将棋の局面は先手後手のそれぞれの盤面上の駒がどこにあるのかと、盤面上に無い駒が先手後手どちらの手駒かで完全に決まる。つまり、将棋の局面は有限個しかない。
そしてその中のいくつかが、正しい手を打てば必ずどちらかが勝つ局面、つまり「詰め将棋」と呼ばれる局面だ。
よって詰め将棋は有限個しかない。
有限個しかないのなら、その詰めまでの長さの最大値がある。
よって次の命題、
「最大の長さの詰め将棋が存在する」
が証明されたことになる。
ここにはある種の数学の証明が具える美しさがあるような気がする。それが存在することは教えてくれるけど、それが何なのかについてはまったく教えてくれない。この手の「非構成的証明」を数学に導きいれたのは伝説によればDavid Hilbertでその証明をみた高名な数学者が「これは数学ではなく神学だ」と言ったとか。そしてこれが現代数学の幕開け(のたくさんあるうちの一つ)となったのだ。
で、今現在の数学の潮流はといえば、
「できることなら構成的証明にしてもらった方がありがたい」
という常識的なものだ。特に計算機数学との兼ね合いでは、「存在はしているが何なのかは分からない」じゃ応用のしようがないもんな。
でも、何だかロマンチックではないか。「確かに存在はするけれど、具体的に何かは分からない」物というのは。
この無数にあるように見えて実は有限個しかない、局面の中のどれか一つは確実に、それ以上の長さの物が存在しない詰め将棋という、特別なものなのだ。適当に駒を並べた物が偶然それになることも、確率0ではないのだ。
このことを知っただけで、少しだけ世界が変わったような気がする、そんな知識の一つに、私は数えたい。
ちなみに今知られている最長の詰め将棋はこれである。
ミクロコスモス
驚異の1525手詰め。ちゃんとした詰め将棋になっていることも確認済みらしい。
動かしてみると一定のリズムで鼓動を打つように似た局面が繰り返し、良く出来たライフゲームを思い出す。ほとんど同じ局面を繰り返しながら、それでも少しずつ変化していき、最後には止まってしまう。これは生物のホメオスタシスと死に似ている。
「ミクロコスモス」とは人体が宇宙の縮図になっているという、古い考え方の名前である。それならば、この生命的な挙動をするシステムにその名前をつけるのは、それなりの必然性があるのかもしれない。
そしてその中のいくつかが、正しい手を打てば必ずどちらかが勝つ局面、つまり「詰め将棋」と呼ばれる局面だ。
よって詰め将棋は有限個しかない。
有限個しかないのなら、その詰めまでの長さの最大値がある。
よって次の命題、
「最大の長さの詰め将棋が存在する」
が証明されたことになる。
ここにはある種の数学の証明が具える美しさがあるような気がする。それが存在することは教えてくれるけど、それが何なのかについてはまったく教えてくれない。この手の「非構成的証明」を数学に導きいれたのは伝説によればDavid Hilbertでその証明をみた高名な数学者が「これは数学ではなく神学だ」と言ったとか。そしてこれが現代数学の幕開け(のたくさんあるうちの一つ)となったのだ。
で、今現在の数学の潮流はといえば、
「できることなら構成的証明にしてもらった方がありがたい」
という常識的なものだ。特に計算機数学との兼ね合いでは、「存在はしているが何なのかは分からない」じゃ応用のしようがないもんな。
でも、何だかロマンチックではないか。「確かに存在はするけれど、具体的に何かは分からない」物というのは。
この無数にあるように見えて実は有限個しかない、局面の中のどれか一つは確実に、それ以上の長さの物が存在しない詰め将棋という、特別なものなのだ。適当に駒を並べた物が偶然それになることも、確率0ではないのだ。
このことを知っただけで、少しだけ世界が変わったような気がする、そんな知識の一つに、私は数えたい。
ちなみに今知られている最長の詰め将棋はこれである。
ミクロコスモス
驚異の1525手詰め。ちゃんとした詰め将棋になっていることも確認済みらしい。
動かしてみると一定のリズムで鼓動を打つように似た局面が繰り返し、良く出来たライフゲームを思い出す。ほとんど同じ局面を繰り返しながら、それでも少しずつ変化していき、最後には止まってしまう。これは生物のホメオスタシスと死に似ている。
「ミクロコスモス」とは人体が宇宙の縮図になっているという、古い考え方の名前である。それならば、この生命的な挙動をするシステムにその名前をつけるのは、それなりの必然性があるのかもしれない。