科学史科学哲学を補助線として本を読むのってありかもしれないなあ、と。
例えば、すべてのことを大前提からの演繹で示そうとした、スコラ哲学が科学革命までの過程で、どういう風に帰納的な実験手法に駆逐されていったかを、山本義隆の『16世紀文化革命』で読んでたんだけど、
一六世紀文化革命 1
著者:山本 義隆
販売元:みすず書房
(2007-04-17)
販売元:Amazon.co.jp
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一六世紀文化革命 2
著者:山本 義隆
販売元:みすず書房
(2007-04-17)
販売元:Amazon.co.jp
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すると、イギリスのカトリック文人であるチェスタートンの「ブラウン神父」シリーズのカトリック神父探偵の推理方が、見事にスコラ哲学なのが面白くなってくる。
ブラウン神父の童心 (創元推理文庫)
著者:G・K・チェスタトン
販売元:東京創元社
(1982-02)
販売元:Amazon.co.jp
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クワインは科学をするときの障害(というか、幾つかの科学理論を比較して取捨選択するときの障害)として、二つの言語間の、もしくは同じ言語間でも違うバックグラウンドを持つ2人の間の翻訳を大きく取り上げた。もしこれが十全にできなければ、二つの理論が比較できない。
クワイン―ホーリズムの哲学 (平凡社ライブラリー)
著者:丹治 信春
販売元:平凡社
(2009-10)
販売元:Amazon.co.jp
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言語と認識のダイナミズム―ウィトゲンシュタインからクワインへ
著者:丹治 信春
販売元:勁草書房
(1996-01)
販売元:Amazon.co.jp
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クワインは完全な翻訳など不可能だとし、どこまでなら翻訳が出来るか、という問題を考えたのだが、その時、翻訳されようとしている言語話者はわりあい協力的だと、何気なく考えてしまっている。
でも、もし相手がそもそも翻訳してもらおうという意思を持たず、まったく協力してくれなかったら。翻訳なんて無理じゃないの。
聞いたこともない謎の言語を喋る街に言語学者が放り込まれ、そして誰も主人公に協力してくれない。これが『エペペ』の悪夢だ。
エペペ
著者:カリンティ・フェレンツ
販売元:恒文社
(1978-12)
販売元:Amazon.co.jp
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ここで翻訳を、何らかの答えを求める、ある種の「科学の営み」の一種ととらえれば、「我々は世界について知ることが出来るのか」という科学哲学の大きな問題を、この本は扱っていると見ることもできる。
科学の営みに世界が協力してくれないときに、どうやって人は「世界について知ることが出来る」と信じることが出来るのか。そもそもそんなこと信じるべきなのか。
例えば、「水を掻き混ぜるとどれだけ温度が上がるか」という実験について考えてみると、これは単純な実験であるにもかかわらず、どんなに条件を一緒にしようと頑張っても、毎回違う結果が出てしまい、とても手に負えない。これはこの小説で、ジェスチャーで同じ質問をしようとしても、毎回違った答えが返ってくるし、同じ言葉を喋っているように思える場合でも、「エペペ」「ベエベエ」「デデ」と毎回違う発音に聞こえる、という部分に対応する。
その時に、なぜ「真実などない」と思わずに、「細部をコントロールできないから、違う結果がでる」と考え、将来的には分かる、と考えるのか。もちろん、それには我々人類の長い文化の積み重ねがある。分かりやすい部分から攻めてきているとはいえ、なんだかんだいって、いろいろなことが分かってきた、という歴史がある。
しかしどうもこの小説を読んでいて、あくまで謎の言語の解明が自分を悪夢の迷宮から救う鍵だと思っている、主人公の学者的態度が合理的だとは思えなかったりする。
そんなことよりも、もっと体当たり的にやった方がいいかもしれないよな、と。
科学哲学が長年勘違いしてきたことの一つは、科学と言うものを合理的な行動と考えてきたことだと思う。
反対に科学と言うのは、人間が一人でこの世界を生き抜いて行くには相当不合理的な物だと思う。
科学の合理性は、最近はやりの「集合知」とかあそこら辺に求めるしかないだろう。個人としては不合理な行為者が、集団の合理性を高めることが現実には多々ある。
科学者の存在理由はそのあたりに有るのだろう。
そんなひ弱な科学者が一人、理解不可能な迷宮にの真っただ中に放り出されてしまう。それが『エペペ』の悪夢なのかもしれない。それは「科学者」を一つの人間の理想像に掲げたニ十世紀人の悪夢でもあるだろう。
例えば、すべてのことを大前提からの演繹で示そうとした、スコラ哲学が科学革命までの過程で、どういう風に帰納的な実験手法に駆逐されていったかを、山本義隆の『16世紀文化革命』で読んでたんだけど、

著者:山本 義隆
販売元:みすず書房
(2007-04-17)
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著者:山本 義隆
販売元:みすず書房
(2007-04-17)
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すると、イギリスのカトリック文人であるチェスタートンの「ブラウン神父」シリーズのカトリック神父探偵の推理方が、見事にスコラ哲学なのが面白くなってくる。

著者:G・K・チェスタトン
販売元:東京創元社
(1982-02)
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クワインは科学をするときの障害(というか、幾つかの科学理論を比較して取捨選択するときの障害)として、二つの言語間の、もしくは同じ言語間でも違うバックグラウンドを持つ2人の間の翻訳を大きく取り上げた。もしこれが十全にできなければ、二つの理論が比較できない。

著者:丹治 信春
販売元:平凡社
(2009-10)
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著者:丹治 信春
販売元:勁草書房
(1996-01)
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クワインは完全な翻訳など不可能だとし、どこまでなら翻訳が出来るか、という問題を考えたのだが、その時、翻訳されようとしている言語話者はわりあい協力的だと、何気なく考えてしまっている。
でも、もし相手がそもそも翻訳してもらおうという意思を持たず、まったく協力してくれなかったら。翻訳なんて無理じゃないの。
聞いたこともない謎の言語を喋る街に言語学者が放り込まれ、そして誰も主人公に協力してくれない。これが『エペペ』の悪夢だ。

著者:カリンティ・フェレンツ
販売元:恒文社
(1978-12)
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ここで翻訳を、何らかの答えを求める、ある種の「科学の営み」の一種ととらえれば、「我々は世界について知ることが出来るのか」という科学哲学の大きな問題を、この本は扱っていると見ることもできる。
科学の営みに世界が協力してくれないときに、どうやって人は「世界について知ることが出来る」と信じることが出来るのか。そもそもそんなこと信じるべきなのか。
例えば、「水を掻き混ぜるとどれだけ温度が上がるか」という実験について考えてみると、これは単純な実験であるにもかかわらず、どんなに条件を一緒にしようと頑張っても、毎回違う結果が出てしまい、とても手に負えない。これはこの小説で、ジェスチャーで同じ質問をしようとしても、毎回違った答えが返ってくるし、同じ言葉を喋っているように思える場合でも、「エペペ」「ベエベエ」「デデ」と毎回違う発音に聞こえる、という部分に対応する。
その時に、なぜ「真実などない」と思わずに、「細部をコントロールできないから、違う結果がでる」と考え、将来的には分かる、と考えるのか。もちろん、それには我々人類の長い文化の積み重ねがある。分かりやすい部分から攻めてきているとはいえ、なんだかんだいって、いろいろなことが分かってきた、という歴史がある。
しかしどうもこの小説を読んでいて、あくまで謎の言語の解明が自分を悪夢の迷宮から救う鍵だと思っている、主人公の学者的態度が合理的だとは思えなかったりする。
そんなことよりも、もっと体当たり的にやった方がいいかもしれないよな、と。
科学哲学が長年勘違いしてきたことの一つは、科学と言うものを合理的な行動と考えてきたことだと思う。
反対に科学と言うのは、人間が一人でこの世界を生き抜いて行くには相当不合理的な物だと思う。
科学の合理性は、最近はやりの「集合知」とかあそこら辺に求めるしかないだろう。個人としては不合理な行為者が、集団の合理性を高めることが現実には多々ある。
科学者の存在理由はそのあたりに有るのだろう。
そんなひ弱な科学者が一人、理解不可能な迷宮にの真っただ中に放り出されてしまう。それが『エペペ』の悪夢なのかもしれない。それは「科学者」を一つの人間の理想像に掲げたニ十世紀人の悪夢でもあるだろう。