私が授業を始めようとしていると、奥村が教室に入ってきた。大方、便所にでも行ってきたのであろうと考え、気にせず板書を始めようとしたが、看過しえぬことに、コークの瓶を勢いよく振り回している。一体なんのつもりであろうか、と思って見ていると、それを机の上に置いて、栓を抜き、慌てて教室から走り出ていった。当然、瓶からは勢いよく黒ずんだ泡が吹きだし、机を濡らしはじめる。悪戯のつもりであろうか。しかし、私の記憶にある限り、奥村はこういうことをする生徒ではなかったはずだ。どのような心境の変化があったのかのであろうか。魔が差したというやつであろうか。
さっさと拭き取ってしまわねば、とも考えたが、不思議なことに、こんな時に限って信じられないほど、授業が順調に進む。何をどこまで説明すれば生徒が理解できるのかが、自然に身についている感覚がする。板書はすらすら進み、いつもより字も読みやすい。チョークを握りしめいつまでも生徒に背を向ける悪い癖も出ない。言葉も吃らずにすらすら唇から流れ出る。私は何だかこの流れを中断するのが、惜しくなってきた。それは生徒達も同じようだった。いつもは散漫になりがちな生徒も、今日ばかりは黒板を注視し、私の言葉の一つ一つに耳をそばだてた。それどころか私の一挙手一投足に神経を集中させているのが、私にも感じられ、そして何よりうれしいことに、私はその期待に応えることができるのだ。このいい流れが続いている間は、あの泡を放っておいてもいいだろう、と私は最初判断したのだ。
その間にも、コークの黒い泡は瓶の狭い口から吹きこぼれ続け、机の端から床にぼとぼと落ちはじめていた。早く吹かないとべたべたになってしまうなと思いながら、見て見ぬふりをしていると、次第に泡が増えていき、コークの瓶が見えなくなるほどになってしまった。さすがになんとかしなければまずいのではと思うが、しかし説明をやめると一斉に生徒の目が私に注がれて、足がすくんでしまう。仕方なしにまた授業を進めると、不思議なほどに難しい概念が上手く言語化できる。授業をやめて逃げてしまいたいと思ったことはあっても、ずっと授業をしていたいなんて思ったことは、これが初めてだ。しかし、そのうちにも吹きでつづける泡は机を蔽い隠し、何人かの生徒をも飲み込みはじめていた。その生徒たちは迫りくる泡にも関わらず、私の授業に夢中で、必死にノートを取り続けていた。きっと泡の中でも黒板は見えないまでも、私の声に耳を澄ましてノートを取り続けているのではなかろうか。これこそまさに教育者冥利につきるというものではなかろうか。私は彼らのためにも、さらに現実から目を背けて、ひたすら授業に邁進しなければいけないのだ。現実逃避と授業がこれほど相性がいいとは、今まで思いもよらなかった。生徒が次々と泡に飲み込まれるなか、私は異常な充実感に襲われていた。
しかし、次第に暢気なことを言っている場合ではなくなってきた。泡がこちらにも迫ってきたのだ。今や教室の7割がたが泡の中に沈んでしまっている。生徒が泡に呑まれても授業はできるが、教師が呑まれてはそうはいかない。可愛い生徒たちのためにも、ここは一時退却すべきだろう。決して彼らを見捨てるわけではない。と自分に言い訳しながら急いで扉に掛け寄ろうとするが、そこもすでに泡によって占領されてしまっている。どうやら私の退路を断とうという魂胆のようだ。仕方がないので窓を開けると、そこは二階なので、ここから飛び降りても死にはしないだろうと思えた。背広の上着をはためかせて、街路樹の下の、地面が露出しているところに降りようと飛ぶと、途中で木の枝に引っかかって、引っかき傷はできるわ、背広は木の葉だらけになるわと、ひどい格好になってしまった。だが、今飛び降りてきた窓を見上げると、そこからはすでに泡があふれ始めており、間一髪で命拾いをしたようだった。泡はすでに教室からあふれ、塾全体を飲みこもうとしはじめている。なんとかするには、教室から逃げ去った奥村を見つけるしかなさそうだった。私は彼を探すために街を走りだした。
走り出してはみたものの、別に私は居場所に心当たりがあるわけではない。行くあてといったら、この近くにある、本屋や喫茶店しかない。奥村は、よく本屋で本を眺めてずっと立っていたり、喫茶店で文庫本を読みふけっていたりする、物静かな生徒だった。成績は優秀だが、教室では時に目立つことはしなかった。しかし、今日教室に入ってきたときの、彼の表情はいつものそれとは大分違っていた。教室を一回だけ見回して、不敵、というか、人を人とは思わないような笑みを一瞬だけ浮かべたのだ。私は彼の人物像を頭に描きなおしながら、彼がいるのを見たことがある場所を回りつづけた。後ろを振り返るたびに、巨大な泡が少しずつ迫ってきていることが分かった。通行人を次々と飲み込み、私の後を追い続けている。交差点でどちらに行くか迷うたびに、間の距離が縮められていく。不思議なことに、通行人は飲み込まれることを、特に何とも思っていないようだ。まるで、これくらいのことは日常茶飯事だ、というようだ。それとも、そもそも自分が巨大な泡に飲み込まれていこうとしていることに気付いていないのだろうか。私は、一人でも多くの人を救うために、
「泡だ。泡が来るぞ」
と叫びながら、人を掻き分け、走り続けた。
しかし、誰にも私の声が届いた様子はなかった。誰もが、まるで私のことをいないとみなしているような感じだ。泡から逃げるために、人を押しのけても、怒りもしない。それを見ていると、今日奥村が教室に入ってきたとき、明らかに様子がおかしかったのに、誰も気に留めていなかったのを思い出した。まるで私以外、誰も彼が見えていなかったようだった。
通りをずっと行った先に、奥村の後ろ姿が見えた。私は必死に彼の名前を叫びながら、人並みに押し返されないように、懸命に走った。近くまで行くと、私の声が聞こえたのか、奥村が振り返った。私の姿を見ると、少しだけ驚いた顔をして、すぐにうれしそうに破顔した。
「やはり、先生は追いかけてきてくれましたね」
何の事だか、まったく分からなかったが、とにかく、大変なことを仕出かしておいて、余裕の笑みを浮かべているのが気に食わなかった。私は思わず彼の襟首を掴んで、捩じり上げるように引き寄せると、
「なんてことをしてくれたんだ。責任とって、自分でなんとかしてくれよ」
と彼に言った。すると奥村は限界まで口の端を釣り上げると、
「おや、それで僕を捕まえたおつもりですか」
と言って、泡になって流れ去ってしまった。私の手元には、ずぶ濡れになった奥村の服だけが残った。
ずるりと何かが巨体を引きずる音が聞こえて、嫌な予感がしたので後ろを振り返ると、目の前に真っ黒い泡が迫っていた。
さっさと拭き取ってしまわねば、とも考えたが、不思議なことに、こんな時に限って信じられないほど、授業が順調に進む。何をどこまで説明すれば生徒が理解できるのかが、自然に身についている感覚がする。板書はすらすら進み、いつもより字も読みやすい。チョークを握りしめいつまでも生徒に背を向ける悪い癖も出ない。言葉も吃らずにすらすら唇から流れ出る。私は何だかこの流れを中断するのが、惜しくなってきた。それは生徒達も同じようだった。いつもは散漫になりがちな生徒も、今日ばかりは黒板を注視し、私の言葉の一つ一つに耳をそばだてた。それどころか私の一挙手一投足に神経を集中させているのが、私にも感じられ、そして何よりうれしいことに、私はその期待に応えることができるのだ。このいい流れが続いている間は、あの泡を放っておいてもいいだろう、と私は最初判断したのだ。
その間にも、コークの黒い泡は瓶の狭い口から吹きこぼれ続け、机の端から床にぼとぼと落ちはじめていた。早く吹かないとべたべたになってしまうなと思いながら、見て見ぬふりをしていると、次第に泡が増えていき、コークの瓶が見えなくなるほどになってしまった。さすがになんとかしなければまずいのではと思うが、しかし説明をやめると一斉に生徒の目が私に注がれて、足がすくんでしまう。仕方なしにまた授業を進めると、不思議なほどに難しい概念が上手く言語化できる。授業をやめて逃げてしまいたいと思ったことはあっても、ずっと授業をしていたいなんて思ったことは、これが初めてだ。しかし、そのうちにも吹きでつづける泡は机を蔽い隠し、何人かの生徒をも飲み込みはじめていた。その生徒たちは迫りくる泡にも関わらず、私の授業に夢中で、必死にノートを取り続けていた。きっと泡の中でも黒板は見えないまでも、私の声に耳を澄ましてノートを取り続けているのではなかろうか。これこそまさに教育者冥利につきるというものではなかろうか。私は彼らのためにも、さらに現実から目を背けて、ひたすら授業に邁進しなければいけないのだ。現実逃避と授業がこれほど相性がいいとは、今まで思いもよらなかった。生徒が次々と泡に飲み込まれるなか、私は異常な充実感に襲われていた。
しかし、次第に暢気なことを言っている場合ではなくなってきた。泡がこちらにも迫ってきたのだ。今や教室の7割がたが泡の中に沈んでしまっている。生徒が泡に呑まれても授業はできるが、教師が呑まれてはそうはいかない。可愛い生徒たちのためにも、ここは一時退却すべきだろう。決して彼らを見捨てるわけではない。と自分に言い訳しながら急いで扉に掛け寄ろうとするが、そこもすでに泡によって占領されてしまっている。どうやら私の退路を断とうという魂胆のようだ。仕方がないので窓を開けると、そこは二階なので、ここから飛び降りても死にはしないだろうと思えた。背広の上着をはためかせて、街路樹の下の、地面が露出しているところに降りようと飛ぶと、途中で木の枝に引っかかって、引っかき傷はできるわ、背広は木の葉だらけになるわと、ひどい格好になってしまった。だが、今飛び降りてきた窓を見上げると、そこからはすでに泡があふれ始めており、間一髪で命拾いをしたようだった。泡はすでに教室からあふれ、塾全体を飲みこもうとしはじめている。なんとかするには、教室から逃げ去った奥村を見つけるしかなさそうだった。私は彼を探すために街を走りだした。
走り出してはみたものの、別に私は居場所に心当たりがあるわけではない。行くあてといったら、この近くにある、本屋や喫茶店しかない。奥村は、よく本屋で本を眺めてずっと立っていたり、喫茶店で文庫本を読みふけっていたりする、物静かな生徒だった。成績は優秀だが、教室では時に目立つことはしなかった。しかし、今日教室に入ってきたときの、彼の表情はいつものそれとは大分違っていた。教室を一回だけ見回して、不敵、というか、人を人とは思わないような笑みを一瞬だけ浮かべたのだ。私は彼の人物像を頭に描きなおしながら、彼がいるのを見たことがある場所を回りつづけた。後ろを振り返るたびに、巨大な泡が少しずつ迫ってきていることが分かった。通行人を次々と飲み込み、私の後を追い続けている。交差点でどちらに行くか迷うたびに、間の距離が縮められていく。不思議なことに、通行人は飲み込まれることを、特に何とも思っていないようだ。まるで、これくらいのことは日常茶飯事だ、というようだ。それとも、そもそも自分が巨大な泡に飲み込まれていこうとしていることに気付いていないのだろうか。私は、一人でも多くの人を救うために、
「泡だ。泡が来るぞ」
と叫びながら、人を掻き分け、走り続けた。
しかし、誰にも私の声が届いた様子はなかった。誰もが、まるで私のことをいないとみなしているような感じだ。泡から逃げるために、人を押しのけても、怒りもしない。それを見ていると、今日奥村が教室に入ってきたとき、明らかに様子がおかしかったのに、誰も気に留めていなかったのを思い出した。まるで私以外、誰も彼が見えていなかったようだった。
通りをずっと行った先に、奥村の後ろ姿が見えた。私は必死に彼の名前を叫びながら、人並みに押し返されないように、懸命に走った。近くまで行くと、私の声が聞こえたのか、奥村が振り返った。私の姿を見ると、少しだけ驚いた顔をして、すぐにうれしそうに破顔した。
「やはり、先生は追いかけてきてくれましたね」
何の事だか、まったく分からなかったが、とにかく、大変なことを仕出かしておいて、余裕の笑みを浮かべているのが気に食わなかった。私は思わず彼の襟首を掴んで、捩じり上げるように引き寄せると、
「なんてことをしてくれたんだ。責任とって、自分でなんとかしてくれよ」
と彼に言った。すると奥村は限界まで口の端を釣り上げると、
「おや、それで僕を捕まえたおつもりですか」
と言って、泡になって流れ去ってしまった。私の手元には、ずぶ濡れになった奥村の服だけが残った。
ずるりと何かが巨体を引きずる音が聞こえて、嫌な予感がしたので後ろを振り返ると、目の前に真っ黒い泡が迫っていた。