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東映動画

『パンダコパンダ』vs『パンダの大冒険』

1972年10月28日、日中友好親善大使として来日した二頭のジャイアントパンダによって、日本は全国的なパンダブームとなる。どれくらい、パンダブームだったかというと、大村千吉に化けたスチール星人がパンダを盗もうとするのを、ウルトラマンエースが危ういところで防いだくらいである。
そこまでのブームなのだから、当然アニメが作られる。一番乗りは誰の手に?
東映動画は日本最初の長編アニメーション『白蛇伝』で、当時まだ無名だったパンダ(なんだか俳優に対する言い方みたいで笑える)を起用した実績があるので、ぜひとも一番乗りをしたかったが、当時東映動画は大きな労働争議(登石社長の希望退職者募集に対するスタジオロックアウト中)で映画を自分たちだけで作ってられる状態じゃなかった。
結局一番乗りは、労働紛争のなか、半ば追い出される形で東映から出ていった大塚康生、宮崎駿、高畑勲、小田部羊一らの中編『パンダコパンダ』(12月17日)であった。
結局、東映動画が自分たちで制作した、パンダアニメ『パンダの大冒険』を上映することができたのは、半年後の1973年3月17日、なんと初号試写が3月7日というギリギリの完成だった。
ちなみに同じ日に、『パンダコパンダ』続編、『パンダコパンダ 雨降りサーカス』がやはり封切られている。
奇しくも、パンダ映画対決となったわけだ。

というわけで、『パンダコパンダ』の二作品は繰り返し繰り返しみたので、今回初めて『パンダの大冒険』を見てみた。
昔の東映アニメの楽しみの一つは、その後東映を出て行って、日本アニメの礎を築いた人々の若いころの仕事がみられることだ、このアニメの場合、東映動画はすでにもぬけの殻で、それはあまり期待できない。
しかし、これは「アニメーションの神さま」であり、上で名前を上げた後進のアニメーター達に影響を与え続け、動物を描かせたら天下一品だった、森康二が、東映を退社する前に最後に関わった作品でもある。
もしかしたら楽しめるかと思って見たのだが……
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面白くなかったので、皆さん、『パンダコパンダ』を見よう!
(つうか、出ていった人が「封建的だ!」と怒りだしそうな作品だなw)
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文句なしの傑作!

けんさく。の映画評 アンバランスなこの作品が日本アニメのその後を決定した 『太陽の王子ホルスの大冒険』

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何と言っても伝説の作品である。
高畑勲が最初に作った大作映画であり、宮崎駿が本格的に作品制作の中核になった初めての映画である。またその他の名前を見ても、森康二、大塚康生、小田部羊一、奥山玲子、林静一などそうそうたる名前が並ぶ。
しかしこれは、それを作った人間がその後ビッグになったというだけの作品ではない。
そもそも「作画枚数15万枚」という宣伝文句。1997年の『もののけ姫』が133分で約14万枚、1968年のこの作品が82分で15万枚というのはどれだけこの作品が異様かを表している。しかもこの作品、はっきり言ってしまえば未完成なのである。途中、村が狼に襲われるシーンと鼠に襲われるシーンは結局完成せず原画だけで、中割りなし、つまり紙芝居みたいな感じになってしまっているのである。後半もそれほど動いていない。
ではどこにそれほど作画しているのか?
いや、この映画が始まったときは心臓止まるかと思ったよ。信じられないくらい動くんだもの。まず最初に鳥が飛ぶところから凄い。鳥がバラバラに動いている。その後ホルスと狼の群れの戦闘シーンになるんだけど、異様な気合いの入れ方がこちらに伝わる。描くのに技術のいる手前から奥へ、奥から手前への奥行き方向の動きをバンバン入れる。紐に結んだ斧をブンブン振り回すのもひたすら爽快である。
そこから30分はアニメーションの醍醐味を感じさせてくれる至福に時間である。船出のシーンのマストを透かして太陽を見る透過光表現は、その後の宮崎アニメを彷彿とさせるし、適役グルンワルドとの最初の対決シーンの計算され尽くした構図とカット割りによる緊迫感は演出の天才高畑勲の本領発揮である。
しかしその後はアニメーション的にはあまり見るところは多くない。もちろん、イギリスのアニメーション映画『動物農場』を思わせる労働賛歌シーンや、ロシアのアニメーション映画『冬の女王』そっくりの氷の宮殿、エイゼンシュタインの影響を受けた最後の決戦シーン(やはりヨーロッパ方面の影響が目立つ)などはあるが、前半と比べると力を入れるバランスを欠いている印象が強い。
一体どういうことだろうか。
そこにこの作品の伝説立つ理由がある。
この作品は東映動画の上層部からではなく、労働組合が中心になって自主的に作った作品なのだ。当時東映動画では、大塚康生、東大仏文科出身のインテリ高畑勲、学習院出身のお坊ちゃんながら軍需産業に関わっていた生家に複雑な気持ちを抱えていた宮崎駿、などを中心に労働運動史に残るくらい盛大な運動が運動が繰り広げられていたのだ。
その結果、もっと労働者が自分たちの手で悪を倒すような革命的作品が作られるべきだ、という熱気の中作られた作品がこれなのである。
この作品が持つアンバランスさの原因の一つはその熱気の暴走によるのであろう。本当は8カ月7千万円で作るはずの作品に3年1億3千万円もかけてしまったのも、熱気だし、スピードアップと合理化を求めた上層部と何回もぶつかったのも熱気だ。
コントロールを失った作品は明らかに間違った力の掛け方をし、冒頭は必要以上に動き(今ならあんなに動かさなくても、「動きているように見せる」技術が出来ている)、途中は動かない(先日亡くなった出崎統らが、ハーモニー処理などのあまり動かなくても画面が持つ演出技法を開発するのはもう少し後である。そう言う意味でこれは日本アニメーションがフルからリミテッドへの舵を本格的に切った作品でもあるのかもしれない)。
また必然的にストーリーも切り詰められ、説明は不足し、キャラクターも掘り下げが足らない。
そこがこの作品のもう一つのアンバランスさを成している。
この作品は善のヒーローが悪を倒すという勧善懲悪のヒーロー物のテンプレートで作られている。しかしその中に、明らかに異物である違う様子がぎごちなくぶち込まれているのだ。
それは例えば、ヒーロー一人だけでは悪は倒せず、村人全員が力を合わせる必要がある、という部分だったりする。そこには明らかに共産主義的テーゼの影響があるのだろうが、作品的に未消化で唐突な印象を受ける。
しかしやはり白眉はヒロインであるヒルダの存在だ。彼女は敵を追う途中でホルスが見つけた湖に沈んで水浸しの廃墟で高い柱の上に座ってハープを弾きながら歌を歌っているところが初登場である。このシーンは恐らく宮崎駿のイメージではないかと思われるが、ファンタジーの想像力として20年は早いような気がする。今見てもカッコイイシーンだ。
そして彼女は、村をグルンワルドに滅ぼされてひとりぼっちだとホルスにいい、彼は自分と同じ境遇(ホルスの故郷もすでに滅ぼされている)の彼女を村に連れ帰る。しかし実は彼女はグルンワルドの妹であり、スパイであり、歌の力で人びとの心にお互いへの疑いを植え付けることができるのだ。
そして今となっては定番ながら、彼女は自分の役割について悩む。結婚式を見てそれに憧れながらも、自分がそこにふさわしくないことを思い知らされ、「裁縫なんて出来なくても自分にはほかに出来ることがある!」「人間なんかいつか死んでしまうんだから、こんなことしても無駄だ」と叫んで村から飛び出し、村に鼠をけしかけて結婚式を台無しにする。そしてさらにホルスを敵のスパイだと村人に思わせて、ホルスを罠にかけていく。
この手のダークヒロインが日本アニメに登場するのはずっと後の話である。宮崎駿も試写会までヒルダがどんなヒロインなのか理解できなかったと言っているのが、このキャラクター造詣の先進性を表しているだろう。これはもう高畑勲の天才性というしかない。子どもアニメの中に大人の物語の要素を入れるなんて当時は誰も思いつかないことだったのだ。
しかし、これが後の日本アニメ、子供向けアニメでもなく大人向けのアートアニメーションでもない、どの年齢層に向けているのかよく分からない浮遊するアニメの原型になったのだ。
森康二のデザインも良いし(この作品は合議制で作られており、キャラクターデザインも何人もの人が原案を持ちよって作ったのでキャラクターごとにデザインが違う。例えば主人公ホルスはどこをどう見ても大塚康生のデザインである。アニメ版『侍ジャイアンツ』の主人公番場蛮と同じ顔してるもん)、声を演じている市原悦子も上手い。特に、村の権力欲の強いナンバー2にホルスを蹴落す協力を求められたときの高笑いは、ダーク系クール系美少女の王道で痺れる。ヒルダが自分の正体を明かして、ナイフでホルスを刺そうとするところもよい。
でも、掘り下げが甘い。
ホルスが単なる馬鹿で、ヒルダのことをどう考えているのか全く分からないのも面白くないし、ヒルダが自分をどう考えているのかもよく分からない。
結局、「善と悪の間で引き裂かれるヒロイン」という魅力的なテーマを入れたものの、ちゃんと扱いきれていないのだ。
この作品自体が、「単純なヒーロー物」と「アンチヒーロー物」、「単純な勧善懲悪物」と「善と悪の間の存在を描く作品」の間に引き裂かれてしまっている。
まさに過渡期の作品の悲劇というのが、この作品には滲んでいる。
しかし、見方を変えれば、こここそがこの作品の唯一無二のところなのかもしれない。このアンバランスさこそ、時代がこの作品に刻んだ跡であり、この作品の存在理由である。
だからこそこの作品はとびきり魅力的なのである。
高畑宮崎の両巨頭が死んだ辺りでこの作品をリメイクしてみるというのも手かもしれない。例えば京都アニメーション辺りで。この作品で語りたらなかった部分を上手くおぎなって、たくさん出てきたわりに掘り下げられてないサブキャラクター群にもひとつずつくらいエピソードを割り振って。
そうすれば、この何十年の間にどれだけアニメーション技術が進歩して、手抜きしてそこそこ見せることができるようになったかが分かるだろう。
そして、アンバランスさを調整して「ホルス」は恐らく普通に面白い作品となり、それによりこの作品が持っていた奇妙な魅力は失ってしまうんじゃないかな。
それを見てガッカリしてみたいなあ、なんて思ったりするのである。

まあとにかく歴史を言えば、金と時間をふんだんにかけた割にはこの作品はまったく受けず、責任をとる形で大塚康生、小田部羊一、高畑勲、宮崎駿らは東映動画から退社、しかし当時は敗者に見えた彼らが、後の日本アニメを動かす原動力となっていくのである。
歴史とは面白いものだ。

けんさく。の映画評 『ガリバーの宇宙旅行』に日本アニメの(というか宮崎駿の)その後の方向性を見る。

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1965年の作品。まず、冒頭のスタッフの動画担当の最後の方に宮崎駿の名前があることに少し驚く。まだ24歳の若造でようやく名前が出るようになったころであろう。原画の森康二や大塚康生や月岡貞夫(『北風小僧の寒太郎』のである)や脚本の関沢新一(特撮ファンにはたまらない)や音楽の富田勲の名前にすでにホクホクしていた私はこの時点で興奮を禁じ得なかった。ただ動画ならそれほど個性はまだ発揮できないだろうなあ、と思って本編が始まるのを待っていた。
内容としては浮浪少年のテッドが犬と兵隊人形をお供に老ガリバーと出会って、ガリバーが最後に計画し、寄る年波に半ば諦めていた宇宙旅行に旅立つというもの。そして、あまりに科学が発達してロボットに反乱を起こされて衛星に逃げている国を助ける、というのが後半のメインだ。
まずアニメーションの技術になにより目を見張る。前半のテッドが忍び入った遊園地でのドタバタはディズニーやフライシャー兄弟のアメリカン・カートゥーンを思い出させて楽しい。しかし圧巻はやはり中盤、宇宙に出てからである。ロケットの発射シーンがまず良い。なかなか上がっていかないところもリアルだし、煙や炎、衝撃波もちゃんと出るし、加速度描写も迫力があるし、なにより多段ロケットなのがうれしいじゃないか。宇宙で変なゾーンに迷い込んで時間が逆さまに進んでみんなの年齢が小さくなっていくというのはビートルズの『イエロー・サブマリン』(1969)でもあったけど、当時の定番だったのか。宇宙空間を彷徨う円錐形の宇宙船(ロケットではない。ロケットは発射装置であり、宇宙船とは切りはなされる。ここ重要!)が回転しながらデッサンに一切狂いがないところはアートの風情が漂う。
前半がアメリカン・カートゥーンぽいなら、後半ロボットに脅かされている星の描写はヨーロッパのアート・アニメーションの香りが色濃い。特にチェコの人形アニメーションを私は思い出した。イジー・トルンカの『電子頭脳おばあさん』(1962)のあの建築的なセットの上を人形が滑るように動くのをセルアニメーションで再現したような塩梅だ。実際この星の住人は一見ぬいぐるみに見える。
またロボット達に支配されるまでの歴史を描いた部分のアニメーションや学者たちが侃侃諤諤の議論をするときのアニメーションなどは本編と違うタッチで描かれており、ここはやはりヨーロッパ伝統の風刺アニメーション(いジー・トルンカの『バネ男とSS』(1946)とか)を思い出させて、歌と相まって非常に楽しい。
ちなみにこの作品ではミュージカル風に歌がふんだんに取り入れられており、そのために主人公テッドの声も歌手の坂本九が当てている。最初は少年役にしては声が老けているな、と心配したものの、歌を聞けばこの人選は正解だったと言わざるを得ない。
そしてロボットたちが攻めてきて建物を光線で壊すところのアニメーションなどは並々ならぬセンスを感じさせるし、巨大ロボットが暴れるところはフランスのポール・グリモーの『やぶにらみの暴君』(1952)(現在は改作され、『王と鳥』(1980)という題名になっている。『カリオストロの城』(1979)の城の元ネタが出てくる映画)を嫌でも思い出す。ここも良く出来ている。
というわけでここまでなら前半はアメリカのアニメーション、後半はヨーロッパのアニメーションのいいとこどりをして非常に楽しいけどオリジナリティはあまり感じない、よい意味でも悪い意味でも「手先が器用で物真似が上手い日本人」という当時の日本人のイメージに沿った佳作で終わっていたであろう作品である。しかし最後の最後でとでもない爆弾が仕掛けられているんだこの作品には。
(ここからネタバレである)
敵に捕まっていたぬいぐるみのお姫様の中から何と生身のお姫様が出てくるのだ。どうやらこの人たちはロボットを作ったときに自分たちもロボットになってしまっていたのだが、中にはちゃんとした人間が入っていたのだ。
ここがなんかエロいのである。そもそもぬいぐるみの中にいたときには単調で抑揚のないロボット的な喋り方をしていたお姫様が突然「私の服が!?」なんて慌てた口調で言うのがそもそもエロいし、しかも裸だ。ガリバーが自分のコートを脱いで彼女に掛けてあげて、テッドが彼女の肩を抱いて「見て、朝日だ」だなんて日の出を指さすのである。お姫様は風がビュービュー噴くものだからコートを描きあわせて自分の肩を抱きながら「寒いわ」だなんていうのである。コートの襟や裾が風でめくれて白い首筋や足首なんかが垣間見えたりするのである。エロい、異様にエロい。なんか思春期少年が書いた小説みたいで恥ずかしい。
だいたい物凄く唐突な設定である。しかも作品の中でここだけ物凄く浮いている。そもそも女の子なんてそれまでまったく出てこない映画なのだ。話もそもそも子供向けである。その中で少しだけ覗く首や足首のエロスを描かれても物凄く困るのである。だいたいこの女の子だけ瞳がキラキラしていて明らかにほかのキャラクターと目の描き方が違うじゃないか!
私はこのシーンを見て思わず
「は~や~お~~~!!!」
と叫んでしまった。犯人は一人しかいなかったからである。このシーンをこんなふうにした下手人は宮崎駿でしかありえない。私はそう確信して、パソコン端末に走りGoogle先生に質問した。そうしたらやはりこのシーンは宮崎駿のアイディアで変えられたというではないか。
お~ま~え~~~!!! 下っ端の分際で!
どうしてそうやって子どもを、二次元のキャラクターに恋をしてしまうような茨の道に誘おうとするかな。
しかしここにこそ日本のアニメーションが諸外国のアニメーションの影響下から離れて独自の道を歩む契機があったのである。
という意味でこの作品は日本アニメーション史からいっても宮崎駿個人の作品史からいっても過渡期の作品として重要な気がするのである。
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