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辞典

語源と下ネタ

辞書の類いを読むときには、やはりまず下ネタからが嗜みと言えよう。
よって、普段使っている言葉の思わぬ関連をば、紹介しよう。

「contest」=「競技」や「protest」=「抵抗」の「test」は「testify」=「証言する」や「testament」=「遺書、告白、証」などと同語源だが、これはラテン語の「testari」=「証人」と言う意味から来ている。さらにさかのぼれば、「Three」とか「tri-」とかの「3」と同語源で、要は「第三者」ってこと。
しかし、これ「testicle」とか「testis」など、「睾丸、金玉」を意味する言葉と同語源だ。男性ホルモンである「テストステロン」という単語を聞いたことがある人もいるかもしれない。
これは、当時証人になることが出来たのは男だけだったことから、この二つの玉に、証人になる能力が集約されているとでも考えたようだ。
ちなみに、これらの「-test」は「証拠」と言う意味だが、「試す」と言う意味での「test」は、音もスペルも全く一緒で、意味もなんとなく似通っているが、何と語源が違う。これは「testum」と言う金属を溶かして試験する焼き物の壺を意味していたらしい。なんとなく不思議である。

「ゼミ」や「セミナー」はドイツ語や英語から来ているので微妙に発音が違うが、遡れば聖職者の養成機関である、「seminarius」だ。そしてこれはもともとは、「種を植えて育てる場所」と言う意味。
よって、「seed」=「種」や、「season」=「季節」と関係が深い。
しかしそれよりも直接的に形が近いのが、ドイツ語で「種」を意味する「Samen」=「ザーメン」である。そしてこれには「精子・精液」と言う意味があり、日本ではこちらのみ定着した。
「セミナー」という言葉を見るたびにこれを思い出すのだが、もしかして「聖職」と「生殖」を掛けた古典的下ネタジョークでもあったのかもしれない。

そう言えば「性」は「性質」と言う意味だったのに、いつの間にかセクシャルな意味が大きくなってしまったように、「sex」ももともとは「分ける」と言う意味しかなかった。「section」なんかと語源が一緒なのだ。

それでは、今回の最後は、「vagina」と「vanilla」の語源が一緒、と言う話で終えよう。
どちらも「木の裂け目」という意味がもともとで、豆なんかの莢を意味したりしていたのだ。
そう言えば、「豆」も性的な意味を持ちやすい単語なような………

印欧語語源探訪

以前、online etymology dictionaryを紹介したとき、「語源学は遊べる」という話は書いたと思うが、またネタがたまったので記事にしたいと思う。

古代インドの聖典「Veda」はもともと「知識」という意味だが、これはPIEの“*weid-”=「見る」から来ている。「見る」という言葉に「知る」という意味が出来るのはよく見られる現象である(そう考えると、「sapiens」=「知識」の語源「sapio」が「味わう」という意味なのは珍しいのかも。「science」の原義は「分ける」であり、これは日本語の「分かる」と共通しているので珍しくない)
例えば、ケルトの司祭兼政治指導者であった、「Druid」は「daru」+「vid」であり、これは「オークの賢者」を意味し、後半はもちろん「veda」と同語源である。
これはゲルマン系の言語を通して英語にも入っており、「wit」=「智恵、ユーモア」や「wise」=「賢い」、「wizard」=「賢者、魔術師」などの言葉になるほか、少し音が変化して「guide」=「導く」などの言葉になる。
また「wise」に「方法」という意味が出て英語の「otherwise」や「likewise」、「clockwise」という言葉が発生する。ここで「もしかしてwayも?」と考えるのが人情だが、これは「運ぶ」が原義でむしろ「weight」などと関係が深いんだそうだ。ふむふむ。
英語ではないが、名前の意味である「真実」を全く報じてこなかったこととして有名なソ連共産党の機関紙「Pravda」の後半も同語源である。
一方、ラテン語からロマンス語を通して英語に入った流れはどちらかというと、「見る」という意味を残している。
「vision」、「view」、「video」などである。

で、ここら辺までは確か以前の記事にも書いたような気がするけど、最近気付いたのは、哲学用語でギリシャ語の「idea」=「イデア」と「eidos」=「形相」が両方とも「見る」と意味する「idein」から派生しており、これはもちろん、上の様々な言葉と同系統だ、ということだ。
(「イデア」はプラトン哲学の根本用語で、「形相」はアリストテレス哲学の重要用語である。プラトンによれば、この世のすべては非物質的な「イデア」の影に過ぎず、本当に存在するのは「イデア」なのだ。だからひとつひとつの「机」は、本当に存在するものではなく、本当に存在するのはそれらの原型である「机のイデア」だ、という議論だ。それにたいしてアリストテレスは「机」を、それを実現するための材料である「質料」、例えば「木」と、実現された形である、「机の形相」に分け、「形相」は「質料」なくしては存在し得ない、と考えた)
「idea」も「eidos」も元は「見た目」という意味だったのだ。
「idea」は英語の「idea」=「アイディア、観念」という意味になっていまだに使われ続けている。
それに対して、「eidos」は「見た目」という部分が拡大され、「見た目だけのもの」という意味から、「idol」=「偶像」、つまり(キリスト教から見ての)異教徒が拝む神の象を表すようになる。フランシス・ベーコンの「四つのイドラ」もこれである。
そしてもちろん、ここから「人びとが熱狂的に支持する人物」という意味の「アイドル」が出てくるのである。
さらに、「見た目」の意味から「eidos」を接尾辞にしたのが、「-oid」である。これは「~に似ている」という意味なのだ。
人間に似ているから「anthropos+oid」=「anthropoid」=「類人猿」、望遠鏡で見ても恒星と同じで点にしか見えないのに惑星みたいな挙動をするから「aster+oid」=「asteroid」=「小惑星」、アルカリみたいだから「アルカロイド」、etc。
でも、日本人にとっては「モンゴロイド」=「黄色人種」とか「ネグロイド」=「黒人種」とか「コーカソイド」=「白人種」などの人種を意味する使い方がより心に残ったのか、『ガンダム』における「スペースノイドとアースノイド」みたいな、人種を表す接尾辞と勘違いする例も多い。
なんだよ「スペースンみたいなの」とか「アースンみたいなの」ってのは?

というわけで今回の記事は終わり。
これを書いてて思いついた話としては、いつかフランシス・ベーコンの「四つのイドラ」に対応した「四人のアイドル」の出てくる話を書こう。
「種族のアイドル」
「洞窟のアイドル」
「市場のアイドル」
「劇場のアイドル」
面白そうじゃありませんか?
私には面白そう何だがなあ……

史上空前の語源マイブーム 補遺

こうして一日中online etymology dictionaryで遊んでいたわけだが、日常生活がおろそかになりそうなのでこれくらいにしておこう。

「サイバーなんとか」とか「サイボーグ」とかの由来はノーバート・ウィーナー(20世紀を代表する天才科学者。11歳で大学に入り14歳で学士号をとり、18歳で博士号を取った。後年はもっと自分を天才だと思ってもらうためにMITの階段の途中で寝るなどして、変人だから天才なんだろうな、という印象を人に与えようとして太った体が歩行の邪魔になったことで知られている)提唱の「サイバネティクス」(英語wikipediaにリンクを張ってます。日本語ページは貧弱なので。wikipediaで物を調べるときは英語ページくらいは見ておくこと)である。これはギリシャ語の「kybernetes」=「船の舵をとるもの」から来ている。
船をの舵を操る人間は川の流れを全てコントロールできるわけではない。舵でコントロールできるのは船の周りの本の一部である。それでも船乗りは目的をちゃんと達成できる。それは「船乗り」というシステムが行動の結果を素早く次の行動にフィードバック出来るからだ。同様に自分を制御できるシステムを作るために情報理論、機械工学、生理学、制御理論、システム理論を統合しようというのが「サイバネティクス」である。
調べてみると実は昔から「kybernetes」という単語は実は単なる「船乗り」という意味だけでなく「導く者」という意味も持っていたことが分かった。1830年にフランスで「cybernétique」が「統治の技術」という意味で使われているようだ。そして僕らが知っている「統治する」を意味する英単語「govern」は実はギリシャ語からラテン語に入ってきた単語なのだ。
そこでもしや「guide」も同語源か? と思って調べてみたらこれが驚いた。これは古フランス語の「guider」であり、それはフランク語の「
*witan」から来ているのだ。ここまでくれば分かるように、これは「veda」とか「wise」とか「wit」とか「vision」とか「video」とかと同系統の言葉だったのだ。びっくり。
「物語」を意味する「story」は歴史を意味する「history」と同語源でどちらもギリシャ語の「historia」から来ているが、これのPIEの語源は「*weid- 」でありこれも同じ系統の言語である。

ギリシャ語起源の「thema」や「thesis」のPIEの語源は「
*dhe-」であり、これは昨日書いたように「do」や「fact」と同語源である。「仮説」を意味する「hypothesis」の「hypo-」は英語で言う「sub-」である。また昨日の記事にあとで付けくわえて紹介した概念「音位転換」は英語で「metathesis」だった(ちなみに「異分析」の方は「metaanalysis」。「analysis」は数学やってるとどうしても「解析」と訳したくなるが同じ漢字文化圏でも中国数学界は「分析」と普通に訳しているようだ。なお「meta-」という接頭辞はギリシャ語由来で「上の」などの意味を持つが、「中の」を意味する「mid-」と同じ由来を持つらしい)。

「pysics」=「物理学」の語源のギリシャ語「pysis」=「自然」のPIEでの元の形は「
*bheu-」=「存在する」であり、これは英語の「be」の語源でもある。自然とは存在する物の名前であり、「pysics」とはまさに存在する物の学問なのだ。「metaphysics」は「形而上学」。存在する物の上の学問という意味だが、結局は存在しない物についての学問であろう。

英語の「cow」=「牛」はPIEの「
*gwous」であり、これがラテン語の「bou-」を通してフランス語経由の英語「beef」になっているし、「ゴーダマ・シッダルータ」の「ゴー」の部分にもなる(サンスクリットの「gaus」)。ところでシュメール語では牛は「gu」であり、中国語では「ngu」である。これは何らかの交流があったと考えるべきなのだろうか、それともこれらすべてが牛の鳴き声の擬音語に由来するのであろうか(辞書ではその説を載せている)。
同様に気になるのが「犬」を意味する言葉である。「kennnel」=「犬小屋」は犬が寝るからだ、というのは誰でも聞いたことがあるだろうか、これはラテン語の「canis」=「犬」から来ていてラテン系言語の「犬」を意味する言葉の語源になっている(イタリアの『Mondo Cane』とか)。これがギリシャ語だと犬は「kyon」である。「皮肉な」を意味する「cynical」の由来はソクラテスの弟子の一人アンティステネスを祖としシノぺのディオゲネスがあまりにも有名な哲学一派「kynikos」(キュニコス派)である。呉智英が言うように「犬儒派」という訳語は傑作であろう。
これのPIEの祖型が「*kwon-」なわけだが、これと「犬」も妙に似ているような気がする。しかしこれも擬音語の可能性がそれなりに高いので、どちらかが影響を受けたのか、それともまったく関係なく似てしまったのかを判断するのは事実上無理である。
「父」と「
*pəter」、「母」と「*mater」も気になるが、これも幼児語(赤ちゃんは唇で出す音を出しやすい)から来ていると考えれば、影響を考えなくても説明できる。でも気になる。


しかし、これだけ遡れるんだったら調べていけば面白くなるに決まっている。それにどんな人だって自分のルーツは気になる。自分たちの使っている言語が様々な他の言語と関係し、相当古くまでさかのぼれると知れば誰だってプライドが刺激される。比較言語学がヨーロッパで偉い学問として重んじられたのもうなずける。
例えばヤーコブ・グリム(グリム兄弟の長兄、比較言語学を始めた歴史的に超偉い人)が発見した「グリムの法則」では説明できない音韻変化を説明する「ヴェルナーの法則」を発見したヴェルナーは、
昼休みに横になりながら、比較言語学の本のグリムの法則を読んでいた時、偶然見抜いたこの法則により様々な大学から引く手あまたとなり、一生にこの仕事しかしなかったにもかかわらず、適度な道楽で一生を過ごし、人びとに飽きられた。普通作られるはずの肖像画も残っていない。いいなあ、そんな人生。

しかしこのジャンルの残した功罪は罪の部分も相当大きいのである。
例えば最初に調べた例があまりにも上手くいく例であったために、実はそれほど普遍性があったわけでない方法に皆が拘泥してしまう結果になった。他に祖語が復元できる例なんてのは台湾の先住民から東南アジア、そして太平洋の小島の言語の共通祖先「オーストロネシア祖語」くらいなものである。例えば、ハンガリー語やフィンランド語などのウラル語族と満州語やモンゴル語などのアルタイ語族がウラル・アルタイ語族であり、日本語韓国語もこれに入るんだ、みたいな正直なんの根拠もない話があったのは、やはりインド・ヨーロッパ語族の異様な成功あってのことだ。
多くの言語は系統のまったく違う言語が混ざってピジン・クレオール化することによって出来ている。日本語も恐らくは北のアルタイ系の言語と南のオーストロネシア系の言語のクレオールなのであろう。
そんな物の祖先を探ろうとしても結局は限界があるのである。文法レベルで交っちゃうこともあるんだから。
おかげで文法用語までヨーロッパの成功を引きずって、どう考えても適用できない範疇分けを日本語の文法にあてはめようとするもんだから、わけ分かんないことになってしまうのである。
これが健全化するにはもう少し掛かるかもしれない。
あと忘れてはいけないのは民族主義への影響であろう。先ほど、この研究はヨーロッパ人のプライドを刺激すると書いたが、インド・ヨーロッパ語族を喋る人=「アーリア人」というイメージがイギリスのインド支配を正当化する理屈とされたり、ドイツでナチスの思想背景を成したりした。今では言語学的関係と人種的関係は一致しないことが知られているので、「アーリア人」というのはインド・アーリア人とイラン・アーリア人のみを意味する。
これらの思想の残した災禍からも世界はいまだに立ち直っていないことを見ると、思想が現実認識を凌駕することの恐ろしさを思い知らずにはいられない。
楽しい学問が楽しくないことを引き起こすこともあるのである。

online etymology dictionaryで遊ぶ

前回に引き続きonline etymology dictionaryで遊ぶぞ。
ところでみなさん、印度の子どもがなりたいものは?

(みんなの歌の映像付きのものは見つかりませんでした)
この「マハラジャ」という言葉は領主のことだが、このサンスクリット起源の言葉を日本語に直訳すると「大王」になる。「マハ」が「大」で「ラジャ」が「王」だ。「マハトマ・ガンジー」のマハもこれだし「マハーバーラタ」の「マハー」もこれである。また漢訳仏典では「摩訶」となり「摩訶不思議」や「摩訶般若波羅蜜多心経」などの形で日本にも入っている。
さてこの「マハ」であるがインド・ヨーロッパ祖語(以降PIEと略す)では「*meg-」という形に復元できる。これがギリシャ語では「megas」という形になり、今のヨーロッパ諸語の「megaなんたら」の語源になる。またラテン語では「magnus」という形になり、これはこれで「magnet」=「磁石」とか「magnitude」=「マグニチュード」とかの語源になっている。またフランス経由で英語の「major」や「majority」の語源になっている。また同系統のラテン語の「maximum」はいまだに使われる言葉だ。ゲルマン語経由では「much」がやはり同じ起源を持っている。
また、「大きい」→「偉い」という連想より、ラテン語からフランス経由で「mayor」=「市長」、「majesty」=「陛下」、「master」、「mister」などの言葉が出来ている。
そして「大きい」→「能力がある」→「可能である」という連想よりゲルマン起源の助動詞「might」「may」が、また形容詞の「mighty」が出てくる。
そして同様の連想から「可能にするもの」としてラテン語の「machina」、つまり英語の「machine」=「機械」が出てくるのである。ちなみに「mechanic」はギリシャ語の「mechana」から来ている。
さらに同じ発想で持ってゲルマン経由で英語の重要な動詞「make」が誕生するのである。

では「ラジャ」はどうか? これはPIEの「*reg-」から来ていて、これは「真っすぐに導く」という意味だったようだ。ここから「リーダー」という意味が出て「支配者」になる。ラテン語ではここから「regs」となり、恐竜好きなら絶対に知ってる単語「rex」=「王」となる。ここからフランス語の「roi」が出来、英語の「royal」になるのは言うまでもない。
さらにラテン語の動詞「regere」=「支配する」から「regal」=「王の、堂々とした」という言葉が出るほか、「rect」という形に変わって「rector」=「カレッジの校長」、「correct」=「正確」、「erect」=「立っている」などの言葉になっている。
またゲルマン経由で「right」=「正しい」という言葉になって、さらに「強い方の手」という意味で「右」を意味するようになった(ちなみに「left」には「弱い」という意味があった)。
なお本来のPIEでの「右」を意味する語は「
*dek-」だが、これは英語には「Dexter」=「人名、優秀なという意味(がり勉っぽい名前の代表、offspringのデクスター・ホーランドやカートゥーン・ネットワークの『デクスターズラボ』を参照)」として残っていて同じ連想が働いていることが分かる。逆にもともと左を意味していた「sinister」は「不吉な、邪悪な」という意味になってしまっている。

語源辞書で調べるべきなのは基本的単語である。例えば「do」。これはPIEの「*dhe-」から来ているらしいが、この言葉は「する、作る、置く」などの様々な意味を持っていたものらしい。これのゲルマン経由では「do」になったわけだが、一方ラテン語ではこれは「facere」=「do」という動詞になり、「ex」+「facere」=「effect」で「ad」+「facere」=「affect」になる。さらに「成されたこと」→「出来ごと」→「事実」という発想から「factum」という名詞になりこれが「fact」になる。また「行動者、製作者」の意味の「factor」から英語の「factor」や「factory」が出る。
まさか「do」とこれらの単語が同語源とは思わない。

英語の「water」はラテン語には「unda」という形で伝わって「波」という言葉になっている。パラケルススはここから水の妖精「undine」の名前を作った。
さてこの辞書を読んでいて驚いたのが同様にパラケルススが作った土の妖精の名前「gnome」の話だ。僕はてっきり澁澤龍彦とかが言ってたみたいに、「知識」を意味する「gnosis」や「支持者」を意味する「gnomon」(ある種の日時計も意味する)から来ているものとばかり思い込んでいた。パラケルススは鉱山の街で育っており、鉱山労働者の職業病について調べた最初の人であるし、水銀などの鉱物を薬として利用しようとした人でもあるし、なにより錬金術師であるし、ノヴァーリスやスラブ民話の『石の花』なんかを見てても地下に知識の宝庫があるという考え方はヨーロッパに広く分布してそうだから、説得力があるような気がしていたのだ。でもこの辞書では、その説を紹介しながらより蓋然性の高いものとして、ギリシャ語の「
*genomos」=「土の住人」から作ったのではないか、という説を推す。そっちの方が自然だなあ。でもこればかりはパラケルススに聞いてみないと分からないことなので、2つの説が両立し続けることになるんだろうけど。
ところでギリシャ語の「gnosis」が英語の「know」と関係ありそうだとすぐ気が付いたよね。僕も前からそう思っていて今回それが確かめられたのも収穫。ちなみに「gnosis」という言葉はオカルト好きのお気に入りの「グノーシス派」のことだし、またこの言葉は「prognosis」=「予後」、「dignosis」=「診断」などの医学用語として結構残っている。これに対応する古いラテン語の
「gnarus」=「注意を払う」(後に「知られる」という意味になる)に否定の「in」を付けたのが「ignorant」=「無視する」だ。同様のことがゲルマン系の言語でも起こって「uncouth」という言葉になるが、これはもともと「知られていない」という意味だったが今では「無骨な」という意味になっている。そして怖ろしいことに英語の助動詞の「can」もここから来ているのだ。もともとは「やり方を知っている」という意味だったらしい。
水に話を戻すとラテン語で「水」を意味する「aqua」と語源的に関係が深い意外な言葉が「island」=「島」である。「land」はもちろん「土地」だが前についている「アイ」と発音している部分はもともとは「yland」と書きさらにさかのぼると「igland」と書き、これは「ieg」+「land」で前の「ieg」は「aqua」と同じ起源を持つ「水」という意味の言葉だ。ではなぜいつの間にかsが入ったのであろうか。それは「isle」という島を意味する言葉が別にあって(これはラテン語の「insula」が起源でこれのさらなる起源は知られていない。もしかしたら「in」+「sula」で「sula」=「salo」=「塩もしくは海」ということかもしれない)このisleとylandがなぜか混じって(誰かが勘違いしたのであろう)「island」という言葉が出来た(1590年ごろの話らしい)。
勘違いで言葉が出来ることは決して珍しくない。例えば「異分析」という言葉があって、これは言葉の切れ目を間違えてしまうことだが、これが新しい言葉を作ってしまうことがある。例えば「aplon」=「エプロン」という言葉はもともとは「naplon」だったのだが、「a naplon」を「an aplon」と勘違いして今の形になった。逆に「nickname」はもともとは「an eke name」だった筈なのに、いつの間にか冠詞のnが言葉の方についてしまった。日本語でももともとは「軽気+球」だったのがいつの間にか「軽+気球」になって「気球」という言葉が出来てしまったりしている(ここら辺は上のwikipediaに書いてある)。
面白いのは宇宙戦艦ヤマトで有名な「イスカンダル」である。これはもともとは「アレクサンドロス大王」の逸話がアラビアに伝わったとき、kとsが入れ替わり(「音位転換」という、これまた言い間違えで新しい言葉を作る重要な要素。「あたらしい」はもともとは「あらたし」だった。実際「あらたな」というし、「あたら若い命を」というように「あたらし」は古語では「惜しい」という意味。「サザンカ」は漢字で書くと「山茶花」になるように元は「サンザカ」。英語の「tax」=「税」はもともとは「task」=「仕事」。「コミニュケーション」とか「シュミレーション」とかもこの類い)、そして「aliskandar」の最初の「al」がアラビア語の定冠詞、つまり「the」を意味するものなので勘違いされ「al+iskandar」と異分析されて出来た言葉だ(「イザベラ」というスペインの名前は「エリザベス」に対して同じことが起こった結果)。人呼んで「イスカンダル・ズルカルナイン」=「イスカンダル双角王」ともう超人扱いである。さらに調べていくと、この「イスカンダル」がインドに伝わって「スカンダ」という「インドラ」に代わる戦の神になり、漢訳仏典で「韋駄天」になったという有力な説があるようだ。
「male」「female」もそれぞれの語源はラテン語の「
masculus」(筋肉の意味の「mascle」やスペイン語の「macho」の語源)と「femella」なので、無理やり形を合わせてあるのは勘違いと言えなくもない。

「oscar」「oswald」「osmond」はそれぞれ「神の槍「神の力」「神の山」の意味で前半の「os」は
PIEの「*ansu-」が由来で、インドの「asura」(不思議な力を持つ神。後悪魔の名前になって「阿修羅」や「修羅」の語源になる)やイランの「Ahura Mazda」やゲルマン神話の「Aesir」=「アース神族」「Asgard」=「アスガルド」(後半の「gard」は「yard」や「garden」と同じである)と同語源である。

「generation」「general」などの言葉はすべてラテン語の「genus」=「種」から来ているが(数学やってると「種数」という言葉が浮かぶ)、ギリシャ語の「genea」という言葉からは「genesis」=「創世記」「gene」=「遺伝子」という言葉が生まれた。これがゲルマン系になると、「kindergrten」=「幼稚園」などで英語にも入っているドイツ語の「kinder」=「子ども」とか「kind」=「種類」とか、古英語の「kin」=「家族」から「kind」=「親切な」(家族的ってこと)とか、これは多分なんだけど「king」(良い生まれ、ってことから)が出てくる。あとインドで「不生者」という単語は「山羊」=「aja」と同じになるって岩波の『リグ・ヴェーダ』に書いてあったけど、それはPIEの「*gen-」が「ja」に変化して否定の接頭辞を付けたものなんだろう。ちなみに「aja」の正しい語源はPIEの「*aig-」でここからギリシャ語の「aigos」=「山羊」そして山羊皮で出来たゼウスの盾「aigis」、そして高度な管制システムを搭載した艦艇「イージス艦」の語源になっている。
話を「種」に戻すと「germ」=「芽」「胚」「細菌」「兆し」も同じ語源(これも数学用語にある)。これにフランス語で「殺す」を意味する「cide」を付けると「germicide」=「殺菌剤」。語源は同じだがこれに「genos」を付けると「genocide」=「人種の根絶やし」になる。怖ろしい。

PIEでの疑問詞「what」は「*qwod」という形だったようだ。ラテン語では「qui-」という形なのであまり変わっておらず、今のラテン系の言葉もほとんど同じである。ギリシャ語では「q」と「p」が入れ替わるという現象によって「p」で始まる言葉になっている(「posos」=「how much」)。英語の「poet」=「詩人」はギリシャ語の「poetes」=「作る人」だが、これもまたPIEでは「
*kwei-」=「作る」が元になっているようだ。
英語の「quality」という単語は疑問詞から「どのくらいの良さ」という連想でできたようだ。
ところで英語の「wh」は発音上も昔の書き方も「hw」なのになんでそう書くんだろうか?

「woman」=「wif」+「man」。


「text」「textur」=「生地」「techno-」=「技術」などは全てPIEの「*tek-」から。「architectue」=「建築」は「tekton」=「大工」に隊長を意味する「archon」が付いたもの(「archangel」「archbishop」)

「techno」のラテン語における翻訳である「ars」は「art」の語源だが、「arm」=「腕」「武器」と同語源。

「election」=「選挙」の「lect」は「lecture」の「lect」と同じで「選ぶ、読む」の意味でギリシャ語の「logos」=「言葉、論理」と同源。なので学問の名前の後ろにつく「-logy」とも同源。

「super」「hyper」「over」はみんな同語源。

「few」=「少し」だがこれとギリシャ語起源の「paedphiria」=「小児愛好症、『ロウきゅーぶ』を見て「まったく、小学生は最高だぜ!!」と言っているような輩」「pedagogy」=「教育学」「pedantic」=「衒学的」(このブログがその例)などは同じ「*peu-」=「小さい、若い」という言葉から来ている。

英語の「world」は「wer」+「ald」で出来ていて、これは「人間の年齢」を意味している。来世に対する「人間の世界」という意味であるようだ。「ald」はもちろん「old」と一緒だが、「wer」は「werewolf」=「人狼」などで少し残っている。
ところでこの「wolf」であるがPIEでは「
*wlqwos」という形になる。「q」と「p」の変化によってラテン語では「lupus」であり、ギリシャ語では「lyukos」となる。ギリシャ神話で「リュカーオーン」と言ったらゼウスを騙して人肉を食べさせようとして一族を滅ぼされ、自分は狼に変えられたアルカディアの王である(オウィディウス『変身物語』)。別の伝説によればリュカイオン山で「ゼウス・リュカイオス」(狼のゼウス)の祭りを開いて人身供養を行ったので神の怒りをかい、狼にされたとされる。
どうやらアルカディアにギリシャ人以前にもともとあった狼神信仰、それも儀式に参加して生贄の人肉を食べると九年間狼になれるという信仰の名残のようだ。ギリシャ人に征服されたあと、それらが悪者にされたんじゃなかろか(
リュカーオーンは50人の子がいたというが、50というのは「多い」という意味で、彼がその土地の民族の祖であるという意味かもしれない。実際自分たちの祖先をリュカーオーンとする者たちも多かったようだ)
ちなみに「アポロン」にも「アポロン・リュカイオス」という名前が付くことがある。哲学者アリストテレスはこの神の神殿の横に学校を立てたので「リュケイオン」と名づけた。フランスの国立高等学校の名前「
Lycée」=「リセ」に残っている。「アポロン」は恐らくギリシャ以前の神がギリシャに吸収されたものなので、何か由来があるのかもしれない。
また「ルぺルカーリア祭り」は、古代においてはアルカディアの「リュカイア祭」と関連付けられることもあるローマの祭りだが、ここにも明らかに狼が出てくる。ローマ建国の英雄ロムルスとレムスが牝狼に育てられたという伝説をただちに思い出すだろう(ついでにモンゴル等世界中に「自分たちは狼の子孫だ」を始めとした動物を自分の祖先とする伝説があることも思い出すといい。もしかしたらここの部分はギリシャと同様、ローマ人たちがイタリアに来る前からあった動物信仰かもしれない)。これは毎年2月に行われ、「フェブルア」という杖を持った「ルプルクス」達が街を走り回るお祭りだったらしい。これが「february」の由来だが、この祭りのローマ人にも不明だった起源がインドの神話と比較すればインド・ヨーロッパ共通時代まで遡れるかもしれない、というのがデュメジルの『ヴァルナ・ミトラ』の導入部だった。そして相当性的に奔放だったらしいこの祭り(そもそもの起源となった故事が「さらってきた女たちが不妊で困ったので鞭で打ったら子どもが生めるようになってよかったよかった」という無茶苦茶なものだ。ルぺルクス達は祭りの間、女と見れば襲いかかっていたようだ)、この祭りを禁止せずに上手くキリスト教に取り入れるために作られたのが「ヴァレンタイン・デー」の風習らしい。ヴァレンタイン・デーだろうがなんだろうが男はみんな狼だから気をつけろよ。
ちなみにヨーロッパ人が狼に「畏怖」と「尊敬」の念の両方を同時に抱いていたことの考察はこの辞書もコラムとしてわざわざ用意してある。
Wolf and Werewolf

やっべ、これ見てると一日がマジで過ぎてくわ。知識マニアにはこれは毒だ。仕事しなくちゃいけないのに!
でも一つだけ分かったことがある。インド・ヨーロッパ語族というのは過去にさかのぼればさかのぼるほど、規則が多く複雑で、なおかつ不規則変化するものが多い傾向があったことが分かっている。それを聞いて僕は「どんな言語だ!」と憤っていたわけだが、それに合点がいった。
昔は単語の数がそもそも少なかったのだ。今ではより多くの概念に細分化するところを一つの言葉ですましていたのであろう。だからこそ規則が多くても覚えられるし、一つ一つに別の規則を与えることもしていたのだ。しかしだんだん概念が細分化され単語が増えていったときに、あまり使わない文法事項は消え、文脈で分かる部分は文脈に任せるようになり、不規則変化は消え、同じ規則で変化する者が増えていったのであろう。
日本語が奈良から平安に掛けて漢語を大量輸入したときに、母音が減り、言語が簡略化されたことと同じなのであろう。

第5回 けんさく。の書評 『官能小説用語表現辞典』を読んで小説の技術とは何かについて考えてみた。

官能小説用語表現辞典 (ちくま文庫)官能小説用語表現辞典 (ちくま文庫)
販売元:筑摩書房
(2006-10)
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普通辞典が誇るべきは扱う項目の多さであろう。ところがこの辞典の項目は何とたったの16個である。書き並べると、
女性器
  • 陰部
  • クリトリス
  •  陰唇
  •  膣
  •  陰毛
  •  愛液
  •  乳首・乳房
  •  尻
  •  肛門
男性器
  •  ペニス
  •  陰嚢
  •  精液


オノマトペ
絶頂表現 

となる。そしてあとは、これらの項目がどれだけ比喩や言い替えにより表現されてきたかを書けば一冊になってしまうのだ。
素晴らしい。これぞ人類の歴史の成果だ。
例えば陰部だけで、文庫本上下二段組み43ページ、膣で42ページ、ペニスでもやはり43ページあるのだ。
世の中に、それの言い替えだけでこれだけの量を持つものが他にあろうか。
詩人が他の物で例えようとする、様々な美しいもの、美しい風景、美しい空、美しい愛、そして女性の美しい顔。どんな物も人類は今までこんなにも言い替えてはこなかったのだ。
ここに、これらの物への人類の飽くなき執着の証拠を見てもなんの問題もなかろう。
比喩の量だけ見れば、女性の顔なんか、この隠された場所には到底敵わないのだ。
そしてこれは小説の技術とは何か、ということを考えさせる。
身も蓋もない言い方をすれば小説の技術というのは、言い替えの技術、はっきり言えば分かりやすいことをわざわざ分かりにくい言い方をすること、鬼面人を驚かす表現を使って読む人を煙に巻くことだ。そしてこれこそが芸術表現の目的だ、と言う考え方が、マニエリスム芸術だ(マニエラ=maniera=手法)。
迷宮としての世界(上)――マニエリスム美術 (岩波文庫)迷宮としての世界(上)――マニエリスム美術 (岩波文庫)
著者:グスタフ・ルネ・ホッケ
販売元:岩波書店
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文学におけるマニエリスム〈1〉―言語錬金術ならびに秘教的組合わせ術 (1971年)
著者:グスタフ・ ルネ・ホッケ
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もしこの考えをとるならば、官能小説こそ、芸術の屹立する最高峰であり、この辞書は小説表現のそそり立つ殿堂に他ならないではないか!
私はかなりこのマニエリスムというものに共感を覚えるたちであるので、この辞書をペラペラめくっていると、ものすごく幸せな気分になってしまうのである。
例えば流し読みするだけでも。
「女神の中心」とはなんであろうか? 「明太子」とは? 「アンテナ」とは? 「割れた栗のイガ」って欲思いつくなあ。「小宇宙を思わせる楕円形」ってどういう意味なんだろう。「淑女の竜宮城」って書いてて馬鹿みたいな気分にならないのだろうか? 「欲棒」という言葉を考えたやつは天才じゃないのか? 「淫棒」もアホらしくていい。「女のどん底」ってなんだよ? 「女の迷宮」もだが。あれを「マテウスロゼのワインの瓶」とはまいったなあ、洒落てるけど意味分かんないや。「終末のエキス」ってのは何だか厨二病くさい。「穴という穴から体液を撒き散らし」ってなんだかスプラッターだなあ。全体的に読んでて、女性が脱水症状にならないか心配になりました。枕元にスポーツドリンクを準備しておくと吉。「『よかよかよいよい、わいわいどんどん、よいよいわいわい』どうやら本人も何を口走っているのか分からなくなっているらしい」って、何を書いているのか分からなくなっているのはお前のほうだろ!
とまあ、大笑いできる言葉や文句が次から次へと出てくる出てくる。
なんでこんなにも言いかえるのだろうか? 先ほどマニエリスムとの相似をしてきしたが、努力の涙ぐましさやふとこぼれ出る間抜けさは似ていても、そのモチベーションは違っている。官能小説家はマニエリスム芸術家たちと違って、必ずしも読者を驚かしたり、煙に巻きたいわけではない。むしろ読者に知的労力を要求するマニエリスムと反対に、素直に作品に没入して、頭なんか空っぽにして下半身だけの存在になって欲しいはずなのだ。なのになぜ、結果的に思想的に対極にあるマニエリスム芸術と似てきてしまうのか? たとえそれがかなり牽強付会な部分的類似に過ぎないとはいえ。
その原因は多分、官能小説の持つ、微妙な立場にあるのだろう。官能にとって重要なのは、直接性である。誰だって一番したいことは生身の相手とすることである。それが出来ないからポルノに頼るわけだが、出来ることなら、間接的なものではなく、直接的にそれを見たい。しかし、そのような直接性は小説の技術とは、いやそれ以外のあらゆる表現の技術とも相容れないものである。アメリカではハードコアポルノの登場が、芸術的なソフトポルノ映画を滅ぼした。例えそれがいかに芸術的だろうが、ポルノに人びとが求めるものは間接的なものではなく直接的なものなのだ。そこに芸術の入る隙間はない。
ところが文章とは、そもそもの始まりから目いっぱい間接的なメディアなのだ。直接的な文章は、文章として面白くならない。全ての物を直接的な言葉で表現した官能小説があったら、それは怖ろしく同じ単語の繰り返す、見るに耐えないものになるだろう。それではさすがに興奮も出来ない。
それが官能小説が本人の意思と関係なく芸術的になってしまう理由であり、そしてそこに官能小説のアイロニーがあるのかもしれない。

とまあ、書いてきたけど、こういう小難しい読み方ははっきり言って間違いで、官能小説を読むときは頭空っぽにして下半身いじりながら読むのが正解だろうし、この辞典を読むときは大口開いて大笑いしながら読むのが正解であろう。
現にこれを書いている最中でも、わたしは「声」の
「ホオオオオオッ! キャヒ! キャオオオオオゥ!」
の部分を読んでいて、
「ヤってる最中に相手がそんな叫びを上げたら、救急車をよぶか、それともシーツを腰に巻いて逃げだすわ!」
とのけぞって大笑いをしてしまい、椅子から転げ落ち後頭部を打った。
そのときの私の叫び声は記録に取っていないから再現できないが、上の叫び声と似ていたという。
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