『恐竜惑星』や『ジーンダイバー』を見ていて思ったことを、少々(とか言って、少々じゃなくなったけど)。
恐竜惑星 DVD-BOX
出演:柴田由美子
販売元:アミューズ・ビデオ
(2003-06-27)
販売元:Amazon.co.jp
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ジーンダイバー DVD-BOX
出演:白石文子
販売元:アミューズソフト販売
(2003-12-26)
販売元:Amazon.co.jp
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この「ヴァーチャル三部作」は金子隆一のSF設定により、実に細部にこだわった作品に仕上がっていて、直接説明していない部分にも、面白いSFガジェットが溢れていたりする。
その一つに「フラクタライズ・エラー」という言葉がある。
それについて一席述べて見よう。
これらの作品はどれも、単なるシミュレーションに過ぎないはずのヴァーチャル世界が現実に影響を与えるという、基本骨格を持っている。
『恐竜惑星』においては、
これは、量子力学の解釈の一つ、「エヴェレットの多世界解釈」から来ている。それによると、この宇宙はいくつもの世界の重ね合わせで出来ていて、観測によってそれらの世界の一つが選ばれる。
それで、本来は分岐したまま、出会わなかったはずの、恐竜が絶滅して人類が進化した世界と、恐竜が絶滅せずに恐竜人類に進化した世界が、ヴァーチャル世界において、もう一度重なってしまったのだ。
そして、さらにヴァーチャル世界において起こったことが、その様々な世界に影響を与えることになる。例えばヴァーチャル世界で、哺乳類を滅ぼせば、人類は消えてしまう。
物語の後半では、「絶対的な観察者」=「宇宙の眼」を作ることにより、世界の分岐の中から好きな世界だけを選んで、他の世界を消そうとする敵が現れる、というストーリーになる。
なんだか、この部分は、「観測されなかった世界は、消えるのか、それとも分岐するだけなのか?」という矛盾する考え方の両方をとっているようで少し破綻してるし、観測者がどの世界を観測するのかを選べるのか? という部分に疑問が残るが、まあ細かすぎる突っ込みはやめておこう。
『ジーンダイバー』においては、そこら辺の理屈はあまり追及されずに、とにかくエラーによって情報量が爆発的に増え、それによって、シミュレーションが現実に影響を与えかねない、という話になっていた。
そこら辺は前作で追及したから、もう良い、ということだろう。むしろ、『ジーンダイバー』はそのエラーがなぜ、誰の手によって起こされたか、が追求される。
『恐竜惑星』では、エラーの理由は、単に「一度始まったシミュレーションは人の手を離れ、止まらなくなる」くらいの理由付けしかされていない。
共通する部分は、情報量がある臨界を越えると、シミュレーションが単なるシミュレーションではなくなって、現実に影響を与える、というところだ。
これはいわゆる「相転移」というやつで、ここには当時(1990年代中盤ごろ)ブームになっていた、複雑系の考え方の影響があるのだろう。
水の分子一つ一つの運動は、それほど複雑ではなく、予想もしやすい。
そして水の分子の運動は、0℃以下でも100℃以上でも、何の変化もない。
しかし、水の集団は、0℃以下になると凍り、100℃以上になると沸騰する(これを「相転移」と呼ぶ)。
統計的集団は、一つ一つの物からは予想もつかない現象を起こす。
そして相転移の中には、一見何の秩序もなかった集団に突然、秩序が生まれるようなものもある。
それはもちろん神秘的な何かがあるのではなく、単純な現象が大量に積み重なると、我々がその単純さから想像できる範囲を越えた現象が起こるのでびっくりするだけだ。
そしてそれを特に扱おうとする科学が「複雑系」だ。
例えば、「カオス」と呼ばれる現象では、地球の気候や、肉食動物と草食動物の個体数の変化など、比較的単純なルールに従う系が、予想外に複雑なふるまいをして、事実上予想不可能になってしまうことを扱う。
我々は単純な原因からは単純な結果しか出てこないと思いがちだが、それらが多量に集まると、まったく異なる様相を呈すことがあるのだ。
昔は、割と「単純な原因から単純な結果が出る」ものだけを扱っていたのだが、「複雑系」以降は、それじゃダメだ、ということになっていったのだ。
両作品の根底にある、「情報量が臨界を越えると、相転移を起こす」、「既知の物を大量に集めると、未知な現象が起こり得、そこでは技術的な予想可能性を抱えてしまう」などの考え方にはやはり、「複雑系」や「カオス」の考え方の影響が強い、と思われる
そして、その情報の増え方にも、当時のブームの影響がある。
『恐竜惑星』においては、コンピュータは「自己畳み込み型のホロ・フラクタル・メモリー・ユニットを大量に使用する史上初の実用機」とされている。
また、ジーンダイバーにおいて、情報が爆発的に増えたのは「コンピュータの暴走によるフラクタライズ・エラー」によって、ということになっている。
「自己畳み込み」とか「フラクタル」とかなんであろうか。
次のコッホ曲線が分かりやすいであろう。

この、「自分と同じ図形を自分の中に埋め込んでいく」ことが「自己畳み込み」であろう。
これを無限に行った図形は「自分の内部と相似な図形」=「フラクタル図形」となる(それを「コッホ曲線」と呼ぶ。「2次元の図形は長さを2倍すると全体の量が4倍になり、3次元の図形は長さを2倍にすると全体の量が8倍になる」という意味での次元〈ハウスドルフ次元orフラクタル次元〉を考えると、この図形は長さを3倍にすると全体の量が4倍になるので、この図形の次元は
になる)
もともとは複雑な海岸線の長さを調べていくと、細かく見れば細かくみるほど細かい入り江の部分が加算され、長さが長くなっていき、事実上無限の長さを持つことになってしまうことから発見された概念である。上のコッホ曲線も、もしあの操作を無限回すれば、無限の長さを持つことになる。
海岸線以外にも、自然界の様々なもの、例えば、木(木、枝、葉脈、と自己相似になっている)、雲、雪の結晶、小腸の内壁、などがフラクタルになっている。
人体も、全ての細胞に、人体の設計図が入っているから、フラクタル的ではある。
この時代、複雑系ブーム、カオスブームの文脈から、フラクタルも大いに人口に膾炙したものなのだ。
『恐竜惑星』のコンピュータにおいては、この「自己畳み込み」は最初から備わっている機能で、それによって、どんどん情報量を増やし、いつの間にか人間の手を離れて行ってしまったのだ。
対して『ジーンダイバー』においては、「黒幕」の存在を窺わせるために、この「自己畳み込み」は普段は起きておらず、エラーによって起きたことにしてある。そのエラーが誰によって起こされたかが、物語の要点になるのだ。
ここでまた、細かい突っ込みをすると、フラクタルは自分と同じものを自分の中にたたみこむだけなんだから、実は情報量は増えない。
自分と違うものが中に入っていた方が、当然情報量は増える。
フラクタルというものは、一見複雑そうなものが、単純なルールからできることの例で、見かけほど情報量が多くないのだ。
実は数学者側からの理解では「フラクタル」は、
「今までは自然界にめったにないような単純なものしか扱えなかったけど、自然界に溢れるこんな一見複雑そうな図形も、実は単純なルールで出来ているから、かなり数学的に扱える」
という認識だったのだ。
ただ、大雑把な世間の需要の仕方は、「こんな変なものがある」程度で、それで科学の扱える範囲がまた広がった、という認識はなかったような気がする。
そして複雑系やカオス理論においては、そのギャップがますます大きかったようだ。
カ オス理論もまた、一見でたらめなものが、実は単純なルールに従っていることがあり、また逆にいえば、単純なルールに従っているにもかかわらず予想不可能な 振るまいをするものがある、という理論だった。
だからやはり、「今まで数学で扱えなかった複雑だったり予想不可能だったりする現象が数学で扱えるようになった(し、扱わなくてはいけない)」という考え方だった筈なのだが、この時期のヒット映画『ジュラシックパーク』をはじめ、おおむね勘違いされ、「世の中、科学じゃ分かんないことだらけよ」みたいな認識だったような覚えがある。
なんで、「科学に限界がある」ってことがそんなに嬉しいのだろうか。
科学じゃ分かんないことだらけなのは、科学をちゃんとやってれば誰だって知ってなきゃいけない話で、それでも少しずつ科学で分かることが増えることが大事なのに。(もちろん、カオスや複雑系に「科学による予想の限界」を明らかにした、という側面がなかったわけではない。しかし、科学の中でその限界の理由が分かったのは、大きな進展で、どこまで予想できるか、予想できないなりにどう対処すべきかを考えるのにますます科学に頼らなくてはいけなくなって、ますます科学は偉くなったともいえるのだ)
そう考えると、『恐竜惑星』も『ジーンダイバー』も、「フラクタル」に関しては、そういう通俗理解をなぞってる側面が無きにしも非ずだけど、でもそうしないと物語として面白くなりそうにないんだから、別に私は非難する気はないんである。
SFが通俗科学なのは当たり前。SFの目的は、科学を面白く誤用することなのである!
その点で『恐竜惑星』も『ジーンダイバー』も実に偉い。
さらに、「カオス」や「複雑系」に対しては、単なるカッコよさだけの「バズワード」としてだけ使ってる作品も多かったなかで、直接は言及せずに、分かる人にだけ分かる形に世界観に織り込むのはさすがである。
そしてそれが、科学の発展が人類の未来に必然的に持ちこむであろう予測不可能性に、正しく警鐘を鳴らしている、と言ったら褒めすぎであろうか。

出演:柴田由美子
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この「ヴァーチャル三部作」は金子隆一のSF設定により、実に細部にこだわった作品に仕上がっていて、直接説明していない部分にも、面白いSFガジェットが溢れていたりする。
その一つに「フラクタライズ・エラー」という言葉がある。
それについて一席述べて見よう。
これらの作品はどれも、単なるシミュレーションに過ぎないはずのヴァーチャル世界が現実に影響を与えるという、基本骨格を持っている。
『恐竜惑星』においては、
情報密度がある特定の値を超えたところで、あたかもブラックホールのように情報空間の最高密度の領域で「縮退」の過程が起こり、この空間にアクセスできる他の平行宇宙へのワームホールが開いたのである。人間が、自分たちの地球の歴史の完全な再現シミュレーターとして作った世界は、いつの間にか、平行世界からもコンタクト可能な多元宇宙の交差点と化していたのだ。としている。
『恐竜惑星』DVD一巻 特典 「恐竜惑星の世界 初期設定」より
これは、量子力学の解釈の一つ、「エヴェレットの多世界解釈」から来ている。それによると、この宇宙はいくつもの世界の重ね合わせで出来ていて、観測によってそれらの世界の一つが選ばれる。
それで、本来は分岐したまま、出会わなかったはずの、恐竜が絶滅して人類が進化した世界と、恐竜が絶滅せずに恐竜人類に進化した世界が、ヴァーチャル世界において、もう一度重なってしまったのだ。
そして、さらにヴァーチャル世界において起こったことが、その様々な世界に影響を与えることになる。例えばヴァーチャル世界で、哺乳類を滅ぼせば、人類は消えてしまう。
物語の後半では、「絶対的な観察者」=「宇宙の眼」を作ることにより、世界の分岐の中から好きな世界だけを選んで、他の世界を消そうとする敵が現れる、というストーリーになる。
なんだか、この部分は、「観測されなかった世界は、消えるのか、それとも分岐するだけなのか?」という矛盾する考え方の両方をとっているようで少し破綻してるし、観測者がどの世界を観測するのかを選べるのか? という部分に疑問が残るが、まあ細かすぎる突っ込みはやめておこう。
『ジーンダイバー』においては、そこら辺の理屈はあまり追及されずに、とにかくエラーによって情報量が爆発的に増え、それによって、シミュレーションが現実に影響を与えかねない、という話になっていた。
そこら辺は前作で追及したから、もう良い、ということだろう。むしろ、『ジーンダイバー』はそのエラーがなぜ、誰の手によって起こされたか、が追求される。
『恐竜惑星』では、エラーの理由は、単に「一度始まったシミュレーションは人の手を離れ、止まらなくなる」くらいの理由付けしかされていない。
共通する部分は、情報量がある臨界を越えると、シミュレーションが単なるシミュレーションではなくなって、現実に影響を与える、というところだ。
これはいわゆる「相転移」というやつで、ここには当時(1990年代中盤ごろ)ブームになっていた、複雑系の考え方の影響があるのだろう。
水の分子一つ一つの運動は、それほど複雑ではなく、予想もしやすい。
そして水の分子の運動は、0℃以下でも100℃以上でも、何の変化もない。
しかし、水の集団は、0℃以下になると凍り、100℃以上になると沸騰する(これを「相転移」と呼ぶ)。
統計的集団は、一つ一つの物からは予想もつかない現象を起こす。
そして相転移の中には、一見何の秩序もなかった集団に突然、秩序が生まれるようなものもある。
それはもちろん神秘的な何かがあるのではなく、単純な現象が大量に積み重なると、我々がその単純さから想像できる範囲を越えた現象が起こるのでびっくりするだけだ。
そしてそれを特に扱おうとする科学が「複雑系」だ。
例えば、「カオス」と呼ばれる現象では、地球の気候や、肉食動物と草食動物の個体数の変化など、比較的単純なルールに従う系が、予想外に複雑なふるまいをして、事実上予想不可能になってしまうことを扱う。
我々は単純な原因からは単純な結果しか出てこないと思いがちだが、それらが多量に集まると、まったく異なる様相を呈すことがあるのだ。
昔は、割と「単純な原因から単純な結果が出る」ものだけを扱っていたのだが、「複雑系」以降は、それじゃダメだ、ということになっていったのだ。
両作品の根底にある、「情報量が臨界を越えると、相転移を起こす」、「既知の物を大量に集めると、未知な現象が起こり得、そこでは技術的な予想可能性を抱えてしまう」などの考え方にはやはり、「複雑系」や「カオス」の考え方の影響が強い、と思われる
そして、その情報の増え方にも、当時のブームの影響がある。
『恐竜惑星』においては、コンピュータは「自己畳み込み型のホロ・フラクタル・メモリー・ユニットを大量に使用する史上初の実用機」とされている。
また、ジーンダイバーにおいて、情報が爆発的に増えたのは「コンピュータの暴走によるフラクタライズ・エラー」によって、ということになっている。
「自己畳み込み」とか「フラクタル」とかなんであろうか。
次のコッホ曲線が分かりやすいであろう。

この、「自分と同じ図形を自分の中に埋め込んでいく」ことが「自己畳み込み」であろう。
これを無限に行った図形は「自分の内部と相似な図形」=「フラクタル図形」となる(それを「コッホ曲線」と呼ぶ。「2次元の図形は長さを2倍すると全体の量が4倍になり、3次元の図形は長さを2倍にすると全体の量が8倍になる」という意味での次元〈ハウスドルフ次元orフラクタル次元〉を考えると、この図形は長さを3倍にすると全体の量が4倍になるので、この図形の次元は
もともとは複雑な海岸線の長さを調べていくと、細かく見れば細かくみるほど細かい入り江の部分が加算され、長さが長くなっていき、事実上無限の長さを持つことになってしまうことから発見された概念である。上のコッホ曲線も、もしあの操作を無限回すれば、無限の長さを持つことになる。
海岸線以外にも、自然界の様々なもの、例えば、木(木、枝、葉脈、と自己相似になっている)、雲、雪の結晶、小腸の内壁、などがフラクタルになっている。
人体も、全ての細胞に、人体の設計図が入っているから、フラクタル的ではある。
この時代、複雑系ブーム、カオスブームの文脈から、フラクタルも大いに人口に膾炙したものなのだ。
『恐竜惑星』のコンピュータにおいては、この「自己畳み込み」は最初から備わっている機能で、それによって、どんどん情報量を増やし、いつの間にか人間の手を離れて行ってしまったのだ。
対して『ジーンダイバー』においては、「黒幕」の存在を窺わせるために、この「自己畳み込み」は普段は起きておらず、エラーによって起きたことにしてある。そのエラーが誰によって起こされたかが、物語の要点になるのだ。
ここでまた、細かい突っ込みをすると、フラクタルは自分と同じものを自分の中にたたみこむだけなんだから、実は情報量は増えない。
自分と違うものが中に入っていた方が、当然情報量は増える。
フラクタルというものは、一見複雑そうなものが、単純なルールからできることの例で、見かけほど情報量が多くないのだ。
実は数学者側からの理解では「フラクタル」は、
「今までは自然界にめったにないような単純なものしか扱えなかったけど、自然界に溢れるこんな一見複雑そうな図形も、実は単純なルールで出来ているから、かなり数学的に扱える」
という認識だったのだ。
ただ、大雑把な世間の需要の仕方は、「こんな変なものがある」程度で、それで科学の扱える範囲がまた広がった、という認識はなかったような気がする。
そして複雑系やカオス理論においては、そのギャップがますます大きかったようだ。
カ オス理論もまた、一見でたらめなものが、実は単純なルールに従っていることがあり、また逆にいえば、単純なルールに従っているにもかかわらず予想不可能な 振るまいをするものがある、という理論だった。
だからやはり、「今まで数学で扱えなかった複雑だったり予想不可能だったりする現象が数学で扱えるようになった(し、扱わなくてはいけない)」という考え方だった筈なのだが、この時期のヒット映画『ジュラシックパーク』をはじめ、おおむね勘違いされ、「世の中、科学じゃ分かんないことだらけよ」みたいな認識だったような覚えがある。
なんで、「科学に限界がある」ってことがそんなに嬉しいのだろうか。
科学じゃ分かんないことだらけなのは、科学をちゃんとやってれば誰だって知ってなきゃいけない話で、それでも少しずつ科学で分かることが増えることが大事なのに。(もちろん、カオスや複雑系に「科学による予想の限界」を明らかにした、という側面がなかったわけではない。しかし、科学の中でその限界の理由が分かったのは、大きな進展で、どこまで予想できるか、予想できないなりにどう対処すべきかを考えるのにますます科学に頼らなくてはいけなくなって、ますます科学は偉くなったともいえるのだ)
そう考えると、『恐竜惑星』も『ジーンダイバー』も、「フラクタル」に関しては、そういう通俗理解をなぞってる側面が無きにしも非ずだけど、でもそうしないと物語として面白くなりそうにないんだから、別に私は非難する気はないんである。
SFが通俗科学なのは当たり前。SFの目的は、科学を面白く誤用することなのである!
その点で『恐竜惑星』も『ジーンダイバー』も実に偉い。
さらに、「カオス」や「複雑系」に対しては、単なるカッコよさだけの「バズワード」としてだけ使ってる作品も多かったなかで、直接は言及せずに、分かる人にだけ分かる形に世界観に織り込むのはさすがである。
そしてそれが、科学の発展が人類の未来に必然的に持ちこむであろう予測不可能性に、正しく警鐘を鳴らしている、と言ったら褒めすぎであろうか。