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奇跡

ロンギヌスの槍の発見について

歴史とは偉業の積み重ねではなく、際限ない愚行の連続である。そのそびえたつ糞の山のような愚行の積み重ねが、科学や文化の精髄を産んだのもまた、歴史の皮肉のひとつであろう。そんな愚行の中で、割とお気に入りなのが野蛮なキリスト教徒が突如イスラム諸国を攻撃するというそれ自体愚行である珍事件、第一回十字軍の主要な攻城戦の一つ、アンティオキア攻囲戦の後半に起きた聖槍発見事件である。
アンティオキアを陥落させたはいいが、寄り道をしていたために遅れてやってきた援軍に逆に包囲されて、十字軍は絶体絶命の窮地に立たされていた。部隊の多数が脱走して仲間を見捨ててコンスタンティノープルに帰ってしまい、市内に残った兵士たちは彼らによって勝手に死んだことにされてしまっていた。
そんな中、残った一行の中にいた貧しい修道士ペトロス・バルトロメオという男が、聖アンデレを幻視して、市内にキリストを刺した「ロンギヌスの槍」が埋まっている、と主張したのだ。ちなみに彼らは皆飢えていて、そのほかにも幻覚を見る者は多かった。
このとき別の本物と言われる聖槍がコンスタンティノープルにはあって、教皇使節はそれを見たことがあるので、当然この話を信じなかったが、他の人たちは藁にもすがる思いでこれを信じた。そしてみんなで市内の聖ペテロ寺院を掘るんだが、見つからない。そこでバルトロメオが自ら穴の中に入るとあら不思議、槍の先を持って出てくるではないか。まさにゴッドハンド。これは本物に違いない。こうして勢いに乗った十字軍兵士たちは、敵援軍を蹴散らし、見事に脱出して生還しましたとさ。めでたしめでたし。

となればいいんだが、世の中には何時だって空気を読まない疑い深い人間がいるものだ。そいつがペトロス・バルトロメオはうそつきだと主張した。あまりに都合がよすぎるんじゃないかと考えたのだ。まあ、勝ったからいいじゃないか、とも思うのだが、ここでペトロス・バルトロメオもなぜか黙っちゃいない。相手にしなけりゃいい物を、真っ向勝負、ここは聖書の舞台となった土地なのだから、聖書にあるように神明裁判で決着を付けようじゃないか。こうしてバルトロメオは自ら火のついた板壁に挟まれた隙間に飛び込んで、ひどいやけどを負って12日間苦悶した後に死んでしまいましたとさ、めでたしめでたし。

ここで気になるのが、バルトロメオはうそつきだったのかどうか、という部分だな。発見した槍が仕込みだったのなら、そんな無茶な神明裁判なんかするのだろうか、それなりに神を信じていたであろうに。それとも調子にのって仕込みであることを忘れてしまったとか。もしくは本当に偶然都合よく槍を発見したのだろうか。そしたらどんな気持ちでやけどに苦しんでいたのであろうか。それが聖槍かどうかはともかく、この人は嘘はついていなかったのに。イエスが十字架上で言ったと言われる有名な言葉でもつぶやきたくなったりしなかったんだろうか。

どう解釈してもこの話には甘美な間抜けさが残る。それがこの話のいいところである。

マリー・アンジュの奇跡(^p^).。o○

奇跡が好きだ。

まずここで言っておかなくてはいけないことは、奇跡と科学は別に矛盾しあわないということだ。
科学とは何回も起こり再現性があって、状況がコントロールできるときにのみ行える。しかし奇跡とは、一回限りで、そのときどんな状況だったかなんて知りようがない物なのだ。勘違い、記憶違い、幻覚、思いこみ、悪戯、詐欺、そして偶然が、よってたかって状況を混乱させることによって奇跡は起こり、科学はそこには手が出せないし、出したいとも思わない。量子力学まで視野に入れれば、この世界というのはどんな素っ頓狂なことだって非常に低い確率で起きうる場所なのだ。原因と結果の関係は多くの場合こんがらがり切ってしまい、とても解せない。結果をコントロールできる主要な原因がちゃんとある場合だけではないのだ。しかし、再現性があるものに限って言えばそれは科学で対処でき、そしてこの世界を生きていくのには、それだけでも万々歳なのだ。今のところ奇跡と呼ばれている現象も、再現性ができれば、つまり起こし方が分かれば、科学の領分に入ってくる。そうして奇跡じゃなくなるのだ。
しかし、奇跡がこの世から消えることはない。計算に入れるのが無理なほど、確率の低い現象は山ほどあるし、人間の心というのはときどき、起こり得ないことが起こってしまったように思ってしまうようにできているのだ。
そういう意味で、奇跡という奴は、何時だって「その他」のカテゴリの住人なのだ。
そして奇跡というものには、人間の本質的な間抜けさがなぜだか染み出してしまうらしい。奇跡と呼ばれる現象にたくまざるユーモアが交じってしまうのはそのためだろう。

「奇跡」カテゴリの記念すべき一個目の記事である今回は、私の大好きな奇跡である、「キリストと接吻した少女」を紹介したい。
エリック・サティやユイスマンスと交友し、19世紀パリでの呪いによる暗殺事件にも関わった魔術ジャーナリスト、ジュール・ボワの『悪魔主義と魔術』にあるエピソードである。

1816年、フランスの田舎にマリー・アンジュという17歳の少女がいた。キリストやマリアの言葉を自動筆記したり、片方のつま先でくるくる回りながら予言をしたりすることで評判だった。しかし、彼女が起こす一番すごい奇跡は、キリストの接吻を受けると同時に、口の中に甘いシロップを注ぎこまれ、やがて後から後から、おびただしい量のシロップを、どくどく吐き出し続けたことだった。
そしてここからが大好きなところなのだが、驚きあきれた人たちが、このシロップを指の先ですくって舐めてみたところ、実に甘くて美味だったというのだ。
舐めたのか、と読んでいて思うでしょ。舐めるかなぁ、と思う人が多いと思う。そりゃ舐めるでしょ、という人がどれくらいいるものか。
ここでは最初からシロップだと分かっているみたいに書いてあるけど、その場にいた人たちにはそんなことは分からない。17の少女が突然恍惚としたかと思うと、口からどぼどぼと粘っこい液体を垂れ流しはじめるのだ。普通はシロップとは思わない。それを、「そりゃあ、舐めてみるでしょ」と本気で言う人と友達になるのは少し勇気がいる。
さらに、キリストの接吻が熱烈になってくると(イエスが熱烈なキスをするというのは、絵的に想像しにくいが)、若い娘は、口から色とりどりのきれいなボンボンを吐き出したという。
ボンボンだと分かっているってことは、やっぱり食べてみたんだろうなあ、とこれを読んで思うのだ。
しかし納豆やチーズや舌ピアスなどを鑑みるに、こう言う勇気ある人たちが人間の文化を発達させてきたのであろう。ゆめゆめ馬鹿にしてはいけない。

あと、この話が個人的に好きなのは、この話にほのかな性的な興奮を感じるからだと、ここで告白しておこう。若い娘が口から大量の粘液を出しているのは異様だが、少しグッと来ないだろうか。私は割と来る。ルチオ・フルチの口から内臓を全部出してしまう女を思い出す。こう言う肉体の不自然で無理やりな変化というものに、私はどうも性的興奮を感じるようで(『ピノキオ』のロバへの変身とか、『解放されたエルサレム』の魚への変身とか)、この話はどストライクではないが、かなりいいところをこすって、じゃなくて、かすっているのだ。

最後に、17歳という年齢も、ちょうどいいという話をしよう。日本でも「霊感少女」を少女が発症しやすいのは大体この年齢だ。自分は特別だと信じ込みたいのに、だんだん信じ込めなくなっていく時期なのだ。そこで霊感というわけだ。霊感には証拠もくそもないので、否定しようがなく都合がよいのだろう。日本の霊感少女もぎゃあぎゃあと喚くだけじゃなく、口から大量のシロップを垂れ流してくれれば、うっとおしい以上の価値を認めてやってもいいのに。

ネタ本
東西不思議物語 (河出文庫 121A)東西不思議物語 (河出文庫 121A)
著者:澁澤 龍彦
河出書房新社(1982-06)
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霊感少女研究ならこれ。
霊感少女論霊感少女論
著者:近藤 雅樹
河出書房新社(1997-07)
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この本によると美術学校では霊感少女発生は五月に多いとか。自分の特別性を証明するために意気揚々と学校に通い始めて、自分が特別でも何でもないことに(無意識下で)気付きはじめるのがだいたいこの時期だとか。そう言えば涼宮ハルヒがSOS団を作ったのは……

(追記、3月25日:その後、『霊感少女論』を読みなおしたところ、著者が通っていた美術学校に霊感少女が多く、そして皆自己顕示欲が強く、己れの特別性を信じたがっている女性ばかりだったという話はあったものの、それが五月に多いという話は発見できなかった。しかし私は、この話をどこかで読んだ覚えが確かにあるのだった。もしかしたら私も、何らかの霊感により、「大統領が押し入れからヘルメットを出す」みたいな、見てはいけない物を見てしまったのであろうか。)
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