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Emacs

SICPを読み始める

知り合いに言われて、読み始めた。これで計算機の中に住む霊に働きかけられる魔術師になれるのだろうか。
計算機プログラムの構造と解釈
ジェラルド・ジェイ サスマン
ピアソンエデュケーション
2000-02

もちろんネットに置いてあるものを読んでいるのであるが。
処理系はGaucheで、Emacsのフレームを三分割し、一つでコードを書き、もう一つでshellを動かし、最後の一つでw3mを使って、SICPを読んでいる。 
環境構築はもともとの環境がほぼ一緒だったので(OSはUbuntu13.10、Emacsは24.3)、ここを参考にした。ただしadd-to-pathという関数は私の環境には無かったので、書き換えた。
至極快適である。 

なぜ小説を書くのにEmacsがいいのではないかと考えたか

小説を書く、という行為は一本道じゃない。
どんな行為にも、「問題発見」のプロセスと「問題解決」のプロセスがあり、理想的にはそれが一本道であって欲しいという考えがあるが、これが一本道になることなど、ほとんどありえない。
しかし、創作行為ほど、この二つのプロセスが多重に絡み合って起こるものもない。そもそも、創作行為においては、「問題解決」はもちろん、「問題発見」に至ることすら難しい。 
「ここに、問題があるような気がする」「ここに面白さがあるような気がする」。そんな予兆のようなものを、提示することが出来れば、それは成功策だと言ってよい。
だから、普段の揺り戻しや寄り道が創作行為には付きまとう。
つまり、創作行為には、「適切な気の散らし方」が必要なのだ。
私は、趣味で多少のプログラムコードを書くが、そこでは拙いながらもVimを使っている。シンプルで強力で、集中させてくれる良いツールだ。これぞエディタ。
それは、コードを書くときは、作りたいものや、作る目的がはっきりしていて、集中していたいからだ。
それに比べると、小説を書く行為は、作りたいものも作る目的も、いまいちはっきりしない。そこに何かがあるような気がする。そんな淡い期待があるだけだ。
そんなんだから、すぐに詰まる。足りない。この作品には面白さが足りない。もっと面白さを。もっと面白さはないのか。
小説を書くという行為は、このような精神の彷徨の連続だと思っている。もちろん、一気呵成に書かれた作品もあるし、その中には傑作もある。最近読んだものでは、いとうせいこうの『ノーライフキング』が良かった。一気に書かれたもの独特の、憑かれたような迫力がある。
しかし、多くの場合、この彷徨を経ずして書かれた作品は足りないものにしかならない。
だから悩む。何かないかと思う。ブラウザを開いて、調べ物をする。そのうちに2chや双葉やニコニコなどを覗いて日が暮れてしまう。
もしくは、部屋を檻の中の虎のように、うろうろさまよい始める。コンビニに買い物に行く。近所の三洋堂に立ち読みに行ってしまう。
これらはどれも失敗例。「適切ではない気の散らし方」だ。気を散らしすぎて、創作の現場から離れすぎてしまった。創作の重力圏から離れてしまった。それでは困る。
そこでEmacsなのだ。この無駄に機能の多い、エディタというより、文字を書くという行為に特化したOSみたいな代物がちょうど良いのではないか、と考えたのだ。
テトリスも出来る。
ライフゲームも出来る。
むちゃくちゃ強い五目並べも出来る。
人口無能の精神科医に「なんだか最近、自分が特殊なLisp方言で書かれたAIな気がしてならないんです」などと相談できる。(「なぜあなたは自分がAIだと思うのですか?」とか「Lispについて詳しくお聞かせください」などと言ってしてくる)
shellもできるから、ファイル管理も出来る。
カレンダーでスケジュール管理も出来るし、org-modeで小説のアウトラインの設計、キャラクターやアイディアの管理、TODOリストの管理なども出来る。
もちろんEmacs-Lispを初め、プログラミングも出来るぞ。Cだろうがjavaだろうがpythonだろうがなんでもござれ。
Mewを使ってメールも読める。
w3mも使って、ブラウジングも出来る(画像も表示できる)。2ch専用ブラウザもある。外部のソフトとの連関を使えば、動画も音楽も再生できる。
まさにOS。
これなら、Emacsの中に引きこもることが出来る。嗚呼! デリダが「テキストの外なんていう場所はない」と言ったのはこういう意味だったのか。みんなも、テキストの中に引きこもろう!
もちろん、多くのデリダ・エピゴーネンがこの言葉を引くのには、「テキストの外なんて怖い場所はない振りをしたい」という以上の意味はない。しかし、それが「テキストの中という場所は、その外の場所を放り出しても痛くないくらい広大なのだ」という冒険的引きこもり宣言に読み替えれば、十分ポジティブなものとして評価できる。
そして冒険しながら、書きかけの作品はいつも目の前にある。ネットサーフィンしながらも、メールを見ながらも、ロボット精神科医と会話しながらも、いつも途中書きの作品から離れきらずにおれる。
とりあえず私は、フレームを三つに分け、一つは小説を書く、もう一つは気を散らす、最後の一つはorg-modeで小説のアウトライン、キャラクター、アイディア、その他もろもろの管理をしている。 
こんなかんじ(まだいろいろ改善点があるし、フレームの端の折り返しとか、よくわかんないけど)
Screenshot






下のインターネットは実は、小説をあんまり関係のないこと調べてる。
しかし、その雑さが小説にはよいのだ。バフチンの言う「ポリフォニー」を小説に宿らせるには良い手だ。
「ファンタジーに必要なのは、火と代数」と言ったのはたぶんボルヘスだ。「小説の構造のモデルにすべきなのは、結晶と炎。かたや静的、かたや動的だが、どちらも安定した秩序を保っている」と言ったのは、たしかカルヴィーノ
Lispを使って企業したポール・グレアムは『ハッカーと画家』において、「最初の方針を完全な計画を立てて実行する」やり方を諌めている。その方針はたぶん間違っている、と。「早すぎる最適化」だ、と。


小説は、結晶のような完全で動かしがたい構造を一面では目指しながらも、いつでも内部と外部からノイズ、多様な声を受胎し、炎のように揺れ動いていかざるを得ない。そこにこそ小説の本当の美が宿る。
これは、機械学習理論においては、モデルに与えられている情報以上の「隠れた変数」を導入し、見た目以上に問題を複雑化しておかないと、モデルの表現能力の低さによって、間違った最適化に陥ってしまうことに、ある意味では対応する。小説がノイズを、多様な声を必要とするのは、間違った最適化を避けるために、「隠れた変数」を増やすこと、またボルツマンマシンの温度を上げて、局所的に解に過ぎない間違った最適化を乗り越える「焼きなまし法」と 対応する。
さらに言えば、これこそが、昔と違って社会の中心部にはすでになく、自らを正統と名乗る権利も失った文学その他の芸術の、存在価値だと思っている。『カルヴィーノの文学講義』などを読むと、それが良く分かる。正しく社会の周辺部であるためにはどうすればいいのかのヒントが詰まっている(彼が次の千年紀に文学が持つべき美徳としてあげる「軽さ」「早さ」「正確さ」「視覚性」「多様性」「一貫性」などの標語は「アジャイルソフトウェア開発」や「見える化」などとの関連も感じられる)。

上の画面で、右側のフレームが、文学の秩序を目指す方向性、代数の方向性、結晶化の方向性と見てもらいたい。下の画面は、多様な声を目指す方向性、炎の方向性と見てもらい。
かつて文学や絵画が、神の声、神の姿の代理として、社会の中心部、文化という聳え立つ糞の山の透き通った上澄みであったとき、それらは主に、結晶化の方向を見ていればよかった。そこに、過剰性の混沌をもたらそうとするものは、異端と呼ばれ、美術史においては社会の変動期の指標にすらされたりする。そのあたりの事情は、グスタフ・ルネ・ホッケの傑作『迷宮としての世界』と『文学におけるマニエリスム』に詳しい。



しかし、科学技術の発達により、文学その他の芸術がその立場を奪われた今、芸術表現を目指すものは、横目に正統的科学の結晶で出来た伽藍を見ながら、氷の結晶作用と炎による融解作用の両方をマスターした、メロドーア使いでなければいけないのだ。
ほら、だんだんEmacsこそ、来るべき小説のためのIDE(統合開発環境)の雛形に見えてきませんか? 

Emacsの設定にハマっている(二重の意味で)

Emacsで小説を書くのも悪くないな、と思ったので、設定を弄ろうと思ったら、まったく手も足も出ない。なんだこりゃ、Lispでも何でもねえじゃねえか、寝る間も惜しんで、いろいろ調べて試していると、そんなことしてないで小説でも書いてろよ、という気分になる。
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