生きたらしく、フィッシンガーは独特の東洋的神秘思想の持ち主だったらしい。
『Studie n.7』(1931)

『Studie n.8』(1931)

どうしてもディズニー『ファンタジア』の『魔法使いの弟子』の泡立つ波頭と舞い飛ぶ流星群のシーンが思い出される。しかしこの作品、『魔法使いの弟子』の権利が買い取れなくて未完成のまま放置された。
『Studie n.9』(1931)


ちなみにこれらの作品は、戦前の日本でも上映されていて、それを寺田寅彦が見ていることが随筆に出ている。青空文庫で読める。
かなり面白がっているのがうかがわれる。
実際、これらのスピードの速い映像は、色は白と黒だけにも関わらず、今見ても楽しめる。音楽とシンクロしながら図形が動いているのを見ているだけで幸せになれるし、思わぬ立体感の出現や、新しい動きの要素の導入など、退屈しない。
そして、これらは決して気むずかしい難解な作品ではなく、気軽に誰でも楽しめる作品になっているのだ(これだけを目的に映画館に行く人間はいるまいがね)。
ここで初めて現在でも通用する、全く古びない抽象アニメーションが登場したのである。

面白いことに、ここまで見事な音楽とのシンクロを達成しておきながら、フィッシンガーの音楽に対する態度はアンビヴァレントである。人々に受けるために音楽を付けるだけと言ったり、音楽があるおかげで人々が映像に集中できる、と言ったりしたが、サイレントのアニメーションだけで、人々を魅了したい、という目標は持ち続けていたのではなかろうか。実際、彼の最高傑作と言われる『Radio Dynamics』(1942)はサイレントの抽象アニメーションだ。
フィッシンガーにとって音楽は、道具と言うよりは、目標だったのであろう。だからこそ、可能なら音楽の力は借りたくなかったのだ。
意地悪な人間に、「音を消したらたいしたことがない」というやり方で映像を貶す者がいる。実際、だいたいの「迫力のある」映像は、音を抜いたらずいぶん拍子抜けのするものになることが多い。
それを音楽とのシンクロを目指したフィッシンガーの諸作品に言う馬鹿はいまいが、一応、彼の映像の力が音楽を必ずしも必要としないことを証明しておこう(できることなら上記の『Radio Dynamics』を見せたいが、残念なことに動画が見つからなかった)。
彼のミュンヘン時代、『Studien」』シリーズが始まる直前、サイレント時代実験作時代の末尾を飾る非常に楽しい切り紙アニメーション作品である。
『Seelische Konstruktionen(スピリチュアル・コンストラクション)』(1927)

うねる線、激しく変化する図形。すでに技術的には完成の域に達していたのがよく分かる。あと、ワックス・マシン使ってることが少し笑える。まだこだわってたのか。
『Studien』シリーズの最中にもフィッシンガーはいくつかサイレントの抽象アニメーションを作っている。

『Studien』シリーズの後期からフィッシンガーは、色の問題にかかる。色と音の関係などを研究し、光の波長と音の波長の関係について考察したりしていたらしい。フィルムの光学サウンドトラックに直接色を塗って、音を合成する実験もした。(これらの問題は、20世紀最高のアニメーション作家ノーマン・マクラレンが後に扱うことになる)
その成果が次の作品だ。
『Kreise』(1933)


同時期、フィッシンガーを一躍有名にした作品は、やはりコマーシャル・フィルムだった。
『Murrati Marches on』(1934)
 
超絶技巧だねえ!
この作品は、資本主義に適合し、配給システムに乗ったので、映画館で何回も上映され好評を得た。これによって、フィッシンガーの名はアメリカにまで響くことになる。

この時期、フィッシンガーはいくつもの今までの総決算のような作品を残している。彼のヨーロッパ時代最後の作品は、立体模型のコマ撮り撮影によって作られた次の作品である。
『Komposition in Blau』(1935)

すさまじい色の乱舞

芸術家としてのフィッシンガーの黄金期は続いている。
しかしこの時期から、彼を取り囲む環境は急速に悪化していく。
折からナチスによって抽象芸術が「退廃的」とレッテルを貼られ(ニコニコの動画説明にあるような、彼がユダヤ人、という話は聞いたことがない。フリッツ・ラングと混同していないか?)、ドイツで作品を作りづらくなっている。
つい10何年か前に、これらの新しい芸術形式に拍手喝采を与えた熱しやすく冷めやすい大衆は、それらに唾を吐きかける連中をまた熱狂的に受け入れることに何の矛盾も感じなかったようである。
フィッシンガーは「自分の作品は抽象芸術ではなく、装飾芸術だ」という苦しいいいわけをしていたようだが、状況は改善しない。
そんなとき、ヨーロッパでの彼の成功に注目したハリウッドのパラマウントの招待状が届く。
彼はヨーロッパを去ることを決意し、1936年アメリカに渡る。
ところが、パラマウントとの、『百万弗大放送』の抽象シーンを巡る契約は、カラーで作りはじめていたフィッシンガーと、予算の関係で途中から白黒に方向転換したパラマウントと意見が合わず、結局破棄されることとなった。
この時期から、フィッシンガーは生活のため、絵を描き始める。「キャンバスの油絵」は過去の芸術であり、映画に劣る、と思っていた彼にとっては、苦しい選択であったであろう。

ただしどんなに状況が苦しくても、芸術家としては、まさに絶頂期だった。
『ALLEGRETO』(1936)

『An Optical Poem』(1937)

アニメーションにとって『ハンガリアン・ラプソディ第2番』は特別な意味を持つ曲である(いずれ説明する)。
それより、まあなんというものを作ってくれたんだろうね。
ラスト近くのクライマックスなんてのは、そんじょそこらの「SF映画」よりも「SF」しているように見える。形の宇宙とでも言うべきか。

この後フィッシンガーはディズニーと仕事をする。『ピノキオ』(1940)のブルーフェアリーの杖のエフェクトをデザインしたようだ。

それほどフィッシンガーがやらなくてはいけなかったシーンには見えないが。
それより何より重要なのは、フィッシンガーが渡米したときちょうど制作中だったディズニーの芸術映画『ファンタジア』への協力である。
「一本くらい抽象的なのもやってみよう」というウォルト・ディズニーの提言で映画の冒頭として選ばれたバッハの『トッカータとフーガ ニ短調』のアニメートに、フィッシンガーはデザインで参加したが、結局ディズニーのスタッフの側で大幅な簡略化と、大衆受けのための具象化が行われ、フィッシンガーはここでも途中離脱することになる。結局スタッフとして名を連ねることはなかった。

確かにフィッシンガーぽいところもあるけど、フィッシンガーにしては具象的すぎるし、単純すぎる。
それでもかなりの傑作なんだけどね。

この直後にフィッシンガーは新しもの好きのオーソン・ウェルズに、ルイ・アームストロングの伝記映画の仕事への参加を打診されたが、これは実を結ばなかった。ジャズとフィッシンガーの手法は相性がいいので、実現していたら面白かったのに、と思う。

このように決して芸術家として恵まれていたわけではないこの時期のフィッシンガーではあるが、その家は若く冒険心にあふれた芸術家達のたまり場となっていた。
現代音楽と言ったらこの人のジョン・ケージ
抽象アニメーション作家であり、コンピューター・グラフィックスの先駆者、キューブリックの『2001年宇宙の旅』やヒッチコックの『めまい』にも協力したホイットニー兄弟
実験映画化で舞踏家で振り付け師のマヤ・デレン
前衛映画と聞いたらこの人、という方も多いかもしれない、オカルト、ドラッグ、ロックンロールにまみれた変な映画を撮り続けたケネス・アンガー
フィッシンガーはジョン・ケージの音楽理論を取り入れた抽象アニメーションを作ろうとした時期もあったらしい。誰にも分かってくれないに決まってるから(ここまでの判断はとりあえず正しい)作るのをやめたらしいけど。惜しい話だ。

この時期のフィッシンガーは精力的にペインティングを仕上げ、頻繁に個展を開く画家として生活をしていた。時々資金の提供があれば、アニメーションを作ることができた。
ジャンナルベルト・ベンダッツィが最高傑作と認めるサイレントの抽象アニメーション『Radio Dynamics』もこの時期の作品だ。
そして1947年に、完成された実験作品としては最後の作品『Motion Painting No.1』が発表される。

ここでは、音楽との厳密なシンクロは放棄され、得意の図形の激しい運動、急激な生成消滅もなりを潜めている。代わりに現れたのはゆっくりした、色の累積である。
ここに来て新しいことをしようとすることを言祝ぐことも可能であろうが、この時点ではこの手法は成功していない。フィッシンガーを見るときの希有な経験である、あの躍動感、わくわく感がここからは感じられない。要するに退屈である。
もしかしたら、彼がここから新しいすばらしい作品を作る未来もあり得たかもしれないが、結局そのような来るべき作品は現れずじまいだった。

落ち穂拾い
Munts TVのコマーシャル・フィルム(1952)

線の乱舞が文字になるのは、グスタフ・ルネ・ホッケの『文学におけるマニエリスム』の冒頭近くにある、アジアニスムスの具体例としての「ひげが付きすぎて何だか分からなくなった飾り文字」を思い出す。「蛇状曲線体」のなす「痙攣的な美」の極致。
「自然の模倣」ではなく、意味も内容も持たない人工の図像を扱う抽象アニメーションはそもそもマニエリスム的である。また安定ではなく、動きを表現するために不安定を指向するのも、マニエリスムの特徴の一つだ。
そうすると、その超絶技巧を限界まで発展させて、綺想と幻想の目まぐるしい装飾絵巻を作りあげたフィッシンガーは、まさに典型的な「マニエリスト」=「魔術的芸術家」と言える。
誰か、グスタフ・ルネ・ホッケの『迷宮としての世界』や『文学におけるマニエリスム』を補助線に、オスカー・フィッシンガーを人工言語とでも呼べそうな「図形のカバラ」or「図形のアルス・コンビナトリア」を用いて、謎に満ちた踊る迷宮を作りあげ、そこから視覚と聴覚の神秘的な和合を見いだそうとした「呪われたダイダロス」として解釈する人はいないのだろうか?(ダイダロスはミノタウロスを閉じ込める迷宮の作者であり、アリアドネのために舞踏の振り付けもした。フィッシンガーの作品は、迷宮であり同時に舞踏である希有な例である。)
文学におけるマニエリスム  言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術 (平凡社ライブラリー)文学におけるマニエリスム 言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術 (平凡社ライブラリー)
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迷宮としての世界(上)――マニエリスム美術 (岩波文庫)迷宮としての世界(上)――マニエリスム美術 (岩波文庫)
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OKLAHOMA GADのコマーシャル・フィルム(1954)

Oklahoma Gas ad by Oskar Fischinger from CVM on Vimeo.

たいした予算が与えられていないことが分かるので少し悲しい。

1950年代のフィッシンガーはアニメーションを作ることから離れ、また発明に戻って行っていたようである。
そのときの発明の一つをLumigraphを、従姉妹で仕事仲間で妻でもあったエルフリーデ・フィッシンガーが、オスカーの死語、1969年に実演する映像である。

Lumigraph Film (c. 1969) by Elfriede Fischinger (excerpt) from CVM on Vimeo.


オスカー・フィッシンガーは1966年に死去した。

晩年はアニメーションを全く作っておらず、芸術家として決して恵まれた生涯とは言えなかった。

この論文によると、それはフィルム芸術が、コレクションという市場から疎外されていたからだという。

つまり「芸術家」というのは、商業から離れたところに生きているポーズをとっていても、結局はコレクター市場に依存して生きている商業的存在だ。

しかし、フィルムは美術館等のコレクションの対象とならなかったので、非商業的フィルムには居場所がなかった、と言うのだ(もちろん個人収集家はいる。しかしそもそもフィルムは複製品なので、何らかの理由で希少性が高くならないと価値が高くならない。それは作者のどうにかできる問題ではない)。

この分析が正しいかどうかは、すぐには答えられないし、今現在はどうなのか、と言うのも難しい問題だが、どうすればオスカー・フィッシンガーはもっと幸せで、たくさん作品を作れたのであろうか? という問いは、ぜひとも問われるべき問いであろう。

とまれ、オスカー・フィッシンガーの作品は、その後もたくさんの芸術家に影響を与え、新しい作品のインスピレーションの豊富な水源であり続けている。


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