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アニメーション

マイリトルポニー最終回 感想 取り急ぎ

本日2019/10/13日、アメリカでMy Little Pony Friendship is Magicが最終回を迎えました。
私は2012年のシーズン3が始まる前にハマったので足掛け7年ハマってたことになります。
当時興奮して、かなり長い連続評論を書いたのも懐かしい思い出です。

http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1492286.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1497113.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1497292.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1498711.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1498755.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1500025.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1499801.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1500094.html

さて、最終回ですが、基本的に上記の評論で書いた神話的な世界観が貫徹されたことも嬉しく感じました。しかし、7年の間に、マイリトルポニーには様々な要素が付け加わりました。その年月にも想いを馳せずに入られません。

当時私が注目したのは、世界各地に伝わる神話の構造やモチーフをこのアニメが見事に拾っていることです。世界各地の神話に同様な構造やモチーフが存在するのは、ある意味ではそれが我々人類にとってわかりやすくて面白いからです。それを有効に活用するのはとてもいいやり方です。
例えばマイリトルポニーにはアースポニー・ペガサス・ユニコーンの三種族が存在しています。アニメ内時代劇においては、それぞれ農民、戦士、天界の運行を司る魔法使いとして描かれていて、これは「主権・戦闘・生産」の三つの区分がインド・ヨーロッパ語族の神話に共通して見られると言うデュメジルの「三機能仮説」に一致します。馬の姉妹というのも、デュメジルがインド・ヨーロッパ神話に共通して見られる「馬の兄弟」のパターンと似ています。それが太陽と月と関連づけられることも、珍しくありません。
また、S1の冒頭を飾るナイトメアムーンとの戦いは、天岩戸の神話と同様に日食を意味する同時に、夏至の祭りに太陽が一度死に再び復活すると言う、新しい季節の一周りを祝う「死と再生の神話」でもあります。
そして、S2の冒頭を飾るディスコードとの戦いは、世界各地の神話に繰り返し語られる、混沌に対する秩序の勝利そのものです。
それらの世界観の裏に「調和」という軸が存在します。三種族が仲違いをした時、その調和が崩れ、恐ろしいウィンディゴが世界を極寒の破滅へと突き落とします。この不調和こそ、エクエストリアにとって、どんな悪役より一番恐ろしいものなのです。
そして、三種族を調和させるものこそ、副題にもある「友情」なのだ、ということがこの物語の大きなテーマなのです。

上記評論を書いたS2までは、そのような神話的世界がマイリトルポニーの大きな魅力でした。しかし、
S3でトワイライトはプリンセスになります。おそらく、当初の予定ではこれくらいで物語を終える予定だったのではないでしょうか。しかし、物語はまだまだ続き、マイリトルポニーにはそれから濁流のような様々な要素を受け入れ続けるのです。

S3の後では、エクエストリアス・ガールズという、「人間化(擬人化という言葉は不正確なので私は使いません)」シリーズが始まります。最初は不安がられましたが、一作目がそこそこ好評で、二作目『レインボーロックス』が作られ、これがものすごい大傑作だったことによって、今でも続くスピンオフシリーズになっています。
トワイライトのロマンスの相手で1作だけの予定だったフランシュセントリー君が、ファンの間でプチ炎上したことにより、その後微妙な変遷を経ることになることはもはや懐かしい思い出です(日本では彼を爆破するMADが流行りました)。
また一作目の敵役サンセット・シマーは二作目以降第二の主人公となり、私の一番好きなマイリトルポニーのキャラの一人にもなりました。

S4では古くからのファンには故郷のように懐かしいあの場所が失われショックを与えられると同時に、ドラゴンボールにも例えられる戦闘シーンが注目を浴びました。実際、予算が上がったのか、背景や動きのクオリティがかなり上がったように思えました。

そして重要なS5。スターライトグリマーの登場です。
彼女はある意味サンセットシマーの鏡のような存在でした。どちらも闇のトワイライトスパークルとしての属性を持っています。しかしサンセットシマーは他人を蹴落とす「行き過ぎた利己主義」の化身として、スターライトグリマーは全ての人間が自己を抑圧する「ゆきすぎた平等主義」の化身として。
共産主義のパロディとも見られたディストピアストーリーはヒューゴー賞の候補にもなりました。
マイリトルポニーが、このような政治的とも見られるテーマを扱うことに驚く声も聞きました。
しかし、これはシーズンが長続きするにあたって、とても自然なことだと今では私は思っています。
マイリトルポニーの面白さは、「友情」を「調和」の源と見なして、神話的に意味づけする一方、「友情のとても身近な問題」にとても細かい目配りをしてくれるところでした。
神話的なファンタジーに見せかけて普段している話は「一緒にオーディションを受けたら友達しか受からなくて、嫉妬してるんだけど応援しなくちゃいけない」「友達の友達がガラが悪くて付き合いにく。この前その子が万引きするところを見てしまった」みたいな、非常に(胃が痛くなるほど)リアルな友情問題なのです。
そして、S4以降、主人公たちがだんだんと大人になっていく、という変化が起こります。彼女たちは、エクエストリアの大人のポニーとしてキャリアアップして、様々な環境の変化を被って行きます。その中で友情問題として、社会の様々なリアルな問題を自然に扱って行きます。
一足とびに政治問題に直結させないところもマイリトルポニーの丁寧さではありますが、そこまでいけば少し足を伸ばせば簡単に政治信条の問題にもなるわけです。
それが、調和を見出すものとしての「行き過ぎた利己主義」と「行き過ぎた平等主義」。
これって、いわゆる「自由」と「平等」という、民主主義の要でありながら相矛盾しかねない二つのものの問題なわけです。そして、どうしてフランス共和国の標語は「自由、平等、友愛」だったのか、という問題にもつながるかもしれません。
それをサンセットシマーとスターライトグリマーという二人の魅力的なキャラに結実させるのは見事というしかありません。
特にスターライトグリマーは、最初仲間になると知った時、サンセットシマーとキャラが被らないかと心配だったんですが、S6以降、mane6とはまた違うトラウマ持ちの大人として見事なキャラ付けをされて、本当に惚れ惚れとしてしまいました。トリクシーとの関係性も、関係性のオタクはぜひ見て欲しい塩梅に仕上がっております。

mane6が大人になっていくことによって、マイリトルポニーは政治的なニュアンスを隠し持つようになります。
つまり、単純な調和の神話ではなく、「民主主義の神話」としての要素を持ち始めたのです。
私は別に民主主義を完璧な政治制度だとは思ってはいません。しかし、マイリトルポニーの歌い上げる「民主主義の神話」にはかなり感動させられたと告白します。
「民主主義の神話」と聞いて怖気付きそうな人には、「そんな怖いものじゃないし、基本的には身近な友情のメンテナンスをひたすらする話だから安心して」とも念のために言っておきます。
友情という身近な問題と、民主主義の問題、そして世界の調和が、なんとなく地続きになってるのが、マイリトルポニーの世界観の魅力だと、最終的には考えています。

その象徴が、トワイライトが作った友情の学校なんだと思います。
友情の学校によって、トワイライトはポニー以外の様々な種族との調和を図ろうとします。
多種族との調和は、初期のシーズンでもバッファロー相手にテーマになったことがありますが、羊は無造作に扱われ、おそらく特にテーマとして考えられてなかったと思われます。
しかしトワイライトがプリンセスになったあたりから、急に裏テーマとして少しずつ導入されました。
それを、学校という場を舞台に様々な種族の6人の生徒を中心に描き始める。
これも、ファンの間では賛否両論あったと記憶します。
6人の生徒の失敗が描かれるわけですが、これはmane6がやっていたことの繰り返しではないか。mane6はそれだけでシリーズ全体を引っ張るように入念に造形されていますが、この新たな6人の生徒はそれと比べるとキャラが弱いのではないか。
全て、一理あると私は思っていました。
しかし、この展開はかなり計算されたものだったと最終回後は思えます。
つまり、友情の神話を民主主義の神話に繰り上げするに当たって、学校という場、そして友情の魔法の伝授が必要とされたのでしょう。
世界を支えるものである以前に、社会を支えるものとしての「友情」と「調和」。そしてそれを次の世代へ引き継ぎ社会を支える施設としての「学校」。
そのために、難しい生徒6人のキャラ作りにあえて挑戦したのでしょう。
そして、これが最終回への大きな伏線になるわけです。

最終回、三種族の不和によるウェンディゴの出現を止めるきっかけになったのは、粗末な箱の上に乗った演説でした。
英語ではsoapboxといえば、演説のための間にあわせの台のことです。on a soapboxで演説をしているという意味になりますし、soapbox自体が演説することを意味する動詞にもなります。
それによって事態が好転することが、民主主義の神話でなくしてなんなのか、と言いたい。
英雄ではなく、異種族が合わさって調和を実現することによって、世界を救う物語が、民主主義の神話でなくしてなんなのか、と言いたい。

そして最終回、全2話で高らかに神話を歌い上げたのにバランスを取るような、いつもの日常回。
ラストバトルの後にmane6が向かったドーナツ屋と同様に、S1のラストを思い起こさせ、ファンへの思いやりを感じます。
ここで友情はもう一度、調和という神話的概念でもなく、民主主義という政治的概念でもなく、いつもどこか調子悪くて、いつもメンテナンスしなくてはいけない、厄介だけど付き合ってはいけない身近な問題に戻ります。
友情は面倒なものです。なのであまり背負いすぎず、上手に荷を下ろして上手く付き合いましょう。そうすれば悪いものではないですよ。といういつもの順当であまり面白くないかもしれないけど、何度確認しても忘れがちな結論に帰ってくるのです。
これぞマイリトルポニー。まさにマイリトルポニー。
いいアニメでした。

カートゥーン版『銀河鉄道の夜』? 『Over The Garden Wall』

『Over the Garden Wall』は2人の奇妙な格好をした兄弟が森の中を歩いているシーンで唐突に始まる。弟のグレッグは陽気に歌など歌っている。兄のワートは何か不機嫌だ。2人共どこへ向かっているのだろうか。家に帰る途中なのだと本人達はいう。しかし、2人はそもそもそこがどこなのかも分かっていなさそうだ。
そんな2人に青い鳥が話しかける。道案内してやろうと。弟は素直に聞こうとするが、兄は鳥がしゃべるなんて変だと無視して行こうとする。そして木こりに道を聞こうとする。
しかしその木こりも様子が変だ。
どうやらこの森には「ビースト」という恐ろしい存在がいるようだ。もしかしたらこの木こりがビーストなのだろうか。木こりが持っているランプの燃料は森に迷い込んだ子どもたちの魂なのだろうか。
兄弟と青い鳥ベアトリスの「名もなき森」を抜け出るための奇妙な冒険が始まる。
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とにかくわからないことだらけで始まる話だ。題名の意味も分からない。キャラクターも初見で魅力的だとは言いかねる。
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ただ、背景の美しさにまず引き込まれる。昔からカートゥーンはキャラクターではなく背景美術で世界観を作る。背景美術の幅の広さがカートゥーンの幅の広さを作っている。とくに最近のカートゥーンはどれも背景が美しい。『アドベンチャー・タイム』のパステル画のような色彩、『スティーブン・ユニバース』の結晶質の空。そして『オーバー・ザ・ガーデン・ウォール』の絵葉書のような仄暗い森。まるで少し怖い絵本のようだ。
画面に舞い飛ぶ朽葉の乱舞に見とれながら、謎を追いかけていくうちに、いつの間にか我々は話に引きこまれていく。まるで我々も「名もなき森」に迷い込んでしまったように。
この物語はそうそうは謎を解かせてはくれない。まず我々に与えられていくのは、それぞれのキャラクターの背景の一部だ。キャラクターをその行動と仕草で描いてくれるのもカートゥーンの良い所だ。見た目では地味に見えたキャラクターたちが活き活きと動き出す。
ワートは登場していきなり珍妙な「詩」めいたものを独りごちる奇妙な少年だ。何事にも消極的で、いつも流れに身を任せている。そして弟のことをはっきりと嫌っている。
グレッグは天真爛漫なトラブルメーカーだ。事態を良い方にも悪い方にも転がしていく。愛らしいが、他のキャラクターからはちゃんと疎まれている描写があるのが、作品としてのバランスを保っていて、いやらしく感じない。子どもの過度の子どもらしさとその無邪気な肯定は、ときに作品に暴力的な臭みを与える。
ベアトリスは、2人を助けてくれる人アデレードのところに案内しようとしてくれている青い鳥だが、かなりの毒舌家だ。ワートのことを自主性の欠片もないでくのぼうだと言ってはばからず、グレッグにはそんな兄を見習えと暴論を言う。酒場から追い出された際には店主を口汚く罵り、ろくな死に方をしないと呪ったりもしていた。
謎は一向には解けないが、これらのキャラクターの魅力に気付くことにより、話にますます引き込まれていく。そしてキャラクターの背景が見えてくることにより、謎が深まっていく構成も見事だ。
ワートは訪れた村で電話を借りようとする。では、これは現代の話なのか。しかし、その村はどうも現代の村とは思えない。18世紀以前のように見える。しかし別の場面では、19世紀っぽかったり、20世紀初めっぽかったりする(外輪で動く蒸気船などがある)。音楽は全体的に20世紀はじめの雰囲気だ。だが、そもそも「名もなき森」の時代を考えることは無駄であろう。皆が訪れた村では骸骨になった死人が蘇り、南瓜の仮面を被って踊りを踊る。船の上では正装した蛙が楽器を演奏する(このシーンの蛙の歌はものすごく良い。本当に良いので聞いて欲しい)。
「名もなき森」はこの世ならぬ異界、それも「死の匂い」が濃厚な「彼岸」なのだ。そこでは様々な時代が入り混じっている。様々な時代の死者たちがいることを考えれば自然であろう。
しかしワートたちはもともとこの「名もなき森」にいたわけではないのだ。ワートは自分は高校生だという。グレッグは父親の違う弟だとか。ワートは様々な時代の建築様式に詳しく、それが話を解決するのに役だったりする(時代の異なる建築様式が混じっていることに気付いたのだ)。そしてクラリネットを吹き、サラという少女に恋をしているが、ジェイソン・ファンダーバーカーという何もかも彼よりすぐれている男に邪魔されている。ワートはどうやらほぼ現代の人間と見て良さそうだ。その彼がどうして、こんな奇妙な森に迷い込んだのか。
物語作者としての手腕は、謎を謎のままにしながら、どれだけ読者を惹きつけ続けられるかに現れる。自信がなければ謎をさっさと解き明かさざるを得ない。せめて少しずつ謎を解いて、読者に餌を与え続けないといけない。しかしこの作品では、謎はほとんど解けないまま、ふしぎな世界を旅し続ける。
謎はもちろん、背景美術の美しさ、キャラクターの魅力に自信があるからだ。最初は明らかに反目しあっていたワートとベアトリスが狭いとところに閉じ込められて、仕方なくお互いの来歴について語るうちに、だんだんと互いを理解し接近していくところなど、「定番だなあ」と思いながらも引きこまれ、ワートが好きな女の子についてベアトリスに語っている所を見ると、自然に胸が熱くなるのを感じる。
このままこの魅力的な世界観に浸っていたくなる。ワートはそんな元の世界の女の子ではなく、ベアトリスと暮らせばいいのにと、むちゃくちゃなことを考えたりもする。
しかし、そこに破局がもたらされる。ベアトリスは呪いで家族もろとも青い鳥にされてしまい、呪いを解く方法を探している。そのベアトリスの行動の謎が明かされて、物語は急に暗くなる。
ここら辺りは実際に見て欲しい。
希望を失ったワートはだんだんと弱っていき、グレッグはそんな兄を救おうと、一人懸命に頑張る。そんなグレッグが夢のなかで「クラウドシティ」と呼ばれる天界に向かうシーンはこの作品の転機だ。ウォルト・ディズニーがミッキー以前に作って、フェリックス・ザ・キャットをパクったキャラクターを出して怒られた実写とアニメーションの合成シリーズ「アリス・コメディ」へのオマージュにあふれたシーンの連続はクラシックカートゥーンマニアにはたまらないものがある。
天界でグレッグは自分が救われる代わりに、兄を救うためにグレッグは大きな決断をする。
そしてそんなグレッグを救うためにワートにもまた危機が訪れる。グレッグを探し必死に森を走るワート。やはり2人を探すベアトリス。ワートは川に落ちてしまう。薄れゆく意識の中彼は夢を見る。「名もなき森」に来る前の、元の世界の夢を。
そこで初めて、ワートとグラッグがなぜ、「名もなき森」に迷うことになったかが描かれるのだ。
ワートとグレッグはおそらく80年台くらいのアメリカに住んでいて(ここで音楽も20世紀後半風になるのが最高にグッとくる)、ハロウィーンの仮装をして、町を歩いていたのだ。2人の妙な格好は仮装だったのだ(象と、おそらくドワーフ人形)。ここで幾つもの謎が解ける。ワートが恋をしているサラや、恋のライバルジェイソン・ファンダーバーカーも出てくる。グレッグがいつも釣れている蛙はこのときに捕まえたものであることも分かる。
そしてハロウィーンの肝試しに訪れた墓場で、2人は墓場の壁を乗り越えて、向こう側へと行ってしまう。そこで、彼らは川に落ちてしまうのだ。
そして行き着いた先が「名もなき森」なのだ。

なんだかこの作品、まるでいきなり銀河鉄道の中で始まる『銀河鉄道の夜』のような作品なのだ。ある程度進んでから、初めてなぜ銀河鉄道に乗ったのかの理由が回想で語られる。見事な構成。だが、仕掛けはこれだけではない。

川へ落ちたところで、この回想の役割も兼ねた夢は終わり、ワートは再び「名もなき森」で目覚め、グレッグを救うために走りだす。クライマックスへ向けて。
ここから分かることは、「名もなき森」とは生と死の狭間の世界なのだ。題名の『Over The Garden Wall』(壁の向こう)とは、この2人が乗り越えた墓場の壁のことを意味するとともに、生と死を分かつ壁を意味するのであろう。この作品全体が長い臨死体験を描いたものとして考えられる。
そこまでは良いが、この作品のものすごいところとして、一種の夢である臨死体験の中に入れ子に夢(グレッグの昇天)や臨死体験(ワートの回想)が描かれることだ。そう、川に落ちたワートが見たハロウィンの夢は、臨死体験をすることになった理由を回想していると同時に、臨死体験の中で臨死体験をして見ている夢でもあるのだ。このような多重構造を持ち込みながら、視聴者にほとんど気づかせないところはさすがの手際だ。
この作品の大枠は長い歴史を持つものである。死後の世界、地下世界に潜って、一度死んで生き返ることにより、主人公は本当の英雄になることができる。冥界下りの類型の一つだ。『銀河鉄道の夜』もその系譜の作品である。
回想において、ワートは異父兄弟のグレッグを疎ましく思い、ほとんどコミュニケーションを放棄している。そして、好きな娘と話すことさえ困難なほどシャイであり、ジェイソン・ファンダーバーカーに異様に引け目を感じている(サラは明らかにジェイソンを煙たがり、ワートに好意を抱いているにもかかわらず。というかワートはラノベの主人公かってくらいもてている気もする)。
それは「名もなき森」の中でも変わらない。しかしそんな中でも旅の中でワートは段々と自主性を発揮し、馬で駆けベアトリスを救い、機知を発揮して問題を解決し、見事な演奏も披露した。これは正に冥界下りの中で、主人公が英雄へと変貌していく物語だ。
しかし、物語の定石に則って、成長を見せ始めたワートを森はどん底に陥れる。ベアトリスに裏切られたワートは、森をあてど無くさまよい希望を失っていく。そして最後にグレッグも失ったとき、ワートには何も残らない。そんな状態でワートは川に落ちるのだ。
そこで、全てのひっくり返りが起こる。

映画とテレビ作品は普通に思われている以上に、実は文法から異なっている。映画とは灯りが暗くなるときに一度日常との繋がりを断ち切った向う側にある、全ての論理がひっくり返りうる「ハレ」の世界だ。
テレビはいくら非日常を描いても、それは日常に寄り添い、例え日常の論理とは異なっても、一定の論理の通用する「ケ」の世界だ。
「名もなき森」の世界も、非日常のようでいて、一定の論理が存在する「ケ」の世界なのだ。主人公たちはその「ケ」の世界を「水平」に動いていく。
主人公たちの目的は「帰還」もしくは「脱出」であるはずだが、その意識はかなり希薄だ。アデレードに会うという希望もあるにはあるが、あまり強くは打ち出されない。あてどもなくさまよっていると言ったほうが的を射ている。
それはまさに「ケ」の世界のありようだ。我々が日常感じている、どこかここでない場所へ行きたいが、どこへ行けば良いのかは皆目見当がつかないのと同じだ。
そういう意味で、この作品は優れてテレビ作品である。長編化したものも存在するが、やはり15分一本のフォーマットで少しずつ見るべき作品だ。
そしてこの異世界の日常に長く付き合い続けた末に出会う、二つの強烈な非日常。一つは「グレッグの天界への昇天」であり、もう一つは「ワートの川への転落」である。
どちらも、これまでの水平移動に対して、垂直の運動を含んでいる。水平と垂直の運動感覚は、我々の体に染み付いていて、しかもおそらく人類にかなり普遍的なものだ。多くの物語において、垂直運動が起こるのは、物語が大きく動くときであり、それはそれらの運動が状況の大きな変化をもたらすことを、我々が肉体的に理解することができるからだ。『ルパン三世 カリオストロの城』やティム・バートン版『バットマン』などのクライマックスでの塔の上昇が分かりやすい例だろうか。
そしてこれらは、聖俗の感覚や、此岸と彼岸の感覚と結びついている。
グレッグの天界は正に天国であり、これもまた死後の世界だ。ワートの川への転落は地獄をイメージさせる。水への落下が死の世界、地下世界への入り口になるのは、最近だと『ソング・オブ・ザ・シー』の井戸への落下がある。
グレッグの天界は、まさに「ハレ」の世界、論理が全てひっくり返ったカーニバルの世界を表現している。この天界と比べたら、「名もなき森」の世界はどこまでも日常的だ。
そして、上昇の後に転落。ワートが川へ転落して見る世界は、普通のアメリカの町だ。
しかし、ここまでこの作品に付き合った人間にはそれはただの町には見えない。非日常を日常として享受することを覚えた私たちには、その町はとても非日常的に見える。
なんというか、感覚的な言葉で語ると、グレッグの天界のときに感じたと同じように「何が起こるか分からなくて、ドキドキする」のだ。
この、「普通の世界を見る時の非日常感」こそ、この作品のハイライトだ。そして、それをハロウィーンの日に設定したのも、定番とはいえ、実に上手く効いている。ハロウィーンとは、精霊が地下世界からこちらの世界へ侵蝕してくる日であり、日常と非日常がひっくり返る「ハレ」の日である。決して、派手なハロウィーンが描かれるわけではないが、そのような日だからこそ、お祭りのような(実際お祭りなのだが)ドキドキ感を我々に感じさせる。(ちなみに『ソング・オブ・ザ・シー』もハロウィーンの日が舞台で、それはもちろん背景としては重要なのだが、モチーフとしてはあまり活かせていなかった印象がある。)
そして、この回想はなぜ彼らが「名もなき森」に来たかを説明するためにあるのだが、それ以上の意味がある。
サラが登場したり、ジェイソン・ファンダーバーカーが登場したり(彼の登場がこの作品で一番笑えるところなので、ぜひ期待して欲しい。「お前かい!」と誰もが驚くので。ワートくんはどれだけ自分に自信がないのかと泣けてくる)と伏線が次々と回収されることによって感じるカタルシスにごまかされてしまいがちだが、この回想があることによって、つまり、この作品が長い臨死体験であることが明らかにされることによって、初めて「名もなき森」をどう脱出すればいいかが分かるのだ。
単に目覚めればいいのだ。
そのためには森を克服しなくてはいけない。森を倒す、つまり森の主であるビースト、人々の魂を森に縛り付ける魔物を対決しなくてはいけないのだ。
これまでは、主人公たちは全く希望を持てないまま水平移動を繰り返していた。それが主人公をどんどん追い詰めていく。ここで垂直移動が加わることによって、初めて主人公が希望を持てる。彼らはそれが希望であるということには気づいていないだろうが。
ここの流れはあまりに自然なので、ここ以前で主人公たちには帰る手段がなく、これ以降には非常に単純な帰る手段があることに気づきにくいくらいだ。そこら辺は本当によく出来ている。ここでもおそらくハロウィーンであることが聞いてくるのだ。ハロウィーンだからこそ、森の主と対決する、という象徴的行為だけで、現世に帰って来れるということに納得できるのだ。
でも、ここで流れが大きく変わっていることは誰もが感じる。今まで何の目的もなく、ビーストに怯えながら森をさまよっていたのが、ここでグレッグを救うため、そして自分たちのホームに帰るために、ビーストと対決する、というのに一気に反転するのだ。
これは燃える。
そこにさらに一言付け加えるならば、注目して欲しいのは、これが臨死体験の中での臨死体験をきっかけに起きていることだ。
普通の神話なら、この世界から、あちらの世界、死後の世界に降りて行って、擬似的な死を経験して、英雄になってこちらの世界に帰ってくる。
しかしこの作品においては、あちらの世界、死後の世界を一度日常化し、そして臨死体験の中での臨死体験、そこで見るのは実際には「こちらの世界」なのだが、非日常化したこちらの世界において、ワートは「弟を救い、ホームに戻る」という自分の使命を見つけ直し、そして英雄として、あちらの世界に帰っていく。
臨死体験の入れ子という、一見奇抜な構成を、何の不自然さや奇を衒った感じを出さずに、活かしきるのはすごいとしか言いようがない。
細かいところはぜひ前情報無しで見て欲しい。そして何回も見て欲しい。細かい伏線の貼らせた作品なので、繰り返しみると思わぬ発見があってますます楽しくなる。
最初はあんなに情けなかったワートが主人公として成長したことを強く感じるはずだ。
また、単に騒がしい子どもに見えたグレッグの思わぬ負い目に心をグサリと刺されるかもしれない。
そして、初めてワートがグレッグに向き合い、グレッグの遊びに参加して、グレッグのために何かをしてあげた行為に感動して「完璧な名前だ!」と同意するだろう。
そういえば『ソング・オブ・ザ・シー』も妹という邪魔な家族をどう受け入れるかの物語だった。普遍的なテーマなのだろう。
この物語においては、ワートはグレッグという受け入れられなかった家族を受け入れることにより、同時にジェイソン・ファンダーバーカーの「名前の呪い」も克服する。ワートは、ジェイソン・ファンダーバーカー自身というより、脳内に生み出したジェイソン・ファンダーバーカーに負けていた、いわばジェイソン・ファンダーバーカーの「名前」に負けていたのだが、それをワートは「名付け」によって、その魔術に打ち勝つのだ(少し呪術的な思考法が響いているのかもしれない)。ここにも彼の成長が感じられる。

でも、ワート君にはぜひ童貞キモポエマーとして空回りしつつ生き続けて欲しいとも思う。ちなみにトランペット演奏付きの詩を録音したカセットは実際に売っていた。『For Sara』という題名で検索すると出てくるかも。
あと二次創作では、ビースト・ワート(角が生えビースト化したワート君)が人気だ。アイス・フィン、ビッパー(ビルに乗り移られたディッパー、と並んで「闇堕ち三銃士」だなんて呼ばれてる。

まとめてみると、この作品は、少年が「死後の世界」に行きかけて戻ってくると、少し世界が違って見えるようになる、という点でやはり『銀河鉄道の夜』を思い出させるものだ。「あちらの世界」の静かな奇妙さなども共通点があるだろう。自己犠牲の精神の美しさが語られるところも似ている。
しかし、そこはアメリカ。自己犠牲で他人のために死ぬなんてことを簡単に認めたりはしない。ジョバンニが彼岸へのあこがれに身を焦がされながら、カンパネルラを見送るしか無かったのと対照的に、ワートは自分のために命を捨てようとした弟を救うために、自らも身を挺して戦う。それによって、二人共生還するのだ。
うーん、アメリカだなあ、とは思うけど、別にばかにしてるわけではない。爽やかで、娯楽として完成されていて、とっても良いのである。

マイリトルポニーは女の子向けアニメの新境地を開拓し続けてるなあ

『マイリトルポニー』は大きなお友達の多さから、アメリカの『プリキュア』だと言われたりするけど、内容的には女の子向けに容赦なくえげつないネタを入れたり、パロディネタを入れたりと、どちらかと言うと『ジュエルペット』に近い。特に『ジュエルペットサンシャイン』に。
しかし、その『ジュエルペットサンシャイン』すらそんなのやらねえよ、というネタがだんだんと入るようになって、びっくりする。
なんというか妙にリアルでドキッとするのだ。
もともと『マイリトルポニー』は、「友達の友達がガラが悪くて付き合いづらく、万引きをしているところを目撃してしまったりして、どうしたら良いかわからない」とか、「目立つことが好きな子を差し置いて、目立つことが嫌いな子が芸能界デビューしてしまい、片方は嫉妬の心を隠して応援し、もう片方は本当はそんな仕事したくないのに応援されているからには頑張らなくちゃと思って、両方不幸になる」とか、リアリティにあふれるエグい話が目白押しだった。
シーズンが進むに連れ、ストーリーのエグさは減る傾向にあるものの、普通のアニメではやらないような「女のアルアルネタ」をギャグに昇華する手並みにはほとほと感心する。
例えば、シーズン3のディスコード改心回『Keep Calm and Flutter On』では、皆がフラタシャイのことを内心でどう思っているかが現れてしまうシーンが秀逸。

フラタシャイ自身も、自分がどう思われているかわかっているのもいい。おとなしいキャラだって、心のなかにはいろいろと抱えているのが自然なのだ。フラタシャイはそれをうまく表に出すのが一番下手だからこそ、つまりいつも一番我慢しているからこそ、この話では怒りを内面に抑え続け、最後までディスコードを信じようとすることが出来たのだ。つまり、弱さを持つキャラクターの強さがうまく演出できていて、感心する。だからこそ、彼女にも見捨てられた時のディスコードの驚きが表現されるんだよな。
しかし、その弱さに秘められた強さが、一見ただの「間抜けさ」に見えることをギャグとして提示してしまうのがいいんだ。
次に、シーズン4の傑作『Simple Ways』では、お化粧が大好きなラリティが泣くと、涙でマスカラが溶けて、涙が真っ黒になるという、今まで見たことがなかった描写が入る。

アメリカではこれが萌え要素の一つだというから恐ろしいが、もう腹を抱えて笑いましたよ、ほんと。
この描写はスタッフもよほど気に入ったのか、その後ラリティ号泣シーンの定番となり、さっそくシーズン4の『Inspiration Manifestation』でも黒い涙を流し、しかもアイスクリームを馬鹿食いするという、これまた女特有の行動を取るというおまけ付き。もう可愛いなあ。

シーズン5の最新話『Tanks For The Memories』では、女の子特有の「誰かが泣いていると、関係ない奴まで一緒くたに泣き始める」という謎行動を見事に活写。

泣いてない奴が謎の疎外感を感じるという理不尽なおまけ付き。あとラリティさんまた黒い涙流してるよ。それぞれのキャラクターの違いを行動として表現できているのがグッド。
ここらへんの描写を見事にギャグにしてしまうところが嫌味がなくていいなあ。別に女を批判しようと言うんじゃないんだ。面白いなあ、変だなあ、と男も女自身も思ってるだけで。
愛だよ、愛。
 

女児アニメでディストピア物とは恐れ入る 『マイリトルポニー』 シーズン5

とうとうマイリトルポニーのシーズン5が始まったね。
放送時間(日本時間の土曜日の深夜)にはパソコンの前でかぶりつきで見てるよ(どうやって見てるかは秘密。まあ、EQDに行けば分かるんだけど)。
さて、その第一話(厳密には1・2話。マイリトルポニー FiMでは、シーズンはじめは必ずヴィランを倒す前後編になっている)は、いきなり女児アニメとは思えない思い代物だった。

 

女児アニメでも共産主義批判とはさすがアメリカさんやでえ! という感じである。
まあ、共産主義批判(というか過度の平等主義批判)と言っても、それほど深い内容ではなく、狭い部屋への監禁と抑揚のない洗脳放送など、この手のものの定番をなぞったような感じだが、それでも女児アニメでこれをやられるとちょっと異様な感じがする。
もう、「見てるのはどうせ成人男性ばかり」と居直ってるんじゃないかと思わせる感じだ。「平等の杖」はどう見たって、『新世紀エヴァンゲリオン』の「ロンギヌスの槍」だし。だったら、スターライト・グリマーがやりたかったことは「ポニー補完計画」なのだろうか。
後編冒頭のドアを叩いている音を聞いたとき、「どこかで聞いたような」と思って一生懸命思い出したら、これだった。
 
これは『Papers, Please』っていう、架空の共産主義国で、入国審査官になるっていうゲームを、マイリトルポニーの登場人物を主人公として実況する、というシリーズなんだけど、このスタンプを押す音が、なんだかドアを蹴る音に似ていたような気がしたのだ(実際聞いてみると別に似ていないが)。
まあ、なによりこのゲームも共産ディストピア物だしね。これって、もともとの意図としては、「かわいいマイリトルポニーのキャラを、似合わない世界観の中で動かして、違和感を楽しむ」って感じだと思うんだけど、本編でその世界観を出してしまうというところが、マイリトルポニーのすごいところだといえよう。
互いに監視しあう住人とか、仲間に入るために、誰かを密告しなければいけない(そうすることで、組織への忠誠度を試している)とか、かなりエグい描写も入れてる。

しかし、アメリカ産の共産嫌いも年季が入ってるなあと思ったわけだが、よく考えたら『マイリトルポニー』のシリーズはそこら辺のバランス感覚も結構うまくてきているのかもしれない。
昨年2014年の秋に公開された、『マイリトルポニー』の人間化(「擬人化」という言葉は明らかに誤用なので)による劇場用映画シリーズ『Equestria Girls』の二作目「Rainbow Rocks」のヴィランは過度の競争主義を標榜していたのだ。


 
一作目を見ていない人は、一作目から見ることをおすすめする。人間化と聞いて最初はびっくりしたが、これがかなり可愛くてよく動いて音楽も良くて、いいのだ。特に二作目はmane6もサンセット・シマーもヴィラン(特にソナタ)もみんなむちゃくちゃ可愛い。フラッシュセントリーは別にどうでもいいよ。
一作目のヴィラン、 サンセット・シマーも「自分が一番」というキャラだったが、2作目のヴィランズ、ダズリングズは、この「自分が一番」という心を人々に植えつけることにより、混乱をもたらす。
もちろん、それを主人公たち、そして全開のヴィランであるサンセット・シマーが友情の力で打ち破る、という筋になるわけだ。
なるほど、ここで自由競争主義にチクリとやっていたから、返す刀で平等主義にグサリとやれるわけだ。
子ども向けアニメにちょっとメッセージを込めるときの、いいバランス感覚と言えないだろうか。「自由」と「平等」の矛盾を「友愛」で止揚するなんて、なんだかフランス革命以来の伝統すら感じる(考え過ぎだろ)。
「Equestria Girls」の方も、第三作目に向けて動いているみたいで、シーズン5直前のタイミングで新作クリップが発表されたりしてる(ネットで小出しにするのは、「Equestria Girls」のライバルであり先達である『モンスター・ハイ』の手法)。



シマーさんの新衣装も可愛いし、mane6も可愛いし、ラリティは当然可愛いし、もう最高である。音楽も、いろんなテイストが交じり合っていて飽きない。
この調子なら三作目も期待できそうだ。人間界のトワイライトがどう話に絡んでくるのか。フラッシュセントリーとの関係は結局どうなるのか。もし進展してしまったとして、ブロニーは暴動を起こさないのか。いろいろわからないことだらけだが。

とにかう、しばらくは日々の楽しみが増えそうである。善哉善哉。 

『Star vs the Forces of Evil』のスターが既知外可愛い

先行放送がアメリカでなされてさっそく世界中の一部の人々で話題になっている。

異世界から魔法使いのプリンセスが来る、といフォーマットは『魔法使いサリー』とか『魔女っ子メグ』とか、昔ながらの「魔女っ子もの」である(起源はさらに遡って海外ドラマの『奥様は魔女』。それに対して、普通の少女が魔法のアイテムなどを手に入れて、魔法が使えるようになるのが、『秘密のアッコちゃん』から「ぴえろ魔法少女シリーズ」に繋がる「魔法少女もの」の流れだ)。
しかしこの「魔法(物理)」的な雰囲気は『大魔法峠』を髣髴とさせるな。肉体言語で殴ってるやんけ。
でも実際可愛いなあ。声が低いのもいい。日本のアニメ声高すぎ。
 
OPのノリノリなのも良いが、EDのちょっと落ち着いてるのも好きだ。最近はアメリカのアニメもEDに歌が入るようになってきて、これはたぶん日本アニメの影響なんだろうけど、これは特に日本アニメっぽい。歩いているところとか。左から右に歩くのはいかにもアメリカだけど(日本のアニメはキャラクターの移動方向は基本右から左。敵と対峙するときも、右に味方左に敵。アメリカはどっちも逆になる。文字を読む方向であろう)。
いろいろと日本アニメっぽさがありながら、それでもやっぱり日本アニメと全然違うナチュラルハイバイオレンスな感じが面白そうだ。
主人公がラテン系なのも今まであまり覚えがないね。人種のバランスに気を使うのはいかにもディズニーだね。ママ美人だな。パパはちょっとステレオタイプすぎないか心配だが・
とにかく本放送はいつなのか、日本での吹き替えはいつなのか、吹き替え声優は誰なのか。楽しみに待とうではないか。

スタッフによるエピソードポスターも可愛い!
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