けんさく。

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科学哲学

ガストン・バシュラールの傑作通俗科学哲学所『科学的精神の形成』

最初に断言しておく。批判的なこともちょっとだけ書くが、これはめっぽう面白い本で読む価値がある。

ただ私がこの本を面白いと思う理由は、私の読書経験に由来するがゆえに、多くの人の理由とはずれるかもしれない。

この本は17世紀から18世紀の通俗科学書を徹底的に読み込み、その主張や特徴を述べながら、批判的に紹介する本である。
まずこの本の面白さの源泉は紹介される通俗科学書の面白さである。
静電気でほこりが引っ付くから静電気は糊だ、みたいな話を筆頭に、静電気を使って紙の人形を立ち上がらせてダンスさせて、「これが生命の誕生だ」などと語りだしてしまったりと、なにやら『トンデモ本の世界』めいた活況を呈している。
ただバシュラールの筆致はあくまでまじめで、これらの今から見ると奇妙な科学もどきに対して、まっとうな分析を試みている。
例えば、「希少価値を実質価値と見誤っている」という分析は、当時の医学書が必ず宝石の効用について語っているという事実に関する分析である。いわゆるパワーストーンであり、この愚劣な信仰は今もなお続いている。
また当時のアニミスティックな現象理解の仕方が、今でも人間のデフォルトな理解方法であると断じて、それを教育の問題につなげた、「教師は生徒の頭を空っぽの白紙だと思っているが、生徒の頭の中は空っぽではなく、間違った知識が詰まっているので、それをどうにかしないと話が始まらない。浮力の実験を見た生徒は誰も『水が押したから木片が上に上がった』などと思わない。『木片が上に浮かぼうとした』と考えるのだ」という指摘は、今現在も当てはまる。例えば吉田甫『学力低下をどう克服するか』では、子供が日常の中で自然に手に入れる計算能力を理解せずに、それと関係なく計算を教えようとすることにより子供の能力が破壊されているという結構衝撃的な報告が載っている。これも子供の精神を空っぽの白紙と考えてしまうことの弊害であり、バシュラールの批判は教育を詰め込みではなく、日常生活で得た知識の再構成と考えるべきだという提言ととらえることもできる。
また上の浮力の話からつながるが、「当時の通俗科学書は物理の言葉ではなく、生物の言葉に帰着させることを最終目標としている」という分析も面白い。
今も「励起=excited」などの言葉に残るが、当時はこれらは文字通り「興奮している」ことを意味していた。静電気などによって、無機物がざわざわと動き回っている状態は、生命なき物質が「興奮している」のであり、すなわち生命なき物質が「生命化」されている、と受け止められることが多かった。冒頭のように、静電気による小さな人形のダンスがいとも簡単に生命と解釈されてしまうのは、こういう世界観を背景に見ればわかりやすい。
当時は世界の基底に「生命的な現象」がある、言い換えると世界の基底的な構造は「生命に関する言語」でうまく語れる、と信じられていたようだ。
初期の生物学で「原形質」のような「生きている物質」が信じられ、初期の進化論ではこれが生命の祖先だと考えられたり、有機化学で「生命力」がなければ有機化合物は作れないと考えられていたりしたのも、ガルバーニにおける動物電気もメスメリズムにおける動物磁気も、今となってはバラバラの事象に見えてしまうが、背景となる世界観を共有している。なぜ漫画において目を見るだけで催眠術にかかってしまうのかも、同じ地下水流が続いていることを把握していないと、理解することは難しいだろう。
これは何も17世紀・18世紀に限った話ではなく、古代ギリシャ哲学やストア派の哲学を学んだものは誰でも、世界を生き物のように理解したり(種子的ロゴスというやつがその一種だ)、様々なものを生物的な言い方で把握しようとしたりするのが、とても一般的だったことに気付くだろう(アリストテレスの哲学も彼が生物学を主戦場に研究していたことを抜きには理解しきれない)。
そして今でも、科学の専門教育を受けたものでもなければ、相変わらず世界を生物の言葉で理解しようとするのだ。
これは自然だ。なぜなら我々は普段、多くの時間を人間を代表とした生き物と過ごしているからだ。
しかし19世紀以降の専門化した科学の中で、我々は様々な事象を生物の言葉に翻訳しようとしてことごとく失敗した。対して、物理の言葉に翻訳するのはたくさんの成功例がある。
相変わらず一部の人間は生物の言語に拘泥したりはするものの、科学界の趨勢は今のところ決まっている。
私にとっていわゆる「物理主義の哲学」とは以上のような経験則であり、ある種の哲学者のするような規範的な議論で覆されるものではない。覆すとしたら経験的な証拠だけである。私には哲学者の議論が、物理主義が経験則であることを理解しない議論か、もしくは経験則を「哲学」と呼ぶことへの反感にすぎないように見えることも多い。
バシュラールのこの本は、学問の基底言語がだんだんと生物から物理へと移っていくその過程を我々に教えてくれているようで、とても興味深い。

しかし、私がこの本で一番面白いと思っていることは上記の点ではない。それはこの本の議論をこの本自体に適用することが可能な点だ。
この本でバシュラールが一番いいたいことを乱暴に要約すると「科学ってのはこういうものではない」という点だと思う。
バシュラールはこれらの通俗科学書を紹介しながら、なぜこれらが現代的な意味での科学ではないかに答えを出そうとする。
そのために、これらの通俗科学書の特徴を上げていく。
・面白い実例がたくさん載っている。
・日常に役に立つ情報がたんまり載っている。
・結果としてこの本は専門的な科学書に比べてとても楽しい読み物になっている。
そこから逆にこれらの本に書かれていないことは何かということが浮かび上がる。
それは例えば、適切な抽象化、適切な形式化である。
バシュラールの鋭い指摘の一つは、ケプラー以前の天文学において、楕円は円の崩れたものであって、決して円が楕円の一種と見られたことはない、というものである。
それまではガリレオですら、天体には円運動をする本性が備わっていると考えていたし、コペルニクスもあくまで円運動にこだわった。円こそ完全な図形である以上、円運動の一般化としての楕円運動など想像もされなかった。この思考法がギリシャ以来の伝統だったのだ。
それを乗り越えるためには、別の形式化が必要だったのだ。想像をたくましくすれば、ケプラーやニュートンは世界を数学で記述しようとする傾向が強かったことが重要だったのではと思える。円や楕円を数学的に記述するために厳密な定義を与えようとすれば、どうしても円は楕円の特別な場合になる。たとえ数式で表そうとしなくてもアポロニウスの円錐曲線のレベルでもそれは明らかだ。
科学を正しく運用するためには、いつでも正しい抽象化、正しい形式化は何か、という問題に目を配らなくてはいけない。バシュラールは単に事実を並べるだけで、なんの抽象化も行おうとしない通俗科学書から、逆にその教訓を取り出す。
この指摘は現代にも届く。今でも訓練を受けなければ、我々は日常言語の抽象化とは別の抽象化がありうることにすら気づけないのだ。それは例えば小学校教育において、ひし形は平行四辺形か、長方形は正方形か、などという妙な議論がいまだにされていることからもわかる。

しかし、ここでこの本の全体について振り返ってみよう。この本、『科学的精神の形成』はどんな本であろうか。
・前時代の通俗科学書についてたくさんの面白い実例が載っている。
・そこから科学について考えるために役に立つ教訓がたくさん書いてある。
・結果として現代的な小難しい科学哲学の本よりもずっと楽しい読み物になっている。
これは何かに似ていないだろうか。そう、これはこの本がネタにしている通俗科学書に似ているのだ。
そしてこれらの通俗科学書と同様に、この本では科学とは何かについて役に立つこまごまとした教訓はあるものの、それを俯瞰的に眺めるための適切な抽象化、適切な形式化をしようとしている節は全くない。
バシュラールが科学哲学が科学足りうる、または科学であるべきと考えていたかどうかは私は知らない。そんなこと考えたこともない気がするし、訊いてみたら否定的に答えるような気もする。しかしもしそれらの問いに肯定で答えるならば、バシュラールの批判はこの本自体にまっすぐ刺さることになるのだ。
時々その本で提示した分析手法が全くその本に適用可能な本というものがある。有名なところではフロイトの『精神分析入門』こそがフロイト的に精神分析が必要に見えることだが、私のお気に入りは、ノースロップ・フライの『批評の解剖』である。かつて偉大であった神話がロマンス、悲劇、喜劇、アイロニー、とだんだんと凋落するものの、再び神話として再臨するというジャンル論は、20世紀最高の神話だと思っている。
閑話休題
バシュラールの本はやはり素晴らしい。科学について考えるときに、科学の歴史について無視することは絶対にできないことを教えてくれる。
これはクーン以降の科学哲学の流れとも合致していると思う。抽象化・形式化を目指した英米系の科学哲学は大陸系の歴史学的なエピステモロジーと合流して、その違いはあまりなくなってきている感じがする。
これはバシュラールが考えた科学への道とも一致する。やはり適切な抽象化・形式化こそが肝要なのだ。様々な行き止まりにぶつかりながらも、一度論理実証主義を経由することが科学哲学にとって必然だったと私は思う。
しかしバシュラール自身はその道を歩まなかったことも強調しなくてはいけない。バシュラール自身の科学哲学は専門的な科学哲学にはつながっていない。
この本は通俗科学に関する哲学書であると同時に、通俗的な科学哲学書どまりなのだ。それをそのまま専門的な哲学につなげようとする道は行き止まりだ。
それは決して否定的な評価とばかりは言えない。
通俗科学書には専門的な科学書にはない役割がある。それと同じように通俗的な科学哲学書、そして通俗的な哲学書にも、専門書にはない役割があるはずだ。
専門的な学問はどこまでも一般性を目指す役割がある。しかし一般性を目指した結果、どうしてもそこからあふれ落ちてしまう個別的なものがある。
その結果、どうしても専門的な学問は、そのままでは日常に応用しにくい形になることも多い。
もちろん長期的にはそれら一般化に乗らなかった個別的なものも、より高度な一般化によって拾われると信じたいし、私は信じている。しかし、長期的に言えば我々はみな死んでいるし、人類は滅亡している。長期的な話では現に困っている人を救えない。そこで専門的な科学が拾えなかったものを救う、現場に密着した実践的知が必要とされる。通俗科学もその一端を担うものの一つととらえられる。
そしてこの役割を果たすためには、その専門的科学と通俗科学の間の違いを、書くものにはしっかりと、読むものにもある程度は、意識されていないといけないと思うのだ。
バシュラールの不幸の一つは、通俗科学哲学であったものを、何を間違えたか専門的な哲学であると勘違いして読まれ、その影響を受けてしまった者があらわれてしまったことかもしれない。
それは多分彼らがマーティン・ガードナーの『奇妙な論理』や『トンデモ本の世界』を読んでいないことが原因かもしれない(と半分冗談で言ってみる)。どちらも科学哲学を志す者に読んでほしい(科学を志す者にももちろん読んでほしい)本ではあるが、これ自体は科学哲学の専門書ではありえない。評価するための軸が全然違う。



同じようにこの本も科学哲学を志す者、科学を志す者にぜひ読んでほしい本である。科学に関してはともかく、科学哲学や科学教育に関してはアイディアの宝庫なのではないかと思ってる。
ダメなのはこの本に影響されて、この本の手法を一般化して科学哲学をやろうとすることである。その前に、戸田山和久やソーバーなどをちゃんと読んでほしい。

科学と証拠―統計の哲学 入門―
エリオット・ソーバー
名古屋大学出版会
2012-10-20


そして、できればもう少しライトで非専門家も気楽に読めるちゃんとした通俗科学哲学書、専門知へのリスペクトを失わず、そのうえで自分たちに何ができるか真摯に考えてしかも面白い通俗科学哲学書が欲しいね。
通俗と専門の間に正しい良い関係が築かれることを切に願うよ。

思考のモラル 『幻想の古代史』

歴史の本でもあり、良質な科学哲学の啓蒙書でもあり、またなによりエンターテイメント性あふれる読み物になっている。
幻想の古代史〈上〉
ケネス・L. フィーダー
楽工社
2009-11

幻想の古代史〈下〉
ケネス・L. フィーダー
楽工社
2009-11

まさに「in one sitting」という感じに読み終わってしまった。
もともと教科書として書かれていることもあり、歴史書としてはかなり異質なことに、最初の2章がまるまる科学哲学における「仮説演繹法」の説明に当てられている。
通俗歴史読み物的な「方法論なき歴史科学」に飽き飽きしていたので、まずこれが面白かった。現代において考古学はハイテク化し、自然科学との境界を失っていこうとしている。もちろん、文献を渉猟し、その解釈を熟考するのも大切だが、その議論のプロセスが科学的でなければ、アカデミックな評価を得ることは出来ない。
では、その科学的な議論のプロセスとはなにか。
もちろんそれは一言では示せないし、完全な合意だって得られていない(そもそも得られない)が、ポパー以外なら誰でも認めるであろうものとして、この本では仮説演繹法を紹介する。
仮説演繹法とはなにか?
我々は説明のつかない現象Pを見ると、それを説明するために仮説Hを立てる。そのHは「Hが成り立てば、高い確率でPが成り立つ」という性質を持つものだ(これをPに対してHの尤度が高い、という)。
例えば、「様々な古代文明が普通では考えられないほど高度な技術を持っているのは、古代に宇宙人が地球を訪れているからではないだろうか?」などだ。実際、宇宙人が古代に地球を訪れていたら、古代文明に高度な技術の祥子が残っているだろう。これは別に間違いではない。
これを科学哲学では「アブダクション」という。
仮説演繹法では、今度はこの仮説から何らかの検証可能な結論を導き出そうとする。
例えば、「もし様々な古代文明に宇宙人が訪れていたら、どうなるだろう。きっと同じ技術で出来た物品が全地球的に出土するだろう」などと考えるのだ。
そして、もしその結論が実験や調査によって否定されれば、その仮説は棄却される。もし肯定されれば、その仮説は補強され、さらに同じプロセスを繰り返し、十分に補強されれば定説となっていくのだ。
この手法を使って大きな結果を出した有名な人はハンガリーの医者センメルヴェイスである。彼は病院での出産における産婦の死亡率の異様な高さ(自宅出産の10倍)が医者が死体を触った手を洗わずに妊婦に触ったことが原因と突き止めたのだ(まだ細菌発見前であり、病気は体液の過多や悪い空気で起こると思われており、手を洗うという発想はなかったのだ)。
このことは、科学史・科学哲学の多くの入門書に書いてあるが、この本には最初どんな仮説を出して(患者が死者を弔う牧師の姿を見てショックを受けたからではないか、なんて仮説も立てたのだそうだ)、どんな実験をしたのか(牧師の歩くルートを変えた)を、普通の科学史・科学哲学の本よりも詳しく書いてあるのが、歴史書らしくて面白かった。ちなみにこの本には書いてないが、センメルヴェイスはこのことを世に広めようとするが、なぜ手を洗うと死亡率が下がるのかが説明できなかったり(彼は死体の破片が悪さをしていると思っていたらしい。もう一度いうが、細菌発見以前の話である)、態度が脅迫的だったりしたこともあり、医者がたくさんの死者を出したことを認められない医師の集団に精神病院に入れられそうになって、逃げ出そうとしたところを集団暴行にあい、その怪我が元で死亡している。今も昔も我々は統計データよりも「こうこうこういうプロセスでこうなります」という物語に重きを置きすぎる傾向があるので注意しよう(気功とかホメオパシーとか、統計的裏付けはなくても、効く理由を提示されると納得してしまう人が多い)。
閑話休題。
この「仮説演繹法」を使ってこの本が示しているのは、「超古代文明」「古代宇宙人仮説」「インディアンはユダヤ人の末裔」「全ての生物は神が作った」「地球の寿命は約6000年程度」「恐竜と人類は同居していた」「ダウジングや超能力による発掘」など、考古学における奇説珍説は、大概この前半のアブダクションのところまでで止まってしまっていて、そこから検証可能な結論を導いて検証するという、科学のプロセスを通っていない、ということだ。だから、何らかの仮説に出会うたびに、「ここから検証可能な結論は導けるかな? その結論をこの仮説はちゃんと検証しているだろうか? 何らかの反論があるなら、それにちゃんと答えているだろうか?」と考えるだけで、割りと簡単に論難出来てしまう。
この本では、それを読者に練習させるために、的確な練習問題まで用意している。素晴らしい。
読者は、妙ちきりんだが一度は聞いたことがあり、もしかしたら信じていたかもしれない歴史のトンデモ話を楽しみながら、いつの間にか現代人の教養でありモラルである、科学的思考を身に付けることが出来るのだ。
そうなのだ、これは教養なだけではなく、モラルなのだ。
高度化したエンターテイメント産業によって欲望を刺激され、ひたすらポルノ(「受容者の欲望を満たすためだけの作品」を広義のポルノと呼ぶ)を消費するだけの人々の思考は、どこまでもだらしなくなっていきがちである。
そこに規律と緊張感を与え、より良き生を生きるためにも、科学的思考の桎梏はぜひとも必要なのだ。 
より良き生、それは現代においては「面白い情報を生産する生」にほかならない。
ポルノを消費するだけの消費者が何を喚こうと、彼らが享受している情報、そして彼らが生み出している情報は、質が低く、すぐに腐ってしまう(それどころかこの世に産み落とされた瞬間から腐臭を放つ)。つまりつまらない。
なぜなら、結局どれもこれもどこかで見た意見の引き写しにすぎないからだ。
この本で紹介されているトンデモ話も、最初に出会った時は面白いかもしれないが、少しコレクターを気取って収集しようとすると、とたんに後悔するものばかりだ。何冊読んでも何冊読んでも、同じ話ばかり。多少毛色の違う話があっても、途中から結局いつもの話に経路が収束していってがっかりさせられる。結局この手のものは集合としては興味深いが、個別としては退屈な存在に過ぎない。
当たり前だ。いつもと違う話を考えられるくらいの想像力があれば、自分の言っていることに疑問を持つであろうことは、上での仮説演繹法の説明を読めば分かる。
彼らは時に科学者の凝り固まった想像力のなさをあげつらうが、自分の後頭部にブーメランが突き刺さっていることにも気づけない鈍感さには憐れみすら覚える。
山本弘を始め、多くのSF作家がこれらのオカルトを嫌う理由は簡単だ。「こうなったらどうなるだろう。ああなったらどうなるだろう」というような、SFのシミュレーション的想像力から、これほど離れた存在も他にないからだ。
ネットに溢れる無害有害取り混ぜた珍妙な言説も同様である。想像力の欠片もなく、その結果単調で代わり映えしない。しつこいくらい何回も同じ話をする(同じ人物がしているわけではないのだろうが。ないよね?)。一体何のために? 世界をつまらなくするのがそんなに楽しいのか。救いようがないな。

我々は世界を面白くするために戦わなくてはいけない。そのためにこのモラルをもっと広めなくてはいけないのだ。
一人でも多くの人に、偽の謎より本物の謎のほうがロマンチックで面白いことを知ってもらわなくてはいけない。 
聖書に書いてあることは本当にあったとか、エジプトやマヤのピラミッドを宇宙人が作ったなんて与太話より、人類の精神がどう進化してきたかとか、エジプトやマヤが独自性にあふれる文明をどうゆっくりと発展させてきたのかのほうが、ずっと夢があって、楽しい細部に満ちている。
愚かなオカルトと違って、こちらは日進月歩、年ごとに新しい情報が追加され、目が離せない。
この認識を、私の否定的な話に対して、「ええ、夢が壊れたあ、そんな話聞きたくなかった」などと喚いたあの女のような人にも持ってもらえたら、どれだけ世の中が面白く、そして良くなるだろうか。
あんたら選挙権持ってるんだよ、分かってんの?
これが王政の国だったら、国王が「朕は夢のある話が好きだから事実は嫌い」などと言い始めたことになるんだよ。どうなると思う。革命不可避。いつやるの? 今でしょ!(微妙に古い)
 

星座と欲望

前回書いたfanficの翻訳のときに知った話。
「desire」という言葉は「欲望」を意味しているが、この「sire」の部分はもともとは「sides」で、「星」もしくは「星座」という意味だ。
「星からもたらされるものを待っている」状態からい今の意味になったらしい。
同様の語源からきている単語が「consider」で「よく考える」という意味だが、もともとは「星をよく観察する」という意味だったらしい。
事ほど左様に昔の人にとって、星「星の影響」は今よりずっと身近なものだったのだ。
「disaster」つまり「災害」を意味する単語は「悪い星」を意味していたし、「influenza」は星からの「influence 」によって起こると思われていた。
機械時計の発明は、昔は修道院の規則正しい生活のためと言われていたが、今では天体観測のために正確な時間が必要だったからの方が主流だ。というのも暦は人の運命を左右する超重要技術だったのであり、そのために数学も発展した。『ルパイヤード』で有名なオマル・ハイヤームは、本職は天文学者であり、非ユークリッド幾何学の先駆けとなる思考を残している。その影響か、今でもイランの閏年の入れ方は、公転周期の誤差を考えると無意味なほど正確を期しているとか。
ケプラーもルドルフ2世の占星術師であった。彼は魔術的なほど世界の構造的微を信じてやまなかった。惑星の軌道とプラトン多面体との関係の仮説や、公転周期と音を対応させれば惑星たちが和音を奏でている確信などについて書かれた本が残っている。そしてこれらの研究が、ニュートンの微積分の研究へと繋がっていくのだ。
天文学とは当時の実用的な科学であり、当時は今より科学と人々日常的な精神が近いところにあった。ガリレオ、ケプラー、ニュートンらによる科学の発展が占星術的な当時の人々の心に与えた影響は大きい。それが占星術を次第に実用的な学問の座から落としたのだ。
「使えることがえらい」とプラグマティストを気取った人間が気楽に言ってくれることがあるが、何が「使える」かどうかは、その人が所属する文化圏の世界観によって決まるのだ。ウィリアム・ジェイムズも『プラグマティズム』の冒頭でチェスタートンの言葉を「ある人を知りたいときに一番重要な情報は彼の世界観だ」を引いている理由だ。
昔の人の世界観が分からないと、昔の人にとって何が役に立つものだったのか見誤ってしまい、我々の世界がどこから来たのか見誤ってしまう。
今の人たちは、昔ほど「星の影響を信じてはおるまい。それでも私たちの生活を支える幾つかのものは、「星の影響」を信じる心性によって作られたのだ、歯車を組み合わせた機械や微分積分を使ったニュートン力学などだ。
たまには我々とは随分異なる昔の人の精神構造に想いを走らせ、そんな心から出てきた科学や技術が自分の故郷である精神にどれだけの影響を与えたかを想像してみるのも面白いだろう。

間違いだらけの少数民族

 うちの近所で新しい少数民族が発見されてしばらくが経ち、ようやく世間も落ち着きを取り戻しはじめた。
 最初は酷かった。人々の反応と言ったら、物騒ねえだのこわいなあとづまりすとこだの世も末だなどと正鵠を得ないことばかり。大体世が末になればなるほど未発見の少数民族が少なくなりそうなことぐらい、少し考えれば分かりそうのものだが。
 とにかく、当初の混乱が収まったあたりで、今まで分かったことの確認をしよう。とは言っても分かったことなどほとんど何もない。唯一判明したことはといえば、彼らが何もかも間違っている、ということだ。
 知は積み重ならない。それは流れ去る。
 つまり個人の知識にしろ、人類全体のそれにしろ、単調増加したりはしないということだ。
 彼らの言語体系や歴史が順調に判明しているように思えたある日、とんでも無いことが分かった。
 彼らはかつて、自然は真空を嫌い、月より上と月より下の世界は円運動と直線運動という別々の法則に導かれていると考えていた。
 もちろんこれらは間違いである。
 その後彼らは、熱とは熱素(カロリック)という一種の粒子であり、熱いものがだんだんと冷え、冷たいものがだんだんとぬるくなっていくのは、この粒子が移動するからだ、と考えたり、物が燃焼するのは然素(フロギストン)と呼ばれる物質が放出されるからだと考えたりした。
 これらももちろん間違いである。
 さらに彼らは、世界には全ての運動となる絶対空間と呼ばれるものが存在し、光は絶対空間に対して静止したエーテルと呼ばれる媒質の振動だと考えた。
 さすがに、これは無理があって、その後彼らは、空間や時間は運動に対して相対的で、むしろ光の速さこそ全ての運動に対して絶対的に一定だとしたり、運動量と位置とは同時に正確に知ることが出来ず、その誤差の積には下限があり、これはどうやら物質というものは揺らぎ続ける存在確率の波のようなものだからだ、とした。
 これらの説も、以前のものと比べたら世界を上手く記述・説明していたのだが、結局は間違いであることが分かる類のものである。
 彼らはそのほかにも、ガラス管を通すと水が高分子化するだの、常温で核融合が起き、鶏はそれによって体内で卵の殻のためのカルシウムを合成しているだの、革命的努力の結果獲得した形質は遺伝するはずだという信念のもと、種を低音に晒すことにより低温に強い品種に改良していけば、猛毒の鞭を振り回して三本足で歩き塩水で溶ける知能植物から良質の油が取れるようになるだの、我々から見れば愚かというほかない奇説珍説をしこたま捻り出している。
 ここまでのことから何が言えるだろうか。
 我々の科学の基本的な推論方の一つに「帰納」がある。これがなければ一切の科学は成り立たない。
 その推論形式は、「AはXである。BもXである。CもXである。……よって、これらのものと共通の性質を持つものは、全てXである」というものだ。
 これを使えば、実に単純に結論に至れる。
 「彼らが過去に主張した全てのことは間違いである。よって、彼らの主張することは全て間違いである」
 こうして、彼らの言うことは全て間違いであることが判明してしまった。
 この事実の重みが分かるだろうか。
 このことが分かった今、彼らの言うことは一切信用が出来ないのである。
 たとえば彼らがウサギを指差しながら「ウサギ」と言ったとする。これは決して彼らがウサギを「ウサギ」と読んでいることを意味しない。もしかしたら彼らはウナギのことを「ウサギ」と読んでいて、その上で目の前のウサギを間違えてウナギだと思い込んで、それを指差し「ウサギ」と呼んでいるのかもしれないのだ。それどころか、彼らの言う「ウサギ」とはある瞬間まではウナギのことを意味し、その瞬間が過ぎたとたんウとサギの複合体を意味する単語かもしれないが、彼らはその瞬間までウサギをウナギと間違え、その瞬間が過ぎた途端ウとサギの複合体と間違えているのかも知れない。
 彼らの思考が全て間違っていることが明らかな以上、彼らの発言、いやそれどころか彼らの行動からも、彼らが世界をどう捉えているかを知ることは出来ないのだ。
 もちろん行動や肉体組織から、彼らの物理的化学的生物的遺伝的動物行動学的な特徴を調べることは可能だ。しかし、それらは結局のところ、我々と寸分たがわず同一に他ならない。
 我々が知りたいのは、彼らが我々と違う部分、彼らが少数民族であるその根拠、すなわち彼らの文化なのに、それについての理解の道は完全に途絶している。
 ここから分かることは、我々が彼らが何もかも間違えていると考えた根拠である彼らの歴史もまた、いまや非実在の泥濘の中に沈んでいくほかない、ということだ。おそらく、彼らは今まで月上の世界と月下の世界の違いや、絶対空間や、量子もつれにおける非局所性、などといった奇怪な概念を一度も思いついたことなどないのだろう。せいぜい思いついたと思い込んだくらいが関の山だが、彼らの言語の通訳不可能性が明らかとなった今それすら期待できない、というのが本音である。
 はっきり言ってしまえば、彼らとコミュニケーションをとることは不可能である。いや、そもそも彼ら同士で意思疎通することすら不可能なはずだ。彼らが我々からみて会話に見える行動を一見とっているのは多分、コミュニケーションが可能であると誤認しているのだろう。
 そんな欠陥生物が今まで生き残ってきたというのは、廃品置き場で起こった竜巻が完璧なボーイング747を作ってしまうなみの奇跡といわざるを得ない。それもなぜそのような奇跡が可能なのかについての理解への道は閉ざされている。
 このような奇跡よりはよほど、奇怪な彼らの言う言葉を信じてしまいたくなるが、それは不可能だ。彼らの発言にもし微塵でも真実が含まれていると仮定したが最後、我々は彼らの言語を翻訳することが可能になり、いまや図書館の奥に保存されるのみの運命となった彼らの歴史についての研究が正当なもととなり、よって彼らの発言が全て間違いであると認めざるをえなくなる。背理法によって、彼らの発言には一切の真実は含まれていないことが証明される。よって我々は彼らの発言および文化内容について一切知ることは出来ないが、それが全て間違いで我々に知ることが出来ないことだけは論理的に知ることが出来るのだ。
 この議論は直感主義的には問題があるが直感的には明らかなので、広く受け入れられている。主義なんてものはいざというとき弱いものだ。
 かくの如き袋小路的状況が長く続けば、誰もが興味を失う。世間の反応は冷え切り、まもなく彼らについての研究は途絶えた。近所に新発見の少数民族が生息していることや、いままで普通に付き合っていたお隣さんが一切の意思疎通が不可能であることなどに、最初は気味悪さを覚えていた付近住民たちも、長期にわたる哲学的違和感に耐え切れずに、すぐに慣れてしまった。そんな奇怪なものに耐えられる人で構成される付近住民というのも面妖千万なので文句は言うまい。ただそれが惹起した社会現象には面食らうほかなかった。
 彼らは発見される前と同様に、自分たち同士で、そして自分以外の人たちと、会話が出来ると錯覚しながら会話によく似た行為をしている。交流が可能だと誤認しながら、一切共有できる価値は存在しえないのに、通貨を介して物品を交換していたりする。
 そして恐ろしいことに、彼ら以外の人たちも彼らと何かが伝達あるいは交換可能だと信じてはじめてしまったのだ。これは一体どういうことなのだろうか。もしかしたら、混血が私が思っていた以上に進んでいるのかもしれない。我々知識人はナチス以来、純血主義に抵抗を覚えるようになり、私もそれらに眉を顰めることをいつの間にか学んだが、これにはさすがに本能的戦慄を覚えざるをえなかった。
 一体どれほどの人々が事象の地平面の向こう側にいるのか把握できない、というのは端的に恐怖である。道を歩くと私は、もしかしたら私以外の全ての人たちがあの少数民族の構成員になってしまったのかと思えるのだ。
 ただし、だからといって私が何か具体的なアクションをするわけではない。
 大廈の覆らんとするときに、一木いかでかこれを支えん。三十六計慣れるに如かず、である。
 理解し得ない人々とすれ違い、理解し得ない人々とレジを挟んで向かい合い、彼らには理解できないはずの貨幣で物を購い、必要とあらば談笑だってしてみせる。そんな毎日に私はだんだんと麻痺していく。
 心配することをやめ、愛する必要があったからだ。
 最後の手段として、私は少数民族の一人を、配偶者として迎え入れたりもした。もちろん抵抗はあったし、お互いを全然理解できないことにはかなり苦労した。それでもなんとかやっていることを考えると、やはりこの世界において問題というのは決して解決せず、ただ乗り越えられるものだというのは正しいのだろう。時間をかけて乗り越えられない問題はないのだ。
 逆に考えれば、何も解決していないということでもある。我々は相変わらず絶対的な相互的無理解と、無理解に対する理解不可能性の暗闇の真っ只中にいる。
 実際先日も私が配偶者に、
 「我々は本質的に、永久に分かり合えない関係らしいな」
 と言ったところ、次のような答えが返ってきたのだった。
 「ほんとそれ」

疑似科学と科学の哲学
伊勢田 哲治
名古屋大学出版会
2002-12-10

トリフィド時代―食人植物の恐怖 (創元SF文庫)
ジョン・ウィンダム
東京創元社
1963-12

トリフィドの日~人類SOS!~ [DVD]
ハワード・キール
ランコーポレーション
2009-10-21

 

このレベルの本はもういらない 高橋昌一郎『理性の限界』『知性の限界』




私がゲーデルに最初に触れたのは、高橋昌一郎の『ゲーデルの哲学』だった。

これに関しては思い出はあるが、残念ながら今読み返す気にはならない。それに対して彼が訳したレイモンド・スマリヤンの『哲学ファンタジー』(原題は『紀元前5000年』)は、未だに影響を受け続けている本だ。

ウンベルト・エーコの『フーコーの振り子』においても、とてもうまい使われ方をしていた。

その高橋昌一郎の本が結構出ているので、二冊ほど読んでみたが、ひどい。 
かつて影響を受けた人の本がひどく駄目に思えるのは、私が成長した証拠だが、それでもこんなにも酷い代物に感心していたかと思うと、残念である。もうスマリヤンの翻訳に徹してもらいたい。

まず気になるのことは、この手の本を読んでいると、やけに「科学の限界」に関する需要を感じることだ。なんか科学に限界がないと困る、みたいな感じだ。その手の議論は、科学に勝手な思い込みを当てはめて、その上で限界があることにする、という体裁なので、実際に科学の限界を具体的に示したものなんて皆無だ。だいたい、科学をするよりも、科学の限界を示すことの方がずっと難しいことは、ウィトゲンシュタインに依るまでもなく、ちょっと考えたら分かることで、そんなことが分かると主張している時点で、一生懸命分からないことを分かろうとしている科学者よりも、そういう輩の方が傲慢といえる。
今ある科学に限界があるのは当たり前である。だからその限界を超えようと日夜努力している。それに対して、机上の空論で限界を当てはめようとする議論に一定の需要があるのは、被害妄想かも知れないが、「世界を理解する方法」という既得権益を奪われた哲学や思想の最後のあがきに見える。勝手に人に限界をおしつけてはならない(戒め)。
意識的にか無意識的にか、この本もその需要に対する供給の働きをしてしまっているのである。

1冊目の『理性の限界』は「アローの不可能性定理」」と「ハイゼンベルクの不確定性原理」と「ゲーデルの不完全性定理」の三題噺だが、このなかで今でも重要なのは「不確定性原理」くらいなものだろう。
「アローの不可能性定理」なんて、完全な選挙がある、なんていう、なんでそんなこと信じてた人がいたのか不思議なくらいの信念を、ある種の定式化の下で否定しただけで、当たり前なことを数学的に証明しても、「あっそう」以上の感想は出ない。選挙の結果にあの手この手で影響を与えようとするなんて、誰でも普通に考えることで、それを防ぐことができないという「ギバード・サタースウェイトの定理」も、「理性の限界」を表す定理としては興味が薄い。
むしろ、この理論の肝は、集団が様々な物事を選択するシステムを形式的に議論する端緒を開いたことであり、どのようにすれば選挙結果等の集団選択に影響を与えられるかの理論の基礎になっている。
つまりこれらは全然「理性の限界」など表してはおらず、理性のさらなる躍進を示しているのだ。しかし、そんなことを書いてはある種の人々が面白がってくれないので、わざわざ古くさい結果を紹介しているのだろうか。 

ゲーデルの定理にしても、これは当時の「ヒルベルトのプログラム」が分かっていないと、どうしてこれが一部の数学者にとって衝撃だったのかよく分からない。それを、全ての数学者にとって衝撃で、数学のやり方を変えた、みたいな言い方をするのはおかしい。ゲーデルの定理はもちろん、その後の計算理論や論理学の基礎を成しているもので、その分野では重要なものだが、多くの数学者は聞いたことはあっても、証明は知らない人が多いし、それ以前とそれ以降で数学のやり方を変えてなんかいないし、その登場の衝撃にしたって、数学者社会全域にわたるものではなかったと思われる。
これも別に何らかの「限界」を表しているものとは考えられないことは、次の本に詳しい。
ゲーデルの定理――利用と誤用の不完全ガイド
トルケル・フランセーン
みすず書房
2011-03-26

高橋昌一郎は、この定理が「あるシステム内で証明も否定もできない命題がある」ことを意味すると正確に書いた直後に、「どのシステムでも証明も否定もできない命題がある」と間違った書き方をしていて、なんだかどうしても理性に限界がなくては困るみたいな案配だ。
そもそも数学者にとって、小さなシステムで定理を証明するのが難しいのは、経験的事実で、そのために彼らは自然数論の定理を証明するのに、ZFCやら、CHやら、「到達不可能基数の存在」やら「ペアノの公理」よりもずっと強い公理を使うのである。こうして、どんどんシステムを強くしながら問題を解決する、という方法論を教えてくれた意味で、「ゲーデルの定理」はいかなる意味でも「理性の限界」を表してなんかいない。ゲーデル自身の人間非機械論やグリムの神の非存在証明なんか、歴史のちょっとおかしいエピソード以上じゃない。 

「ハイゼンベルクの不確定性原理」に関しては、今でも重要だが、やはり浅さが気になる。でも専門家じゃないし、こんなもんかなあ、という印象。いろんな本に書いてある話をなぞってる感じ。

『知性の限界』の方は、いきなりウィトゲンシュタイン以降の言語哲学から始まるけど、こんなの中世のライムンドゥス・ルルス以来の言語神秘主義にしか見えないし、論理実証主義の言いぐさも、コメニウスなどの後期ルネッサンスの 普遍言語論者の言ってることと似すぎてて笑えてくる。
ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で言えてることなんて、「認識することを認識することは無理だ」っていうことじゃなくて、「認識することを認識することは難しい」ってことまでだと思うし、だったら言えることは「語り得ぬことについては沈黙しなくてはいけない」ではなく、せいぜいが「語りにくいことを語ることは気をつけましょう」程度だろう。言語中心主義さえ脱してしまえば、なんだか当たり前なことだけが残ってしまう。
だいたい高橋昌一郎は、科学哲学というと、すぐにウィトゲンシュタイン、論理実証主義、ポパー、クーン、ファイヤアーベント、となるけど、そんなの今科学哲学を勉強するのに、それほど必要ない名前ばかりだ。クワインとかラカトシュあたりからはじめればいいじゃん (いいじゃん)。 
ポパーなんて、帰納の拒否とか、論理実証主義を論駁するという問題設定がないと理解できないのに、持ち上げられすぎ。そもそもここら辺は、みんな「哲学で科学を基礎付けしなきゃ(使命感)」という破綻したプロジェクトの周辺の人達なんで、 そのプロジェクトが終わった今読んでも、意味が分からない。基礎付けという設定を外してしまえば、帰納がなんで問題なのか、全く分からなくなってしまうのだ。
そうすると、『知性の限界』の半分は、今ではとても受け入れられない「知性」を勝手に考えて、それに問題があると告発してることになってて、一体誰と戦ってるんだか。 

だいたいこの本のスタイルに私は疑義を感じる。
様々な立場を代表する人物が登場し、「方法論的虚無主義者」とか「論理実証主義者」とか「カント主義者」がそれぞれの意見を言い合うんだけど、それがどうしても「極論対極論」の形になってしまう。実際の科学者や哲学者はそんな単純化された考えなんか持っていないのに。
これを読んでいると、ある知り合いの物理学者が、知り合いの科学哲学者に実在論対反実在論に関して、「哲学の方法論とは極論と極論をぶつける ものなんですか? それって科学者のスタイルと全然違いますね。科学者なら、まずおおざっぱだが、だいたい合意の得られるモデルから始めます」と噛みついたことを思い出す。
それに対して科学哲学者は「科学者だって極論を言うし、この場合の極論は、おおざっぱで合意の得られるモデルが一種類にならないことに起因する」と反論していた。
おおむね発展している科学分野は、最初の「おおざっぱで合意の得られるモデル」が作りやすいが、「科学とはなんなのか」などの難しい問題はそうでない(これが上でウィトゲンシュタインがあることを示した「語りにくい問題」である)。哲学者だけでなく、科学者だってこういう問題に相対すると、極論を言い始めるものだ。
しかし、そんな中から着地点を得られそうな兆候が見えてきたのが最近の科学哲学である。
それなのに、また極論対極論を始める哲学者がいるのを見ると、なんだかやっぱり哲学者に問題があるような気がし始めてしまう。
そもそもこいつら問題を解決する気あるのか? と。

一つだけ指摘しておかなくてはいけない、哲学に対する間違った考え方は「問いを発することが重要」ということだろう。
もちろん問いを発することは重要だが、どこからその問いが出てきたのかも重要である。
つまり「問いを解決する」ことが同じくらい重要で、たくさんの問いを解決してきた設定から出てきた問いは、多くの人々が耳を傾ける価値があるとわれわれは予想する。
この本は、ひたすら問いを発することに終始しているが、たまには問題を解いて見たらいかがだろうか。そうしたら、みんなもっと言うことを聞いてくれるかも知れないよ。
そのためには、何もかも疑ってかかってばかりいるわけにはいかず、世界観の軸が必要になる。たとえば科学とかね。
これはファイヤアーベントが批判した権威主義だ。みんな、権威主義が無条件にいけないものだと思っているからファイヤアーベントに答えられなかったけど、現実に生きていくにはある程度の権威主義が必要だと言うことを認めてしまえば何の問題もない(時間とエネルギーが無限にあればファイヤアーベントの言うように、全てを平等に試して見ることもいいかもしれないが、現実はそうじゃないから、権威のあるものから試していかなくてはいけない。ファイヤアーベントなんてそれだけの話なのに、この本にはそこまですら行けてない)。
そうすれば、この本には解決が書いてない「ニューカムのパラドクス」だってそれほど難しい問題には見えない。

無責任にすでに解かれてしまったような問いをまき散らして終わりだなんて、酷い本だ全く。浅く広くいろんな話題を漁ることが教養ではあるまいに。教養とは、データベースではなく、単独のアプリケーションでもなく、それらにメモリーとタスクを分配する、オペレーション・システムのようなものだ。たとえば、現代科学の世界観と、最新の科学哲学が教えてくれる科学の方法論、呪術や魔術も含めた科学史が、私にとっての教養である(あと書籍とインターネットによる情報検索と若干の語学力)。
この著者には、何らの教養を感じない。 
あらゆる不思議の謎をプラズマで解くことで有名な大槻教授を科学者の代表みたいに書いている時点でどうもね。大槻教授も高橋昌一郎も、専門外に関してはあまり発言しない方がいいタイプだよ。 

まとめると全体的に、間違ったことは書かれていないものの、浅いし古い。
ここに書いてある内容なんて多くは、すでに歴史の話題でしかなく、歴史はもちろん重要だが、それは政治学や経済学や数学や哲学などの最前線の話題と混淆するわけにはいかない。
歴史に興味のある人以外は、それぞれの興味に必要な分の歴史を学べば良く、延々と今ではどうでも良くなってしまった話題に付き合う義理はない(どれくらい必要だと考えるかは、人によって違うから議論が起こるし、極端なことを言う人もいるだろうが、おおざっぱな同意が得られる量がやはりある)。もちろん、古くなってしまった話題が新しく蘇ることはあるが、それこそ歴史に興味のある人々の仕事で、最前線で働く人々にそれを押しつけてしまったら効率が悪くなる。アリストテレスの自然学は、調べるに足る興味深い対象だが、今現在物理学を教えるのにそこから始めるのは明らかにおかしい。
20世紀の科学哲学はずいぶん間違った問題設定から初めて、それじゃうまくいかないことが分かって、その中で今ではより実りがありそうなやり方が分かってきたんだけど、この本はその間違った問題設定を読者に教え込んで、それに問題があることが分かってきたところで終わってしまっている。こんな本、百害あって一利なしだろ。 
今は科学哲学方面ならいい本がたくさんあるので、そちらを読んでくださいな。
科学と証拠-統計の哲学 入門-
エリオット・ソーバー
名古屋大学出版会
2012-10-17



 
疑似科学と科学の哲学
伊勢田 哲治
名古屋大学出版会
2002-12-10


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