誰しも幼いころのあやふやな記憶というやつはあると思う。
例えば、おぼろげに覚えているが、題名もはっきりとした内容も覚えていない映画やテレビ番組などだ。
主人公の父親だか母親だかが、頭蓋骨にでっかい機械で針を突き刺されているのを、主人公が泣きながら見ている、ずいぶん画面が赤っぽかった気がする映画を、幼いころテレビで見たような気がするが、未だに招待がつかめない。何だったのか? そもそも本当に見たのか? 夢だったのではなかろうか?
その中の幾つかは、その後正体が分かる。母親の実家で見た、ほぼ骨だけの上半身がぴょんぴょん跳ねて人間の脳みそを食おうとする映画は『バタリアン』だった。途中まで見たとき、強烈なデジャブにクラクラして、「俺これ見たことあるわ!」と叫んでしまった。 迷惑なやつだ。
森卓也の『アニメーションのギャグ世界』を初めて読んだ時も、知らない世界に足を踏み込んだのではなく、ひどく懐かしい世界に足を踏み込んでしまって、困惑したのを覚えている。「ああ、あれってテックス・アベリーという男が作ってたのか!」
というわけで、最近もまたあの日の謎がひとつ解けたので。報告したい。
私が幼かったころは、ディズニーのビデオはポニーキャニオンが販売していた(今はブエナビスタ)。その頃の、吹き替え声優は今と違って、必ずしも原語の声そっくりだったわけではないが、それなりに味があって愛好者も多い。また分かりやすさを重視してか原語にないナレーションが入っていて、原語にないことからこれを嫌う人も多いが、土井美加と江原正士のナレーションは非常に芸達者で耳に心地よい。特に私にとって江原正士の仕事で最初にイメージするのはディズニー短編アニメのナレーションである。
私はオリジナルにしっかり敬意を払うのなら、ヴァージョン違いは多いほうがいいと思っている。吹き替えも様々ある方が、比べることができて面白い。だからこそ旧吹き替え版も新吹き替え版も愛でればいいのではなかろうか。
旧吹き替え版のディズニーアニメは今では入手が難しくなっているが、ニコニコで「旧声優陣」などのタグ検索をすればかなり見つかる。ちなみに動画サイトではディズニーアニメは最新作品でもない限りあまり消されない。 日本人のディズニーに関するイメージはほとんど根拠不明の都市伝説にすぎない。
さて、書いたとおり旧声優陣による吹き替えはニコニコで見られる。これで万事解決かというと、そうでもないのだ。
古いビデオなどを見たとき、一番懐かしいのは本編ではなく、実は宣伝とかであったりする。ドラえもんのスペシャルの録画のエポック社の妙なおもちゃとかね。ニコニコで昔のCMなどを延々と見てしまったりするのもそこにある。しかし宣伝は無数にあるので、意中のものは結局見つからなかったりする。完全な時間の無駄じゃないか(憤怒)。
だから、CMカットは完全にしない主義。少し残しておくのだ。
さて、ディズニーの話に戻ろう。ポニーキャニオン版のディズニービデオの最後には、いろいろなディズニー作品の宣伝が入っていた。名曲『星に願いを』をバックにワイヤーフレームのシンデレラ城が橋の向こうから近づいてくる。それが終わると、高速度撮影で植物の成長を記録した映像やら、傘を開いて舞い降りるメリー・ポピンズやら、様々なディズニー作品の紹介がみんな大好き矢島正明の優しい声でされるのだ。
ああ、あの映像が見たい。本編よりよっぽど見たい。
そして、確かそんな中で、一本のビデオだけ、他のよりたくさんの作品を紹介していたのがあったはず。それらの作品の中で、私の中に強烈な印象を残したものがあったのだ。
それは一人の少年が何らかの理由で毛むくじゃらの犬になってしまう、というものだった。
確か一本はモノクロで、もう一本はおそらくそれの続編と思しきカラーの映画の日本だった。
恥ずかしながら、私は昔から肉体が強制的に変形される様に、(おそらく性的な)興奮を感じるたちだった。
いわゆる固めフェチ(人間が石化されたり、ブロンズ化されたりすることに、性的興奮を覚える人々。例としては、ハン・ソロ、ポロムとパロム、『ドラえもん のび太の魔界大冒険』、ヒッポリト星人、etc)の人たちの心情にも大きな共感を持つが、個人的に好きなのは、人間が魔力など超自然的な力により動物など人間ならざるものに変えられるさまだ。オウィディウスの『変身物語』が好きなのもそれが理由かもしれない。ベルニーニの『アポロンとダフネ』とか最高だよね。ヴェルサイユ宮殿の『ラトナの泉水』も悪くない。
他にも、『オデュッセウス』とか『解放されたエルサレム』とか『高野聖』とか『旅人馬』とか『ピノキオ』とかetc。狼男ものも世に多い。『An American Werewolf in London』の唐突な変身シーンが好き。『狼男アメリカン』などという糞な邦題をつけた輩は万死に値する。
それら皆、私にある種に妖しい興奮を呼び起こすのだ。
そんな私の原体験が、あのディズニーの作品紹介だったのかもしれない。
で、その映画は結局何なのか。
私はずっとその映画の題名を「ぼくは毛むくじゃら」だと思っていた。しかし、その題名で調べても何も出てこない。
一体あれは何だったのだろうか。やっぱり夢だったのか。
そう思っていた先日、もう一度ググってみた。するとどうであろう。検索エンジンの進歩の成果なのか、とうとう真実が明らかになったのだ。
『ぼくはむく犬』というディズニー製の映画の存在が明らかになったのだ。第一作はやはりモノクロの1959年製で、『新・ぼくはむく犬』が1976年のカラー映画である。年代的にも合ってる。やはり夢じゃなかったのか! それにしても、「毛むくじゃら」と「むく犬」。まあまあの精度と言って良いのではないか?
ちなみに、『ぼくはむく犬』は1996年(同名)と2006年(『シャギー・ドッグ』)にリメイクされているらしい。
さらについでに言っておくと、実は私はこれらの作品をあまり見る気はなかったりする。何故かと言うと、正体がわかったことにより、あらかた満足してしまっているからだ。
そういうもんかもしれないね。
とにかく分かってすっきりした。
ちなみにこの記事を書いていて知ったのだが、「尨」と書いて「むくいぬ」と読むのだな。勉強になるなあ。
例えば、おぼろげに覚えているが、題名もはっきりとした内容も覚えていない映画やテレビ番組などだ。
主人公の父親だか母親だかが、頭蓋骨にでっかい機械で針を突き刺されているのを、主人公が泣きながら見ている、ずいぶん画面が赤っぽかった気がする映画を、幼いころテレビで見たような気がするが、未だに招待がつかめない。何だったのか? そもそも本当に見たのか? 夢だったのではなかろうか?
その中の幾つかは、その後正体が分かる。母親の実家で見た、ほぼ骨だけの上半身がぴょんぴょん跳ねて人間の脳みそを食おうとする映画は『バタリアン』だった。途中まで見たとき、強烈なデジャブにクラクラして、「俺これ見たことあるわ!」と叫んでしまった。 迷惑なやつだ。
森卓也の『アニメーションのギャグ世界』を初めて読んだ時も、知らない世界に足を踏み込んだのではなく、ひどく懐かしい世界に足を踏み込んでしまって、困惑したのを覚えている。「ああ、あれってテックス・アベリーという男が作ってたのか!」
というわけで、最近もまたあの日の謎がひとつ解けたので。報告したい。
私が幼かったころは、ディズニーのビデオはポニーキャニオンが販売していた(今はブエナビスタ)。その頃の、吹き替え声優は今と違って、必ずしも原語の声そっくりだったわけではないが、それなりに味があって愛好者も多い。また分かりやすさを重視してか原語にないナレーションが入っていて、原語にないことからこれを嫌う人も多いが、土井美加と江原正士のナレーションは非常に芸達者で耳に心地よい。特に私にとって江原正士の仕事で最初にイメージするのはディズニー短編アニメのナレーションである。
私はオリジナルにしっかり敬意を払うのなら、ヴァージョン違いは多いほうがいいと思っている。吹き替えも様々ある方が、比べることができて面白い。だからこそ旧吹き替え版も新吹き替え版も愛でればいいのではなかろうか。
旧吹き替え版のディズニーアニメは今では入手が難しくなっているが、ニコニコで「旧声優陣」などのタグ検索をすればかなり見つかる。ちなみに動画サイトではディズニーアニメは最新作品でもない限りあまり消されない。 日本人のディズニーに関するイメージはほとんど根拠不明の都市伝説にすぎない。
さて、書いたとおり旧声優陣による吹き替えはニコニコで見られる。これで万事解決かというと、そうでもないのだ。
古いビデオなどを見たとき、一番懐かしいのは本編ではなく、実は宣伝とかであったりする。ドラえもんのスペシャルの録画のエポック社の妙なおもちゃとかね。ニコニコで昔のCMなどを延々と見てしまったりするのもそこにある。しかし宣伝は無数にあるので、意中のものは結局見つからなかったりする。完全な時間の無駄じゃないか(憤怒)。
だから、CMカットは完全にしない主義。少し残しておくのだ。
さて、ディズニーの話に戻ろう。ポニーキャニオン版のディズニービデオの最後には、いろいろなディズニー作品の宣伝が入っていた。名曲『星に願いを』をバックにワイヤーフレームのシンデレラ城が橋の向こうから近づいてくる。それが終わると、高速度撮影で植物の成長を記録した映像やら、傘を開いて舞い降りるメリー・ポピンズやら、様々なディズニー作品の紹介がみんな大好き矢島正明の優しい声でされるのだ。
ああ、あの映像が見たい。本編よりよっぽど見たい。
そして、確かそんな中で、一本のビデオだけ、他のよりたくさんの作品を紹介していたのがあったはず。それらの作品の中で、私の中に強烈な印象を残したものがあったのだ。
それは一人の少年が何らかの理由で毛むくじゃらの犬になってしまう、というものだった。
確か一本はモノクロで、もう一本はおそらくそれの続編と思しきカラーの映画の日本だった。
恥ずかしながら、私は昔から肉体が強制的に変形される様に、(おそらく性的な)興奮を感じるたちだった。
いわゆる固めフェチ(人間が石化されたり、ブロンズ化されたりすることに、性的興奮を覚える人々。例としては、ハン・ソロ、ポロムとパロム、『ドラえもん のび太の魔界大冒険』、ヒッポリト星人、etc)の人たちの心情にも大きな共感を持つが、個人的に好きなのは、人間が魔力など超自然的な力により動物など人間ならざるものに変えられるさまだ。オウィディウスの『変身物語』が好きなのもそれが理由かもしれない。ベルニーニの『アポロンとダフネ』とか最高だよね。ヴェルサイユ宮殿の『ラトナの泉水』も悪くない。
他にも、『オデュッセウス』とか『解放されたエルサレム』とか『高野聖』とか『旅人馬』とか『ピノキオ』とかetc。狼男ものも世に多い。『An American Werewolf in London』の唐突な変身シーンが好き。『狼男アメリカン』などという糞な邦題をつけた輩は万死に値する。
それら皆、私にある種に妖しい興奮を呼び起こすのだ。
そんな私の原体験が、あのディズニーの作品紹介だったのかもしれない。
で、その映画は結局何なのか。
私はずっとその映画の題名を「ぼくは毛むくじゃら」だと思っていた。しかし、その題名で調べても何も出てこない。
一体あれは何だったのだろうか。やっぱり夢だったのか。
そう思っていた先日、もう一度ググってみた。するとどうであろう。検索エンジンの進歩の成果なのか、とうとう真実が明らかになったのだ。
『ぼくはむく犬』というディズニー製の映画の存在が明らかになったのだ。第一作はやはりモノクロの1959年製で、『新・ぼくはむく犬』が1976年のカラー映画である。年代的にも合ってる。やはり夢じゃなかったのか! それにしても、「毛むくじゃら」と「むく犬」。まあまあの精度と言って良いのではないか?
ちなみに、『ぼくはむく犬』は1996年(同名)と2006年(『シャギー・ドッグ』)にリメイクされているらしい。
さらについでに言っておくと、実は私はこれらの作品をあまり見る気はなかったりする。何故かと言うと、正体がわかったことにより、あらかた満足してしまっているからだ。
そういうもんかもしれないね。
とにかく分かってすっきりした。
ちなみにこの記事を書いていて知ったのだが、「尨」と書いて「むくいぬ」と読むのだな。勉強になるなあ。