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比較神話学

マイリトルポニーの世界観と比較神話学4 黄金の林檎(Golden Apple or Apple of Discord)

本当は前回で終わりにしようかと思ってたんだけど、いろいろ書いているうちに、書くことがまた出来てきたので書く。

この回の最初の方でスパイクが聞き捨てならないことを言っていることに気付いてね(3:20付近)。

プリンセスの黄金の林檎!?
これまた何と言う神話的アイテム!?

黄金の林檎が出てくる有名な神話と言えば「ヘーラクレースの12の功業」の11番目、大地の西の果てにある「ヘスペリデスの園」の黄金の林檎を取ってくる、というイベントだ。
これはもともと、地母神ガイアがゼウスとヘーラーの結婚に際して、お祝いとして贈ったものを、ゼウスが女性への贈り物としてばらまかないように移したものと言われている。
また、北欧神話においては、女神イズンが神々のすむ国「アースガルズ」(アースは「アシュラ」や「アフラ・マズダー」と同語源、「ガルズ」は「ガーデン」や「ヤード」と同語源)で、「黄金の林檎」を管理している。
『スノッリのエッダ』によると、彼女はロキの手引きによって、林檎もろとも巨人スィアチにさらわれてしまう。その結果、永遠の命を誇っていたはずのアース神族は老いはじめてしまう。この林檎こそが、神の常若の秘密なのだ。
また、ロシアの魔法物語やグリム童話などでも、王様の庭園に生えている黄金の林檎がたびたび語られている。
中世までのヨーロッパ人達は、相当多くの果物を「林檎」と表現していたらしく、おかげで中世後期にヨーロッパに入ってきたオレンジを「黄金の林檎」を語源とする言葉で呼ぶ言語も多い。だから、彼らの言う子の林檎が、本当に私たちがいう林檎なのかはいまいち不明だが、とにかく「生命の木」としての「黄金の林檎」という発想は、ヨーロッパに広く浸透していたようだ。

なるほど、セレスティア様がいつまでも若くお美しい理由が読めてきたぞ。

ところで、「黄金の林檎」のモチーフには、神話に起源を持ちながら、より現代的な思わぬ変奏がある。
それは「ディスコーディアニズム(discordianism)」と呼ばれる、一種の冗談宗教である。
「Discrodia」とは、ディスコードの性転換ではなく、ギリシャ神話の不和と争いの神「エリス」のラテン語訳である。
彼女を神として崇める宗教がディスコーディアニズムだ。
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そのシンボルとされるのが、「黄金の林檎」=「Apple of Discord」である。
彼らのシンボルマークの一つ「The Sacred Chao」(また太極図だよ、西洋人はほんと好きだね)
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これもギリシャ神話の有名なエピソードから来ている。
海の精霊テティスとプティーアの王ぺーレウスの結婚式に呼ばれなくて怒ったエリス(『眠り姫』とかと同系統の物語だね)は、「kallisti」=「最も美しい女性に」とだけ書いた黄金の林檎を宴席に投げ入れる。
これをヘーラーとアテーナーとアプロディ―テーの3女神が争い、それが全ギリシャを巻きこむトロイア戦争の原因になっていき、テティスとぺーレウスの息子であるアキレウスの死の原因になる。
本来は大切な宝物であるはずの「黄金の林檎」も、その貴重さゆえに不和の原因になる。これが「Apple of Discord」である。
ディスコーディアニズム」とは、世の中の本質が混沌と不和だと看破し、その世界を乗り切るために、むしろ積極的にそれを利用しようと言う考え方だ。
その教義は、自分たちの教義を含めたすべての教義を徹底的に笑い飛ばし、相対化すること。それを続けるために彼らが行うのが、「パラダイムの海賊行為」と呼ばれる、いろいろな相矛盾しあう考え方を、その場その場で適当に混ぜ合う、と言うもの。
まあ、「文化相対主義」なんて今どきどこにだって転がっている考え方で、本気でやれば、ジョン・バースの『旅路の果て』みたいにどこかで破綻してしまう類いのものなんだけど、この人たちのはちゃんと冗談だと自分で分かっているから、かなり健康的。ノートン将軍を「実在した人間では最高の霊的段階にある」とか言ってしまうセンスは嫌いじゃない(※1)。

もし混沌と不和の女神エリスと彼女の黄金の林檎の活躍を見たければ、ビリー&マンディをみるべし。
ただでさえ混沌と不和に溢れているこのアニメの、混沌の権化として大活躍しているので。


多分単なる偶然なんだろうけど、これがなんだかシーズン2の「ディスコード編」の巧まざる伏線になっているようで面白い。
しかしこんなものを庭で育てているとは、やはりセレスティア様は怖ろしいお方だ。
多分、ときどきこの林檎の実を使って、トロレスティア(※2)となって世の中を(この発想は検閲されました)


※1 ちなみに、この「際限なきパラダイムシフト」を単なる思想的なものを越えて、「魔術」的なものと捉えようとする流儀に「ケイオスマジック」というのもある。こっちは少しマジっぽいので、危険度が高く、遠目で見る分には楽しそうである。

※2 「Trollestia」とは、シーズン1の3話で、友だちがたくさんできたことを知っているだろうに2枚しかガラのチケットを贈らなかったり、22話でもフェニックスのフェロミーナのことをちゃんと説明してなかったり、そもそも1話で封印されたルナが帰ってくることを知ってたに違いないのに誰にも言わなかったりと、セレスティア様の行為が、いたずらっぽさを越えて、若干「釣り行為」に見えることから、妹のルナを月に追放したことからの「セレスティア暴君説」隆盛とともに発生したネットスラングである。
「troll」とは、ルアーなどを垂らしたまま、船を動かす釣り手法であり、ネットに置いて「問題発言をわざとして、人々の怒りを買い、わざと話題を別の方向にねじ曲げる」行為を英語のネットスラングでこういうのである。
日本語でもこの行為を「釣り」と言うので、日英で発想が同じなのは面白い。ちなみに「トロール船」のトロールは「trawl」であり、「網を船で引っ張ってする漁」なので違う。英語のwikipediaでも混乱しやすいって書いてあったけど。
さらに、賢明な読者達はすでにお気づきであろうが、これは北欧の妖精の「troll」とかかっているのである。その証拠に、幾つかの言語では(確認した限りアイスランド語では)、同じ行為を表現するのに、北欧の妖精を意味する単語を使っている。
特に近年、ネットで流行したのが下の「trollface」である。
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見ているだけで腹の立つこの顔は、devianartに投稿された下のマンガが初出である。
601px-Trollface
要は、釣りに引っ掛かった人間が「釣った人間はこんな顔をしているに違いない」と思わず考えてしまう「ドヤ顔」のことである。
こういうわけである時期から、セレスティアにこのtrollfaceを合成した、様々な「Torollestia」画像や動画が作られて、ネットにあげられることになる。

そんな中でも伝説を作ったのが次の動画である(もともとはフラッシュ)

意味不明なテンションで意味不明なネタ。
これ以降、「暴君セレスティア」ネタと絡めて、セレスティアの心証を悪くすると、「バナナを探しに月送り」になる、というのはファンの間で定番ネタになる。
しかしなぜバナナなのかは不明? 作った人の頭がアレだったとしか。

しかし、権力掌握のためにこんな奴に、「月でバナナ探し」の刑に合わされたルナ様可哀そう。

結論:ルナ様は可哀そう可愛い。

あと、「molest」=「子どもなどに性的悪戯をする」から「Molestia」=「変態セレスティア」というネタもファンに愛されている。

マイリトルポニーの世界観と比較神話学3 竜退治=カオスとの戦い(Chaoskampf)

前回の続き

それではマイリトルポニーの比較神話学的考察のクライマックスとして、「竜退治」=「Chaoskampf」との関係について考えてみよう。

この作品で、そのモチーフが出てくるのが、次のエピソードだ。
特に、前半のセレスティアによるディスコードの説明が重要。

ここで語られるのは、原初のカオスを体現する「竜」の物語だ。

「竜退治」、より正確には「蛇退治」のモチーフ、それは神話や物語でたびたび語られるモチーフだ。
イ ンド・ヨーロッパにおける例だけでも、インドラによるヴリトラ退治、スラエータオナによるアジ・ダハーカ退治(※1)、クロノスによるオピーオーン退治、ゼウスによる テューポーン退治、アポローンによるピュートーン退治、タルによるイルヤンカ退治(※2)、トールによるヨルムンガンド退治、シグルズもしくはジークフリートによるファフニール退 治、ベオウルフによる竜退治などなどたくさんある。
それ以外の文化圏からでも、中近東には、エジプト神話におけるラーのアぺプ退治、ウガリット神話におけるバアルハダトによるロタン退治、そしてアブラハムの宗教におけるヤハウエによるレヴィアタン退治である。
また、かなり離れて影響関係は不明だが、日本にはスサノオによるヤマタノオロチ退治の神話がある。
多くの場合、これらは「嵐の神」(インドラ、ゼウス、タル、トール、バアル、そしてヤハウエも。なおスサノオの「スサ」を「荒れすさぶ」として、「嵐の神」とする見解もある)による、「水神」もしくは「海神」である「巨大な蛇」を退治する物語である。
オピーオーンがクロノスに退治されるまではオリンポスの支配者であり、またピュートーンがアポローンに退治されるまでは、聖所デルポイの番人であり、神託を もたらす存在であったことからも窺えるように、彼らの多くは恐らくは自然神であり、不死の象徴である蛇(※3)として信仰を集めていたのであろう。
ところが、社会の発達により自然を征服すべき ものとする考え方が普及したことや、移住してきた民による土着民の征服などにより古い神が悪魔に姿を変えて伝えられたことにより、ドラゴンは神によって退 治される怪物となったのだ。
特にキリスト教が広まってからは、「蛇」=「原罪の象徴」=「悪魔」であり、神によって退治されるべき「ドラゴン」、というイメージが浸透した(※4)。その結果、神話の蛇退治のモチーフも、「神の使い」(聖ゲオルギウスや大天使ミカエル)が、悪の象徴である「ドラゴン」(ミカエルが倒すドラゴンはサタンそのものだが)を倒す、というものに収斂する。
それが騎士道物語を通じて、近現代のファンタジーでも「ヒーローが悪のドラゴンを倒す」と言うのは定番のイベントになっている。
これはこれで伝統を引き継いでいるのだが、困ったことに「悪のドラゴン」というイメージが強すぎて、もともとは強大な自然神であることが忘れられたり、さらに問題をややこしくするものとして、もともと別に「ドラゴン」じゃなかったものまで「ドラゴン」と思われたりしている。
例えば、バビロニア神話のティアマトは、「辛い水」を意味する原初の海の神であり、全ての神々の母だが、孫であるマルドゥクに殺されて、世界の材料にされた女神である。
これは正に、征服される自然神の例だが、こういう話の類型に対して、西洋人があまりに「ドラゴン」のイメージを持ちすぎたがために、いまだに「ティアマトはドラゴン」という思い込みが見られる。神話学的には50年以上前に否定されたにも関わらず(※5)
そして、それ以外の神話的例も、ほとんどが「巨大な蛇」であり、近現代のファンタジーの「ドラゴン」と言うのは、大概言い過ぎである。
そこで「竜退治」よりも広い、「ChaosKampf」=「カオスとの戦い」という概念をとりいれよう。
これなら、ただ単に、「カオスな自然が、神によって倒され秩序が打ちたてられる」という骨組みだけを語れる。
こうしておくと、例えば、ギルガメッシュが森の守護神フンババを倒して、レバノン杉をウルクの街へ持ち帰った武勲(※6)や、北欧神話における「霜の巨人」との戦いも、「水神」も「嵐の神」も出ないが、同じ類いの物語と受け取れるかもしれない。


そこで「ディスコード」である(ようやくマイリトルポニーの話だ)。
そういう枠組みで考えると、このいくつもの生物が混ざり合ったキマイラ(キマイラもまた、元はヒッタイトで神聖視された聖獣であり ながら、ギリシャに伝わり怪物となり、それがキリスト教文化に引き継がれ悪徳を意味する悪魔となった)のようなドラゴンは、まさにポニーたちによって管理 されない野生の象徴(エバーフリーフォレストがそうであるような)であり、征服されるべきカオスな自然を意味していると言ってよい(※7)。
それを1000年以上前に封印したセレスティアは正に、竜退治をする神話の神々や英雄の後継者である。
カオスな自然を征服することにより、ポニー達に管理された秩序の王国エクエストリアが建立される。
この物語は、いまどき珍しいほど、「秩序、調和」対「混沌」という立場がとられていて、その「秩序、調和」の最たる源泉が「友情」という「徳」であり、「混沌」の源泉が「不和」なのである。


では、今再び蘇った竜を退治しようとする、トワイライトスパークルらmane6は何なのであろうか。
デュメジルはインド・ヨーロッパの神話における「竜退治」に、「若者戦士結社」の儀式に由来する特徴があると主張した。
本当にそんな結社や儀式があったのかはともかく、ジョセフ・キャンベルらが言うように、神話における、怪物退治などの「試練」は、当時の社会の「イニシエーション」=「通過儀礼」=「成長するための儀式」と関係づけられる。
それを色濃く表している部分が上のエピソードの後半とその続きだ。

イニシエーションは通例、儀礼的な死とそこからの再生として語られる。一度死んで生き返ることにより、子どもは大人になって社会の一員となり、英雄は力を得て真の英雄となる。
その「儀礼的な死」が訪れる場所は、多くの場合、洞窟や地下、そして迷宮だ。これらは死の世界であると同時に胎内の象徴であり、生まれ変わるための子宮だと言われている。
彼女たちが一度、その「エレメンツ・オブ・ハーモニー」を失うのは、それらをより輝かせるために必要だったからなのだ。
ただ、その次のエピソードがこれでは、あんまり説得力がないけどな。

結論:トワイリー可愛い。


※1 ちなみに、インド神話のヴリトラの別名「ア ヒ」=「蛇」がイラン神話の「アジ」に対応しギリシャの「オピーオーン」「エキドナ」までつながっているらしい。

※2 このヒッタイトの雷神の名は恐らく北欧のトールや古代ケルト神話の「タラニス」と同じく「雷」=「thunder」と同語源である。
さらに一説によると「イルヤ ンカ」の前半部分の「イル」は現在英語で「ウナギ」を意味する「eel」、後半部分はやはり「アヒ」と同語源、でどちらも「蛇」を意味していると言う。昔の人は「蛇」と「ウナギ」も概念的に未分化だったらしい。
それをさらに敷衍して、ラテン語でウナギを意味する言葉「anguilla」の前半部分は明らかに「アヒ」と同語源の「anguis」だが、後半部分も実は「eel」と同語源のやはり「蛇」を意味する言葉なのではないか、と言う説もある。
またイルヤンカはエピソードの一つでは、酒を飲まされて殺されている。ヤマタノオロチと一緒だ。

※3 一方で蛇を悪魔の象徴とするユダヤ教も、聖書の各 所で、「青銅の蛇」など、蛇を知恵や不死や復活の象徴として使っている。

※4 実はキリスト教時代になっても、正教会などは蛇をキリストの復活や権威の象徴として使用していたりはするが。

※5 ティアマトの姿は、文献による言及からは、尻尾があることくらいしか分かっていない。

※6 こいつのせいで、古代に名を馳せたレバノン杉は、いまや絶滅寸前。とんだ環境破壊の権化である。
なお、ギルガメッシュとエンキドゥは、世界最初期の、「拳を交わした強敵(とも)」であり、ジャンプイズムが溢れかえっていてほほえましい。

※7 今でこそ、なんとなく自然はいいもの優しいもの、という雰囲気でみんな語りがちだが、かつて本当に厳しい自然の中で生きてきた者にとっては、自然は凶暴で怖ろしく、鎮めるためには敬いもするが、退治できるなら退治してしまいたい存在だった。

マイリトルポニーの世界観と比較神話学2 馬の兄弟神(Divine twins)

前回の続き。

セレスティアとルナは、デュメジルによるインド・ヨーロッパ社会の三機能仮説の頂点である「至上権」を握るニ柱の神と言うだけでなく、太陽と月を司る姉妹神である。
アマテラスとツクヨミ、ヘーリオスとセレーネー、アポローンとアルテミス(ただし彼らはそもそもは太陽と月の神ではない)、ソールとマーニ、この太陽と月の兄弟(通例、どちらかが女性でどちらかが男性である)のモチーフはインド・ヨーロッパの範囲を越えて、大きく世界に流通している。

インド・ヨーロッパの 神話では、太陽神はあまり最高神になることはないが(しかしながらギリシャの「ゼウス」やローマの「ユピテル」=「デウス・パテル」、インドの古い天空神 「デャウス・ピテル」、サンスクリット語の「神」=「ディーヴァ」、北欧神話の「テュール」は全て「光り輝く」という意味を含んでいて英語の「day」と 同語源である)、エジプトや日本などの他の国を見れば、太陽神が最高神になることも多いし、それが国家の主神の性格を強く持つのも自然だ。農耕に絶対必要 な太陽ではなく、雷を振るう軍事的な神に人気があり過ぎるインド・ヨーロッパの神話の方がこの意味では変だと思われる。
ただインド・ヨーロッパの神話では、太陽神と馬は非常に強い関係がある。
そもそもインド・ヨーロッパの神話では馬が人気だ。『リグ・ヴェーダ』にはダディクラーヴァンとタールクシアなど馬を神格化した賛歌が収録されているし、ギリシャ神話にもペガサス、などの神馬がいる。馬は彼らにとって戦車を引く重要な兵器であった。
そして太陽は多く場合、馬、それも多くは白い馬に引かれた戦車に乗って天空を駆けるのである。ギリシャのヘリオース、インドのスーリヤ、北欧神話の太陽神ソールの馬車を引く「アールヴァクとアルスヴィズ」や昼と夜の神の乗る馬車をそれぞれ引く「スキンファクシとフリームファクシ」等々と神話の実例には枚挙にいとまがないし、日車を表す古代の遺物もたくさん発掘されている。
「Trundhelm sun chariot」
Solvogn
だから太陽神である白馬セレスティアというのは、なかなか面白いことになる。

太陽と月の兄弟は世界に溢れているが、ことインド・ヨーロッパの神話に限れば、その神話には、太陽と関係の深い「馬の双子」が良く出てくる。
インド神話のアシュヴィン双神は、太陽神ヴィヴァス ヴァットの妻サンジュニャーが、夫のまぶしさから逃げるために馬の姿になっているときに生んだ子だとも言われる、双子の神だ。彼らの名は、 「ashva」=「馬」から来ていて、実際優れた騎手とされる。(この「ashva」という言葉はインド・ヨーロッパ祖語の「*ekwo-」から来てい て、ここから派生した言葉が、ギリシャ語の「hippo」、ラテン語の「equus」であり、「equestrian」=「騎手」もここから来ている。 「エクエストリア」の元ネタだ)
この双子の神は、太陽神の娘スーリアーを馬車に乗せて、夜明けとともに空を掛ける。
またバルト海のリトアニア神話にはアシュヴィエニアイと言う名の双子が出てくるがこれが、同根であることは言うまでもない。
ギリシャ神話の著名な例では、双子座の「カストール」と「ポリュデウケース」である。神話だけ読んでてもよく分からないかもしれないが、この二人は絵や像で表現される場合、いつも馬が従っている。彼らは騎手の守護者でもある。
少し時代は下ると、アーサー王伝説などにも登場するケント王国の創始者「ヘンゲスト」と「ホルサ」がいる。このアングロ・サクソン人の兄弟の名は、両方とも「非去勢牡馬」を意味する。
詳しくは知らないが、スラヴの神話には「レルとポレル(Lel & Polel)」という兄弟が出てくると言うし、アルバニアのキリスト教伝説には「フローリとローリ(Flori & Lori)」の兄弟が出てくるらしい。
さらにいうと、伝説のローマ建国ロムルスとその双子のレムスもこの変形ではないかと言われている。
これらは、文字が発明され神話や伝説が書き下されはじめた時代にはすでに忘れられ、分かりにくくなってしまっていたが、おそらく「明けの明星」と「宵の明星」を表す双子だったのではないかと思われる。
彼らの多くは、治癒の力を司り、旅する者の守護者という属性を持つものも多い。

セレスティアとルナは双子ではない物の、「馬の姉妹」と言うのは、かなり面白いような気がする。

そして、世界中の神話で「太陽の消失」について語っていないものの方が少ないくらいだろう。。日本神話の「天岩戸」はもちろん、北欧神話ではフェンリルの眷族スコルが太陽神ソールにくらいつくことにより日食が起きると言われている。
神話における「太陽の消失」は、昼と夜の交代や冬の日照時間の減少などの周期的な現象も含めて説明している可能性が高いが、ここでは、そういう解釈は除外しよう。
残るは、「日食」、もしくは火山の噴火や気候変動による一年もしくは何年も続く寒冷化などの、イレギュラーな現象である。
マイリトルポニーの最初の2話もそのような「太陽の消失」に関する物語ととらえることもできるだろう。


そう考えると、ただ昼が消失して夜が永遠に続くだけでなく、プリンセス・セレスティア自身がどこにも見当たらなくなることが説明できる。これは太陽神が隠されてしまう話なのだ。
ただ、この話は、比較神話学よりも、むしろ民俗学で解釈した方が実り豊かな気がする。それはまた今度にしよう。

ただちょっと面白いのは、「太陽の消失」が、太陽神の妹である月神によって、もたらされていること。
インドシナ半島の神話群では、太陽神と月神と素行の悪い末弟の三兄弟がいて、その末弟が月や太陽に悪さをすることが日食や月食の原因になる。日本神話もこの影響を受けているかもしれない。
この神話自体は、おそらくインド神話の影響を受けていて、そしてインドも含む多くの神話は何らかの「悪魔」が太陽や月を飲み込むことによって「食」が起きると説明している。
果たして、太陽がその兄弟である月によって「日食」を起こされる伝説があっただろうか? それともやはりこれは、ある程度の科学知識を持つ現代人の発想なのだろうか?
探したところ、イヌイットの伝説によると、天界の運行は、太陽の女神「Malina」をその弟である月の神「イガルク」が淫らな心を起こして追いかけ回すことによって起きていると言うことで、日食は、月が太陽を捕まえることによって起きる、と言うのだ。
これは、日食の原因を月とするにおいて、なかなかいいセンスを持っているではないか。(ただ、この物語では、月が欠けていくのは月が、姉を追いかけるのに夢中で痩せ ていくからで、新月のときに月が出ないのは、何か食べているからだ、と説明している。と言うことは、日食が起きるのは新月の時だ、という観察はまだできて いないことになるから所詮大したことはない、。なんて話は無粋なのでそろそろやめよう)

で、マイリトルポニーに戻ると、物語は太陽神セレスティアが闇の神ナイトメアムーンによって隠されてしまい、それを主人公たちが奪回しに行く物語になる。
これは、インド・ヨーロッパから微妙にずれるがフィンランドの『カレワラ』の英雄ワイナミョイネンによる太陽の奪還に似ているだろう。
そのために一度闇の世界(ここではエバーフリーフォレスト)に入って、試練(ここでは、それぞれの受け持った「徳」を発揮すること)を潜りぬける、と言うのには、神話における英雄物語の類型(ジョゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で指摘したような)、すなわち「イニシエーション」の構造が見える。
ただ、ナイトメア・ムーンを倒すために必要なのが、単なる力ではなく、精神的な「徳」(ここではエレメント・オブ・ハーモニー)であり、それを統合する友情の力だ、と言うのは、古代の神話と言うよりは、キリスト教の影響を受けた騎士道物語っぽい感じがする。
ただ、ここら辺の話は、対ナイトメア・ムーンで話すよりも、対ディスコードで語ったほうが面白いので、これは次回にまわそう。

ことほど左様に、マイリトルポニーの世界観は、何千年前の古い神話と驚くほど繋がっている。しかしこれも、神話時代が終わり、産業革命による社会の大変革が始まった後も、その繋がりを残してくれた先達あってこその話だ。マイリトルポニーと神話の間を繋いでくれている、多くのメルヘンや童話やファンタジー作品がある。
例えば、太陽と月の対応は神話の時代が終わっても、ファンタジーの中で生き続けていた。
以前の記事に少し書いたように、キャンタロットの王城(峻厳な山の 中腹に建てられたこの城は、ギリシャ神話のオリンポス山やインド神話のメル山、いわゆる須弥山を思い出させる)は、ファンタジーの系譜としては、指輪物語 のミナス・ティリス(守護の塔)の直径であり、エバーフリーフォレストに打ち捨てられた「Ancient Castle of Royal  Pony Sisters」はミナス・モルグル(呪魔の塔)に対応している。
これらはもともとは、ミナス・アノール(日の没りの塔)とミナス・イシル(月の出の塔)という対の塔だったのが、ミナス・イシルが幽鬼に陥落させられることにより、名前を変えた。
それがルナの反乱と追放、という姉妹の物語に、「本来対だったものの片方が欠けている」という悲劇的ないろどりを添えているし、その「繁栄の陰り」=「友情の陰り」が第2シーズンの最初の2話の前兆と通奏低音を成している。
マイリトルポニーの世界観を語る上で、神話まで遡らない、ファンタジー作品からの流れを収集していくのも重要だし、広く深い知の世界への楽しい旅になるであろう。

続く


マイリトルポニーの世界観と比較神話学1 デュメジルの三機能仮説(Trifunctional hypothesis)

比較神話学者のデュメジルはインド・ヨーロッパの神話にはある共通の構造があると考えた。
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それは、インド・ヨーロッパの神には、「主権」「戦闘」「生産・豊穣」の三つの区分が現れるというものだ。
そしてそれが、社会的には「司祭階級」「戦士階級」「平民階級」の区分になり、世界観としては、「天」「空」「地」の三界の区分になる。
さらに、「天」の神であり、「司祭階級」の神であり、「至上権」を持つ主神は多くの場合、契約を破った者を魔力で罰する怖ろしい「夜の神」と、契約を順守する者を光によって祝福する「昼の神」の、ニ柱の神の対によって表現される、という。
例えばインドのリグ・ヴェーダにおいては、ヴァルナ・ミトラの対神が「至上権」を表していて、ヴァルナが契約を破った者を幻力(マーヤー)で縛る神であり、ミトラが逆に縛りを解放する神である。
そしてインドラが「戦闘」をつかさどる神であり、ナーサティヤ双神が「生産・豊穣」をつかさどる神である。
それがインドの三大カースト制、司祭階級「ブラーフマナ」と戦士階級「ラージャニヤ」と平民階級「ヴァイシャ」にそれぞれ対応している。
デュメジルはこれに対応する構造が、ローマの宗教や社会システムにもあることを指摘する。
そこでは、「至上権」を持つ神は怖ろしい神であるユピテル(ローマ史ではローマの初代王ロムルスに対応)と、契約の神であるが歴史時代にはもうどういう神なのか分からなくなっていたディウス・フィディウス(ローマ史的には二代目王でありフラーメンの創始者ヌマに対応)のニ柱の神によってつかさどられている。
そして「戦闘」をつかさどるのはマルスであり、「生産・豊穣」をつかさどるのはクィりヌスである。
ローマではインドほど、この三機能に従った社会体制は発達しなかったが、それでも「ブラーフマナ」に対応し、よく似た戒律を持ち、語源的にも関係がありそうな司祭職「フラメン」があり、この三大フラーメン「フラーメン・ディアリス」「フラーメン・マルティアリス」「フラーメン・クィリナリス」に対応している。
そしてその職務を見ると、「空」「地表」「地中」という、インド神話の空間対応をそのまま一段下げた対応が見てとれると言うのだ。
デュメジルはそこからさらに北欧神話やケルトの伝説に筆を進めるのだが、そこまで追いかけるのはやめておこう。
今回はその対応がMy Little Ponyの歴史にも見てとれることを語りたい。

それが特に現れているのがやはり次の話であろう。

天界の運行をつかさどり、高貴な血筋を誇るユニコーン。空を駆け天候を司り、居丈高な軍人であるペガサス。大地を耕し食糧を供給する重要な役割を持ちながら、みすぼらしい格好をしている平民アースポニー。
完全なデュメジル三機能の構造を持っている。この3つの不和が永遠の冬を、調和が平和を、世界にもたらす、というのも実に神話の要素が強い。
さらに結末近くでうちたてられるエクエストリアの旗。光と闇、昼と夜、陰と陽、太陽と月の調和を表すこの旗(太極図を元にしたのかもしれない)には、歴史的な順序はいまいち不明だが、すでにセレスティアとルナの姿がある。
彼女たちは、エクエストリアの調和の象徴であり、太陽と月を司る、神のような存在だ。彼女たちは正にデュメジルの、至上権を表すニ柱の神、慈悲深い光の神と、怖ろしい闇の神、を表しているように見える。

もちろん、これは神話ではなく、現代人による物語なので、キャラクターたちは、そんな古代神話の紋切り型な役割分担を窮屈に思うだろう。
実際、ルナが反乱を起こした理由もそこにあったのかもしれない。
しかし、皮肉なことに彼女は太陽に反乱をおこすナイトメア・ムーンとなったことにより、最終的には民衆の信仰を集めることに成功することになるのである。

結論:ルナ様可愛い。

続く。
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