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クワイン

ラトルバック 不思議な「セルト石」

ラトルバックとは、回転に非対称性がある不思議な物体である。次の動画を見てほしい。

ある方向に回転させると、振動が起きて、次第に回転が弱くなり、ついには止まる。そしてすると振動が弱くなりはじめるとともに、何と逆回転が始まるのだ。
ちなみに、回転させずに振動させると、やはり振動が弱まりながら回転が始まる。
これはなんだか力学の法則である「角運動量の保存則」に反しているようで気持ちが悪い。
どうして、こんなことが起きるのだろうか?

実はこのラトルバック、別名「celt」「celtic stone」「セルト石」などと呼ばれているものは、割と簡単に作れる。私が以前つくったのは、ステンレス石鹸
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に鉛筆を少し斜めに、かつ片方が長くはみ出すように張り付けたものだ。これだと、片方に回すと縦揺れが激しくなって逆回転、もう片方だと横揺れが激しくなって逆回転と、両方で逆回転が起きる。
youtubeを見ていたら、もっと楽そうなのも見つけた。スプーンを折り曲げるのだ。

何回も往復する

こんなのも見つけた。


さて、この非常に不思議な現象であるが、調べてみたところ、すでに微分方程式によってほぼ完全に解かれてしまっているようだ(独楽は解析力学の王道だしね)
現時点で最新の論文
Celt reversals: a prototype of chyral dynamics
を書いたのは、ケンブリッジ大学のH.K.Moffat氏と同じくケンブリッジ大学の時枝正氏。
ちなみに時枝氏は、「専門は流体力学、シンプレクティク幾何、おもちゃなど」とあるように、独楽を始めとした、おもちゃのコレクターらしく、部屋中がそういうものに埋まっていると聞く。
去年には本も出た。
おもちゃの科学セレクション[第一巻]おもちゃの科学セレクション[第一巻]
著者:戸田 盛和
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ところで「celt」=「セルト」という言葉であるが、これもなんだか不思議な感じがする。
Celt」というスペルは最近では「ケルト」と発音されることが多いように、カエサルが征服したガリアや、アングロ・サクソンが入ってくる前のブリテン島にいたケルト人を通常、意味する。もともとは「ケルト」に近かったのが次第になまって、「セルト」になり、「ケルト復興運動」とともに、「ケルト」と発音されることが多くなった。でもサッカーチームの名前とかは相変わらず「セルティック」である。
それと、この「celt」はどういう関係にあるのであろうか。
実は上記の論文にも書いてあるが、実はこれはもともと間違いから出来た言葉なのだ。
もともとはヴルガータ聖書の1592年のSixto-Clementine版の『ヨブ記』で、「certe」(=「indeed」)という部分が、「celte」とつづられてしまったことが始まりである(ラテン語ではrとlが間違われるなんてしょっちゅうである。日本人は安心していい)。そしてこれを学者が、石を削っている文脈から「古代の鏨か何か」という意味だと判断する。
そして18世紀ごろから、当時の考古学者の間で、この言葉が先史時代に発見される石斧なんかを意味するようになり、「ケルト人」の「Celt」となんか関係あるんだろうなあ、と想像されたことから、特にケルト人の遺跡から発見される石器がこの名で呼ばれるようになる。
それで、そんな石の中にある不思議な性質を持つものを「celtic stone」と呼ぶようになったのだ。
なるほど、この言葉にそんな来歴があったとは。
そして調べて見て驚いたのだが、時枝正氏の経歴を見ると、彼は数学を始める前は何と古典語を専攻していたのだ。
その彼が、この「セルト石」で論文を書くと言うのはなんだか面白い。

ところで、このラトルバックが逆回転する理由だが、上記の論文に微分方程式で説明してあって、それを見れば分かる、と言いたいところだが、そんなこと言われたら私にだって分からない。そのうちに、ある程度直観的な説明をしてみたいと思う。
とりあえず、「カイラリティ」すなわち、手のひら見たいに、鏡に映すと重ね合わせられなくなる性質が決定的に重要らしい(右手と左手は重ね合わせられない)。
そして縦揺れの原因がカイラリティで、横揺れの原因は何とコリオリ力(遠心力と同じく、回転する物体に起こる見かけの力の一種)らしい。
以前、アメリカで、このラトルバックの逆行の理由を「地球の自転のコリオリ力」だとする商品があったらしく、「そんなわけないだろ」と馬鹿にされたが、まさかこんな形でコリオリ力が復活するとは(もちろん地球の自転のコリオリ力は関係ありません)。

上記の論文では、まず石と台の間が、「滑らない」という条件で計算し、そのあとに「滑り」を計算に入れる。
「滑らない」という条件は、「エネルギーが保存される」ということを意味する。
滑らなければ、接地している点の速度は0である。それなら、どんなに横方向の摩擦力が掛かっても、その瞬間の仕事=力×距離は0である。よって仕事をしなければ、エネルギーは減らない。
これは、足で地面を蹴って前へ進むことを想像すればいい。滑らなければ、その瞬間、足の裏は止まっており、エネルギーのロスはない。
なので、その状態で方程式を解くと、何回でも往復運動を繰り返す、止まらない独楽になる。
これが滑ると、横方向の摩擦力が仕事をしてしまうので、エネルギーのロスが発生してしまう。だから、何往復かしたあと止まってしまう。これが普通のラトルバックである。上のスプーン・ラトルバックのように、止まる前に何回も往復するものも作れる。
逆に摩擦がゼロだと、力がゼロなので、エネルギーのロスはないが、摩擦がなければ「角運動量の保存則」に反するので、回転が止まったり始まったりすることはあり得ない。回転させれば、同じ方向に回転し続けるし、振動もしない。
これは氷の上や、油の上で回してみれば分かる。逆回転もしないし、振動させても回転が始まることもない。
「角運動量の保存則」には、「外力がない場合」という条件があるので、摩擦がある場合には成り立たないが、それが逆回転するトルクを生むと言うのが不思議である。
(世の中には、直観的に納得しがたい、という理由で「摩擦が逆回転の原因」ということをかたくなに拒む人もいるらしい。これは「デュエム・クワインの決定不能性テーゼ」の例になるかもしれない。摩擦がないのに逆回転すれば、「角運動量の保存則」が破れてしまうし、上記の微分方程式を数値解析しても、摩擦が原因で逆回転する様子が観察されるんだから、疑う理由はほとんどない。これはクワインの「意味の全体論」の変わりやすさに「重み付け」がなされているという議論や、ラカトシュの「科学的リサーチ」の「ハードコア」の概念に対応している)

そのうち形にしたい幾つかの読書感想

科学史科学哲学を補助線として本を読むのってありかもしれないなあ、と。

例えば、すべてのことを大前提からの演繹で示そうとした、スコラ哲学が科学革命までの過程で、どういう風に帰納的な実験手法に駆逐されていったかを、山本義隆の『16世紀文化革命』で読んでたんだけど、
一六世紀文化革命 1一六世紀文化革命 1
著者:山本 義隆
販売元:みすず書房
(2007-04-17)
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一六世紀文化革命 2一六世紀文化革命 2
著者:山本 義隆
販売元:みすず書房
(2007-04-17)
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すると、イギリスのカトリック文人であるチェスタートンの「ブラウン神父」シリーズのカトリック神父探偵の推理方が、見事にスコラ哲学なのが面白くなってくる。
ブラウン神父の童心 (創元推理文庫)ブラウン神父の童心 (創元推理文庫)
著者:G・K・チェスタトン
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クワインは科学をするときの障害(というか、幾つかの科学理論を比較して取捨選択するときの障害)として、二つの言語間の、もしくは同じ言語間でも違うバックグラウンドを持つ2人の間の翻訳を大きく取り上げた。もしこれが十全にできなければ、二つの理論が比較できない。
クワイン―ホーリズムの哲学 (平凡社ライブラリー)クワイン―ホーリズムの哲学 (平凡社ライブラリー)
著者:丹治 信春
販売元:平凡社
(2009-10)
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言語と認識のダイナミズム―ウィトゲンシュタインからクワインへ言語と認識のダイナミズム―ウィトゲンシュタインからクワインへ
著者:丹治 信春
販売元:勁草書房
(1996-01)
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クワインは完全な翻訳など不可能だとし、どこまでなら翻訳が出来るか、という問題を考えたのだが、その時、翻訳されようとしている言語話者はわりあい協力的だと、何気なく考えてしまっている。
でも、もし相手がそもそも翻訳してもらおうという意思を持たず、まったく協力してくれなかったら。翻訳なんて無理じゃないの。
聞いたこともない謎の言語を喋る街に言語学者が放り込まれ、そして誰も主人公に協力してくれない。これが『エペペ』の悪夢だ。
エペペエペペ
著者:カリンティ・フェレンツ
販売元:恒文社
(1978-12)
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ここで翻訳を、何らかの答えを求める、ある種の「科学の営み」の一種ととらえれば、「我々は世界について知ることが出来るのか」という科学哲学の大きな問題を、この本は扱っていると見ることもできる。
科学の営みに世界が協力してくれないときに、どうやって人は「世界について知ることが出来る」と信じることが出来るのか。そもそもそんなこと信じるべきなのか。
例えば、「水を掻き混ぜるとどれだけ温度が上がるか」という実験について考えてみると、これは単純な実験であるにもかかわらず、どんなに条件を一緒にしようと頑張っても、毎回違う結果が出てしまい、とても手に負えない。これはこの小説で、ジェスチャーで同じ質問をしようとしても、毎回違った答えが返ってくるし、同じ言葉を喋っているように思える場合でも、「エペペ」「ベエベエ」「デデ」と毎回違う発音に聞こえる、という部分に対応する。
その時に、なぜ「真実などない」と思わずに、「細部をコントロールできないから、違う結果がでる」と考え、将来的には分かる、と考えるのか。もちろん、それには我々人類の長い文化の積み重ねがある。分かりやすい部分から攻めてきているとはいえ、なんだかんだいって、いろいろなことが分かってきた、という歴史がある。
しかしどうもこの小説を読んでいて、あくまで謎の言語の解明が自分を悪夢の迷宮から救う鍵だと思っている、主人公の学者的態度が合理的だとは思えなかったりする。
そんなことよりも、もっと体当たり的にやった方がいいかもしれないよな、と。
科学哲学が長年勘違いしてきたことの一つは、科学と言うものを合理的な行動と考えてきたことだと思う。
反対に科学と言うのは、人間が一人でこの世界を生き抜いて行くには相当不合理的な物だと思う。
科学の合理性は、最近はやりの「集合知」とかあそこら辺に求めるしかないだろう。個人としては不合理な行為者が、集団の合理性を高めることが現実には多々ある。
科学者の存在理由はそのあたりに有るのだろう。
そんなひ弱な科学者が一人、理解不可能な迷宮にの真っただ中に放り出されてしまう。それが『エペペ』の悪夢なのかもしれない。それは「科学者」を一つの人間の理想像に掲げたニ十世紀人の悪夢でもあるだろう。

『チーズとうじ虫』 農民たちの宇宙

コンピュータ・プログラムの練習問題の名前として有名なクワインは哲学者でもあるが、彼が考えた問題というのは、言語を理解する、ということは、それを喋る人びとの世界観を共有することを絶対に含む、ということだ。
クワイン―ホーリズムの哲学 (平凡社ライブラリー)クワイン―ホーリズムの哲学 (平凡社ライブラリー)
著者:丹治 信春
販売元:平凡社
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言語と認識のダイナミズム―ウィトゲンシュタインからクワインへ言語と認識のダイナミズム―ウィトゲンシュタインからクワインへ
著者:丹治 信春
販売元:勁草書房
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例えば、日本人が「狐の嫁入りだ」と言ったり、「後生だからやめてくれ」と言ったりすることの理解には単なる文法の学習以上の、世界観学習が必要になる。アメリカ映画を見ていると、現代的な表面のすぐ裏に広がる豊かな迷信の世界に驚くことがある。彼らの言っていることを本当に理解するためには、その理解が不可欠なのだ。
だから、昔の人間の言っていることを理解するのは難しい。彼らは我々とは全く異なる世界観を持っているのだから、例え同じ言葉を喋っていても、それをそのまま我々の世界観で解釈しては駄目なのだ(時代劇の限界だ)。
だからこそ、時代の違う人間の考え方を調べるのは面白いのだ。書物の中に自分の影を見つけること以外興味がない人間には到底たどり着けない知的興奮がそこにはある。クワインは異なる言語話者の相互理解について悲観的な考え方をしていた(本質的翻訳不可能テーゼ)。しかしクワインは我々の身体性や歴史的地理的連続性など、人間の共通性を過小評価していると思う(異星人とのコンタクトの翻訳可能性については、「やってみないと分からない」としか言いようがない)。歴史上の人物については、世界観の違いを埋めるために必要な資料にどうしても限界があるが、それでも慎重に粘り強く調べていくことにより、少しずつ分かってくるのだ。そんな探偵小説的歴史書物の傑作がこれだ。
チーズとうじ虫―16世紀の一粉挽屋の世界像
著者:カルロ ギンズブルグ
販売元:みすず書房
(2003-04)
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イタリアの歴史学者である著者のギンズブルグは、今まで決して開かれなかったウディネの教会裁判所の古文書館にある裁判資料から、様々な資料を発掘している。その中の一つに本名ドメニコ・スカンデッラ、通称メノッキオという16世紀のイタリアの粉挽屋の異端審問の記録が残っていた。その記録によるとこの男は、裁判で次のような証言を行ったのだ。
「私が考え信じているのは、すべてはカオスである、すなわち、土、空気、水、火、などこれらの全体はカオスである。この全体は次第に塊りにたっていった。ちょうど牛乳のなかからチーズの塊ができ、そこからうじ虫があらわれてくるように、このうじ虫のように出現してくるものが天使たちなのだ」
この異端のコスモロジーは一体どこから来たのであろうか? メノッキオは簡単な読み書き計算ができ、農村の自治の出納係や農民の学校の教師を務めたこともあった。本を読むことはかなり好きだったようで、人から借りたり、ベネチアで本を買った記録もある。『デカメロン』などの禁書を幾つか読んだ形跡もあるし、もしかしたらコーランを読んだ可能性もある。またギターが弾け、祭りのときには他の村に行き演奏をしたようで、その際に、旅芸人と接触することもあったようだ。その他、画家の知り合いなどと自分の考えについて話すこともあり、その際に再洗礼派などの異端と接触した可能性もあるという。
しかしメノッキオの考え方は、当時存在したどの反カトリック(プロテスタント、再洗礼派)の考え方とも違うし、彼が読んだ本を引用するときも、言葉の意味合いは少しずつ歪められ変えられてしまっている。
実際メノッキオは、驚いた裁判官に、誰からそんな考えを聞いたのだ、と聞かれ、自慢げに、「私は頭が精妙に出来ているので、本を読んで自分で考えた」と答えたのだ。
ギンズブルグはこの天才的とも思える男の思想を、「本で読んだ知識人層の思想の言葉で、口承文化の思想をなんとか表現しようとしたもの」と考え、この中から農民の世界観を一部での再現しようとするのだ。
例えば「聖霊」をあくまで、「風」や「呼吸」のようなものと考え、三位一体を否定し、「聖霊」が一番重要という考え。実は、ラテン語のspiritus」や、ヘブライ語やギリシャ語のそれに当たる言葉、それだけでなく太平洋の島々で神秘的な力として信仰される「マナ」、さらには中国の「気」も同様の語源を持つ。これは、メノッキオの所属する文化には上部文化では忘れられようとしていた原初的信仰が流れ続けていたと考えられる。「チーズ」の例えによる即物的天地創造にもそれが現れている。
さらに彼が言う、
「私がトルコ人だったら、キリスト教徒にはなりたいと思わず、トルコ人であり続けたい、と考えたでしょう。しかし私はキリスト教徒ですので、キリスト教徒であり続けたいと考えます」
「私はキリスト教徒ですので、キリスト教が正しいと思いますが、トルコ人も自分の宗教が正しいと思うでしょう」
などの考え方には、民衆らしいプラグマティズムが溢れている。
神を領主、もしくは父として見る見方もこぎみ良い。神を単に天使の一番偉い者とみなすのも凄いが、出色はこれ、
「父親は自分を馬鹿にされても許すでしょうが、子がその兄弟を殺したら絶対に許さないでしょう。同じように、神を愛することよりも、兄弟であるユダヤ人やトルコ人と仲良くすることの方が大切なのではないでしょうか」。
今考えると、当時のカトリックよりよっぽどまともに聞こえることを言ってしまったがゆえに、この男は牢獄に繋がれてしまうのだ。
本来カトリックは民衆の文化に対して寛容であった。実際カトリックの様々な祭日は、古来の祭りを吸収したものだった。だからこそ、この時期まで、民衆の間では古代の信仰根付き続けていた。しかしこの時期、宗教改革とそれに伴う、プロテスタント以外の有象無象の新興宗教の発生にカトリックは締めつけを強くしていたのだ(地動説への弾圧も丁度この時期である)。
カトリックしか選択肢がなかった時代には反対意見がありうるとも思っていなかった人々が、宗教改革によって、必ずしもプロテスタントとは言えない自分の意見を次々と出しはじめていた(その時、いつもレッテルとして「ルター派」と言われるがそれに惑わされてはいけない。実際ルターも農民戦争などに対する不支持をはっきり述べて、そう言う有象無象と一線を画そうと努力している)。
メノッキオが「カトリックの儀式など売り物に過ぎない」「彼らがラテン語を使うのは、民衆に自分たちのやっていることを知られたくないからだ」「福音書は四つの言葉に縮められる」など過激なことを言えるのも、宗教改革の遠い余波とも言える。
しかし、メノッキオの読書暦には『マンドヴィルの旅行記』などもある。
東方旅行記 (東洋文庫 (19))東方旅行記 (東洋文庫 (19))
著者:J・マンデヴィル
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(1964-05)
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これは実際には作者不詳の旅行記で、途中まではそこそこ正確な地理が書いてあるが、途中からは犬人国、女人国とこの手の架空旅行記のお約束目白押しだ。
メノッキオはこの本を読み、そこにある死んだ人を食べてしまうのが風習になっている土地の話を読んで、風習や道徳の相対性の多大なカルチャーショックを感じたのだ。
これはモンテスキューが感じた同種のショックとそれほど遠くない。このショックが彼を思索の終わりなき旅へ連れ去ってしまったのだ。
ギンズブルグのジレンマは読み書きを知らない人たちの文化を知りたいのに、残っているものは読み書きを知っている者の記録だけで、それはどうしても知りたいものそのものではありえないということだ。同様の試みは次の本でもされており、これも相当面白い。
猫の大虐殺 (岩波現代文庫)猫の大虐殺 (岩波現代文庫)
著者:ロバート ダーントン
販売元:岩波書店
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しかし、ギンズブルグの意図とは別にその試みが明らかにしたことは、読書という行為が持つ罪深さだ。このメノッキオという粉挽きは身の丈に合わない読書さえしなければその身を滅ぼすこともなかったのだ。しかし一度甘美な智恵の実の味を知ってしまえばもう遅い。
水車や風車を経営しているので、そこは自然に農民たちのたまり場になる。そして集まった人々にこの男は自分の考えを話さずにはいられなかったのだ。農民たちは「罰当たりなことを言うでない」と言って取り合わない。それだけで済んでいればよかったのだが、ちょっとした人間関係のいざこざからメノッキオの異端の考えが宗教裁判に掛けられてしまう。一度目は何年も牢屋に入れられて悔い改めるだけで済んだ。しかし自分の考えを話したいという欲求には逆らえない。粉挽きという半分農民で半分は農民でないこの男は農村で精神的な孤独に陥っていた。一番可愛がっていた息子は先に死に、残りの子どもたちには煙たがられていた。そして旅のユダヤ人や旅芸人に自分の考えの理解を求め、裁判で二度と口にしないと誓った言葉を繰り返してしまう。
こうしてメノッキオは二度目の逮捕に会い、結局火あぶりにされてしまう。
自分の言葉でしゃべることがどうしようもなく罪悪であった時代の物語だ。
しかし、彼が命を賭して自分の言葉で語ってくれたおかげで、我々は原理的にそのままの形で後に残ることがない口承文化の遠いこだまをそこに聞きとることが出来る。感謝してもしきることがない。
この本を高く評価したフランスの歴史学者グループは「アナール学派」と呼ばれる。このような文化人類学的手法や物語的手法を使って、当時の人々の世界観を再現しようとした人々だ。
この手法はその不確実さによって英米の実証主義的歴史学から批判を受けた。実際、限られた資料から想像の翼を広げて語られたことはちゃんと批判を受けなければいけない。この手法が流行り過ぎたことにより、アメリカで始まったコンピュータを駆使した統計的手法の導入が遅れたことが大きな損失であることも間違いない。
しかしクワインが示したことをちゃんと考えると、結局「確かなことだけ理解する」という目標を設定することは、実際には分かったかもしれない事実を取り逃がしかねない敗北主義に陥りかねないのだ。
ちょっと証拠から言えることよりも多めに語ってしまったことを、よってたかって突っ込まれて、批判に答えているうちに確からしさが上がったり下がったりする。このプロセスが学問を推進させるエンジンなのである。そこにはある種の物語的想像力が不可欠なのだ。
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