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政治

オブジェクト指向、正確にはメッセージ指向でアジャイルな社会に向けて

縁あって教育関係の仕事が回ってくるが、文句も溜まる。いくつかの提案もある。が、ここではその話はしない。
そんなことより重要な点は、どのような改革にしても、高校の教育を変えようとすると、いつも大学受験との兼ね合いがボトルネックになる、ということなのだ。
さらに、大学受験、ひいては大学教育を変えようとすると、企業の就職システムとの兼ね合いになり、企業を変えようとすると云々、とどこまでも続いていく。
これを断ち切る必要がある。

そもそも教育改革、さらに広くは社会改革において、議論されているのはいつも目の前の問題にどう対処するのかばかりで、もう一つ上のレベルから(かっこいい言葉を使いたければ「メタレベル」と言うべし)俯瞰することが出来る人はあまりいない。
どんな対策も成功するかもしれないが失敗するかもしれない。そう考えると、結局失敗が怖くて動けなくなったり、成功か失敗かをちゃんと評価することなく、短期的な結果に振り回されて、振り子のように極端から極端に揺れることを続けることになってしまう。 
教育に関してもその他に関しても、いろんな人がいろんな見方から考えた最適解があるのだろう。その相矛盾するものの中からどれを選べばいいかなんて、試す前に決定できるわけがない。
ではどうすればいいのか。
改革がしやすい世の中。これが今我々が作るべき社会である。

そのための一つのものの見方が「オブジェクト指向(正確にはメッセージ指向)」である。

文明誕生以来何千年間、我々は現在の状況が永遠に続くと考え続けていた。全ての政治権力は自分たちが永遠だとみなし続けていた。
それはひとえに、記憶媒体および歴史痕跡の読み取り能力の貧弱さによる。文字のない社会は約100年以上の歴史を持てない。それ以前のことは神話や伝説、世間話の中に解け入ってしまう。だから100年暖かい気候が続けば、その間に食物を増産し、人口を増やし続ける。もし100年前の気候に揺り戻されたらとても維持できないほどに。
最近の気候歴史学の成果によれば、このような飢饉は幾度も起き、歴史上のさまざまな国家帝国がこのように滅びていったのである。 
歴史を変えた気候大変動 (河出文庫)
ブライアン フェイガン
河出書房新社
2009-02-04



ギリシャ哲学がどんなに偉かろうと、彼らには歴史がほとんどない。この50年で、我々がアクセスできる歴史の知識は決定的に増えた。人類誕生以前、生命誕生以前、太陽系誕生以前の歴史を踏まえて、我々人類の歴史を語ることが出来るし、そこまで踏まえないで語るのはもう時代遅れなのだ。
多くの「地球温暖化」の議論で欠けているのは、この歴史感覚だ。まるで人類が何もしなければ地球の気候はずっと一定であるかのような口ぶり。
人類が何もしなくたって、気候は変わるし、生物は絶滅していく。
もちろん現在の気候変動や生物絶滅は以上で、是正すべきだが、もし現在の気候や生態系を保つことが目的なら、それは更なる傲慢以外の何者でもないことを覚えておくべきだろう。

地球環境は変わるし、社会も変わる。変わらないものは何もない。その中で、変わりにくいものと変わりやすいものを見極めて生きていかなくてはいけないのだが、人類はすぐにそのことを忘れて、今現在の状況が永遠に続くと考えて、そこに最適化したシステムを作ろうとしてしまう。
早すぎる最適化は諸悪の根源」ならば、社会という荒波の中の小船(「government」の語源は「cybernetics」と同じく「船の舵取り」である)にとっては、どんな最適化だって早すぎる可能性が高い。
現在の教育就職システムはその好例と言えるかもしれない。最適化されたシステムはモジュール同士が密接に絡み合い、無駄がない。ゆえに状況と適合しているときは、高い効率を示す。かつての日本でのように。
しかし上手くいかなくなったときは悲惨だ。一つのモジュールの挙動を変えようとすると、他の全てのモジュールにも手を加えなくてはいけない。その複雑性ははっきり言って、人の手に負える代物にはならない。 
こんなことはシステム開発の常識だろう。
しかし残念ながら、全知識人の常識とはなっていない。
知識の最前線は、世界の複雑性と一番相対している人々にある。その一つは明らかにソフトウェア業界の人々であり、その知識(システム論、プロジェクト論、組織論、テスト論)には聞くべきことが多い。
特に変わっていく状況の中を、どう乗り切っていくかに注目した「アジャイル」という方法論のセットは注目であり、全知識人の教養にしていくべきだと思う。
ソフトウェア業界では、「仕様」、つまり「何を作ればいいのか」がどんどん変っていってしまう」という現象が起こりがちである。なぜなら、顧客が自分の求めているものを上手く説明できない、そもそも顧客が自分が求めているものを自分で分かっていない、という状況すら存在するからである。そんな中で、あまりに早く計画を隅々まで積めてしまうと、あとで変更が聞かなくなって身動きできなくなったりしがちである。全員プロジェクトが上手くいっていないことに気付いているにもかかわらず、誰も意味のある対策が出来ない状態に陥り、プロジェクトはデスマーチ化していく。
そんな中、短いサイクルで評価と計画を繰り返し、身軽にプロジェクトを進めることにより、状況の変化を乗り越えよう、というのが「アジャイル」な考え方である。
その重要な目標は「品質を保ったまま変化が出来る」「迅速に無駄なく動ける」「最初に全てを決めてなくても動ける」「大量の文書ではなく、実際に効果のあるものを作れる」ということだ。
その手法群の中で、必須とはいえないが、アジャイルとセットでよく語られる「オブジェクト指向」という考え方で教育システムを見直してみよう。

ただ「オブジェクト指向」と言ってもピンきりで、ここではより創始者アラン・ケイの主張に近い「メッセージ指向」を考えている(Javascriptみたいなプロトタイプベース・オブジェクト指向はシンプルで好きだが、Javaみたいなタイプベース・オブジェクト指向はおおむね糞なんではないかと個人的には考えている。まあ私はプログラミングに関してはただのアマチュアだが)。
この考え方では、システムと言うものを、オブジェクト(なんでもいいので一まとまりになっている物)の間を飛び交うメッセージとして考えている。メッセージを受け取るとオブジェクトは何かをして、またメッセージを出す(場合によっては返す)。
たとえば、会社の中の会社員は、会社、あるいは上司からメッセージを受け取る。メッセージを受け取った社員は何かして、メッセージを返す。
そのメッセージがあらかじめ決めておいた要求に合うものだったら、その社員はそこにいられて、合わないものだったら、首になる。
重要なのはメッセージであり、オブジェクトではないし、オブジェクトの中身では絶対にありえない。
オブジェクト同士は相手の中身を知らないまま、交換し合うメッセージだけを見て、システムを運営できる。
これはモジュール同士が疎結合である、ということだ。システム設計で、モジュール同士を疎結合にすることはとても大切なことだ。 
そうしておけば、他の部分を変えないまま、一部をごっそり入れ替えることが出来る。その部分を改良することも簡単だし、改良した結果を計測しようとすることも分かりやすい。
結合が密になっていては、改良しても、一体どの部分の改造が効果を出しているのか分からないし、システムのボトルネックも見えにくい。
失敗したときに直すのも楽だ。
教育システムの正しい姿はここにある、と私は考える。
中学・高校は小学校に対してメッセージの形で要求を与えるし、大学も高校へ、企業も大学へメッセージを送る。
そのメッセージをどう決めるのか、と言う部分を徹底的に設計しなくてはいけないのだ。
それによって、これらの社会のモジュールが疎結合になるようにしなくてはいけない。大学は高校教育の細密にまで口を出してはいけないし、企業は大学教育の細密にまで口を出すべきではない。
そうすれば、大学教育を変えずに高校教育を変えることが出来、そうすればその効果だって計測可能になるかもしれない。
もちろん、このような疎結合なシステムは、最高の効率性を示すことは出来ない。
しかし昔と考えればさまざまなものがとてつもなく効率的になっている。このくらいの非効率は我慢できるのではなかろうか。

ちなみにこれはもっと広い分野に適応可能である(あまり広く適応すると、バズワード化して無意味になっていくが)。
社会とはそもそもなんだろうか。
社会とは「人々」のことではなく、「メッセージの流れ」だ、と見てはいかがだろうか。
実際社会学で「イデオロギー」が問題になったり、「記号学」が使われたりするのは、社会がメッセージの流れの総体であることの証拠ではなかろうか(どちらもメッセージに関するものだ)。
良い社会を作るために、社会のメッセージを 鍛える必要がある。

つまり、もっとさまざまなものが「仕様化」、つまり「暗黙の了解ではなく、ちゃんと言葉にすること」がされなくてはいけない、ということだ。
会社は社員に何を要求するのか。つまり会社から社員へのメッセージをもっと仕様にすべきではなかろうか。
その仕様がしっかり出来ていれば、会社が社員の内面にまで踏み入る必要はなくなる。
実際に起きていることは、仕様化がなされていないので、その人に何が出来るかをその人の内面にまで踏み込んで調べて、システムとその人を密結合したりする。
すると一時的な効率は上がるかもしれないが、結局身動きが出来なくなる。
その人が変わっていく(会社にとって悪い方向かもしれないが、良い方向かもしれない)ことを妨げるし、その人がいなくなったときに、システムを作り直すか、もしくは後釜を内面まで魔改造する必要が出来てしまう。
会社と社員を疎結合にしておけば、会社の外ではその人はもっとさまざまなことが出来るし、もし気が向けば会社のためにもっとスキルを磨くことが出来る。
疎結合のほうがそのような改良も行いやすいし、その社員の評価を計測することもやりやすくなる。
(追記:これは普通の言葉で言うと「労働力の流動性を高める」という話だが、それだけではない。労働力の流動性を高める前に済ませておくべきインフラ整備とは何か、という問題なのだ。会社が社員に求める要求の仕様化をしなければ、労働力の流動化をしたって、首にしやすくしただけに過ぎず、転職先でますます苦労するだけになってしまいがちだ。会社も社会も人間も、もっとアジャイル、つまり身軽にならなければ、生き残れない)

結局何が言いたいかというと、「もっと人間を交換可能な社会の歯車にしよう! 」ということだ。
「交換可能な社会の歯車」になれば、社会が内面(交換不可能な部分がより多い)まで踏み込んでくることは少なくなるし、そうすれば内面の生活を別に持てる。そこでいろいろ楽しいことをすればいいのだ。
もちろん、才能のある人の中には交換不可能な仕事をする人もいる。
しかしあなたの仕事はそうなの?
もし、大して面白くない仕事なのに、あなたでないと上手くいかない仕組みになっていたら、何かおかしいところがあるのかもしれないよ。 

偏見について

偏見を持つことはそれほど問題ない。
むしろ、偏見を持たないようにすることは、知らないうちに偏見を持ってしまうことに繋がって、問題を起こしやすく。それよりは自分は何らかの偏見を持っていると意識している方がましなくらいだ。
問題は、人々の偏見が偏ってしまうことだ。
必要なことは、人々が満遍ない偏見を持つようにすること。
満遍ない偏見は、社会的にむしろ良い作用さえ及ぼすだろう。 

選挙にて

衆院選初めてな知り合いが、紙に記入する場所が二種類あることに気付かずに、間違った場所に行こうとして、選管の人に、
「お客様」
と呼びかけられ、正しい場所を指示されていた。

帰り道、話題は当然その「お客様」という呼びかけに集中した。
「俺たちって、お客様なのか?」
「いや、どう考えても違うと思うんだが……」

しかし、その他の呼びかけの候補、「国民様or市民様」「選挙民様」等、どれも納得できず、結局一番しっくり来たのが、
「おいお前!」
と横柄に呼びかけるイメージなのだった。
なんかディストピア物みたいでかっこいい!

選挙カーが通るたびに民主主義よりも封建主義の方が優秀だという呉智英の意見に与したくなる

うるさくて無内容でムカつくのです。
封建主義者かく語りき (双葉文庫)封建主義者かく語りき (双葉文庫)
著者:呉 智英
販売元:双葉社
(1996-07)
販売元:Amazon.co.jp
読み継がれるべき名著。
たとえ民主主義を取るにしても、他の選択肢がある中から、根拠づけて選ぶべきで、まるで民主主義が先天的に正しいかのごとく盲信するべきではない。
その相対化のためにも読んでおくべき本。
もちろん答えはいつだって、知的刺激に溢れた極端にはなく、退屈な中道にあることを肝に銘じておく必要はあるが。

けんさく。発生1周年記念記事


果肉感たっぷりってなんだよ!?

いや、『なっちゃん』の話なんだけどさ。
リンゴ味もみかん味も。
果肉たっぷりじゃないのかよ!?
「果肉感」で ググったら結構いろんな商品ヒットするしさ。
自分の言葉に疑問持ったりしないのか?
とか考えてたら『午後の紅茶』まで「ミルク感たっぷり」ときたもんだ。
 もうこうなったら、「おいしさ感たっぷり」とか「便利感たっぷり」とか「お得感たっぷり」とか、
「自由感たっぷり」とか「平等感たっぷり」とか「国民主権感たっぷり」とか、
もっと普及すればいい!
だってそれで充分なんでしょ?
「感」で。 
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