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評論

死体で遊べ 『骨』『オオカミの家』

クリストバル・レオンとホアキン・コシーニャの『骨』と『オオカミの家』を見てきた。https://www.imageforum.co.jp/theatre/movies/6510/
(公式サイトがhttpsの証明書のエラー起こしてたので、イメージフォーラムの方のサイトのリンクを貼る)。

どちらも最高だったので、考えたことを書いておく。『骨』についてはネタバレがどうのこうのという作品ではない気もするが、『オオカミの家』についてはオチまで書いてしまうので、ご注意をば。
見てない人は、とりあえず以下の短編を見て、彼らが最高だと分かってくれたら、すぐに映画館に向かえばいいと思う。
『Lucia』

『Luis』



それでは、『骨』と『オオカミの家』の話に入る。
この二つの作品はどちらもdiscovered footage、つまり「発表者とは別の人物が撮影した映像を発見した」という体裁の映像である。『フェイクドキュメンタリー「Q」』や『テレビ放送開始69年 このテープもってないですか?』や『The Backrooms』などの世界的なモキュメンタリーホラーのブームの中でも多用されている手法だ。なぜこの手法がよく使われるようになったかについては、メディアについての不信感の増大とか色々考えられるだろうが、今回は置いておく。
そもそもこの手法自体は映像表現よりも歴史が深く、『ドン・キホーテ』など枚挙に暇がないほどだ。元々は「これは実話なんだぞ」という偽書への権威づけに使われていたようだが、今は「作者(ということになっている人物)をフィクションの中に取り込んでしまう技法」として使われることも多いと思う。つまり「動画の撮影という行為自体が話のテーマに関わってくる」ということだ。
ここで急に告白するのだが、僕は物心ついた頃に『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の洗礼を受け、その後何度も何度も見続けたことから、何を見てもメタフィクションだと思ってしまう癖がついている。
なのでこの話もここからメタフィクションの話になる。
メタフィクションというと、筒井康隆の『脱走と追跡のサンバ』のように、作中で「フィクションとは何か?」と議論するような作品を思い浮かべる人もいるかもしれないが、それほど露骨ではない例も多い。私は勝手に「明示的メタフィクション」と「暗示的メタフィクション」と呼んだりしている。明示的メタフィクションはやもすると鑑賞者を冷めさせる効果を持ったりしてしまうが、暗示的メタフィクションは見ている時は気づかせず、後で「よく考えると、これは作品についての作品なんだ」と気づかせたりできる。私の好きな例だと『リトルウィッチアカデミア』が実はアニメ業界を描いているという監督がインタビューで答えてたりする(敵がピクセル魔獣と言いうおそらく手書きアニメの敵としてのCGを表している魔獣を使役したりする)。
discovered footageは「撮影」自体をテーマに絡めることにより、暗示的メタフィクションの道具になりうる手法である。『フェイクドキュメンタリー「Q」』なども「映像って存在がそもそも怖いよね」という「映像とは何か」を問うメタな作品になっていると私は考えている。「フィクションではない」という「ドキュメンタリー」を模したフィクションである「モキュメンタリー」が「メディアとは何か」を問う力を持つのはとても面白いし、実に自然なことなんだと思う。
ここから『骨』もまたメタフィクションである、という話をしていきたい。
『骨』は工事現場から発見されたフィルムを補修したということになっていて、その年代は1901年で、それが本当なら世界最初のコマ撮りアニメーションということになってしまう(実写部分を含まない世界初のアニメーション作品はおそらくエミール・コールの『ファンタスマゴリー』でこれは1908年、これに影響を受けた世界初のコマ撮りアニメーション作品はラディスラフ・スタレヴィッチの『美しいリュカニダ』でこれが1911年だ)。しかもそれは「死体を使ったコマ撮りアニメーション」という空前絶後なものだとまで言う(ちなみに前述の『美しいリュカニダ』は昆虫の死体を使ったと言われていたりする)。
その映像は、一人の女性が骨に呪術をかけて、二人の男性を呼び出すという降霊術的なものだ。映像の中ではその女性は人形として表現されているが、おそらくその映像の撮影者自身を表しているものと思われる。
つまり、映像の作者自体が作品内に登場しているわけだ。
女性(の人形)が骨に呪術をかけると、骨は動き出し、肉が部分的に復活する。ただ、それらは非常にぎこちない動きしかしないし、骨の繋ぎ方も無茶苦茶である。
このぎこちない動きの不気味さは(アリ・アスターが指摘するように)直ちに、ヤン・シュヴァンクマイエルやブラザーズ・クエイを思い出させる。
作品の中では女性の人形が糸のようなもので、肉片や骨を操っている様が描かれている。
私はこのシーンで「人形が人形使いをしているんだ」と気づいたのだ。
つまり、この作品は「ある種のコマ撮りアニメーションを撮影する様をコマ撮りアニメーションにした作品」と捉えられる。そう捉えれば、この作品は明らかにメタフィクション的要素を持つ。
ここで思い出されるのが、製作者の二人の「映画とは儀式やまじないや呪いのようなものだ」という証言だ(映画パンフレット8ページ)。
それも踏まえるとこの作品は「映画を儀式と捉えている制作者が、儀式としての映画を描いた」とも捉えられる。
ではなぜ死体なのか? これについては(ほぼ単なる感想になってしまうのだが)私としては「そう、そうなんだよ!」と言う強い納得感が実はあるのだ。
私は「ヤン・シュヴァンクマイエルのコマ撮りアニメーションは(性的ではない意味で)死体愛好的だ」とずっと考えていたからだ。
これについて初めて気づいたのが、ブラザーズ・クエイの『ストリート・オブ・クロコダイル』の原作のブルーノ・シュルツの小説『大鰐通り』を読んでいたときだった。ストーリーなんて何にも覚えていないが、とにかく少年時代に小物を集めている描写と、その子供部屋が世界に広がっていく妄想が印象的だったのだ。
私はそれを読んで「これは支配欲だ」と思った。次の瞬間、ヤン・シュヴァンクマイエルの作品の多くが完全に理解できたような気持ちになった。
例えば次の『自然誌(組曲)』(ダゲレオ出版の『シュヴァンクマイエルの不思議な世界』では『自然の歴史(組曲)』とタイトルを誤訳されている)。


友人にこれを見せたら「全く面白くない」と言われて困ったのだが、まあ確かに何が面白いのかわからない面はある。
私が考えるに、ここにあるのは「物を動かすのが楽しい」と言うめちゃくちゃ幼稚な快感である。
これは先ほど私がブルーノ・シュルツの短編を読んでいたときに感じた「子供の支配欲」とほぼ同じものだ。
上記の作品では単純に動かすだけになってしまっているが、例えば傑作『男のゲーム』などでは、シュヴァンクマイエルが、「人の形をした単なる物」に対して暴力的な支配欲を及ぼしている様が見ていて本当に楽しい。


そして、ここでシュヴァンクマイエルによって動かされているものは、ある意味で「死体」なのだと思う。
『自然誌(組曲)』では標本であるし、『男のゲーム』では粘土で作られた人体である。標本は普通の意味で「死体」であるし、粘土で作られた人体は生きている人間には不可能な仕方で乱暴に破壊される。
なぜ死体なのかと言えば、それは生きているものは思ったように動かないからだ。もちろん人体などを使ってコマ撮りアニメーションを作るのは不可能ではないが、それには配慮が必要で、支配を及ぼし切れる存在ではない。
シュヴァンクマイエルは圧政下のチェコスロバキアで、自由な内的生活を確保するためにこのような手法を使った、と言う解釈がある。シュヴァンクマイエルの世界は、彼が支配できる世界をどうにか作ろうとした結果だ、と。だからこそであろうが、彼の世界は(もちろん全てではないが)、どこか呑気で明るく乱暴で幼稚だったりするのだろう。
10年ほど前の私はこの自分の「発見」に狂喜した。「学生たちが映画を撮ろうとするが、完璧主義者の監督が自分の指示に従わない俳優に業をにやしてみんな殺してしまい、死体を使ったコマ撮りアニメーションを撮る」という短編を当時構想していたことを今でも覚えている(結局この作品は描かれることはなかった。ただ、少しズラして『Natural Historie』と言う作品に昇華された)
だから、私は『骨』を見たときに、「その手があったかあ!」と思ってしまったのだ。
「コマ撮りアニメーションが死体愛好的であることを、『死体を使ったコマ撮りアニメーションの撮影』をコマ撮りアニメーションで撮影することによって、撮影する」
こんな完璧なやり方があったのか、と映画館で唸ってしまった。
そして似たことをやっていながら、シュヴァンクマイエルとは全く別の緊張感を出していることにもとても驚いた。
シュヴァンクマイエルにおいて、「コマ撮りアニメーションの支配力」は子供の楽園のような世界を作り出す。それに対してクリストバル・レオンとホアキン・コシーニャの二人の世界において、この支配力は非常に追い詰められた世界における、最後の抵抗のように繰り出される。これは、現在まで続くチリの政治的な不安定性への、シュヴァンクマイエルの場合とはかなり異なる反応と見ることができるだろう(事前知識なしで見るだけでは『骨』の登場人物たちが実はチリの政治史における重要人物だと言うのはよくわからないだろう。この人たちがどんな人物たちなのかは作品の理解にとってかなり重要なので、ぜひパンフレットの新谷和輝氏の解説を読んでほしい)。
『骨』において、主人公の女性が、儀式を行なって死体に影響力を行使したのは(コマ撮りアニメーションを撮影したのは)、単に支配力を行使したいという幼児的な欲望の発散ではなく、彼女に強い圧力をかけている世界をなんとか変えようとしてのことだった。
しかしこう書いてみると、世界を変える手段として、コマ撮りアニメーション(に限らずアートの手法)はなんとも心許ない。
そんな心許なさ、そしてそんな心許ない手段が最後の手段だからこその必死さ、をこの作品は纏うことに成功している。おそらく、discovered footageという手法もまたそこに貢献していると思う。
主人公の女性は、死体を操る側であると同時に、彼女もまた死体なのだ。この映画ははるか以前に撮影された、世界を変えるための祈りでありまじないであるが、残念ながら世界は変わっていない。
軍事政権崩壊後、一時は安定してきたと思われたチリの政治は今も数々の矛盾に苦しんでいるという。

さて、『骨』についてあまりに長く書きすぎたので、『オオカミの家』について語る余力がなくなってきたしまったが、『骨』以上の傑作であるこの作品について全く語らないわけにもいかないので、もう一踏ん張りして書いてみる。
この作品にも「コマ撮りアニメーション=死物への支配力」という図式は当てはめられる。
またその支配力の行使が、社会からの暴力的な圧力(ここではコロニア・ディグニタの強い支配)へのか細い抵抗として行われることも同様である。
彼女は支配から逃げ込んだ小屋の中で、自分を守るために内的世界を小屋に投影する。そこに、どうにか外界から自分を守ることができる、安心できる世界を作ろうとする。ただそれはいつもオオカミの影に怯える不安な世界だ(これと同様の不安がこの二人の作品で「部屋」がモチーフになることが多い理由であろう)。それが、この作品の凄まじい光景だと考えることができる。
しかし、ここで描かれているのは、そのような暴力的な支配から逃げてきたはずの少女が、また他者に対して暴力的な支配を及ぼそうとする「暴力の再生産」の構図でもある。
彼女は匿った二匹の豚を「コマ撮りアニメーションの力」で人間に変える(ところで逃げたのは三匹の豚のはずだが、もう一匹はどこへ行ったのだろう。もしかしたら主人公自身かもしれない)。しかも、最終的には金髪碧眼のドイツ人に変えようとするのである。
これは、コロニア・ディグニタから逃げてきたはずの彼女が、コロニア・ディグニタのナチス的世界観をしっかり取り入れてしまっていることを表している。
そして、支配しようとしたものに反抗された彼女は、最後にはコロニア・ディグニタにドイツ語で助けを求める。そして「私はずっと君の中にいた」と言ってオオカミが彼女の中から現れる。豚にミルクを与える映像に被せられた「お前も育ててやろうか」という声には背筋が凍った。
コマ撮りアニメーションの支配力を暴力的な世界の支配力への抵抗として使っているアーティストの作品と考えると、ここにはやはり「抵抗としてのフィクションもまた暴力なのだ」というメタフィクション的な批評的メッセージが隠れていると見ることができそうである。
我々がアートに求める力の一つが「現状に対するオルタナティブなものへの想像力」だが、それがどれくらい現状から自由なのかはしっかり考える必要があるのだ。
そのような作品が「コロニア・ディグニタの独裁的指導者であるパウル・シェーファーの視点でものを考える」ことから作られた、というのは何重にも捻れていて興味深い。この作品は「支配からはそう簡単に逃げられない」ということを支配の側から描いている。それによって支配の恐ろしさを描いているわけだが、「支配からはそう簡単に逃げられない」というメッセージ自体はどこまでも真面目に取り合わなければいけない、独裁者からの恐ろしい挑戦状なのだ(だからこそパンフレットには臨床心理学者である松田英子氏の「トラウマがある人たちには観てほしくない」という正直な意見も書かれている)。

雑文 「エッチな小説を読ませてもらいま賞」受賞に感謝して

エッチな小説、というものはなんだかとても変で面白い。

試しに永田守弘氏の編纂した『官能小説用語表現辞典』(ちくま文庫) を開いてみると、「乳房」や「尻」の言い換えについて何ページも実例が挙げられている。普通の辞典というのはさまざまな事物について書かれているものだが、この辞典は数少ない事物に対していくつもいくつも言い換えが書かれている。それどころか同編者の『官能小説「絶頂」表現用語用例辞典』は絶頂表現のみを扱って一冊の辞典になっている。
このようなジャンルはなかなかないと思われる。そしてこれは「エッチ」に関する性質でも「小説」に関する性質でもないとも思える。
エッチな漫画やエッチな映像というものも世の中にあるが、あれらはなかなか直接的なものであり、しかも現実にはあり得ないほどに直接的な効果を発明していくことすらある。もちろん、規制などが理由で間接的な表現が発達することもあるが、規制がなくなると直接的な表現の方が主流になるような気がする(ここら辺は私は専門家ではないので印象論であるので、正確性は担保できないが)。
小説にはもちろん一つの物事をさまざまに言い換える技法がある。エッチな小説もその延長線であることは間違いない。しかし、なぜそれがこれほど発達するのだろうか。
エッチな小説を書いたことがある人なら分かってくれるのではないかと期待するが、他のジャンルの小説に比べて、「またこれか」と自分が書いていることについて思うことが非常に多く感じられる。書いてて飽きるのだ。
それはある意味ではSEXというものは大概、理性的に考えればそれほど面白くないものなのかもしれない。
エッチな漫画やエッチな映像はある意味ではその理性をそもそも経由せずに脳に働きかけることができる(これはエッチな漫画やエッチな映像を作ることが簡単であることを意味していない。理性を素通りして脳に直接働きかける作品を作るにも高い技術がいる)。
しかし、文章を読んでいる限り、我々はどうしても言語を通して理性を働かせなくてはいけない。エッチと理性というものの微妙な関係と考え合わせても、なんと不思議なジャンルであろうか(ちなみに『性欲の科学』という本によれば、男性は相手の肉体に興奮しやすい傾向がありエッチな映像を好む傾向があり、女性は相手との関係性に興奮しやすい傾向がありエッチな文章を好む傾向がある、とのことだ。あくまで傾向ではあるが)。

そしてこのことがまさに私がエッチな小説に強い興味を持つ理由であるのだ。

人工知能学者のマーヴィン・ミンスキーが提起した「心の社会」という概念がある。これは人間の心というものは、一枚岩ではなく、幾つものより単純なモジュールが合わさってある種の議会のようなものを作っている、という考え方である。
これにもう少し具体的な数式で色付けしたのがジョージ・エインズリーの「双曲割引理論」で伊藤計劃の『ハーモニー』の元ネタとなった理論である。
それによると、我々の脳内の議会の議員たちは、相当単純な仕組みでできていて、目の前にニンジンをぶら下げるとほとんど我慢できない。食べたら太ると思っていても、目の前にケーキがあると全く我慢できない。
ところが議員一人一人はそんな感じでも、議会全体ではもう少し理性的に働ける。食べたら太ると思っている議員に、健康診断の数値を気にしている議員や、服がキツくなったことを気にしている議員が協力する。
このようなある種の多数決システムによって、脳は目の前の誘惑に打ち勝つことができる。
しかし、通常は一枚岩になっているこの議会は、時に分裂して大混乱に陥ってしまう。
それが我々の心が千々に乱れる理由だ。
私はこのことをジョージ・エインズリーの『誘惑される意思 人はなぜ自滅的行動をするのか』読んだとき、とてもエロいと思った。
自分で自分の行動の理由が説明できる近代的な自我観がガラガラと崩れ去り、心のドロドロした内臓のようなものが見えるのはとてもエロいと思ったのだ。

これは私の個人的な感覚なのだが、「笑い」と「恐怖」と「エッチ」には何らかの関係を感じている。
それはどれも「本来モノとして扱わないことになっている人間をモノとして扱っている」という点である。
モンティ・パイソンで私が好きなギャグに「突入する警官が気をつけした仲間の一人を棒にしてドアを突き破る」というもので、これはまさに人体をモノにしている。また、モンティ・パイソンでピクニック中の人たちの体が次々と破壊されるギャグもあるが、これは笑いとスプラッタの親近性を表している。ちなみに私はスプラッタ映画で人体がアクロバティックに破壊されると笑ってしまうことがある。
これが「笑える」のはこの人体に感情移入がされていないからだが、もし感情移入していたらこれは「恐怖」になるだろう。ただし、笑いにしても恐怖にしても、「モノにする側」と「モノにされる側」には特別な関係は持ち込まれていない。
ここに濃密な関係を持ち込むと、エッチが立ち上がる。
エッチとは、自分の体が自分のコントロールを離れて、自分以外の存在によって影響される「モノ」にされることであるし、相手の体を自分のコントロール下において「モノ」にすることである。普段は意識しない自分の人体が自分のコントロールを離れることによって意識されて、困惑せざるを得なくなるのは、このうえなくエッチである。
これは、先ほども書いた「自分が自分のコントロールしている」という近代的自我感と相性が良くなく、人権との相性もあまり良くない(笑いも恐怖も素朴に扱えば容易に人権と抵触する)。
もちろん「だから人権をやめよう」という話にはならないし、むしろ「だから人権とエッチの関係については非常に慎重に考えなくてはいけない」という話なのだが、エッチというものには、とても我々に近いものでありながら、どこかうまく理屈に収まらない部分がある。

私にとって「エッチな小説」はエッチのそういう部分を描くのにとても適していると思えて、とても面白いのだ。
最終的には理性をなくしたいのに、その過程でどうしても理性を通過せざるを得ないジャンルを選択するのはなぜか。理性を迂回することができるジャンルも存在するのに。
それは単に理性をなくしたいのではなく、理性が無化されていく経過を楽しみたいからである。脳の議会が揺さぶられ分裂し、心が惑乱する様を見たいのだ。
そのために私は、エッチな描写と理性を刺激する描写を混ぜたくなる。もっと混乱してほしい。混乱し続けてほしい。
そんなことを考えながらエッチな小説を書いています(普通のエッチな小説も書きます)。

追記:
もう一つ、エッチについて気になっていることは、「エッチなことをほぼエンタメでしか知らない」ということである。
どうも人類という生き物は公衆の場でエッチな話をすることを嫌がるらしい。そしてこれは割と普遍的な傾向であると言われている(だからこそ急にエッチな話をすることを「あなたにこんな話をするくらいあなたのことを親密に考えています」というシグナルに使って私を驚かせる人もいたりする)。
その結果、我々はエッチを自分のものとポルノでしか知らない(もちろん科学的な研究やアンケート調査などもされているが、その正確性は正直謎だと思っている)。
例えば我々はエッチ以外の人生の多くの部分を、自分のものだけでなく、家族や友人のものでもある程度知っている。だから人生について複数のサンプルから語れる。面白くない人生を見たければ、幾つでも見つかる。
しかし、世の中で見つかるエッチというものは、どうもある程度面白さを追求したものしかない。
これは、性的少数者の問題なんかでも色々と困った問題を提起している気がする(問題を感じているからこそ自分の性的生活について語らなくてはいけない立場になったにも関わらず、性的生活について語ることで反感を抱かれたり、興味本位の視線に晒されたりする。単にちゃんとそこにいる人間に対して然るべき敬意を払えという話でしかないのに、いつも話がよくわからない横道に逸れる)。
問題解決としては「我々人類が性的な話題について話すことに関する生得的なバイアスを乗り越える」なのだろうが、そんなことが我々が生きている間に実現するわけはない。
果たして、我々はこんな偏ったサンプルでエッチを語れるのか?
わからん……


『雨を告げる漂流団地』はJ・G・バラード的な映画だった

Netflixや劇場で公開された『雨を告げる漂流団地』であるが、見て驚くのが、見る前にヴィジュアルなどからちょっと予想していた話とかなり違う話であることで、まず「災害映画」でも「パニック映画」でも、そして「漂流記映画」でもない。
かなり幻想的な映画だ。
そこがまずこの映画の難点になっている。まずリアリティライン(物語内部の現実度合い)がうまく設定できない。
作中でも「夢」ではないかと語られるよくわからない世界が、夢なのか現実なのか、映画の最終盤になるまでよくわからない。いや、夢ではなく、よくわからない世界だということはわかるのだが、たとえばその世界で怪我したりするのが現実的にどれくらいやばい話なのかがよくわからない。この世界で死んだら本当に死ぬのか? ハリウッド映画なら序盤で一人くらい死なせてわからせてくれるところだが、そういうのはこの映画にはない。
その結果どうも盛り上がれない。主人公たちもその世界がどんな世界かわからないから、どうしようもない。ただ待てばいいのか、それとも何か積極的な行動を取らなくちゃいけないのか。それがわからなければ目的意識も持ちようがない。目的意識がなければ、見てる人間も彼らを応援したりできないし、感情移入もしにくい。目的意識がないので、感情のもつれやいざこざを描くしかない(それが描きたかったものの一つなのかもしれないが)。
例えば似たような設定の『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』なら、訳のわからん世界に連れてこられたものの、衣食住は確保されてて呑気に生きている(『漂流団地』でも、水に飛び込んでみんなで泳ぐシーンなどは、もしかしたら『ビューティフルドリーマー』を意識しているのかもしれない)。その代わり、夢から覚めるという方にしっかり話の重点が置かれているので、見るものも集中ができる。
『漂流団地』で普通に面白くなりそうだった瞬間に、同じように漂流している他の建物に乗り移って食料を探そうとするシーンがある。たとえばあそこで「サバイバルもの」に舵を切っておけば、主人公達に「生き残る」という強い目的意識ができて、話としての強度も持てたとは思う。
ただそうはならなかったし(結局この子達はあの後何を食べてたのだろう? 何日ぐらいの話だったのだろう? よくわからない)、多分そうするつもりもなかったのであろう。
じゃあ、この映画は何を描いているのだろう?
それは端的に言えば「景色」である。
授業で、詩には叙事詩と叙景詩と抒情詩がある、みたいな話を聞いた覚えがあるかもしれないが、叙事詩と抒情詩はわかっても、この叙景詩というものがよくわからない、と言う人は多いのではなかろうか(僕がそうなので)。
出来事や人物の心理ならともかく、風景というのをどう楽しめばいいのか、理解しにくいのだ。
ところが『漂流団地』の主役はおそらく「団地の景色」なのだ。監督か脚本か、もしくはスタッフの集合的な無意識かが、「団地の景色」を主役にしてアニメーション映画を作りたいと考えたのだ。
そこで僕はJ・G・バラードを思い出す。バラードも景色が主役の作品をたくさん作った(バラードに出てくる人間はどちらかというと印象が薄い。『クラッシュ』のヴォーンくらいか、印象強いのは)。
1960年代のバラードの小説では、温暖化で都市が水没したり、他の銀河の影響か何かで世界が結晶化したりと大変なことが色々起こるけど、特にサバイバルや大冒険が小説のメインテーマになったりはしない。事細かに描写されるのは、その世界は変貌する様を見た人の心象であり、さらに言えばその景色そのものだ(だから普通のSFみたいに波瀾万丈で、次々に生えてくる問題を主人公が解決、みたいな物語を求めてる人には評判が悪いこともある)。
バラードはとても叙景的な作家なのだ。
なぜ彼がそんなにそれらの景色に執着するのかと言えば、おそらく単に彼がそれらの景色が好きだからだろう。
世界が滅びていく様、建物が朽ちていく様、それらが彼にはどことなく懐かしく感じたのだ。彼は早すぎた「廃墟萌え」の作家だった。
なぜ彼がそんな「滅びの景色」に魅せられたかという話は、彼の自伝に書いてある戦争体験なのだろうと思う。放置された戦車とか燃え落ちた戦闘機とか。
そんな彼は廃墟だけでなく、さまざまな現代世界の「景色」に注目しはじめた。
1970年代のテクノロジー三部作の最初の作品『クラッシュ』の序文で彼は「テクノロジカル・ランドスケープ(技術的景色)」という言葉で面白いことを説明している。要約すれば「現代の風景は全て人の心の中から出てきたものだから、人の内部を物理学で調べ、外部をフロイト心理学で調べないといけない」。
彼が幼少期の体験から廃墟などに魅力を感じるようになったのと同じように、人々の心理も現代の人間が作り始めテクノロジカル・ランドスケープに影響を受け始める。
ある種の人が農村風景や田舎の風景に懐かしさを覚えるのは、単に幼少期や人格形成期にそういう景色を見てきたからで、そうでない人にとってそれらの風景は、かつて日本人にとって南国がそうであったような「幻想の風景」「ジブリで見た風景」にすぎないのかもしれない。
逆に新しい世代の人たちは、工場とかに懐かしさを感じるかもしれない。バラードは70年代の段階でそれを予測していた。彼は早すぎる「工場萌え」の作家でもあった。
これは個人的な思い出になるのだが、地元の中学校は目の前が高速道路で、風景がほぼそれに埋められていた(僕は私立に行ったのでそこに通っていないのだが、そこで開かれる市民運動会の手伝いなどで時々そこに行く)。あるお母さんがその風景が嫌いだと言うから、僕は「この風景で育った子はどう育つんでしょうねえ」と呑気に言ったことがある。そのお母さんは彼女の心配を僕が共有していると思ったみたいだが、僕の方は単なる好奇心でそう言っただけだった。おそらく影響があるだろう。だが、別に良くも悪くもなく、ただ単に前の世代から見たら奇妙なものに見えるだろうものの到来に少しワクワクしたのだ。
そんなことを僕が考えたのはバラードを読んでいるからだった。バラードはテクノロジーの人間心理への影響を否定もせず肯定もせず、ただただ我々が見たことのないのになぜか見覚えのある不思議な景色として描写する。それが彼の作品がなかなか古びない理由だ。
団地というものも、我々にとってとても重要なテクノロジカル・ランドスケープだ(当然のごとく「団地萌え」も存在する)。
団地を舞台にした作品はもちろん多く、その多くは団地について否定も肯定もせずに、ただ単なる環境として描いているが、中には(暗黙的な形が多いものの)団地を主題の一部に取り入れようとした作品はあった。ただそれらは、新しいものの性か団地をあまり肯定的に描いていなかったと僕は思っている(僕の不勉強である可能性は結構高いが)。たとえば大友克洋の『童夢』や黒沢清の『回路』などでは、団地というものはとても非人間的て何か異様なものが住むような場所として描いてきた(団地映画として『回路』を読み解く先行研究もある。『回路』には工場の廃墟も出てくる。黒沢清もまた叙景的な作家であり、テクノロジカル・ランドスケープに敏感だ)。
しかし、時が経てば団地で育ったクリエイターがたくさん増える。そうなると、単純な理屈で団地を肯定的に描く作品も増える。団地は懐かしい存在にすらなりうるのだ(同様にショッピングモールも今まであまり肯定的に描かれた覚えがなかったところに、『サイダーのように言葉が湧き上がる』では人々が集う場所として肯定的に描かれていた。ちなみにこの映画の主人公も団地に住んでいる)。
『漂流団地』でも人々が集い育っていく場所として団地、取り壊され朽ちていく団地を肯定的。そして哀悼的に描く。そこまでならいいのだが、そんな団地の景色を主役に据えて描こうとまでする。それがバラード的なのだが、最初に指摘したように、やはりバラードとエンターテイメントの食い合わせの悪さが出てきてしまった感はある。どこまでも内的世界の話なので、大冒険するわけにもいかず、ドラマとしては主人公たちの内的世界の葛藤と解決しかないので、どうにも話が小さくまとまってしまうのだ。
しかしそれを差っ引いても、朽ちていく団地の景色を主役に据えるにあたって「幻想の世界で広大な海の上で団地を漂流させよう」というのもなんともバラードな絵を見せてくれたことを称賛したい。なぜそんな景色を作ったかといえば、朽ちていく団地が映える景色だったから、ということなのだろう。それでいいではないか。
作中の最初の方に出てくる「幽霊団地」という言葉は「幽霊が出る団地」なのかと思ったら、実は「団地の幽霊」だったのだ。なんとも楽しい発想の転換だ。そして主人公たちが「神隠し」にあって迷い込んでしまう世界は「建造物の死後の世界」だ(僕も廃工場を舞台にしたバラード的な神隠しの話をずっと構想している)。短編ならともかく、そんな偏ったテーマで2時間撮ってしまう映画は滅多にない。
これがどうも人間向けエンターテイメントとしてはバランスが悪いのは仕方がない。バラードはいつだって人間が人間ではなくなった後の存在に向けて書いていた。
この映画だって、近い未来人間がいなくなって、建物だけが残った都市で上映されていたら、その頃の主役である都市の建物たちには素直に受けるかもしれないではないか。

『サタンタンゴ』を見た

7時間半の映画
感想を書きたいけど今はとにかく尻が痛い

マイリトルポニー最終回 感想 取り急ぎ

本日2019/10/13日、アメリカでMy Little Pony Friendship is Magicが最終回を迎えました。
私は2012年のシーズン3が始まる前にハマったので足掛け7年ハマってたことになります。
当時興奮して、かなり長い連続評論を書いたのも懐かしい思い出です。

http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1492286.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1497113.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1497292.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1498711.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1498755.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1500025.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1499801.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1500094.html

さて、最終回ですが、基本的に上記の評論で書いた神話的な世界観が貫徹されたことも嬉しく感じました。しかし、7年の間に、マイリトルポニーには様々な要素が付け加わりました。その年月にも想いを馳せずに入られません。

当時私が注目したのは、世界各地に伝わる神話の構造やモチーフをこのアニメが見事に拾っていることです。世界各地の神話に同様な構造やモチーフが存在するのは、ある意味ではそれが我々人類にとってわかりやすくて面白いからです。それを有効に活用するのはとてもいいやり方です。
例えばマイリトルポニーにはアースポニー・ペガサス・ユニコーンの三種族が存在しています。アニメ内時代劇においては、それぞれ農民、戦士、天界の運行を司る魔法使いとして描かれていて、これは「主権・戦闘・生産」の三つの区分がインド・ヨーロッパ語族の神話に共通して見られると言うデュメジルの「三機能仮説」に一致します。馬の姉妹というのも、デュメジルがインド・ヨーロッパ神話に共通して見られる「馬の兄弟」のパターンと似ています。それが太陽と月と関連づけられることも、珍しくありません。
また、S1の冒頭を飾るナイトメアムーンとの戦いは、天岩戸の神話と同様に日食を意味する同時に、夏至の祭りに太陽が一度死に再び復活すると言う、新しい季節の一周りを祝う「死と再生の神話」でもあります。
そして、S2の冒頭を飾るディスコードとの戦いは、世界各地の神話に繰り返し語られる、混沌に対する秩序の勝利そのものです。
それらの世界観の裏に「調和」という軸が存在します。三種族が仲違いをした時、その調和が崩れ、恐ろしいウィンディゴが世界を極寒の破滅へと突き落とします。この不調和こそ、エクエストリアにとって、どんな悪役より一番恐ろしいものなのです。
そして、三種族を調和させるものこそ、副題にもある「友情」なのだ、ということがこの物語の大きなテーマなのです。

上記評論を書いたS2までは、そのような神話的世界がマイリトルポニーの大きな魅力でした。しかし、
S3でトワイライトはプリンセスになります。おそらく、当初の予定ではこれくらいで物語を終える予定だったのではないでしょうか。しかし、物語はまだまだ続き、マイリトルポニーにはそれから濁流のような様々な要素を受け入れ続けるのです。

S3の後では、エクエストリアス・ガールズという、「人間化(擬人化という言葉は不正確なので私は使いません)」シリーズが始まります。最初は不安がられましたが、一作目がそこそこ好評で、二作目『レインボーロックス』が作られ、これがものすごい大傑作だったことによって、今でも続くスピンオフシリーズになっています。
トワイライトのロマンスの相手で1作だけの予定だったフランシュセントリー君が、ファンの間でプチ炎上したことにより、その後微妙な変遷を経ることになることはもはや懐かしい思い出です(日本では彼を爆破するMADが流行りました)。
また一作目の敵役サンセット・シマーは二作目以降第二の主人公となり、私の一番好きなマイリトルポニーのキャラの一人にもなりました。

S4では古くからのファンには故郷のように懐かしいあの場所が失われショックを与えられると同時に、ドラゴンボールにも例えられる戦闘シーンが注目を浴びました。実際、予算が上がったのか、背景や動きのクオリティがかなり上がったように思えました。

そして重要なS5。スターライトグリマーの登場です。
彼女はある意味サンセットシマーの鏡のような存在でした。どちらも闇のトワイライトスパークルとしての属性を持っています。しかしサンセットシマーは他人を蹴落とす「行き過ぎた利己主義」の化身として、スターライトグリマーは全ての人間が自己を抑圧する「ゆきすぎた平等主義」の化身として。
共産主義のパロディとも見られたディストピアストーリーはヒューゴー賞の候補にもなりました。
マイリトルポニーが、このような政治的とも見られるテーマを扱うことに驚く声も聞きました。
しかし、これはシーズンが長続きするにあたって、とても自然なことだと今では私は思っています。
マイリトルポニーの面白さは、「友情」を「調和」の源と見なして、神話的に意味づけする一方、「友情のとても身近な問題」にとても細かい目配りをしてくれるところでした。
神話的なファンタジーに見せかけて普段している話は「一緒にオーディションを受けたら友達しか受からなくて、嫉妬してるんだけど応援しなくちゃいけない」「友達の友達がガラが悪くて付き合いにく。この前その子が万引きするところを見てしまった」みたいな、非常に(胃が痛くなるほど)リアルな友情問題なのです。
そして、S4以降、主人公たちがだんだんと大人になっていく、という変化が起こります。彼女たちは、エクエストリアの大人のポニーとしてキャリアアップして、様々な環境の変化を被って行きます。その中で友情問題として、社会の様々なリアルな問題を自然に扱って行きます。
一足とびに政治問題に直結させないところもマイリトルポニーの丁寧さではありますが、そこまでいけば少し足を伸ばせば簡単に政治信条の問題にもなるわけです。
それが、調和を見出すものとしての「行き過ぎた利己主義」と「行き過ぎた平等主義」。
これって、いわゆる「自由」と「平等」という、民主主義の要でありながら相矛盾しかねない二つのものの問題なわけです。そして、どうしてフランス共和国の標語は「自由、平等、友愛」だったのか、という問題にもつながるかもしれません。
それをサンセットシマーとスターライトグリマーという二人の魅力的なキャラに結実させるのは見事というしかありません。
特にスターライトグリマーは、最初仲間になると知った時、サンセットシマーとキャラが被らないかと心配だったんですが、S6以降、mane6とはまた違うトラウマ持ちの大人として見事なキャラ付けをされて、本当に惚れ惚れとしてしまいました。トリクシーとの関係性も、関係性のオタクはぜひ見て欲しい塩梅に仕上がっております。

mane6が大人になっていくことによって、マイリトルポニーは政治的なニュアンスを隠し持つようになります。
つまり、単純な調和の神話ではなく、「民主主義の神話」としての要素を持ち始めたのです。
私は別に民主主義を完璧な政治制度だとは思ってはいません。しかし、マイリトルポニーの歌い上げる「民主主義の神話」にはかなり感動させられたと告白します。
「民主主義の神話」と聞いて怖気付きそうな人には、「そんな怖いものじゃないし、基本的には身近な友情のメンテナンスをひたすらする話だから安心して」とも念のために言っておきます。
友情という身近な問題と、民主主義の問題、そして世界の調和が、なんとなく地続きになってるのが、マイリトルポニーの世界観の魅力だと、最終的には考えています。

その象徴が、トワイライトが作った友情の学校なんだと思います。
友情の学校によって、トワイライトはポニー以外の様々な種族との調和を図ろうとします。
多種族との調和は、初期のシーズンでもバッファロー相手にテーマになったことがありますが、羊は無造作に扱われ、おそらく特にテーマとして考えられてなかったと思われます。
しかしトワイライトがプリンセスになったあたりから、急に裏テーマとして少しずつ導入されました。
それを、学校という場を舞台に様々な種族の6人の生徒を中心に描き始める。
これも、ファンの間では賛否両論あったと記憶します。
6人の生徒の失敗が描かれるわけですが、これはmane6がやっていたことの繰り返しではないか。mane6はそれだけでシリーズ全体を引っ張るように入念に造形されていますが、この新たな6人の生徒はそれと比べるとキャラが弱いのではないか。
全て、一理あると私は思っていました。
しかし、この展開はかなり計算されたものだったと最終回後は思えます。
つまり、友情の神話を民主主義の神話に繰り上げするに当たって、学校という場、そして友情の魔法の伝授が必要とされたのでしょう。
世界を支えるものである以前に、社会を支えるものとしての「友情」と「調和」。そしてそれを次の世代へ引き継ぎ社会を支える施設としての「学校」。
そのために、難しい生徒6人のキャラ作りにあえて挑戦したのでしょう。
そして、これが最終回への大きな伏線になるわけです。

最終回、三種族の不和によるウェンディゴの出現を止めるきっかけになったのは、粗末な箱の上に乗った演説でした。
英語ではsoapboxといえば、演説のための間にあわせの台のことです。on a soapboxで演説をしているという意味になりますし、soapbox自体が演説することを意味する動詞にもなります。
それによって事態が好転することが、民主主義の神話でなくしてなんなのか、と言いたい。
英雄ではなく、異種族が合わさって調和を実現することによって、世界を救う物語が、民主主義の神話でなくしてなんなのか、と言いたい。

そして最終回、全2話で高らかに神話を歌い上げたのにバランスを取るような、いつもの日常回。
ラストバトルの後にmane6が向かったドーナツ屋と同様に、S1のラストを思い起こさせ、ファンへの思いやりを感じます。
ここで友情はもう一度、調和という神話的概念でもなく、民主主義という政治的概念でもなく、いつもどこか調子悪くて、いつもメンテナンスしなくてはいけない、厄介だけど付き合ってはいけない身近な問題に戻ります。
友情は面倒なものです。なのであまり背負いすぎず、上手に荷を下ろして上手く付き合いましょう。そうすれば悪いものではないですよ。といういつもの順当であまり面白くないかもしれないけど、何度確認しても忘れがちな結論に帰ってくるのです。
これぞマイリトルポニー。まさにマイリトルポニー。
いいアニメでした。
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