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科学史

ガストン・バシュラールの傑作通俗科学哲学所『科学的精神の形成』

最初に断言しておく。批判的なこともちょっとだけ書くが、これはめっぽう面白い本で読む価値がある。

ただ私がこの本を面白いと思う理由は、私の読書経験に由来するがゆえに、多くの人の理由とはずれるかもしれない。

この本は17世紀から18世紀の通俗科学書を徹底的に読み込み、その主張や特徴を述べながら、批判的に紹介する本である。
まずこの本の面白さの源泉は紹介される通俗科学書の面白さである。
静電気でほこりが引っ付くから静電気は糊だ、みたいな話を筆頭に、静電気を使って紙の人形を立ち上がらせてダンスさせて、「これが生命の誕生だ」などと語りだしてしまったりと、なにやら『トンデモ本の世界』めいた活況を呈している。
ただバシュラールの筆致はあくまでまじめで、これらの今から見ると奇妙な科学もどきに対して、まっとうな分析を試みている。
例えば、「希少価値を実質価値と見誤っている」という分析は、当時の医学書が必ず宝石の効用について語っているという事実に関する分析である。いわゆるパワーストーンであり、この愚劣な信仰は今もなお続いている。
また当時のアニミスティックな現象理解の仕方が、今でも人間のデフォルトな理解方法であると断じて、それを教育の問題につなげた、「教師は生徒の頭を空っぽの白紙だと思っているが、生徒の頭の中は空っぽではなく、間違った知識が詰まっているので、それをどうにかしないと話が始まらない。浮力の実験を見た生徒は誰も『水が押したから木片が上に上がった』などと思わない。『木片が上に浮かぼうとした』と考えるのだ」という指摘は、今現在も当てはまる。例えば吉田甫『学力低下をどう克服するか』では、子供が日常の中で自然に手に入れる計算能力を理解せずに、それと関係なく計算を教えようとすることにより子供の能力が破壊されているという結構衝撃的な報告が載っている。これも子供の精神を空っぽの白紙と考えてしまうことの弊害であり、バシュラールの批判は教育を詰め込みではなく、日常生活で得た知識の再構成と考えるべきだという提言ととらえることもできる。
また上の浮力の話からつながるが、「当時の通俗科学書は物理の言葉ではなく、生物の言葉に帰着させることを最終目標としている」という分析も面白い。
今も「励起=excited」などの言葉に残るが、当時はこれらは文字通り「興奮している」ことを意味していた。静電気などによって、無機物がざわざわと動き回っている状態は、生命なき物質が「興奮している」のであり、すなわち生命なき物質が「生命化」されている、と受け止められることが多かった。冒頭のように、静電気による小さな人形のダンスがいとも簡単に生命と解釈されてしまうのは、こういう世界観を背景に見ればわかりやすい。
当時は世界の基底に「生命的な現象」がある、言い換えると世界の基底的な構造は「生命に関する言語」でうまく語れる、と信じられていたようだ。
初期の生物学で「原形質」のような「生きている物質」が信じられ、初期の進化論ではこれが生命の祖先だと考えられたり、有機化学で「生命力」がなければ有機化合物は作れないと考えられていたりしたのも、ガルバーニにおける動物電気もメスメリズムにおける動物磁気も、今となってはバラバラの事象に見えてしまうが、背景となる世界観を共有している。なぜ漫画において目を見るだけで催眠術にかかってしまうのかも、同じ地下水流が続いていることを把握していないと、理解することは難しいだろう。
これは何も17世紀・18世紀に限った話ではなく、古代ギリシャ哲学やストア派の哲学を学んだものは誰でも、世界を生き物のように理解したり(種子的ロゴスというやつがその一種だ)、様々なものを生物的な言い方で把握しようとしたりするのが、とても一般的だったことに気付くだろう(アリストテレスの哲学も彼が生物学を主戦場に研究していたことを抜きには理解しきれない)。
そして今でも、科学の専門教育を受けたものでもなければ、相変わらず世界を生物の言葉で理解しようとするのだ。
これは自然だ。なぜなら我々は普段、多くの時間を人間を代表とした生き物と過ごしているからだ。
しかし19世紀以降の専門化した科学の中で、我々は様々な事象を生物の言葉に翻訳しようとしてことごとく失敗した。対して、物理の言葉に翻訳するのはたくさんの成功例がある。
相変わらず一部の人間は生物の言語に拘泥したりはするものの、科学界の趨勢は今のところ決まっている。
私にとっていわゆる「物理主義の哲学」とは以上のような経験則であり、ある種の哲学者のするような規範的な議論で覆されるものではない。覆すとしたら経験的な証拠だけである。私には哲学者の議論が、物理主義が経験則であることを理解しない議論か、もしくは経験則を「哲学」と呼ぶことへの反感にすぎないように見えることも多い。
バシュラールのこの本は、学問の基底言語がだんだんと生物から物理へと移っていくその過程を我々に教えてくれているようで、とても興味深い。

しかし、私がこの本で一番面白いと思っていることは上記の点ではない。それはこの本の議論をこの本自体に適用することが可能な点だ。
この本でバシュラールが一番いいたいことを乱暴に要約すると「科学ってのはこういうものではない」という点だと思う。
バシュラールはこれらの通俗科学書を紹介しながら、なぜこれらが現代的な意味での科学ではないかに答えを出そうとする。
そのために、これらの通俗科学書の特徴を上げていく。
・面白い実例がたくさん載っている。
・日常に役に立つ情報がたんまり載っている。
・結果としてこの本は専門的な科学書に比べてとても楽しい読み物になっている。
そこから逆にこれらの本に書かれていないことは何かということが浮かび上がる。
それは例えば、適切な抽象化、適切な形式化である。
バシュラールの鋭い指摘の一つは、ケプラー以前の天文学において、楕円は円の崩れたものであって、決して円が楕円の一種と見られたことはない、というものである。
それまではガリレオですら、天体には円運動をする本性が備わっていると考えていたし、コペルニクスもあくまで円運動にこだわった。円こそ完全な図形である以上、円運動の一般化としての楕円運動など想像もされなかった。この思考法がギリシャ以来の伝統だったのだ。
それを乗り越えるためには、別の形式化が必要だったのだ。想像をたくましくすれば、ケプラーやニュートンは世界を数学で記述しようとする傾向が強かったことが重要だったのではと思える。円や楕円を数学的に記述するために厳密な定義を与えようとすれば、どうしても円は楕円の特別な場合になる。たとえ数式で表そうとしなくてもアポロニウスの円錐曲線のレベルでもそれは明らかだ。
科学を正しく運用するためには、いつでも正しい抽象化、正しい形式化は何か、という問題に目を配らなくてはいけない。バシュラールは単に事実を並べるだけで、なんの抽象化も行おうとしない通俗科学書から、逆にその教訓を取り出す。
この指摘は現代にも届く。今でも訓練を受けなければ、我々は日常言語の抽象化とは別の抽象化がありうることにすら気づけないのだ。それは例えば小学校教育において、ひし形は平行四辺形か、長方形は正方形か、などという妙な議論がいまだにされていることからもわかる。

しかし、ここでこの本の全体について振り返ってみよう。この本、『科学的精神の形成』はどんな本であろうか。
・前時代の通俗科学書についてたくさんの面白い実例が載っている。
・そこから科学について考えるために役に立つ教訓がたくさん書いてある。
・結果として現代的な小難しい科学哲学の本よりもずっと楽しい読み物になっている。
これは何かに似ていないだろうか。そう、これはこの本がネタにしている通俗科学書に似ているのだ。
そしてこれらの通俗科学書と同様に、この本では科学とは何かについて役に立つこまごまとした教訓はあるものの、それを俯瞰的に眺めるための適切な抽象化、適切な形式化をしようとしている節は全くない。
バシュラールが科学哲学が科学足りうる、または科学であるべきと考えていたかどうかは私は知らない。そんなこと考えたこともない気がするし、訊いてみたら否定的に答えるような気もする。しかしもしそれらの問いに肯定で答えるならば、バシュラールの批判はこの本自体にまっすぐ刺さることになるのだ。
時々その本で提示した分析手法が全くその本に適用可能な本というものがある。有名なところではフロイトの『精神分析入門』こそがフロイト的に精神分析が必要に見えることだが、私のお気に入りは、ノースロップ・フライの『批評の解剖』である。かつて偉大であった神話がロマンス、悲劇、喜劇、アイロニー、とだんだんと凋落するものの、再び神話として再臨するというジャンル論は、20世紀最高の神話だと思っている。
閑話休題
バシュラールの本はやはり素晴らしい。科学について考えるときに、科学の歴史について無視することは絶対にできないことを教えてくれる。
これはクーン以降の科学哲学の流れとも合致していると思う。抽象化・形式化を目指した英米系の科学哲学は大陸系の歴史学的なエピステモロジーと合流して、その違いはあまりなくなってきている感じがする。
これはバシュラールが考えた科学への道とも一致する。やはり適切な抽象化・形式化こそが肝要なのだ。様々な行き止まりにぶつかりながらも、一度論理実証主義を経由することが科学哲学にとって必然だったと私は思う。
しかしバシュラール自身はその道を歩まなかったことも強調しなくてはいけない。バシュラール自身の科学哲学は専門的な科学哲学にはつながっていない。
この本は通俗科学に関する哲学書であると同時に、通俗的な科学哲学書どまりなのだ。それをそのまま専門的な哲学につなげようとする道は行き止まりだ。
それは決して否定的な評価とばかりは言えない。
通俗科学書には専門的な科学書にはない役割がある。それと同じように通俗的な科学哲学書、そして通俗的な哲学書にも、専門書にはない役割があるはずだ。
専門的な学問はどこまでも一般性を目指す役割がある。しかし一般性を目指した結果、どうしてもそこからあふれ落ちてしまう個別的なものがある。
その結果、どうしても専門的な学問は、そのままでは日常に応用しにくい形になることも多い。
もちろん長期的にはそれら一般化に乗らなかった個別的なものも、より高度な一般化によって拾われると信じたいし、私は信じている。しかし、長期的に言えば我々はみな死んでいるし、人類は滅亡している。長期的な話では現に困っている人を救えない。そこで専門的な科学が拾えなかったものを救う、現場に密着した実践的知が必要とされる。通俗科学もその一端を担うものの一つととらえられる。
そしてこの役割を果たすためには、その専門的科学と通俗科学の間の違いを、書くものにはしっかりと、読むものにもある程度は、意識されていないといけないと思うのだ。
バシュラールの不幸の一つは、通俗科学哲学であったものを、何を間違えたか専門的な哲学であると勘違いして読まれ、その影響を受けてしまった者があらわれてしまったことかもしれない。
それは多分彼らがマーティン・ガードナーの『奇妙な論理』や『トンデモ本の世界』を読んでいないことが原因かもしれない(と半分冗談で言ってみる)。どちらも科学哲学を志す者に読んでほしい(科学を志す者にももちろん読んでほしい)本ではあるが、これ自体は科学哲学の専門書ではありえない。評価するための軸が全然違う。



同じようにこの本も科学哲学を志す者、科学を志す者にぜひ読んでほしい本である。科学に関してはともかく、科学哲学や科学教育に関してはアイディアの宝庫なのではないかと思ってる。
ダメなのはこの本に影響されて、この本の手法を一般化して科学哲学をやろうとすることである。その前に、戸田山和久やソーバーなどをちゃんと読んでほしい。

科学と証拠―統計の哲学 入門―
エリオット・ソーバー
名古屋大学出版会
2012-10-20


そして、できればもう少しライトで非専門家も気楽に読めるちゃんとした通俗科学哲学書、専門知へのリスペクトを失わず、そのうえで自分たちに何ができるか真摯に考えてしかも面白い通俗科学哲学書が欲しいね。
通俗と専門の間に正しい良い関係が築かれることを切に願うよ。

星座と欲望

前回書いたfanficの翻訳のときに知った話。
「desire」という言葉は「欲望」を意味しているが、この「sire」の部分はもともとは「sides」で、「星」もしくは「星座」という意味だ。
「星からもたらされるものを待っている」状態からい今の意味になったらしい。
同様の語源からきている単語が「consider」で「よく考える」という意味だが、もともとは「星をよく観察する」という意味だったらしい。
事ほど左様に昔の人にとって、星「星の影響」は今よりずっと身近なものだったのだ。
「disaster」つまり「災害」を意味する単語は「悪い星」を意味していたし、「influenza」は星からの「influence 」によって起こると思われていた。
機械時計の発明は、昔は修道院の規則正しい生活のためと言われていたが、今では天体観測のために正確な時間が必要だったからの方が主流だ。というのも暦は人の運命を左右する超重要技術だったのであり、そのために数学も発展した。『ルパイヤード』で有名なオマル・ハイヤームは、本職は天文学者であり、非ユークリッド幾何学の先駆けとなる思考を残している。その影響か、今でもイランの閏年の入れ方は、公転周期の誤差を考えると無意味なほど正確を期しているとか。
ケプラーもルドルフ2世の占星術師であった。彼は魔術的なほど世界の構造的微を信じてやまなかった。惑星の軌道とプラトン多面体との関係の仮説や、公転周期と音を対応させれば惑星たちが和音を奏でている確信などについて書かれた本が残っている。そしてこれらの研究が、ニュートンの微積分の研究へと繋がっていくのだ。
天文学とは当時の実用的な科学であり、当時は今より科学と人々日常的な精神が近いところにあった。ガリレオ、ケプラー、ニュートンらによる科学の発展が占星術的な当時の人々の心に与えた影響は大きい。それが占星術を次第に実用的な学問の座から落としたのだ。
「使えることがえらい」とプラグマティストを気取った人間が気楽に言ってくれることがあるが、何が「使える」かどうかは、その人が所属する文化圏の世界観によって決まるのだ。ウィリアム・ジェイムズも『プラグマティズム』の冒頭でチェスタートンの言葉を「ある人を知りたいときに一番重要な情報は彼の世界観だ」を引いている理由だ。
昔の人の世界観が分からないと、昔の人にとって何が役に立つものだったのか見誤ってしまい、我々の世界がどこから来たのか見誤ってしまう。
今の人たちは、昔ほど「星の影響を信じてはおるまい。それでも私たちの生活を支える幾つかのものは、「星の影響」を信じる心性によって作られたのだ、歯車を組み合わせた機械や微分積分を使ったニュートン力学などだ。
たまには我々とは随分異なる昔の人の精神構造に想いを走らせ、そんな心から出てきた科学や技術が自分の故郷である精神にどれだけの影響を与えたかを想像してみるのも面白いだろう。

そのうち形にしたい幾つかの読書感想

科学史科学哲学を補助線として本を読むのってありかもしれないなあ、と。

例えば、すべてのことを大前提からの演繹で示そうとした、スコラ哲学が科学革命までの過程で、どういう風に帰納的な実験手法に駆逐されていったかを、山本義隆の『16世紀文化革命』で読んでたんだけど、
一六世紀文化革命 1一六世紀文化革命 1
著者:山本 義隆
販売元:みすず書房
(2007-04-17)
販売元:Amazon.co.jp
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一六世紀文化革命 2一六世紀文化革命 2
著者:山本 義隆
販売元:みすず書房
(2007-04-17)
販売元:Amazon.co.jp
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すると、イギリスのカトリック文人であるチェスタートンの「ブラウン神父」シリーズのカトリック神父探偵の推理方が、見事にスコラ哲学なのが面白くなってくる。
ブラウン神父の童心 (創元推理文庫)ブラウン神父の童心 (創元推理文庫)
著者:G・K・チェスタトン
販売元:東京創元社
(1982-02)
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クワインは科学をするときの障害(というか、幾つかの科学理論を比較して取捨選択するときの障害)として、二つの言語間の、もしくは同じ言語間でも違うバックグラウンドを持つ2人の間の翻訳を大きく取り上げた。もしこれが十全にできなければ、二つの理論が比較できない。
クワイン―ホーリズムの哲学 (平凡社ライブラリー)クワイン―ホーリズムの哲学 (平凡社ライブラリー)
著者:丹治 信春
販売元:平凡社
(2009-10)
販売元:Amazon.co.jp
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言語と認識のダイナミズム―ウィトゲンシュタインからクワインへ言語と認識のダイナミズム―ウィトゲンシュタインからクワインへ
著者:丹治 信春
販売元:勁草書房
(1996-01)
販売元:Amazon.co.jp
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クワインは完全な翻訳など不可能だとし、どこまでなら翻訳が出来るか、という問題を考えたのだが、その時、翻訳されようとしている言語話者はわりあい協力的だと、何気なく考えてしまっている。
でも、もし相手がそもそも翻訳してもらおうという意思を持たず、まったく協力してくれなかったら。翻訳なんて無理じゃないの。
聞いたこともない謎の言語を喋る街に言語学者が放り込まれ、そして誰も主人公に協力してくれない。これが『エペペ』の悪夢だ。
エペペエペペ
著者:カリンティ・フェレンツ
販売元:恒文社
(1978-12)
販売元:Amazon.co.jp
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ここで翻訳を、何らかの答えを求める、ある種の「科学の営み」の一種ととらえれば、「我々は世界について知ることが出来るのか」という科学哲学の大きな問題を、この本は扱っていると見ることもできる。
科学の営みに世界が協力してくれないときに、どうやって人は「世界について知ることが出来る」と信じることが出来るのか。そもそもそんなこと信じるべきなのか。
例えば、「水を掻き混ぜるとどれだけ温度が上がるか」という実験について考えてみると、これは単純な実験であるにもかかわらず、どんなに条件を一緒にしようと頑張っても、毎回違う結果が出てしまい、とても手に負えない。これはこの小説で、ジェスチャーで同じ質問をしようとしても、毎回違った答えが返ってくるし、同じ言葉を喋っているように思える場合でも、「エペペ」「ベエベエ」「デデ」と毎回違う発音に聞こえる、という部分に対応する。
その時に、なぜ「真実などない」と思わずに、「細部をコントロールできないから、違う結果がでる」と考え、将来的には分かる、と考えるのか。もちろん、それには我々人類の長い文化の積み重ねがある。分かりやすい部分から攻めてきているとはいえ、なんだかんだいって、いろいろなことが分かってきた、という歴史がある。
しかしどうもこの小説を読んでいて、あくまで謎の言語の解明が自分を悪夢の迷宮から救う鍵だと思っている、主人公の学者的態度が合理的だとは思えなかったりする。
そんなことよりも、もっと体当たり的にやった方がいいかもしれないよな、と。
科学哲学が長年勘違いしてきたことの一つは、科学と言うものを合理的な行動と考えてきたことだと思う。
反対に科学と言うのは、人間が一人でこの世界を生き抜いて行くには相当不合理的な物だと思う。
科学の合理性は、最近はやりの「集合知」とかあそこら辺に求めるしかないだろう。個人としては不合理な行為者が、集団の合理性を高めることが現実には多々ある。
科学者の存在理由はそのあたりに有るのだろう。
そんなひ弱な科学者が一人、理解不可能な迷宮にの真っただ中に放り出されてしまう。それが『エペペ』の悪夢なのかもしれない。それは「科学者」を一つの人間の理想像に掲げたニ十世紀人の悪夢でもあるだろう。
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