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カートゥーン版『銀河鉄道の夜』? 『Over The Garden Wall』

『Over the Garden Wall』は2人の奇妙な格好をした兄弟が森の中を歩いているシーンで唐突に始まる。弟のグレッグは陽気に歌など歌っている。兄のワートは何か不機嫌だ。2人共どこへ向かっているのだろうか。家に帰る途中なのだと本人達はいう。しかし、2人はそもそもそこがどこなのかも分かっていなさそうだ。
そんな2人に青い鳥が話しかける。道案内してやろうと。弟は素直に聞こうとするが、兄は鳥がしゃべるなんて変だと無視して行こうとする。そして木こりに道を聞こうとする。
しかしその木こりも様子が変だ。
どうやらこの森には「ビースト」という恐ろしい存在がいるようだ。もしかしたらこの木こりがビーストなのだろうか。木こりが持っているランプの燃料は森に迷い込んだ子どもたちの魂なのだろうか。
兄弟と青い鳥ベアトリスの「名もなき森」を抜け出るための奇妙な冒険が始まる。
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とにかくわからないことだらけで始まる話だ。題名の意味も分からない。キャラクターも初見で魅力的だとは言いかねる。
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ただ、背景の美しさにまず引き込まれる。昔からカートゥーンはキャラクターではなく背景美術で世界観を作る。背景美術の幅の広さがカートゥーンの幅の広さを作っている。とくに最近のカートゥーンはどれも背景が美しい。『アドベンチャー・タイム』のパステル画のような色彩、『スティーブン・ユニバース』の結晶質の空。そして『オーバー・ザ・ガーデン・ウォール』の絵葉書のような仄暗い森。まるで少し怖い絵本のようだ。
画面に舞い飛ぶ朽葉の乱舞に見とれながら、謎を追いかけていくうちに、いつの間にか我々は話に引きこまれていく。まるで我々も「名もなき森」に迷い込んでしまったように。
この物語はそうそうは謎を解かせてはくれない。まず我々に与えられていくのは、それぞれのキャラクターの背景の一部だ。キャラクターをその行動と仕草で描いてくれるのもカートゥーンの良い所だ。見た目では地味に見えたキャラクターたちが活き活きと動き出す。
ワートは登場していきなり珍妙な「詩」めいたものを独りごちる奇妙な少年だ。何事にも消極的で、いつも流れに身を任せている。そして弟のことをはっきりと嫌っている。
グレッグは天真爛漫なトラブルメーカーだ。事態を良い方にも悪い方にも転がしていく。愛らしいが、他のキャラクターからはちゃんと疎まれている描写があるのが、作品としてのバランスを保っていて、いやらしく感じない。子どもの過度の子どもらしさとその無邪気な肯定は、ときに作品に暴力的な臭みを与える。
ベアトリスは、2人を助けてくれる人アデレードのところに案内しようとしてくれている青い鳥だが、かなりの毒舌家だ。ワートのことを自主性の欠片もないでくのぼうだと言ってはばからず、グレッグにはそんな兄を見習えと暴論を言う。酒場から追い出された際には店主を口汚く罵り、ろくな死に方をしないと呪ったりもしていた。
謎は一向には解けないが、これらのキャラクターの魅力に気付くことにより、話にますます引き込まれていく。そしてキャラクターの背景が見えてくることにより、謎が深まっていく構成も見事だ。
ワートは訪れた村で電話を借りようとする。では、これは現代の話なのか。しかし、その村はどうも現代の村とは思えない。18世紀以前のように見える。しかし別の場面では、19世紀っぽかったり、20世紀初めっぽかったりする(外輪で動く蒸気船などがある)。音楽は全体的に20世紀はじめの雰囲気だ。だが、そもそも「名もなき森」の時代を考えることは無駄であろう。皆が訪れた村では骸骨になった死人が蘇り、南瓜の仮面を被って踊りを踊る。船の上では正装した蛙が楽器を演奏する(このシーンの蛙の歌はものすごく良い。本当に良いので聞いて欲しい)。
「名もなき森」はこの世ならぬ異界、それも「死の匂い」が濃厚な「彼岸」なのだ。そこでは様々な時代が入り混じっている。様々な時代の死者たちがいることを考えれば自然であろう。
しかしワートたちはもともとこの「名もなき森」にいたわけではないのだ。ワートは自分は高校生だという。グレッグは父親の違う弟だとか。ワートは様々な時代の建築様式に詳しく、それが話を解決するのに役だったりする(時代の異なる建築様式が混じっていることに気付いたのだ)。そしてクラリネットを吹き、サラという少女に恋をしているが、ジェイソン・ファンダーバーカーという何もかも彼よりすぐれている男に邪魔されている。ワートはどうやらほぼ現代の人間と見て良さそうだ。その彼がどうして、こんな奇妙な森に迷い込んだのか。
物語作者としての手腕は、謎を謎のままにしながら、どれだけ読者を惹きつけ続けられるかに現れる。自信がなければ謎をさっさと解き明かさざるを得ない。せめて少しずつ謎を解いて、読者に餌を与え続けないといけない。しかしこの作品では、謎はほとんど解けないまま、ふしぎな世界を旅し続ける。
謎はもちろん、背景美術の美しさ、キャラクターの魅力に自信があるからだ。最初は明らかに反目しあっていたワートとベアトリスが狭いとところに閉じ込められて、仕方なくお互いの来歴について語るうちに、だんだんと互いを理解し接近していくところなど、「定番だなあ」と思いながらも引きこまれ、ワートが好きな女の子についてベアトリスに語っている所を見ると、自然に胸が熱くなるのを感じる。
このままこの魅力的な世界観に浸っていたくなる。ワートはそんな元の世界の女の子ではなく、ベアトリスと暮らせばいいのにと、むちゃくちゃなことを考えたりもする。
しかし、そこに破局がもたらされる。ベアトリスは呪いで家族もろとも青い鳥にされてしまい、呪いを解く方法を探している。そのベアトリスの行動の謎が明かされて、物語は急に暗くなる。
ここら辺りは実際に見て欲しい。
希望を失ったワートはだんだんと弱っていき、グレッグはそんな兄を救おうと、一人懸命に頑張る。そんなグレッグが夢のなかで「クラウドシティ」と呼ばれる天界に向かうシーンはこの作品の転機だ。ウォルト・ディズニーがミッキー以前に作って、フェリックス・ザ・キャットをパクったキャラクターを出して怒られた実写とアニメーションの合成シリーズ「アリス・コメディ」へのオマージュにあふれたシーンの連続はクラシックカートゥーンマニアにはたまらないものがある。
天界でグレッグは自分が救われる代わりに、兄を救うためにグレッグは大きな決断をする。
そしてそんなグレッグを救うためにワートにもまた危機が訪れる。グレッグを探し必死に森を走るワート。やはり2人を探すベアトリス。ワートは川に落ちてしまう。薄れゆく意識の中彼は夢を見る。「名もなき森」に来る前の、元の世界の夢を。
そこで初めて、ワートとグラッグがなぜ、「名もなき森」に迷うことになったかが描かれるのだ。
ワートとグレッグはおそらく80年台くらいのアメリカに住んでいて(ここで音楽も20世紀後半風になるのが最高にグッとくる)、ハロウィーンの仮装をして、町を歩いていたのだ。2人の妙な格好は仮装だったのだ(象と、おそらくドワーフ人形)。ここで幾つもの謎が解ける。ワートが恋をしているサラや、恋のライバルジェイソン・ファンダーバーカーも出てくる。グレッグがいつも釣れている蛙はこのときに捕まえたものであることも分かる。
そしてハロウィーンの肝試しに訪れた墓場で、2人は墓場の壁を乗り越えて、向こう側へと行ってしまう。そこで、彼らは川に落ちてしまうのだ。
そして行き着いた先が「名もなき森」なのだ。

なんだかこの作品、まるでいきなり銀河鉄道の中で始まる『銀河鉄道の夜』のような作品なのだ。ある程度進んでから、初めてなぜ銀河鉄道に乗ったのかの理由が回想で語られる。見事な構成。だが、仕掛けはこれだけではない。

川へ落ちたところで、この回想の役割も兼ねた夢は終わり、ワートは再び「名もなき森」で目覚め、グレッグを救うために走りだす。クライマックスへ向けて。
ここから分かることは、「名もなき森」とは生と死の狭間の世界なのだ。題名の『Over The Garden Wall』(壁の向こう)とは、この2人が乗り越えた墓場の壁のことを意味するとともに、生と死を分かつ壁を意味するのであろう。この作品全体が長い臨死体験を描いたものとして考えられる。
そこまでは良いが、この作品のものすごいところとして、一種の夢である臨死体験の中に入れ子に夢(グレッグの昇天)や臨死体験(ワートの回想)が描かれることだ。そう、川に落ちたワートが見たハロウィンの夢は、臨死体験をすることになった理由を回想していると同時に、臨死体験の中で臨死体験をして見ている夢でもあるのだ。このような多重構造を持ち込みながら、視聴者にほとんど気づかせないところはさすがの手際だ。
この作品の大枠は長い歴史を持つものである。死後の世界、地下世界に潜って、一度死んで生き返ることにより、主人公は本当の英雄になることができる。冥界下りの類型の一つだ。『銀河鉄道の夜』もその系譜の作品である。
回想において、ワートは異父兄弟のグレッグを疎ましく思い、ほとんどコミュニケーションを放棄している。そして、好きな娘と話すことさえ困難なほどシャイであり、ジェイソン・ファンダーバーカーに異様に引け目を感じている(サラは明らかにジェイソンを煙たがり、ワートに好意を抱いているにもかかわらず。というかワートはラノベの主人公かってくらいもてている気もする)。
それは「名もなき森」の中でも変わらない。しかしそんな中でも旅の中でワートは段々と自主性を発揮し、馬で駆けベアトリスを救い、機知を発揮して問題を解決し、見事な演奏も披露した。これは正に冥界下りの中で、主人公が英雄へと変貌していく物語だ。
しかし、物語の定石に則って、成長を見せ始めたワートを森はどん底に陥れる。ベアトリスに裏切られたワートは、森をあてど無くさまよい希望を失っていく。そして最後にグレッグも失ったとき、ワートには何も残らない。そんな状態でワートは川に落ちるのだ。
そこで、全てのひっくり返りが起こる。

映画とテレビ作品は普通に思われている以上に、実は文法から異なっている。映画とは灯りが暗くなるときに一度日常との繋がりを断ち切った向う側にある、全ての論理がひっくり返りうる「ハレ」の世界だ。
テレビはいくら非日常を描いても、それは日常に寄り添い、例え日常の論理とは異なっても、一定の論理の通用する「ケ」の世界だ。
「名もなき森」の世界も、非日常のようでいて、一定の論理が存在する「ケ」の世界なのだ。主人公たちはその「ケ」の世界を「水平」に動いていく。
主人公たちの目的は「帰還」もしくは「脱出」であるはずだが、その意識はかなり希薄だ。アデレードに会うという希望もあるにはあるが、あまり強くは打ち出されない。あてどもなくさまよっていると言ったほうが的を射ている。
それはまさに「ケ」の世界のありようだ。我々が日常感じている、どこかここでない場所へ行きたいが、どこへ行けば良いのかは皆目見当がつかないのと同じだ。
そういう意味で、この作品は優れてテレビ作品である。長編化したものも存在するが、やはり15分一本のフォーマットで少しずつ見るべき作品だ。
そしてこの異世界の日常に長く付き合い続けた末に出会う、二つの強烈な非日常。一つは「グレッグの天界への昇天」であり、もう一つは「ワートの川への転落」である。
どちらも、これまでの水平移動に対して、垂直の運動を含んでいる。水平と垂直の運動感覚は、我々の体に染み付いていて、しかもおそらく人類にかなり普遍的なものだ。多くの物語において、垂直運動が起こるのは、物語が大きく動くときであり、それはそれらの運動が状況の大きな変化をもたらすことを、我々が肉体的に理解することができるからだ。『ルパン三世 カリオストロの城』やティム・バートン版『バットマン』などのクライマックスでの塔の上昇が分かりやすい例だろうか。
そしてこれらは、聖俗の感覚や、此岸と彼岸の感覚と結びついている。
グレッグの天界は正に天国であり、これもまた死後の世界だ。ワートの川への転落は地獄をイメージさせる。水への落下が死の世界、地下世界への入り口になるのは、最近だと『ソング・オブ・ザ・シー』の井戸への落下がある。
グレッグの天界は、まさに「ハレ」の世界、論理が全てひっくり返ったカーニバルの世界を表現している。この天界と比べたら、「名もなき森」の世界はどこまでも日常的だ。
そして、上昇の後に転落。ワートが川へ転落して見る世界は、普通のアメリカの町だ。
しかし、ここまでこの作品に付き合った人間にはそれはただの町には見えない。非日常を日常として享受することを覚えた私たちには、その町はとても非日常的に見える。
なんというか、感覚的な言葉で語ると、グレッグの天界のときに感じたと同じように「何が起こるか分からなくて、ドキドキする」のだ。
この、「普通の世界を見る時の非日常感」こそ、この作品のハイライトだ。そして、それをハロウィーンの日に設定したのも、定番とはいえ、実に上手く効いている。ハロウィーンとは、精霊が地下世界からこちらの世界へ侵蝕してくる日であり、日常と非日常がひっくり返る「ハレ」の日である。決して、派手なハロウィーンが描かれるわけではないが、そのような日だからこそ、お祭りのような(実際お祭りなのだが)ドキドキ感を我々に感じさせる。(ちなみに『ソング・オブ・ザ・シー』もハロウィーンの日が舞台で、それはもちろん背景としては重要なのだが、モチーフとしてはあまり活かせていなかった印象がある。)
そして、この回想はなぜ彼らが「名もなき森」に来たかを説明するためにあるのだが、それ以上の意味がある。
サラが登場したり、ジェイソン・ファンダーバーカーが登場したり(彼の登場がこの作品で一番笑えるところなので、ぜひ期待して欲しい。「お前かい!」と誰もが驚くので。ワートくんはどれだけ自分に自信がないのかと泣けてくる)と伏線が次々と回収されることによって感じるカタルシスにごまかされてしまいがちだが、この回想があることによって、つまり、この作品が長い臨死体験であることが明らかにされることによって、初めて「名もなき森」をどう脱出すればいいかが分かるのだ。
単に目覚めればいいのだ。
そのためには森を克服しなくてはいけない。森を倒す、つまり森の主であるビースト、人々の魂を森に縛り付ける魔物を対決しなくてはいけないのだ。
これまでは、主人公たちは全く希望を持てないまま水平移動を繰り返していた。それが主人公をどんどん追い詰めていく。ここで垂直移動が加わることによって、初めて主人公が希望を持てる。彼らはそれが希望であるということには気づいていないだろうが。
ここの流れはあまりに自然なので、ここ以前で主人公たちには帰る手段がなく、これ以降には非常に単純な帰る手段があることに気づきにくいくらいだ。そこら辺は本当によく出来ている。ここでもおそらくハロウィーンであることが聞いてくるのだ。ハロウィーンだからこそ、森の主と対決する、という象徴的行為だけで、現世に帰って来れるということに納得できるのだ。
でも、ここで流れが大きく変わっていることは誰もが感じる。今まで何の目的もなく、ビーストに怯えながら森をさまよっていたのが、ここでグレッグを救うため、そして自分たちのホームに帰るために、ビーストと対決する、というのに一気に反転するのだ。
これは燃える。
そこにさらに一言付け加えるならば、注目して欲しいのは、これが臨死体験の中での臨死体験をきっかけに起きていることだ。
普通の神話なら、この世界から、あちらの世界、死後の世界に降りて行って、擬似的な死を経験して、英雄になってこちらの世界に帰ってくる。
しかしこの作品においては、あちらの世界、死後の世界を一度日常化し、そして臨死体験の中での臨死体験、そこで見るのは実際には「こちらの世界」なのだが、非日常化したこちらの世界において、ワートは「弟を救い、ホームに戻る」という自分の使命を見つけ直し、そして英雄として、あちらの世界に帰っていく。
臨死体験の入れ子という、一見奇抜な構成を、何の不自然さや奇を衒った感じを出さずに、活かしきるのはすごいとしか言いようがない。
細かいところはぜひ前情報無しで見て欲しい。そして何回も見て欲しい。細かい伏線の貼らせた作品なので、繰り返しみると思わぬ発見があってますます楽しくなる。
最初はあんなに情けなかったワートが主人公として成長したことを強く感じるはずだ。
また、単に騒がしい子どもに見えたグレッグの思わぬ負い目に心をグサリと刺されるかもしれない。
そして、初めてワートがグレッグに向き合い、グレッグの遊びに参加して、グレッグのために何かをしてあげた行為に感動して「完璧な名前だ!」と同意するだろう。
そういえば『ソング・オブ・ザ・シー』も妹という邪魔な家族をどう受け入れるかの物語だった。普遍的なテーマなのだろう。
この物語においては、ワートはグレッグという受け入れられなかった家族を受け入れることにより、同時にジェイソン・ファンダーバーカーの「名前の呪い」も克服する。ワートは、ジェイソン・ファンダーバーカー自身というより、脳内に生み出したジェイソン・ファンダーバーカーに負けていた、いわばジェイソン・ファンダーバーカーの「名前」に負けていたのだが、それをワートは「名付け」によって、その魔術に打ち勝つのだ(少し呪術的な思考法が響いているのかもしれない)。ここにも彼の成長が感じられる。

でも、ワート君にはぜひ童貞キモポエマーとして空回りしつつ生き続けて欲しいとも思う。ちなみにトランペット演奏付きの詩を録音したカセットは実際に売っていた。『For Sara』という題名で検索すると出てくるかも。
あと二次創作では、ビースト・ワート(角が生えビースト化したワート君)が人気だ。アイス・フィン、ビッパー(ビルに乗り移られたディッパー、と並んで「闇堕ち三銃士」だなんて呼ばれてる。

まとめてみると、この作品は、少年が「死後の世界」に行きかけて戻ってくると、少し世界が違って見えるようになる、という点でやはり『銀河鉄道の夜』を思い出させるものだ。「あちらの世界」の静かな奇妙さなども共通点があるだろう。自己犠牲の精神の美しさが語られるところも似ている。
しかし、そこはアメリカ。自己犠牲で他人のために死ぬなんてことを簡単に認めたりはしない。ジョバンニが彼岸へのあこがれに身を焦がされながら、カンパネルラを見送るしか無かったのと対照的に、ワートは自分のために命を捨てようとした弟を救うために、自らも身を挺して戦う。それによって、二人共生還するのだ。
うーん、アメリカだなあ、とは思うけど、別にばかにしてるわけではない。爽やかで、娯楽として完成されていて、とっても良いのである。

タウンページはともかく石原良純がゲシュタルト崩壊するのはいかんともしがたい


 
そもそも良純はこのCM、認知しているかも謎である。
しかし、電話帳というのも、必要なくなってしまったよなあ。
まあ、堕ちていく業界にしか作れない奇作というものがあるので、がんばってほしい。 

実は『スタートレック』見てないのに、『新スタートレック』を見始めた

ブックオフで買ったら、中身間違ってて、交換させたら、商品券もらった。今まで、さんざんトラブってきたけど、こんなサーヴィス初めてやぞ!
新スター・トレック DVDコンプリート・シーズン1 ― コレクターズ・ボックス新スター・トレック DVDコンプリート・シーズン1 ― コレクターズ・ボックス [DVD]
出演:パトリック・スチュワート
出版:CICビクター・ビデオ
(2002-07-05)
第一話から、いきなりジョン・デ・ランシー大活躍。この「Q」ってキャラクターが、マイリトルポニーの「ディスコード」の元ネタなんだよね。
 
アメリカのアニメ作品は、古いネタを平気で使う。未だに『サイコ』の風呂場のシーンとかやってるし、スタートレックとかも定番。
そもそも、日本と比べると古い作品を大事にするお国柄。ミッキーマウスとかトムとジェリーとか、フェリックス・ザ・キャットとか、100年近く前の作品が未だに、現役で新しい作品が作られてる。
しかも決して枯れた作品じゃなく、スーパーマンとかバットマンとか、マニアも食いつくコンテンツとして生き残っている。
歴史のない国だから、「これが自分たちの文化だ。だから大切にしていかなくては」という意識があるのだろうか。

マイリトルポニーも元ネタのある描写で一杯である。
 




 

「西のマイリトルポニー、東のジュエルペット」てな具合である。

ちなみにテレビ版『星のカービィ』は決して「和製サウスパーク」ではないので注意するように。あれは「和製シンプソンズ」である。フゥムはリサで、デデデがホーマーなのである。 

コラムの楽しみ

このブログで書評なんかをするときは、その本から読みとれる情報を徹底的に詰め込むのが基本方針になっている。
ちょっと詰め込み過ぎか、といつも思うぐらい。
でも、とにかく中身がつまっていれば面白いはずだ、という思いもある。
しかし、それとは全然違う文章作法ももちろんある。
例えば、吉田健一とか内田百閒の随筆は情報量が多いわけではない。読み終わったとき、何が書いてあったかなんて、いまいち思い出せない。
金沢・酒宴 (講談社文芸文庫)金沢・酒宴 (講談社文芸文庫)
著者:吉田 健一
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百鬼園先生言行録―内田百けん集成〈7〉   ちくま文庫百鬼園先生言行録―内田百けん集成〈7〉 ちくま文庫
著者:内田 百けん
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(2003-04)
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しかし、面白かったことだけは確かに覚えている。
書評や随筆やエッセイなんかを書くにあたって、大した内容はないのに、文体の力でそれを引き延ばして、しかも面白くすることができる人がいるのである。
そう言うスタイルの本場として、イギリスがあるのではなかろうか、と思う(吉田健一も英文学者だ)。
あの国は、上流であることにインテリであることが必要ではない、むしろインテリはアッパーミドルっぽくてダメだ、と思いかねない不思議な国で、だから内容がつまった「頭の良い文章」よりも、内容がなくてもしゃれっ気がある文章の方がたっとばれるような気がする(個人的見解)。
だからこそ、ジェローム・K・ジェロームやイーヴリン・ウォーのようなユーモア作家が生まれるのではなかろうか。
ボートの三人男 (中公文庫)ボートの三人男 (中公文庫)
著者:ジェローム・K. ジェローム
販売元:中央公論新社
(2010-03-25)
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大転落 (岩波文庫)大転落 (岩波文庫)
著者:イーヴリン・ウォー
販売元:岩波書店
(1991-06-17)
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そういう伝統が、新聞や雑誌にコラムを産みだしたのではなかろうか。
たいした問題じゃないが―イギリス・コラム傑作選 (岩波文庫)たいした問題じゃないが―イギリス・コラム傑作選 (岩波文庫)
販売元:岩波書店
(2009-04-16)
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この本に書いてあるのは、本当に大した問題ではなく、日常のこまごまとした、ちょっとした問題である。しかし、こういうものにこだわることにこそ、なんだか「英国性」という奴が潜んでいるような気がする。
国際問題とかに偉そうに発現するのはイケ好かないアッパーミドルで、本物の上流は、今年の天候が悪いから庭木の成長が悪いこととかを気にする、みたいな感じ。

そう言う、内容は対してないが、面白い英国的文章の使い手が、topgearの司会などで有名な自動車評論家のジェレミー・クラークソンだ。
私は車にそれほど興味はないが、この人の文章は好きなのでときどき読んでいるのだ。
ニコニコに日本語訳を載せてくれる殊勝な人がいるので、それを紹介して、今回は終わりにしよう。

まずは車と関係ないコラム。
辛いもの好きの方々はご存じであろう、Dave'sGourmet社製激辛ソース「insanity」の限定版についてのどうでもいい話だ。

いつの間にか、盛大な話になっているのが笑える。一体どんな辛さなことやら。

ひねくれ加減が良く分かる「スズキ スウィフトスポーツ」のレビュー

イギリス人らしい、自虐と矜持である。

こちらは新型の「スズキ スウィフト」

イギリスと言ったら、クラブ文化である。『バジルの優雅な生活』や『ジーヴスシリーズ』を思い出す。
車のオーナーズクラブもそんなクラブの一つと言える。

ジェレミーの車愛が良く分かるレビュー

涙なしには語れない

「日産 GT-R」のレビュー


進化したその新型のレビュー。

幾つかの保留付きとはいえ、べた褒めに近い
こういうのを読むと、自分のレビューの対象、つまり車とは何か、ということを、彼は真剣に、深く考えていることが分かる。

「ブリストル ブレニム」。ブリストルとは、同名の飛行機メーカーが第二次世界大戦が終わって、余った人員を使うために作った自動車メーカーで、ブレニムはもともとはブリストルの戦闘機の名前。ニコニコ大百科を引用すると、「25年前のようなデザインで、60年代のような内装のを、2000万円以上の高額で販売するという、日本人には理解できない商売をしている」とのこと。少量生産の高級車であるにもかかわらず別に質は高くないという、いかにもイギリスらしい、気の狂った会社である。数少ない純イギリス資本の車メーカー。



最後にジェレミーの環境問題に関する文章を。
賛同するかどうかはともかく、彼らしい意見で、とてもいい。


いつか、こういうのらりくらりと脱線ばかりで何の話してんのか分からないけど、さりげなくチクリと本質を突くようなスタイルで、書評なんかを書いてみたいものだ。

おまけ
イギリスの、クイズ番組と見せかけてただ単に時事ネタでおしゃべりするだけの馬鹿番組のジェレミーが司会の回。


なにやら日本の恥が映されてますね。お隣の恥と一緒になので我慢しましょう。

『恐竜惑星』『ジーンダイバー』に90年代半ばの複雑系ブームを見る

『恐竜惑星』や『ジーンダイバー』を見ていて思ったことを、少々(とか言って、少々じゃなくなったけど)。
恐竜惑星 DVD-BOX恐竜惑星 DVD-BOX
出演:柴田由美子
販売元:アミューズ・ビデオ
(2003-06-27)
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ジーンダイバー DVD-BOXジーンダイバー DVD-BOX
出演:白石文子
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(2003-12-26)
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この「ヴァーチャル三部作」は金子隆一のSF設定により、実に細部にこだわった作品に仕上がっていて、直接説明していない部分にも、面白いSFガジェットが溢れていたりする。
その一つに「フラクタライズ・エラー」という言葉がある。
それについて一席述べて見よう。

これらの作品はどれも、単なるシミュレーションに過ぎないはずのヴァーチャル世界が現実に影響を与えるという、基本骨格を持っている。

『恐竜惑星』においては、
情報密度がある特定の値を超えたところで、あたかもブラックホールのように情報空間の最高密度の領域で「縮退」の過程が起こり、この空間にアクセスできる他の平行宇宙へのワームホールが開いたのである。人間が、自分たちの地球の歴史の完全な再現シミュレーターとして作った世界は、いつの間にか、平行世界からもコンタクト可能な多元宇宙の交差点と化していたのだ。

『恐竜惑星』DVD一巻 特典 「恐竜惑星の世界 初期設定」より
としている。
これは、量子力学の解釈の一つ、「エヴェレットの多世界解釈」から来ている。それによると、この宇宙はいくつもの世界の重ね合わせで出来ていて、観測によってそれらの世界の一つが選ばれる。
それで、本来は分岐したまま、出会わなかったはずの、恐竜が絶滅して人類が進化した世界と、恐竜が絶滅せずに恐竜人類に進化した世界が、ヴァーチャル世界において、もう一度重なってしまったのだ。
そして、さらにヴァーチャル世界において起こったことが、その様々な世界に影響を与えることになる。例えばヴァーチャル世界で、哺乳類を滅ぼせば、人類は消えてしまう。
物語の後半では、「絶対的な観察者」=「宇宙の眼」を作ることにより、世界の分岐の中から好きな世界だけを選んで、他の世界を消そうとする敵が現れる、というストーリーになる。
なんだか、この部分は、「観測されなかった世界は、消えるのか、それとも分岐するだけなのか?」という矛盾する考え方の両方をとっているようで少し破綻してるし、観測者がどの世界を観測するのかを選べるのか? という部分に疑問が残るが、まあ細かすぎる突っ込みはやめておこう。

『ジーンダイバー』においては、そこら辺の理屈はあまり追及されずに、とにかくエラーによって情報量が爆発的に増え、それによって、シミュレーションが現実に影響を与えかねない、という話になっていた。
そこら辺は前作で追及したから、もう良い、ということだろう。むしろ、『ジーンダイバー』はそのエラーがなぜ、誰の手によって起こされたか、が追求される。
『恐竜惑星』では、エラーの理由は、単に「一度始まったシミュレーションは人の手を離れ、止まらなくなる」くらいの理由付けしかされていない。

共通する部分は、情報量がある臨界を越えると、シミュレーションが単なるシミュレーションではなくなって、現実に影響を与える、というところだ。
これはいわゆる「相転移」というやつで、ここには当時(1990年代中盤ごろ)ブームになっていた、複雑系の考え方の影響があるのだろう。
水の分子一つ一つの運動は、それほど複雑ではなく、予想もしやすい。
そして水の分子の運動は、0℃以下でも100℃以上でも、何の変化もない。
しかし、水の集団は、0℃以下になると凍り、100℃以上になると沸騰する(これを「相転移」と呼ぶ)。
統計的集団は、一つ一つの物からは予想もつかない現象を起こす。
そして相転移の中には、一見何の秩序もなかった集団に突然、秩序が生まれるようなものもある。
それはもちろん神秘的な何かがあるのではなく、単純な現象が大量に積み重なると、我々がその単純さから想像できる範囲を越えた現象が起こるのでびっくりするだけだ。
そしてそれを特に扱おうとする科学が「複雑系」だ。
例えば、「カオス」と呼ばれる現象では、地球の気候や、肉食動物と草食動物の個体数の変化など、比較的単純なルールに従う系が、予想外に複雑なふるまいをして、事実上予想不可能になってしまうことを扱う。
我々は単純な原因からは単純な結果しか出てこないと思いがちだが、それらが多量に集まると、まったく異なる様相を呈すことがあるのだ。
昔は、割と「単純な原因から単純な結果が出る」ものだけを扱っていたのだが、「複雑系」以降は、それじゃダメだ、ということになっていったのだ。
両作品の根底にある、「情報量が臨界を越えると、相転移を起こす」、「既知の物を大量に集めると、未知な現象が起こり得、そこでは技術的な予想可能性を抱えてしまう」などの考え方にはやはり、「複雑系」や「カオス」の考え方の影響が強い、と思われる

そして、その情報の増え方にも、当時のブームの影響がある。
『恐竜惑星』においては、コンピュータは「自己畳み込み型のホロ・フラクタル・メモリー・ユニットを大量に使用する史上初の実用機」とされている。
また、ジーンダイバーにおいて、情報が爆発的に増えたのは「コンピュータの暴走によるフラクタライズ・エラー」によって、ということになっている。
「自己畳み込み」とか「フラクタル」とかなんであろうか。
次のコッホ曲線が分かりやすいであろう。
Koch_curve_(L-system_construction)
この、「自分と同じ図形を自分の中に埋め込んでいく」ことが「自己畳み込み」であろう。
これを無限に行った図形は「自分の内部と相似な図形」=「フラクタル図形」となる(それを「コッホ曲線」と呼ぶ。「2次元の図形は長さを2倍すると全体の量が4倍になり、3次元の図形は長さを2倍にすると全体の量が8倍になる」という意味での次元〈ハウスドルフ次元orフラクタル次元〉を考えると、この図形は長さを3倍にすると全体の量が4倍になるので、この図形の次元はになる)

もともとは複雑な海岸線の長さを調べていくと、細かく見れば細かくみるほど細かい入り江の部分が加算され、長さが長くなっていき、事実上無限の長さを持つことになってしまうことから発見された概念である。上のコッホ曲線も、もしあの操作を無限回すれば、無限の長さを持つことになる。
海岸線以外にも、自然界の様々なもの、例えば、木(木、枝、葉脈、と自己相似になっている)、雲、雪の結晶、小腸の内壁、などがフラクタルになっている。
人体も、全ての細胞に、人体の設計図が入っているから、フラクタル的ではある。
この時代、複雑系ブーム、カオスブームの文脈から、フラクタルも大いに人口に膾炙したものなのだ。

『恐竜惑星』のコンピュータにおいては、この「自己畳み込み」は最初から備わっている機能で、それによって、どんどん情報量を増やし、いつの間にか人間の手を離れて行ってしまったのだ。
対して『ジーンダイバー』においては、「黒幕」の存在を窺わせるために、この「自己畳み込み」は普段は起きておらず、エラーによって起きたことにしてある。そのエラーが誰によって起こされたかが、物語の要点になるのだ。

ここでまた、細かい突っ込みをすると、フラクタルは自分と同じものを自分の中にたたみこむだけなんだから、実は情報量は増えない。
自分と違うものが中に入っていた方が、当然情報量は増える。
フラクタルというものは、一見複雑そうなものが、単純なルールからできることの例で、見かけほど情報量が多くないのだ。

実は数学者側からの理解では「フラクタル」は、
「今までは自然界にめったにないような単純なものしか扱えなかったけど、自然界に溢れるこんな一見複雑そうな図形も、実は単純なルールで出来ているから、かなり数学的に扱える」
という認識だったのだ。
ただ、大雑把な世間の需要の仕方は、「こんな変なものがある」程度で、それで科学の扱える範囲がまた広がった、という認識はなかったような気がする。

そして複雑系やカオス理論においては、そのギャップがますます大きかったようだ。
カ オス理論もまた、一見でたらめなものが、実は単純なルールに従っていることがあり、また逆にいえば、単純なルールに従っているにもかかわらず予想不可能な 振るまいをするものがある、という理論だった。
だからやはり、「今まで数学で扱えなかった複雑だったり予想不可能だったりする現象が数学で扱えるようになった(し、扱わなくてはいけない)」という考え方だった筈なのだが、この時期のヒット映画『ジュラシックパーク』をはじめ、おおむね勘違いされ、「世の中、科学じゃ分かんないことだらけよ」みたいな認識だったような覚えがある。
なんで、「科学に限界がある」ってことがそんなに嬉しいのだろうか。
科学じゃ分かんないことだらけなのは、科学をちゃんとやってれば誰だって知ってなきゃいけない話で、それでも少しずつ科学で分かることが増えることが大事なのに。(もちろん、カオスや複雑系に「科学による予想の限界」を明らかにした、という側面がなかったわけではない。しかし、科学の中でその限界の理由が分かったのは、大きな進展で、どこまで予想できるか、予想できないなりにどう対処すべきかを考えるのにますます科学に頼らなくてはいけなくなって、ますます科学は偉くなったともいえるのだ)

そう考えると、『恐竜惑星』も『ジーンダイバー』も、「フラクタル」に関しては、そういう通俗理解をなぞってる側面が無きにしも非ずだけど、でもそうしないと物語として面白くなりそうにないんだから、別に私は非難する気はないんである。
SFが通俗科学なのは当たり前。SFの目的は、科学を面白く誤用することなのである!
その点で『恐竜惑星』も『ジーンダイバー』も実に偉い。
さらに、「カオス」や「複雑系」に対しては、単なるカッコよさだけの「バズワード」としてだけ使ってる作品も多かったなかで、直接は言及せずに、分かる人にだけ分かる形に世界観に織り込むのはさすがである。
そしてそれが、科学の発展が人類の未来に必然的に持ちこむであろう予測不可能性に、正しく警鐘を鳴らしている、と言ったら褒めすぎであろうか。
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