けんさく。

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泡沫

泡沫奇譚(二)

私が授業を始めようとしていると、奥村が教室に入ってきた。大方、便所にでも行ってきたのであろうと考え、気にせず板書を始めようとしたが、看過しえぬことに、コークの瓶を勢いよく振り回している。一体なんのつもりであろうか、と思って見ていると、それを机の上に置いて、栓を抜き、慌てて教室から走り出ていった。当然、瓶からは勢いよく黒ずんだ泡が吹きだし、机を濡らしはじめる。悪戯のつもりであろうか。しかし、私の記憶にある限り、奥村はこういうことをする生徒ではなかったはずだ。どのような心境の変化があったのかのであろうか。魔が差したというやつであろうか。
さっさと拭き取ってしまわねば、とも考えたが、不思議なことに、こんな時に限って信じられないほど、授業が順調に進む。何をどこまで説明すれば生徒が理解できるのかが、自然に身についている感覚がする。板書はすらすら進み、いつもより字も読みやすい。チョークを握りしめいつまでも生徒に背を向ける悪い癖も出ない。言葉も吃らずにすらすら唇から流れ出る。私は何だかこの流れを中断するのが、惜しくなってきた。それは生徒達も同じようだった。いつもは散漫になりがちな生徒も、今日ばかりは黒板を注視し、私の言葉の一つ一つに耳をそばだてた。それどころか私の一挙手一投足に神経を集中させているのが、私にも感じられ、そして何よりうれしいことに、私はその期待に応えることができるのだ。このいい流れが続いている間は、あの泡を放っておいてもいいだろう、と私は最初判断したのだ。
その間にも、コークの黒い泡は瓶の狭い口から吹きこぼれ続け、机の端から床にぼとぼと落ちはじめていた。早く吹かないとべたべたになってしまうなと思いながら、見て見ぬふりをしていると、次第に泡が増えていき、コークの瓶が見えなくなるほどになってしまった。さすがになんとかしなければまずいのではと思うが、しかし説明をやめると一斉に生徒の目が私に注がれて、足がすくんでしまう。仕方なしにまた授業を進めると、不思議なほどに難しい概念が上手く言語化できる。授業をやめて逃げてしまいたいと思ったことはあっても、ずっと授業をしていたいなんて思ったことは、これが初めてだ。しかし、そのうちにも吹きでつづける泡は机を蔽い隠し、何人かの生徒をも飲み込みはじめていた。その生徒たちは迫りくる泡にも関わらず、私の授業に夢中で、必死にノートを取り続けていた。きっと泡の中でも黒板は見えないまでも、私の声に耳を澄ましてノートを取り続けているのではなかろうか。これこそまさに教育者冥利につきるというものではなかろうか。私は彼らのためにも、さらに現実から目を背けて、ひたすら授業に邁進しなければいけないのだ。現実逃避と授業がこれほど相性がいいとは、今まで思いもよらなかった。生徒が次々と泡に飲み込まれるなか、私は異常な充実感に襲われていた。
しかし、次第に暢気なことを言っている場合ではなくなってきた。泡がこちらにも迫ってきたのだ。今や教室の7割がたが泡の中に沈んでしまっている。生徒が泡に呑まれても授業はできるが、教師が呑まれてはそうはいかない。可愛い生徒たちのためにも、ここは一時退却すべきだろう。決して彼らを見捨てるわけではない。と自分に言い訳しながら急いで扉に掛け寄ろうとするが、そこもすでに泡によって占領されてしまっている。どうやら私の退路を断とうという魂胆のようだ。仕方がないので窓を開けると、そこは二階なので、ここから飛び降りても死にはしないだろうと思えた。背広の上着をはためかせて、街路樹の下の、地面が露出しているところに降りようと飛ぶと、途中で木の枝に引っかかって、引っかき傷はできるわ、背広は木の葉だらけになるわと、ひどい格好になってしまった。だが、今飛び降りてきた窓を見上げると、そこからはすでに泡があふれ始めており、間一髪で命拾いをしたようだった。泡はすでに教室からあふれ、塾全体を飲みこもうとしはじめている。なんとかするには、教室から逃げ去った奥村を見つけるしかなさそうだった。私は彼を探すために街を走りだした。
走り出してはみたものの、別に私は居場所に心当たりがあるわけではない。行くあてといったら、この近くにある、本屋や喫茶店しかない。奥村は、よく本屋で本を眺めてずっと立っていたり、喫茶店で文庫本を読みふけっていたりする、物静かな生徒だった。成績は優秀だが、教室では時に目立つことはしなかった。しかし、今日教室に入ってきたときの、彼の表情はいつものそれとは大分違っていた。教室を一回だけ見回して、不敵、というか、人を人とは思わないような笑みを一瞬だけ浮かべたのだ。私は彼の人物像を頭に描きなおしながら、彼がいるのを見たことがある場所を回りつづけた。後ろを振り返るたびに、巨大な泡が少しずつ迫ってきていることが分かった。通行人を次々と飲み込み、私の後を追い続けている。交差点でどちらに行くか迷うたびに、間の距離が縮められていく。不思議なことに、通行人は飲み込まれることを、特に何とも思っていないようだ。まるで、これくらいのことは日常茶飯事だ、というようだ。それとも、そもそも自分が巨大な泡に飲み込まれていこうとしていることに気付いていないのだろうか。私は、一人でも多くの人を救うために、
「泡だ。泡が来るぞ」
と叫びながら、人を掻き分け、走り続けた。
しかし、誰にも私の声が届いた様子はなかった。誰もが、まるで私のことをいないとみなしているような感じだ。泡から逃げるために、人を押しのけても、怒りもしない。それを見ていると、今日奥村が教室に入ってきたとき、明らかに様子がおかしかったのに、誰も気に留めていなかったのを思い出した。まるで私以外、誰も彼が見えていなかったようだった。
通りをずっと行った先に、奥村の後ろ姿が見えた。私は必死に彼の名前を叫びながら、人並みに押し返されないように、懸命に走った。近くまで行くと、私の声が聞こえたのか、奥村が振り返った。私の姿を見ると、少しだけ驚いた顔をして、すぐにうれしそうに破顔した。
「やはり、先生は追いかけてきてくれましたね」
何の事だか、まったく分からなかったが、とにかく、大変なことを仕出かしておいて、余裕の笑みを浮かべているのが気に食わなかった。私は思わず彼の襟首を掴んで、捩じり上げるように引き寄せると、
「なんてことをしてくれたんだ。責任とって、自分でなんとかしてくれよ」
と彼に言った。すると奥村は限界まで口の端を釣り上げると、
「おや、それで僕を捕まえたおつもりですか」
と言って、泡になって流れ去ってしまった。私の手元には、ずぶ濡れになった奥村の服だけが残った。
ずるりと何かが巨体を引きずる音が聞こえて、嫌な予感がしたので後ろを振り返ると、目の前に真っ黒い泡が迫っていた。

泡沫奇譚(一)

私は夜の街を足早に歩いていた。思ったよりも帰りが遅くなって、急いでいた様である。夜といえど人通りはまだ多く、それがなぜだか私と反対側に行く者が妙に多く、ぶつからずに進むのは骨が折れる。まるで泥の流れに逆らおうとしているかのようで、自分が前に進んでいるのか、後ろに押し返されているのかも判断がつかない。街を行く人たちの顔はまるで滲んだように目鼻立ちがはっきりせず、私はなんだか空恐ろしいような、妙な気分になってきた。このままでは埒が明かないと、たまらず横道に逸れる。そこは人もまばらなので、しばらくはこの道を行こうと決めた。
どこへ向かっているのかもよく分からず歩いていると、そのうちに、何やらいかがわしい場所に出てしまったようだった。客引きが、道行く男たちの足を止めようと、空々しい作り笑顔で声を掛けまわっている。その一人がこちらに歩いてくる。私はひどく嫌な気分になって、足を速めた。けれども、男はぴったりと私の横に張り付いてくる。そして、声を潜めて耳元に囁いた。
「ちょいとお兄さん。いいことを教えてあげるよ」
その言い方が少しもいいことに聞こえなかったので、私はなんとか振り切ろうと、走り出さんばかりになった。ようやく男があきらめたかと思った刹那、男が私の後頭部に向かって吐き捨てるように言う。
「あんた、今夜死ぬよ」
私は肝が潰れて思わず振り返ってしまった。男は妙に両目の間がはなれて、名はすぐには思い出せないが、何かの獣に似ているような気がした。
「何を言い出すのだ、君は」
失敬じゃないかと思って、思わず詰め寄ると、男はすかさず私の手首を掴み、
「嘘だと思うなら、ついて来て見なさい」
と言って、離そうとしない。顔を見ると凄まじいばかりの笑顔である。私は急に怖くなってきてしまい、「急いでいるので」と口の中だけで、もごもごと言い訳を言い、その場を離れようとするが、男がそれを許してはくれない。無理やり振り払おうとするも、男に手首を掴まれていると、なぜだか総身から力が抜けてしまい、膝から崩れ落ちてしまいそうになる。私が困惑している隙に、男はもう片方の手で私の肩を抱くと、そのまま、けばけばしい外装の店の狭い入口に押し込んでしまう。耳元で「絶対に後悔はさせない」と呟きつづけるのを聞いていると、抵抗する気力すら萎え始めるのを、私は感じはじめていた。
そのまま、店の内部まで連れていかれて、放り投げられるように受付に受け渡される。跡でもついていないだろうかと、手首をさすっていると、受付の男が話しかけてくる。今度はあまり美味くなさそうなどこか深海の魚のような顔だ。その男に女の子の写真の並んだ表を見せられて、「この中からお一人選んでください」と言われる。話が違うじゃないかと、腹が立ってきたが、後ろで先ほどの男がこちらを見ているのが感じられて、逃げることも出来ない。隙をつくために、とりあえずは大人しくしている振りをしてやろうと、手渡された表を眺める振りをする。その表の中に見知った顔があるような気がして、思わず息を飲む。
気のせいではない。これは確かに三田村嬢だ。見たことのない化粧をして、彼女には全く似つかわしくない今風の名前を付けられてはいるが、特徴的な目元は確かに彼女の物だ。
私は前にいつ彼女に会ったか、思い出そうとした。しかし、記憶に靄が掛かってしまったようで、上手く行かない。しかし前にあったときの彼女は、颯爽としていて、この手の仕事につくようにはとても思えなかった。
「その娘ですね」
気がつくと、受付の男が私の顔を下からのぞきこんでいた。私は思わず彼女の写真を凝視していたようだ。
「いや、そういうわけではなくて」
と私が慌てて言い訳するのに全く頓着せず、男は私の手元から表を抜き取ると、その他の細々とした内容を勝手に処理し、代金を請求してきた。私にはこの手の店の相場が良く分からないのだが、それほど高くないなと考えていると、終わった後にもう一度女の子にお金を払わなくてはいけないらしい。どういう仕組みなのであろうか。
私は考えがまとまらぬまま、個室に案内されてしまう。ベッドの上に座って呼吸を落ち着かせようとする。床の模様を眺めていてもせんないことなので視線を上げると、風呂場のドアが目に入り、また頭が混乱する。仕方なく天井を見ることにすると、蠅が一匹飛んでいる。電燈に向けて飛び上がろうとしているのだが、かなり弱っているらしく、途中で力尽きてはひょろひょろと落ちてきては、またよろよろと昇っていこうとする。それを見ていたら、こんなところで私は何をしているのであろうかという、根源的な疑問に苛まれてきた。あの写真が本当に三田村嬢だったとして、それで私は何をしようというのか。話を聞いて、場合によっては相談に乗って、別の場合には軽い説教でもして、それで何もせずに帰るというのだろうか。何さまのつもりだと思われて終わりだろう。しかし、それ以外にどうすればいいのであろうか。ただ気まずいまま、黙って制限時間いっぱいまで黙っているのだろうか。それとも客は客だと居直るのか。いや、そもそもまだ三田村嬢と決まったわけでもなかろう。まだあわてるような時間じゃない。ここで挙動不審になっては、軽く見られてしまう。こういうところには来慣れている、という顔をしてどっしり座っていればいいのだ。とうとうベッドの上まで落ちてきてしまった蠅の羽を毟りながらそう考えていると、少しずつ心が落ち着いてきた。ところが蠅を投げ捨てて、いざどっしり、と思った拍子に、自分は何か大切なことを忘れているぞ、という嫌な感覚が沸き起こってきた。その途端、ドアが開き、三田村嬢が入ってきた。
それはどう見ても彼女だった。以前あったときとほとんど変わっていない。彼女の鋭利な刃物のような存在感もそのままだ。だが、もしかしたら、少し表情に陰りがあるかもしれない。私が唖然として何も言えないのに、彼女は私を見ても特に驚いた様子はないようだった。もしかしたら私が分からないのだろうか、それとも本当に三田村嬢ではないのだろうか、とも思ったが、彼女が何も言わないうちに、私の方から口を開くのも気が重く、黙っていることにした。彼女は私を一瞥すると、さっさと風呂場の方に行ってしまった。私はそれを見て、いそいで後を追うしかなかった。ドアを閉めると彼女はおもむろに服を脱ぎ始めた。私はびっくりするが、しかしびっくりする必要がないのも理解しているので、仕方なく自分も脱ぎ始めた。できるかぎり顔を上げずに服を脱ごうと悪戦苦闘していると、何やらまた腹が立ってきた。客商売なのに、笑顔の一つもないどころか、まだ一言も言葉を発していない。客をなんだと思っているのだろうか。しかし、よく考えるとこれはやはり、彼女は三田村嬢で、私のことに気付いているということではなかろうか。私が顔を上げると、彼女は体にバスタオルを巻いて、湯船にお湯を入れ始めていた。白い肌が目に眩しく、バスタオルに浮き出る体の線が悩ましかった。それを見ている、私もいまや身に纏うものといえば、腰のまわりの心もとないタオル一丁である。今声を掛けなければ、声の掛け時がなくなってしまう。私は意を決して、口を開こうとした。しかし、金魚のように口をぱくぱくさせるだけで、少しも声が出ない。なんとか、言葉を発しようと努力しているうちに、結局彼女の方が最初に口を開いた。顔は私からそむけたまま、
「私にあんなことをしておいて、よくもおめおめと顔が出せたものね」
と、低く重く恨み事を呟いた。なんのことか分からないので、答えられずにいると、不意に振り返って、
「こんなことになってる私を笑いにきたわけ」
と目を据わらせて、声を張り上げる。私はあまりに驚いたことによりようやく口が聞けるようになり、「一体全体なんの話だ」、と声を張り上げかえした。身に覚えなどあるはずもない。私と彼女の関係は、言うならば友達の友達といったところで、数回二人でコーヒーなどを飲んで談笑したくらいの仲だ。彼女がこのような仕事をしているのは遺憾だが、それは私に関係のないところで起こったことであり、文句の言われる筋合いはない。そう至極真っ当な反論をするのだが、明らかに尋常な精神状態ではない彼女に通じるはずもない。彼女はバスタオルをきゅっと持ったまま、立ち上がる。そのバスタオルの端から、何かぎらりと光るものが見え隠れしている。両手でそれを持ちなおすと、バスタオルが彼女の足元にすとんと落ち、姿を現したのが、白い裸身と銀色の刃の匕首だった。
彼女はその匕首の刃を私に向けてにじり寄ってくる。私は慌てて距離を取ろうとして、両手を体の前に振り回しながら後ずさりする。腰に引っ掛かっていたタオルが足元に落ち、それを踏んで尻もちをついてしまう。私はなんとか彼女を落ち着かせようと、いろいろ自分でもよく分からないことを口走るが、彼女はそもそも聞く耳を持たないようだ。なんとか身の潔白を証しだてようと、
「そもそも私は生まれてこのかた、女を泣かしたことなど一度としてない。そしてこれこそ嘘に塗れた私の一生のたった一片の本当である」
と自信を持って宣言したのであるが、それを聞いた彼女は
「確かに今までは、泣かしたことはなかったかもしれない。実際私は泣かなかった。今までは泣かなかった。だがあんたの聞き苦しい言い訳を聞いていたら、そういうわけにもいかなくなった」
と言って、両の瞳からぼろぼろと大粒の涙を流しはじめてしまう。
その涙を見ていたら、どこか胸の奥の方で、勝手に覚悟が決まってしまう音がしたのが聞こえた。私は少しも覚悟なんぞ決めたくなかったのだが、覚悟の方が勝手に決まってしまうというのはとても困る話である。しかし、一度覚悟が決まってしまうと、今までうずまいていた困惑や怒りがすうっと引いていき、その代わりに彼女への愛おしさがあふれてきたから不思議だ。私は彼女を抱きしめるために、立ち上がって彼女のもとにかけ寄ると、匕首の刃先がすうっと胸の中に差し込まれていく。どろりとした赤い血が私と彼女の肌の間を伝い落ちていく。それはぬるりとして、生温かった。体の力と意識が、指の間から落ちる砂のように、私の中からすり抜けていく。そんな中、彼女の涙を下で舐めとりながら私は、金を払った分だけはやっておくべきだったかな、と少し後悔をしはじめていた。
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