いやあ、クラウス・キンスキーは良い。
私は悪役俳優の方が好きになりやすいたちの人間だが(三船敏郎より仲代達也のほうが断然好き)、この人はもう格別である。
私は勝手に「金髪のイケメンゴリラ」と呼んでいる(垂れ目で目つきが悪い、ってのもポイント高め)。
最初に見たのは『殺しが静かにやってくる』だったが、もう一瞬でファンになってしまった。
雪原での西部劇という、異色だらけのマカロニ・ウェスタンの中でもとびきりの異色作。
みんなで見よう。
さて、マカロニウェスタンや戦争映画など商業的な映画で悪役をやっていた、キンスキーが、映画芸術史に残る怪優へと変貌を遂げたのが、この『アギーレ』だったわけです。
まあ、もともと過激な人だったらしいけど。ステージ上で政治発言したり、観客に過激な発言をしたとかなんとか。そんな破天荒な個性は、フィルムへも刻み付けられている。
この人の子ども(全員母親が違う)は、皆俳優になっているが、長女のポーラ・キンスキーがクラウスの死後、父親からの性的虐待を告白してスキャンダルになったときも「そりゃそうだろ」としか思わなかった。「クラウス・キンスキーが娘をレイプしないわけないじゃん」
この映画でも、クラウス・キンスキー の存在感は強烈。
物語は、インカを征服したフランシスコ・ピサロの異母弟のゴンサロ・ピサロの結局は失敗に終わるアマゾン探検隊の行軍の様子から始まる。
高い山からぞろぞろと蟻の行列のように降りていくスペイン人と現地奴隷の行列。道が悪い中を、籠に乗せた女性までいる。奴隷が泥に足を取られて、籠が斜めに倒れそうになるところなどを、ただ淡々と撮っていく。
この淡々さがすごい。
派手さが全く無く、まるでドキュメンタリーのように端的な状況を切り取っていくカメラ。
そこに異様なリアリティが宿るのである。
物語の発端は、先に進めなくなったピサロは、食料調達と情報収集のための偵察隊を出すところである。「一週間以内に帰ってこなければ、全滅とみなして、我々は引き返す」
その副長として選ばれたのがわれらが主人公アギーレである。
筏を組み立てて川を下り始めるが、 その途端にアギーレが暗躍を始める。川の渦にはまって抜けなくなった仲間を、隊長は助けようとするが、アギーレはあんなのは置いていけと主張する。もちろん、隊長は聞かずに助けようとするが、一晩明けてみると、救助を待っていた仲間は何者かによって全員殺されてしまう。
せめて遺体を回収しようとすると、大砲が暴発して筏は木っ端微塵。
全部アギーレとその部下の仕業である。
実はアギーレはジャングルの奥にある黄金の国「エルドラード」を征服することに妄執していたのだ。
あまりの難路に隊長が引き返そうとすると、アギーレはすぐさま反乱を起こし、自分たちはスペインに対して反旗を翻し、ぼんくら貴族を皇帝に擁立して、ここにエルドラード帝国を作ることを宣言する。言うことを聞かない奴は、容赦なく殺してしまう。
そして、ひたすらジャングルの奥地へと進軍する。
といっても、別に物語に大波乱があるわけではない。
淡々と、ただただ淡々と、事態が悪くなっていくのを、ただ眺めているほか無い。
少しずつ全員血相が悪くなり、精神状態もおかしくなっていく。傀儡皇帝は、地図上の空白地域を勝手に自分の支配化においていき、ご満悦。良心的に見えた神父の目つきもだんだんおかしくなっていく。
ときどき降りかかる原住民の毒矢の雨。しかし、原住民の姿はジャングルの奥から、影のようにちらほら見えるだけ。まるで捨てられたような村々も不気味だ。
映画に大きな作為があるわけではない。
ただ、奇跡のように真に迫っている。
俳優たちが乗っている筏は本当にぼろっちくて、今にも沈みそうだ。彼らの顔が引きつっているのもむべなるかな。キンスキーは、乱闘シーンで暴れまわってエキストラたちに 怪我を負わせたらしい。前半思ったより暴れてないなと思ってたら、中盤から目に付くもの全てにブチ切れ始めるのが面白くて仕方がない。目の前に立ちふさがった馬に「邪魔だ」とブチ切れて馬を本気で驚かせたところは、馬が暴れ始めないかひやひやした。実生活でも大暴れは一緒で、ジャングルでの長い撮影に嫌気が差して、勝手に帰ろうとしたとか。キンスキーと同じくらい頭のおかしいヘルツォークが、銃を持って立ちはだかって、
「行くんだったら、お前を殺して俺も死ぬ」
と脅したとか。どんな愁嘆場だよ。
そのピリピリした緊張感が、全てフィルムに焼きついている。ここに、コッポラが1000万ドル以上の金をどぶに捨てて作り上げた『地獄の黙示録』には、全く宿らなかった神話が住み着いている。
狂気というのは、キューブリックの『シャイニング』みたいなわざとらしいものじゃなくて、こういう静かなものなんだよ。
「おれは大反逆者だ。俺に反逆することは許されん。おれは神の怒りだ。俺が落ちろと言えば、鳥も落ちるし、俺が睨めば大地も震える」
こう静かにぶつぶつとつぶやく、アギーレは完全にあちらの世界に行っちゃってる。誇大妄想もここまでくれば立派だ。
『地獄の黙示録』もまた、こちらの世界からあちらの世界へと少しずつ移行し、最後にはフレイザー的神話の世界に到達することを作品の結構としながらも、度重なるトラブルや、脚本の練り足らなさから適っていない。町田智浩が指摘するように、暗殺部隊があんな役立たず集団なわけはないし、もしほんとにああいう作戦をやるとしたら川をさかのぼるのではなくパラシュートで降りていくだろうし、ベトナムとカンボジアの国境地帯に山なんて無い。要は話が破綻している。しかしもし、この世からあの世への段階的な移行をもっと丁寧に書けていれば、そんな現実的な突っ込みはいくらでも押しのけられるのだ。
川のさかのぼりと、無意識や過去へのさかのぼりをオーバーラップさせるのは、カルペンティエールの『失われた足跡』やJ・G・バラードの『結晶世界』など、さまざまな傑作が採用している手法であり、まだまだ賞味期限は切れていない。なのに、結局コッポラは中途半端な仕事しか出来なかった(完全版の途中で、時代から取り残されたようなフランス人入植者の出てくるシーンに、そういう意図の名残がある)。結局、ヘリコプターによる「ニーベルンゲンの騎行」以外大して見るべきところの無い映画になってしまった。この映画のドタバタを記録した『ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録』のほうが面白い、というのはフィクションが現実に勝てないという意味で皮肉だ。
それに対して『アギーレ』は、最後のアギーレ以外が全員死んで、いかだの上にわらわらと大量の猿が出てくるシーン、その猿をふん捕まえてアギーレが、
「俺は神話のように自分の娘と結婚して、帝国の祖となるのだ。俺は必ず勝つのだ」
というシーンは、そこだけ見るとお笑いのようだが、映画を見ながら、こちらの世界からあちらの世界へと片足を突っ込んでしまった観客には、実に説得力のあるシーンに見えるのだ。
それがこの映画の成功である。 観客を誇大妄想の世界に引きずりこむこと意外に映画の成功なんて無いと言い切りたい気分にすらなる。