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マイリトルポニー最終回 感想 取り急ぎ

本日2019/10/13日、アメリカでMy Little Pony Friendship is Magicが最終回を迎えました。
私は2012年のシーズン3が始まる前にハマったので足掛け7年ハマってたことになります。
当時興奮して、かなり長い連続評論を書いたのも懐かしい思い出です。

http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1492286.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1497113.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1497292.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1498711.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1498755.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1500025.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1499801.html
http://blog.livedoor.jp/kensaku_gokuraku/archives/1500094.html

さて、最終回ですが、基本的に上記の評論で書いた神話的な世界観が貫徹されたことも嬉しく感じました。しかし、7年の間に、マイリトルポニーには様々な要素が付け加わりました。その年月にも想いを馳せずに入られません。

当時私が注目したのは、世界各地に伝わる神話の構造やモチーフをこのアニメが見事に拾っていることです。世界各地の神話に同様な構造やモチーフが存在するのは、ある意味ではそれが我々人類にとってわかりやすくて面白いからです。それを有効に活用するのはとてもいいやり方です。
例えばマイリトルポニーにはアースポニー・ペガサス・ユニコーンの三種族が存在しています。アニメ内時代劇においては、それぞれ農民、戦士、天界の運行を司る魔法使いとして描かれていて、これは「主権・戦闘・生産」の三つの区分がインド・ヨーロッパ語族の神話に共通して見られると言うデュメジルの「三機能仮説」に一致します。馬の姉妹というのも、デュメジルがインド・ヨーロッパ神話に共通して見られる「馬の兄弟」のパターンと似ています。それが太陽と月と関連づけられることも、珍しくありません。
また、S1の冒頭を飾るナイトメアムーンとの戦いは、天岩戸の神話と同様に日食を意味する同時に、夏至の祭りに太陽が一度死に再び復活すると言う、新しい季節の一周りを祝う「死と再生の神話」でもあります。
そして、S2の冒頭を飾るディスコードとの戦いは、世界各地の神話に繰り返し語られる、混沌に対する秩序の勝利そのものです。
それらの世界観の裏に「調和」という軸が存在します。三種族が仲違いをした時、その調和が崩れ、恐ろしいウィンディゴが世界を極寒の破滅へと突き落とします。この不調和こそ、エクエストリアにとって、どんな悪役より一番恐ろしいものなのです。
そして、三種族を調和させるものこそ、副題にもある「友情」なのだ、ということがこの物語の大きなテーマなのです。

上記評論を書いたS2までは、そのような神話的世界がマイリトルポニーの大きな魅力でした。しかし、
S3でトワイライトはプリンセスになります。おそらく、当初の予定ではこれくらいで物語を終える予定だったのではないでしょうか。しかし、物語はまだまだ続き、マイリトルポニーにはそれから濁流のような様々な要素を受け入れ続けるのです。

S3の後では、エクエストリアス・ガールズという、「人間化(擬人化という言葉は不正確なので私は使いません)」シリーズが始まります。最初は不安がられましたが、一作目がそこそこ好評で、二作目『レインボーロックス』が作られ、これがものすごい大傑作だったことによって、今でも続くスピンオフシリーズになっています。
トワイライトのロマンスの相手で1作だけの予定だったフランシュセントリー君が、ファンの間でプチ炎上したことにより、その後微妙な変遷を経ることになることはもはや懐かしい思い出です(日本では彼を爆破するMADが流行りました)。
また一作目の敵役サンセット・シマーは二作目以降第二の主人公となり、私の一番好きなマイリトルポニーのキャラの一人にもなりました。

S4では古くからのファンには故郷のように懐かしいあの場所が失われショックを与えられると同時に、ドラゴンボールにも例えられる戦闘シーンが注目を浴びました。実際、予算が上がったのか、背景や動きのクオリティがかなり上がったように思えました。

そして重要なS5。スターライトグリマーの登場です。
彼女はある意味サンセットシマーの鏡のような存在でした。どちらも闇のトワイライトスパークルとしての属性を持っています。しかしサンセットシマーは他人を蹴落とす「行き過ぎた利己主義」の化身として、スターライトグリマーは全ての人間が自己を抑圧する「ゆきすぎた平等主義」の化身として。
共産主義のパロディとも見られたディストピアストーリーはヒューゴー賞の候補にもなりました。
マイリトルポニーが、このような政治的とも見られるテーマを扱うことに驚く声も聞きました。
しかし、これはシーズンが長続きするにあたって、とても自然なことだと今では私は思っています。
マイリトルポニーの面白さは、「友情」を「調和」の源と見なして、神話的に意味づけする一方、「友情のとても身近な問題」にとても細かい目配りをしてくれるところでした。
神話的なファンタジーに見せかけて普段している話は「一緒にオーディションを受けたら友達しか受からなくて、嫉妬してるんだけど応援しなくちゃいけない」「友達の友達がガラが悪くて付き合いにく。この前その子が万引きするところを見てしまった」みたいな、非常に(胃が痛くなるほど)リアルな友情問題なのです。
そして、S4以降、主人公たちがだんだんと大人になっていく、という変化が起こります。彼女たちは、エクエストリアの大人のポニーとしてキャリアアップして、様々な環境の変化を被って行きます。その中で友情問題として、社会の様々なリアルな問題を自然に扱って行きます。
一足とびに政治問題に直結させないところもマイリトルポニーの丁寧さではありますが、そこまでいけば少し足を伸ばせば簡単に政治信条の問題にもなるわけです。
それが、調和を見出すものとしての「行き過ぎた利己主義」と「行き過ぎた平等主義」。
これって、いわゆる「自由」と「平等」という、民主主義の要でありながら相矛盾しかねない二つのものの問題なわけです。そして、どうしてフランス共和国の標語は「自由、平等、友愛」だったのか、という問題にもつながるかもしれません。
それをサンセットシマーとスターライトグリマーという二人の魅力的なキャラに結実させるのは見事というしかありません。
特にスターライトグリマーは、最初仲間になると知った時、サンセットシマーとキャラが被らないかと心配だったんですが、S6以降、mane6とはまた違うトラウマ持ちの大人として見事なキャラ付けをされて、本当に惚れ惚れとしてしまいました。トリクシーとの関係性も、関係性のオタクはぜひ見て欲しい塩梅に仕上がっております。

mane6が大人になっていくことによって、マイリトルポニーは政治的なニュアンスを隠し持つようになります。
つまり、単純な調和の神話ではなく、「民主主義の神話」としての要素を持ち始めたのです。
私は別に民主主義を完璧な政治制度だとは思ってはいません。しかし、マイリトルポニーの歌い上げる「民主主義の神話」にはかなり感動させられたと告白します。
「民主主義の神話」と聞いて怖気付きそうな人には、「そんな怖いものじゃないし、基本的には身近な友情のメンテナンスをひたすらする話だから安心して」とも念のために言っておきます。
友情という身近な問題と、民主主義の問題、そして世界の調和が、なんとなく地続きになってるのが、マイリトルポニーの世界観の魅力だと、最終的には考えています。

その象徴が、トワイライトが作った友情の学校なんだと思います。
友情の学校によって、トワイライトはポニー以外の様々な種族との調和を図ろうとします。
多種族との調和は、初期のシーズンでもバッファロー相手にテーマになったことがありますが、羊は無造作に扱われ、おそらく特にテーマとして考えられてなかったと思われます。
しかしトワイライトがプリンセスになったあたりから、急に裏テーマとして少しずつ導入されました。
それを、学校という場を舞台に様々な種族の6人の生徒を中心に描き始める。
これも、ファンの間では賛否両論あったと記憶します。
6人の生徒の失敗が描かれるわけですが、これはmane6がやっていたことの繰り返しではないか。mane6はそれだけでシリーズ全体を引っ張るように入念に造形されていますが、この新たな6人の生徒はそれと比べるとキャラが弱いのではないか。
全て、一理あると私は思っていました。
しかし、この展開はかなり計算されたものだったと最終回後は思えます。
つまり、友情の神話を民主主義の神話に繰り上げするに当たって、学校という場、そして友情の魔法の伝授が必要とされたのでしょう。
世界を支えるものである以前に、社会を支えるものとしての「友情」と「調和」。そしてそれを次の世代へ引き継ぎ社会を支える施設としての「学校」。
そのために、難しい生徒6人のキャラ作りにあえて挑戦したのでしょう。
そして、これが最終回への大きな伏線になるわけです。

最終回、三種族の不和によるウェンディゴの出現を止めるきっかけになったのは、粗末な箱の上に乗った演説でした。
英語ではsoapboxといえば、演説のための間にあわせの台のことです。on a soapboxで演説をしているという意味になりますし、soapbox自体が演説することを意味する動詞にもなります。
それによって事態が好転することが、民主主義の神話でなくしてなんなのか、と言いたい。
英雄ではなく、異種族が合わさって調和を実現することによって、世界を救う物語が、民主主義の神話でなくしてなんなのか、と言いたい。

そして最終回、全2話で高らかに神話を歌い上げたのにバランスを取るような、いつもの日常回。
ラストバトルの後にmane6が向かったドーナツ屋と同様に、S1のラストを思い起こさせ、ファンへの思いやりを感じます。
ここで友情はもう一度、調和という神話的概念でもなく、民主主義という政治的概念でもなく、いつもどこか調子悪くて、いつもメンテナンスしなくてはいけない、厄介だけど付き合ってはいけない身近な問題に戻ります。
友情は面倒なものです。なのであまり背負いすぎず、上手に荷を下ろして上手く付き合いましょう。そうすれば悪いものではないですよ。といういつもの順当であまり面白くないかもしれないけど、何度確認しても忘れがちな結論に帰ってくるのです。
これぞマイリトルポニー。まさにマイリトルポニー。
いいアニメでした。

2019年度はみんなでHazbin Hotelを見ましょう。

もう、2019年はこれっきゃないですよ。Youtubeで字幕付きで見られるので、全員見ましょう。可愛くてエロくてパンクで不道徳で、やっと『Panty & Stocking with Garterbelt』の再来が来たと言う感じ。世界観的にもこれがパンストの続編と言っても過言じゃないですよ。

右下の歯車アイコンで字幕が設定でき、日本語にすれば日本語字幕もつけられます。
これが公開されたのが去年。そこから資金集めのための宣伝を兼ねたクリップが順次公開されていく。


いやあ、チャーリーちゃん、むちゃくちゃ可愛いじゃないですか。なんか善人そうなことを言ってますけど、魔界のプリンセスだけあって、角を生やした凶悪な御面相も素敵ですね。しかもMLP FiMのファンに広く知られたThe Living Tombstoneが音楽に関わってるとなれば、期待せざるをえませんな。背景にいる色々なキャラクターもみんなポップでセクシーで最高。


エンジェルダストは魔界のポルノスターで街娼のドラッグ中毒でしかも男(ふわふわの巨乳)となったら興奮しない方が変です。可愛い。本当にパンストの世界観みたいだ。


歌のクリップで意味ありげに佇んでいたラジオデーモンのアラスターさん。人が落ちぶれるところが大好きなラジオDJのシリアルキラーで、いつも笑みを欠かさない。いいデザインだ。クレジットの背景にあるチャーリーちゃんと一緒のイラストとかグッと来ますね。


多眼のおっさんvs単眼娘。異形のデパートみたいなアニメだ。


 
vaggieと言う名前はやはりvaginaと関係あるのかな。『リック&モーティ』でもヴァジャイナ校長がいるし、今時珍しくない名前なのかな?(そんなわけねえだろ)。彼女はチャーリーと恋人らしい。




この女キャスターもやばそう。

さて、この作品を作ってVivziepopは過去作品もいい感じなので、ぜひyoutubeチャンネルで見てみよう。
これを見て琴線に触れるものがあった人は、是非今年はHazbin Hotelを見てね!


『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』ネタバレ長文感想&分析

『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』(以下『KUBO』)を見てきて、いろいろ考えたので書いておく。ネタバレは一切自重していないので、そこのところひとつよしなに。
公式サイト
物語の力に関しての物語であり、映画の力に関する映画だった。
映画の冒頭に語られる口上は、まさに主人公クボが物語を語るときに最初に語る口上だ。
そして、この映画自体とクボが語る英雄物語とほぼ一致している。
クボが語る物語。それはクボが母親から受け継いだ物語。それはクボの父親が、伝説の武具を手に入れ、義父である月の皇帝を倒す物語。
しかしその物語はいつも尻切れトンボで終わってしまう。なぜならクボはその物語の結末をしらない。それはクボの母親がその結末を語ることができないからだ。
そんなクボが祖父である月の皇帝に追われて、冒険の旅に出て伝説の武具を手に入れようとする。
この物語はクボが最後まで語れない物語の結末を手に入れるための物語でもある。
この入れ子構造によって、この映画はディレイニーが『アインシュタイン交点』で構築したものと同様の「メタ神話」としての構造を持つ。
「メタ神話」とは私の勝手な造語で、物語自体が神話的モチーフや神話的構造を持ちながら、同時に作中で「神話とは何だろうか。それは我々とどういう関係にあるのか。必要な物なのか。どう活かせばいいのか」等の問いが主要なテーマとして扱われる作品のことである。
最近だと、トム・ムーアの『ソング・オブ・ザ・シー』が同じような構造を持っていた。こちらの映画では、現代の主人公がハロウィーンの日に不思議な地下世界に迷い込み、冒険をする。そこで様々な神話を長い髪の毛として生やしている不思議な老人に出会うが、そこでこの映画自体が神話の一つであることが示唆される。
そして冒険から帰還したことにより、主人公は「愛する者との別れ。また、誰かを受け入れること」という、現世における切実な問題に、ある種の答えを手に入れる。それは万能な答えではないが、着実な一歩前進であるような答えを。
これは、神話における「冥界下り」のモチーフであり、一度異界に降りて冒険を終えた主人公が現世に帰ることによりヒーローとなる。ただ、この場合のヒーローとは、「妹の存在を受け入れることができる」というとても身近なものだが、しかし、これは神話の物語が現代にどんな意味を持てるかに真摯に向き合った結果である(同じような構造の物語として『オーバー・ザ・ガーデン・ウォール』がある。これについての分析はこちら)。
それに対して『KUBO』では、クボは一見もっと正統的な神話のヒーローとしての属性を付与されているようにも見える。
彼は片目である。もう片方の目は祖父である月の皇帝に取られてしまった。両目を取られると、彼は完全に人ではない「彼岸の存在」になってしまう。
これはクボが人と人ならざる者、此岸と彼岸の中間的存在であることを表しているし、片目であることにより、尋常ならざる魔力を得るというモチーフは北欧神話を始め、世界中にある。
そしてクボは三味線を弾き、物語を語る。それによって折り紙がヒーローや化け物の形に勝手に折られ、音楽と物語に合わせて、縦横無尽に駆け巡る(いつの時代か知らんが、紙のコストもそんなに低くないだろうに、と思ったが、魔法の力で再利用しているのであろう)。
これは、ギリシャ神話でやはり冥界下りするオルペウスを思い起こさせる。彼は音楽で神通力を発したと言われる。
その後の冒険でこの魔力は大いに活用されるが、それ以上にこの設定は、先述のメタ神話的構造をより本編に関わらせる。
神話や物語とは何かを問う物語で、武器になるのはまさに物語の力であり、映画の力なのだ。語りと音楽に合わせて、命の無いものが動き回り、人々を興奮させる様子は、まさにストップモーションアニメーションそのものである。つまりストップモーションアニメーション作品内で、ストップモーションアニメーションの隠喩が魔力として扱われているのである。
私はこういう作品が好きで、最近の良作だと『リトルウィッチアカデミア』においても、作中の魔術はアニメーションの技術自体の暗喩になっていた。また、トム・ムーアの別の作品、『ブレンダンとケルズの秘密』においては「絵を描く」ことに魅せられた主人公の「絵を見、そして絵を描く」という体験が魔術的アニメーションによって表現されていた。デフォルメされたアニメーションだからこそ発揮される魔術性は作中において「絵を描くことによる魔力」が本当に発動する場面で最高潮に達する。
メタ神話がみんなこういう構造を持つわけではない。先述した『アインシュタイン交点』では、「地下迷宮に潜むミノタウロス」などの神話的難関を主人公が突破していく神話的物語でありながら、神話とは何かを考えるたびでもあった。ただ、その問い方は主人公たちが直接的に「神話とは何か」という議論をし始めてしまうタイプのものであった。これを私は「明示的メタフィクション」と呼んでみようと思う。
『アインシュタイン交点』においては、この旅がさらに、「神話とは何か」と問いながら作品を構想する作者自身の旅とオーヴァーラップするところが文句なしに面白いのだが、実験的であり、エンターテインメントとしては夾雑物が多いことも否めないと思う。
同様の明示的メタフィクションによるメタ神話はゼラズニーの短編集『キャメロット最後の守護者』収録の「心はつめたい墓場」などにもみられる。私は彼らはミシェル・ビュトールらと並ぶ、『若き芸術家の肖像』や『ユリシーズ』を真摯に受け止めたジョイスの後継者だと思っている。
ジョイスやビュトールは現代に生きる個人の神話とは何かを模索したが、主人公達が比喩的ではなく本当に神話的冒険に旅立つわけではなく、メタ神話とは言えなかった。ディレイニーやゼラズニーは実際に神話の旅に旅立ちながら神話とは何かを問い始めた。しかしその問いは直接的であるように見えることもあった。
それに対して、上記の『ソング・オブ・ザ・シー』や『ブレンダンとケルズの秘密』や『リトルウィッチアカデミア』や『KUBO』では、メタフィクション的要素をうまくエンターテインメント要素の後ろに隠しながら、伏流水として物語に反映させている。私はこれを「暗示的メタフィクション」と呼ぼうと思う。そこにおいて共通に見られる手法が「描くという行為、語るという行為、奏でるという行為、作品を作る行為、の持つ力の隠喩として作中の魔力を描く」というものだ(「書く」という行為について、ジョイスの『若き芸術家の肖像』がこの方向性の萌芽を持っていたと思ってもいいかもしれない)。
それによって、物語が我々にとってどんなに重要な物なのかを描こうとしているのだ。
これは、ジョイスやディレイニーらの系譜が、実験的作品ではなく、エンターテイメントとして根付いたのだと私は思っている。
実際上記の頭でっかちな知識がなくても、『KUBO』は文句なしに楽しい物語だ。
クボが三味線を奏でながら、聴衆に囲まれて、血沸き心躍る物語をアニメーション付きで語る導入部は文句なしに興奮する。
丁寧に描かれた中世から近世のどこかの時代と思われる日本の風景は、十分説得力を持つ。村民の服装も貴人の服装もどちらもとても自然で、Twitterでも指摘されていたが川本喜八郎の諸作を参考にしているのかもしれない。盆踊りの音楽が炭坑節なのは笑ってしまったが。近代化以前の盆踊りの音楽がどんなだったかなんて、日本人でも知らない(私も知らない)。
そういえば「盆」という言葉は出なかったようだが、「先祖が帰ってきて会話が出来る日の祭り」という設定は明らかに盆であり、その日に墓参りをして先祖と会話をし、出店の出るお祭りをして皆で踊り、最後には先祖を無事に彼岸に返すため灯篭流しをするなど、とても自然に描かれている。
そしてこれは先ほどの『ソング・オブ・ザ・シー』の物語の日がハロウィーンであったことを思い浮かばせる。ハロウィーンももともとは祖霊が帰ってくる日であり、盆もハロウィーンも結局は此岸と彼岸が近くなる日だ。
このようにこの映画は、日本の風習を丁寧に調べ、それを世界どこでも普遍的に通用するモチーフにすることがとてもうまい。
出色は「祖父や叔母にさらわれてしまうから」という理由で夕暮れには家に帰らなくてはいけない(神話や昔話における「禁止」のモチーフだ。これをやぶることによって主人公は不本意ながら冒険に出なくてはいけない)主人公が、死んでしまった父を想い、なぜ自分には来てくれないのか、話しかけてくれないのか、と思い悩みながら灯篭流しを眺めているうちに、黄昏時になってしまうシーンだ。風が吹き、灯篭が消える。川の向こうの闇の中から、叔母が「クボ、クボ、こっちにおいで」と呼び掛ける。
片目であることで彼岸と此岸の間の存在であることを運命づけられた主人公が「盆」「黄昏時」「村はずれの森のほとり」「墓場」「川のほとり」に川の向こう側から人ならざる彼岸の存在に呼びかけられる。演出が上手くて無茶苦茶怖いシーンだが、神話的モチーフの使い方組み合わせ方として額に入れて飾りたいほどうまい。唸るほかない。
ここからクボの三つの武具を手に入れる物語が始まる。猿とクワガタという奇妙な仲間を連れて。
荒れ果てた奇妙な遺跡、沢山の剣が刺さった骸骨、湖の底、荒れ果てた城。この冒険自体が死のモチーフに溢れていることに注目してもいいだろう。やはりこの旅は冥界下りなのだろう。
この辺りの感想は他の人たちがたくさん語ってくれるだろうから簡潔にしよう。外国の方にとって日本の風景で印象に残るものの一つとして、猿と雪の組み合わせがあると聞くことがある。普通猿は南国のイメージだからだ。だから猿なのだろう。
あと武者のイメージとしてクワガタを持ってきたのも面白い。なるほど日本の武者の姿はクワガタに似ている気がする。
この奇妙なパーティの掛け合いはもっともっと見ていたかった。最初はクワガタのことを怪しんでいた猿がだんだんとクワガタを信頼していく様子もよかったし、片親のクボが「挟まれてご飯を食べるの初めて」というシーンもジンとくる。
二人が言い争いをするのを「また?」と言うクボはまさに親の喧嘩を見せられる子供だ。
雑魚寝から起きたときに、クワガタの脚が猿の上に被さっていた時のあの心の騒めきはなかなか忘れられないだろう。
アクションも良い。クワガタの弓矢も良いし、猿の剣劇も良い。敵の叔母の二刀流と鎖鎌も良い。ここはストップモーションアニメの華であり、そうそう言葉で語りつくせぬ部分なので、もしここまで読んでまた見ていないという人がいたら、絶対に劇場に足を運んでほしい。
で、大きなネタバレなのだが、猿はクボの母親が人形に自らの命を吹き込んだ姿であり、クワガタはクボの父親が敵の呪いで姿を変えられた姿である。
実は、三人の旅は、離れ離れになっていた家族の旅だったのだ。
そしてそのことが明らかになって、感動の再開、と思いきや、次の瞬間には二人とも命を奪われてしまう。
ここは数少ない不満点の一つで、ここのところもう少し盛り上げても良かったのでは、と思わないでもない。
しかしクボは母親が残したヒントを頼りに、最後の武具のありかを知る。それは彼らが育った、最初の村だ。
見ている者は、クボが村に行くシーンで鐘の音がいやに印象に残る演出をされていたことをここで思い出すことになる。
クボは月の皇帝に焼かれてしまい、村人は今は山に隠れている村に戻る。そして、すべての武具を手に入れて、晴れて英雄になれたはずのクボは、両親の仇である祖父、月の皇帝に最後の戦いを挑む。
月の皇帝は両目が見えていない。この意味はクボが片目であることと合わせると明らかだ。彼が夢の中で最初に現れた時の全景のアニメーションはまさに絶景だ。網膜に焼き付けよう。
しかし、伝説の武具を集めて英雄になったはずのクボは月の皇帝に勝てない。
そもそも月の皇帝は死なないのだ。勝てるはずがない。
そしてここが最高なのだ。
物語の強敵が不死者で、そいつをどう倒すかが物語上重要な要素になることは多いが、この映画での不死者の倒し方は特に面白かった。
ここで、この物語のテーマが再び顔を出すとは全く思っていなかった。
ここでクボは答えを出すのだ。
なぜ我々に物語が必要なのか。それは我々が死ぬからだ、と。
大切な者を失い、自分もいつか死ななくてはいけない。そんな受け入れがたいものを受け入れざるをえないからこそ、自分の人生に意味づけが必要なのだ。だから人は物語を聞くのであり、物語を語る。そしてそれを次の世代に受け継がせる。自分は死んでしまった人たちの物語を受け継いでいることのよって、喪失を受け入れることができるし、あとの世代に自分の物語を受け継がせることによって、自分の死にも意味づけができる。
クボが最初物語に結末がつけられなかったのは、彼や彼の母親が父親の死を受け入れられていなかったからだ。そしてだからこそクボは彼岸からの誘いを跳ねのけられない。
物語に結末をつけることを受け入れることにより、クボは死すべき生者たちの一員になることを選んだのだ。
「盆」とはまさに、祖先の物語を今一度思いだし、受け継ごうとする風習だ、とこの物語内部においてはとらえられるだろう。
戦いの中でそのことに気付いたクボは、とんでもないひっくり返しをする。
死すべきものだから物語が必要であり、不死者には物語は必要ではない。ならば、物語を注入してしまうことによって、不死者を死者にしてしまうのだ。
いやあ、映画館でものすごく興奮した。その手があったか、と唸ってしまった。
こうして、月の皇帝は片目が白内障で濁った、ただの老人にされてしまったのだ。
物語を何も持たないので自分が何者かもわからない老人に、おずおずと顔を出した村人たちが、彼がどんな人物だったかの物語(嘘)を吹き込む。
こんなんで大丈夫かと思う老人を、クボは「自分がついているから大丈夫だ」と安心させる。
こうしてクボは、両親の死を寂しく思いながらも受け入れ、川に灯篭を流す。

という感じなのだが、実は疑義がある。
例えば、最後の武具が最初の村にある、ということ。これは少々出来過ぎではないか?
この村に逃げ込んだ母親も、武具がここにあることには気づいていなかった。なのにその村に武具があるなんて、偶然が過ぎないだろうか。
こういうのを「ご都合主義」という。作者の指が見えてしまうとして、通常は忌避される。
この部分は、クボが最初の村に戻ってくる必要性から要請されたと考えられる。
なぜ、クボは最初の村に帰ってこなくてはいけなかったのだろう。
その部分を考えるために、「全域解釈」と「局所解釈」という概念を導入してみよう(※脚注)。
「全域解釈」とは作品のすべての要素を受け入れても成り立っている解釈である。それに対して「局所解釈」は作品の一部だけを読めば成り立っている解釈であり、場合によっては作品の他の部分を読んでしまうと、矛盾して成り立たなくなってしまうものも含んでいる。
実は『KUBO』には作中のあるシーンと矛盾するがゆえに全域解釈にはならないが、別の局所解釈があるように思える。
それは、この冒険の旅が一瞬の出来事であった、という解釈だ。
なぜそんなことが言えるかというと、クボが月の皇帝を倒すために三味線を持って歌物語を奏でた瞬間、川に浮いていた灯篭に火が付いたからだ。
これはクボが盆の日の黄昏に叔母たちに襲われたときに灯が消えた灯篭だ。川はずっと流れていなかったのだ。
これは時間が流れていなかったと解釈できるだろう。
そもそもこの物語の冒険が冥界下りと考えるなら、それが無時間の世界と考えてもそれほど不自然ではないのではないか。
何が言いたいかというと、平たく言ってしまえば「これって夢オチではないのか?」ということである。
「夢オチ」も三大がっかりオチの一つと数えられる存在なので、ご都合主義を脱しようとしてがっかりオチに帰着してしまうのではあまりうれしくない気もする。
しかしそうすることにより、この物語のもう一つの側面が見えてくる気がするのだ。
三つの武具を手に入れる冒険をあくまでクボの夢だと考えると、この物語は、父親の死、そして母親の死をクボがどう受け入れるかの物語ととらえることができる。
死んだはずの父親と母親がどうして冒険の中で生き返ったかと言えば、それは物語の中で一度、現実には起こり得なかった家族団欒を疑似体験して、その後両親の死も疑似体験するためである。
物語という形をとることによりクボは両親の死を受け入れることができるようになる。
それによりクボは最後に灯篭を流すシーンにおける精神状態に至ることができる。冒険が実際に起きたことと考えれば、盆に父親がクボに話しかけなかった理由は彼が生きていたからだと解釈できるし、夢だと解釈すれば、クボが父親の死を受け入れられていないからだと考えられるだろう。
もしあくまで冒険が夢だと考えるならば、思い切って超自然的な現象はすべて起きていなかったと考えることもできよう(これは村が焼かれていたこと、等のシーンと明らかに矛盾してしまうために、物語の全域解釈としては認められない)。
すると、この物語はクボが父親と母親の死を受け入れ、さらに両親を迫害した祖父を受け入れ、そしてクボの語る物語によって祖父も、クボを受け入れるようになる、そういう喪失された家族をどうにかそれなりの形で始め直そうという物語に考えることもできる。
それはまさに『ソング・オブ・ザ・シー』の主人公が神話的冒険の先に見つけたものが、母親の喪失を受け入れ、そして母親の喪失の原因となった妹を受け入れる、ということであったこととまさに対応する。
この映画もまた、神話的冒険を体験することが、身近な、だからこそ切実な問題と付き合うための一助となる現代的な物語だったと言えるかもしれないのだ。
私はこの解釈が正しい解釈だという気は全くない。冒険が実際に起こったという解釈では、村に戻ってくるのがこのままでは無理がある。夢だという解釈は、面白い点もあるけど、全体的には興ざめな点も多い。どちらも満足させられるように、作品をさらに練ることも可能だが、作品が分かりにくくなる可能性もある。
作品というものに最高の形が必ずしもあるわけではなく、大概がいくつかのトレードオフの中から、何かを選ばなくてはいけない。
というわけで、私はこの映画は今のこの形がとても良いと思っていて、多少の難点のある大域的解釈と見どころがある局所的解釈の合わせ技でこの作品を楽しむのが、自分としては今のところの最適解と思っているのである。
ここまで読んでいる人はもう最低でも一回は見てるはずなので、ぜひもう一回見ましょう。字幕と吹き替えはどっちもみよう! シャーリーズ・セロン姐さんも田中敦子姐さんもどっちもイイ!


(※脚注)「局所的解釈」とはいわば「誤読の自由」の精緻化である。「誤読の自由」と言ってしまえば、何でもありになってしまうが、実際にはどこまではその解釈で読めるのか、どこから誤読なのか、ということを指定する(指定しようとする)態度が必要なのだ。
こう考えれば例えば『ドグラマグラ』のような全域的解釈をそもそも持ってなさそうな作品や、『舞踏会に向かう三人の農夫』のようなぎりぎりで全域的解釈を裏切られるような作品の読書体験を説明しやすくなるし、私の「魅力的な局所的解釈が全域的解釈にならなかったら、そこを切り取って、それが全域的解釈になってしまうような作品を作ってしまう」という創作論も説明しやすくなる。
この解釈論はもともとは、ウンベルト・エーコの「理想的読者論」を理論的整合性の高い形にブラッシュアップしようとする過程で、数学における「層(sheaf)」の理論からの類推で得られたものである。もう少し、理屈っぽい言葉で詳しく説明したものを、数学同人誌『The Dark Side of Forcing』に書いて、コミケで売ろうかと計画している。
アインシュタイン交点 (ハヤカワ文庫SF)
サミュエル・R. ディレイニー
早川書房
1996-06-01


ブレンダンとケルズの秘密 【Blu-ray】
エヴァン・マクガイア
TCエンタテインメント
2018-02-02


カートゥーン版『銀河鉄道の夜』? 『Over The Garden Wall』

『Over the Garden Wall』は2人の奇妙な格好をした兄弟が森の中を歩いているシーンで唐突に始まる。弟のグレッグは陽気に歌など歌っている。兄のワートは何か不機嫌だ。2人共どこへ向かっているのだろうか。家に帰る途中なのだと本人達はいう。しかし、2人はそもそもそこがどこなのかも分かっていなさそうだ。
そんな2人に青い鳥が話しかける。道案内してやろうと。弟は素直に聞こうとするが、兄は鳥がしゃべるなんて変だと無視して行こうとする。そして木こりに道を聞こうとする。
しかしその木こりも様子が変だ。
どうやらこの森には「ビースト」という恐ろしい存在がいるようだ。もしかしたらこの木こりがビーストなのだろうか。木こりが持っているランプの燃料は森に迷い込んだ子どもたちの魂なのだろうか。
兄弟と青い鳥ベアトリスの「名もなき森」を抜け出るための奇妙な冒険が始まる。
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とにかくわからないことだらけで始まる話だ。題名の意味も分からない。キャラクターも初見で魅力的だとは言いかねる。
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ただ、背景の美しさにまず引き込まれる。昔からカートゥーンはキャラクターではなく背景美術で世界観を作る。背景美術の幅の広さがカートゥーンの幅の広さを作っている。とくに最近のカートゥーンはどれも背景が美しい。『アドベンチャー・タイム』のパステル画のような色彩、『スティーブン・ユニバース』の結晶質の空。そして『オーバー・ザ・ガーデン・ウォール』の絵葉書のような仄暗い森。まるで少し怖い絵本のようだ。
画面に舞い飛ぶ朽葉の乱舞に見とれながら、謎を追いかけていくうちに、いつの間にか我々は話に引きこまれていく。まるで我々も「名もなき森」に迷い込んでしまったように。
この物語はそうそうは謎を解かせてはくれない。まず我々に与えられていくのは、それぞれのキャラクターの背景の一部だ。キャラクターをその行動と仕草で描いてくれるのもカートゥーンの良い所だ。見た目では地味に見えたキャラクターたちが活き活きと動き出す。
ワートは登場していきなり珍妙な「詩」めいたものを独りごちる奇妙な少年だ。何事にも消極的で、いつも流れに身を任せている。そして弟のことをはっきりと嫌っている。
グレッグは天真爛漫なトラブルメーカーだ。事態を良い方にも悪い方にも転がしていく。愛らしいが、他のキャラクターからはちゃんと疎まれている描写があるのが、作品としてのバランスを保っていて、いやらしく感じない。子どもの過度の子どもらしさとその無邪気な肯定は、ときに作品に暴力的な臭みを与える。
ベアトリスは、2人を助けてくれる人アデレードのところに案内しようとしてくれている青い鳥だが、かなりの毒舌家だ。ワートのことを自主性の欠片もないでくのぼうだと言ってはばからず、グレッグにはそんな兄を見習えと暴論を言う。酒場から追い出された際には店主を口汚く罵り、ろくな死に方をしないと呪ったりもしていた。
謎は一向には解けないが、これらのキャラクターの魅力に気付くことにより、話にますます引き込まれていく。そしてキャラクターの背景が見えてくることにより、謎が深まっていく構成も見事だ。
ワートは訪れた村で電話を借りようとする。では、これは現代の話なのか。しかし、その村はどうも現代の村とは思えない。18世紀以前のように見える。しかし別の場面では、19世紀っぽかったり、20世紀初めっぽかったりする(外輪で動く蒸気船などがある)。音楽は全体的に20世紀はじめの雰囲気だ。だが、そもそも「名もなき森」の時代を考えることは無駄であろう。皆が訪れた村では骸骨になった死人が蘇り、南瓜の仮面を被って踊りを踊る。船の上では正装した蛙が楽器を演奏する(このシーンの蛙の歌はものすごく良い。本当に良いので聞いて欲しい)。
「名もなき森」はこの世ならぬ異界、それも「死の匂い」が濃厚な「彼岸」なのだ。そこでは様々な時代が入り混じっている。様々な時代の死者たちがいることを考えれば自然であろう。
しかしワートたちはもともとこの「名もなき森」にいたわけではないのだ。ワートは自分は高校生だという。グレッグは父親の違う弟だとか。ワートは様々な時代の建築様式に詳しく、それが話を解決するのに役だったりする(時代の異なる建築様式が混じっていることに気付いたのだ)。そしてクラリネットを吹き、サラという少女に恋をしているが、ジェイソン・ファンダーバーカーという何もかも彼よりすぐれている男に邪魔されている。ワートはどうやらほぼ現代の人間と見て良さそうだ。その彼がどうして、こんな奇妙な森に迷い込んだのか。
物語作者としての手腕は、謎を謎のままにしながら、どれだけ読者を惹きつけ続けられるかに現れる。自信がなければ謎をさっさと解き明かさざるを得ない。せめて少しずつ謎を解いて、読者に餌を与え続けないといけない。しかしこの作品では、謎はほとんど解けないまま、ふしぎな世界を旅し続ける。
謎はもちろん、背景美術の美しさ、キャラクターの魅力に自信があるからだ。最初は明らかに反目しあっていたワートとベアトリスが狭いとところに閉じ込められて、仕方なくお互いの来歴について語るうちに、だんだんと互いを理解し接近していくところなど、「定番だなあ」と思いながらも引きこまれ、ワートが好きな女の子についてベアトリスに語っている所を見ると、自然に胸が熱くなるのを感じる。
このままこの魅力的な世界観に浸っていたくなる。ワートはそんな元の世界の女の子ではなく、ベアトリスと暮らせばいいのにと、むちゃくちゃなことを考えたりもする。
しかし、そこに破局がもたらされる。ベアトリスは呪いで家族もろとも青い鳥にされてしまい、呪いを解く方法を探している。そのベアトリスの行動の謎が明かされて、物語は急に暗くなる。
ここら辺りは実際に見て欲しい。
希望を失ったワートはだんだんと弱っていき、グレッグはそんな兄を救おうと、一人懸命に頑張る。そんなグレッグが夢のなかで「クラウドシティ」と呼ばれる天界に向かうシーンはこの作品の転機だ。ウォルト・ディズニーがミッキー以前に作って、フェリックス・ザ・キャットをパクったキャラクターを出して怒られた実写とアニメーションの合成シリーズ「アリス・コメディ」へのオマージュにあふれたシーンの連続はクラシックカートゥーンマニアにはたまらないものがある。
天界でグレッグは自分が救われる代わりに、兄を救うためにグレッグは大きな決断をする。
そしてそんなグレッグを救うためにワートにもまた危機が訪れる。グレッグを探し必死に森を走るワート。やはり2人を探すベアトリス。ワートは川に落ちてしまう。薄れゆく意識の中彼は夢を見る。「名もなき森」に来る前の、元の世界の夢を。
そこで初めて、ワートとグラッグがなぜ、「名もなき森」に迷うことになったかが描かれるのだ。
ワートとグレッグはおそらく80年台くらいのアメリカに住んでいて(ここで音楽も20世紀後半風になるのが最高にグッとくる)、ハロウィーンの仮装をして、町を歩いていたのだ。2人の妙な格好は仮装だったのだ(象と、おそらくドワーフ人形)。ここで幾つもの謎が解ける。ワートが恋をしているサラや、恋のライバルジェイソン・ファンダーバーカーも出てくる。グレッグがいつも釣れている蛙はこのときに捕まえたものであることも分かる。
そしてハロウィーンの肝試しに訪れた墓場で、2人は墓場の壁を乗り越えて、向こう側へと行ってしまう。そこで、彼らは川に落ちてしまうのだ。
そして行き着いた先が「名もなき森」なのだ。

なんだかこの作品、まるでいきなり銀河鉄道の中で始まる『銀河鉄道の夜』のような作品なのだ。ある程度進んでから、初めてなぜ銀河鉄道に乗ったのかの理由が回想で語られる。見事な構成。だが、仕掛けはこれだけではない。

川へ落ちたところで、この回想の役割も兼ねた夢は終わり、ワートは再び「名もなき森」で目覚め、グレッグを救うために走りだす。クライマックスへ向けて。
ここから分かることは、「名もなき森」とは生と死の狭間の世界なのだ。題名の『Over The Garden Wall』(壁の向こう)とは、この2人が乗り越えた墓場の壁のことを意味するとともに、生と死を分かつ壁を意味するのであろう。この作品全体が長い臨死体験を描いたものとして考えられる。
そこまでは良いが、この作品のものすごいところとして、一種の夢である臨死体験の中に入れ子に夢(グレッグの昇天)や臨死体験(ワートの回想)が描かれることだ。そう、川に落ちたワートが見たハロウィンの夢は、臨死体験をすることになった理由を回想していると同時に、臨死体験の中で臨死体験をして見ている夢でもあるのだ。このような多重構造を持ち込みながら、視聴者にほとんど気づかせないところはさすがの手際だ。
この作品の大枠は長い歴史を持つものである。死後の世界、地下世界に潜って、一度死んで生き返ることにより、主人公は本当の英雄になることができる。冥界下りの類型の一つだ。『銀河鉄道の夜』もその系譜の作品である。
回想において、ワートは異父兄弟のグレッグを疎ましく思い、ほとんどコミュニケーションを放棄している。そして、好きな娘と話すことさえ困難なほどシャイであり、ジェイソン・ファンダーバーカーに異様に引け目を感じている(サラは明らかにジェイソンを煙たがり、ワートに好意を抱いているにもかかわらず。というかワートはラノベの主人公かってくらいもてている気もする)。
それは「名もなき森」の中でも変わらない。しかしそんな中でも旅の中でワートは段々と自主性を発揮し、馬で駆けベアトリスを救い、機知を発揮して問題を解決し、見事な演奏も披露した。これは正に冥界下りの中で、主人公が英雄へと変貌していく物語だ。
しかし、物語の定石に則って、成長を見せ始めたワートを森はどん底に陥れる。ベアトリスに裏切られたワートは、森をあてど無くさまよい希望を失っていく。そして最後にグレッグも失ったとき、ワートには何も残らない。そんな状態でワートは川に落ちるのだ。
そこで、全てのひっくり返りが起こる。

映画とテレビ作品は普通に思われている以上に、実は文法から異なっている。映画とは灯りが暗くなるときに一度日常との繋がりを断ち切った向う側にある、全ての論理がひっくり返りうる「ハレ」の世界だ。
テレビはいくら非日常を描いても、それは日常に寄り添い、例え日常の論理とは異なっても、一定の論理の通用する「ケ」の世界だ。
「名もなき森」の世界も、非日常のようでいて、一定の論理が存在する「ケ」の世界なのだ。主人公たちはその「ケ」の世界を「水平」に動いていく。
主人公たちの目的は「帰還」もしくは「脱出」であるはずだが、その意識はかなり希薄だ。アデレードに会うという希望もあるにはあるが、あまり強くは打ち出されない。あてどもなくさまよっていると言ったほうが的を射ている。
それはまさに「ケ」の世界のありようだ。我々が日常感じている、どこかここでない場所へ行きたいが、どこへ行けば良いのかは皆目見当がつかないのと同じだ。
そういう意味で、この作品は優れてテレビ作品である。長編化したものも存在するが、やはり15分一本のフォーマットで少しずつ見るべき作品だ。
そしてこの異世界の日常に長く付き合い続けた末に出会う、二つの強烈な非日常。一つは「グレッグの天界への昇天」であり、もう一つは「ワートの川への転落」である。
どちらも、これまでの水平移動に対して、垂直の運動を含んでいる。水平と垂直の運動感覚は、我々の体に染み付いていて、しかもおそらく人類にかなり普遍的なものだ。多くの物語において、垂直運動が起こるのは、物語が大きく動くときであり、それはそれらの運動が状況の大きな変化をもたらすことを、我々が肉体的に理解することができるからだ。『ルパン三世 カリオストロの城』やティム・バートン版『バットマン』などのクライマックスでの塔の上昇が分かりやすい例だろうか。
そしてこれらは、聖俗の感覚や、此岸と彼岸の感覚と結びついている。
グレッグの天界は正に天国であり、これもまた死後の世界だ。ワートの川への転落は地獄をイメージさせる。水への落下が死の世界、地下世界への入り口になるのは、最近だと『ソング・オブ・ザ・シー』の井戸への落下がある。
グレッグの天界は、まさに「ハレ」の世界、論理が全てひっくり返ったカーニバルの世界を表現している。この天界と比べたら、「名もなき森」の世界はどこまでも日常的だ。
そして、上昇の後に転落。ワートが川へ転落して見る世界は、普通のアメリカの町だ。
しかし、ここまでこの作品に付き合った人間にはそれはただの町には見えない。非日常を日常として享受することを覚えた私たちには、その町はとても非日常的に見える。
なんというか、感覚的な言葉で語ると、グレッグの天界のときに感じたと同じように「何が起こるか分からなくて、ドキドキする」のだ。
この、「普通の世界を見る時の非日常感」こそ、この作品のハイライトだ。そして、それをハロウィーンの日に設定したのも、定番とはいえ、実に上手く効いている。ハロウィーンとは、精霊が地下世界からこちらの世界へ侵蝕してくる日であり、日常と非日常がひっくり返る「ハレ」の日である。決して、派手なハロウィーンが描かれるわけではないが、そのような日だからこそ、お祭りのような(実際お祭りなのだが)ドキドキ感を我々に感じさせる。(ちなみに『ソング・オブ・ザ・シー』もハロウィーンの日が舞台で、それはもちろん背景としては重要なのだが、モチーフとしてはあまり活かせていなかった印象がある。)
そして、この回想はなぜ彼らが「名もなき森」に来たかを説明するためにあるのだが、それ以上の意味がある。
サラが登場したり、ジェイソン・ファンダーバーカーが登場したり(彼の登場がこの作品で一番笑えるところなので、ぜひ期待して欲しい。「お前かい!」と誰もが驚くので。ワートくんはどれだけ自分に自信がないのかと泣けてくる)と伏線が次々と回収されることによって感じるカタルシスにごまかされてしまいがちだが、この回想があることによって、つまり、この作品が長い臨死体験であることが明らかにされることによって、初めて「名もなき森」をどう脱出すればいいかが分かるのだ。
単に目覚めればいいのだ。
そのためには森を克服しなくてはいけない。森を倒す、つまり森の主であるビースト、人々の魂を森に縛り付ける魔物を対決しなくてはいけないのだ。
これまでは、主人公たちは全く希望を持てないまま水平移動を繰り返していた。それが主人公をどんどん追い詰めていく。ここで垂直移動が加わることによって、初めて主人公が希望を持てる。彼らはそれが希望であるということには気づいていないだろうが。
ここの流れはあまりに自然なので、ここ以前で主人公たちには帰る手段がなく、これ以降には非常に単純な帰る手段があることに気づきにくいくらいだ。そこら辺は本当によく出来ている。ここでもおそらくハロウィーンであることが聞いてくるのだ。ハロウィーンだからこそ、森の主と対決する、という象徴的行為だけで、現世に帰って来れるということに納得できるのだ。
でも、ここで流れが大きく変わっていることは誰もが感じる。今まで何の目的もなく、ビーストに怯えながら森をさまよっていたのが、ここでグレッグを救うため、そして自分たちのホームに帰るために、ビーストと対決する、というのに一気に反転するのだ。
これは燃える。
そこにさらに一言付け加えるならば、注目して欲しいのは、これが臨死体験の中での臨死体験をきっかけに起きていることだ。
普通の神話なら、この世界から、あちらの世界、死後の世界に降りて行って、擬似的な死を経験して、英雄になってこちらの世界に帰ってくる。
しかしこの作品においては、あちらの世界、死後の世界を一度日常化し、そして臨死体験の中での臨死体験、そこで見るのは実際には「こちらの世界」なのだが、非日常化したこちらの世界において、ワートは「弟を救い、ホームに戻る」という自分の使命を見つけ直し、そして英雄として、あちらの世界に帰っていく。
臨死体験の入れ子という、一見奇抜な構成を、何の不自然さや奇を衒った感じを出さずに、活かしきるのはすごいとしか言いようがない。
細かいところはぜひ前情報無しで見て欲しい。そして何回も見て欲しい。細かい伏線の貼らせた作品なので、繰り返しみると思わぬ発見があってますます楽しくなる。
最初はあんなに情けなかったワートが主人公として成長したことを強く感じるはずだ。
また、単に騒がしい子どもに見えたグレッグの思わぬ負い目に心をグサリと刺されるかもしれない。
そして、初めてワートがグレッグに向き合い、グレッグの遊びに参加して、グレッグのために何かをしてあげた行為に感動して「完璧な名前だ!」と同意するだろう。
そういえば『ソング・オブ・ザ・シー』も妹という邪魔な家族をどう受け入れるかの物語だった。普遍的なテーマなのだろう。
この物語においては、ワートはグレッグという受け入れられなかった家族を受け入れることにより、同時にジェイソン・ファンダーバーカーの「名前の呪い」も克服する。ワートは、ジェイソン・ファンダーバーカー自身というより、脳内に生み出したジェイソン・ファンダーバーカーに負けていた、いわばジェイソン・ファンダーバーカーの「名前」に負けていたのだが、それをワートは「名付け」によって、その魔術に打ち勝つのだ(少し呪術的な思考法が響いているのかもしれない)。ここにも彼の成長が感じられる。

でも、ワート君にはぜひ童貞キモポエマーとして空回りしつつ生き続けて欲しいとも思う。ちなみにトランペット演奏付きの詩を録音したカセットは実際に売っていた。『For Sara』という題名で検索すると出てくるかも。
あと二次創作では、ビースト・ワート(角が生えビースト化したワート君)が人気だ。アイス・フィン、ビッパー(ビルに乗り移られたディッパー、と並んで「闇堕ち三銃士」だなんて呼ばれてる。

まとめてみると、この作品は、少年が「死後の世界」に行きかけて戻ってくると、少し世界が違って見えるようになる、という点でやはり『銀河鉄道の夜』を思い出させるものだ。「あちらの世界」の静かな奇妙さなども共通点があるだろう。自己犠牲の精神の美しさが語られるところも似ている。
しかし、そこはアメリカ。自己犠牲で他人のために死ぬなんてことを簡単に認めたりはしない。ジョバンニが彼岸へのあこがれに身を焦がされながら、カンパネルラを見送るしか無かったのと対照的に、ワートは自分のために命を捨てようとした弟を救うために、自らも身を挺して戦う。それによって、二人共生還するのだ。
うーん、アメリカだなあ、とは思うけど、別にばかにしてるわけではない。爽やかで、娯楽として完成されていて、とっても良いのである。

8月8日はBBの日らしいから、切り抜いてみた。

AviUtlとGIMPの練習も兼ねて。初BB素材なだけでなく、そもそも初MADである。
素材は最近ずっとハマっている『スティーブン・ユニバース』。

コミケの原稿で忙しいのに何やってんだか
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