けんさく。

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SF

交通警備員の覚醒

風雨に耐え交通整理をしていた交通警備員は悟った。
自分こそ支配者なのだ、と。
現代社会において道路交通網は社会の運営に必要な物資を輸送する血管である。止まってしまえば社会全体が機能不全に陥る。
今彼は赤色誘導灯によってそれをコントロールしている。彼こそが社会の支配者でなくて、誰が支配者なのであろうか。
彼は自分の力を試すために、まずは片側交互通行になっている道路に、対向車が来ているにも関わらず車を誘導した。
必然的に車同士は正面衝突し、運転者は自らのフロントガラスを突き破り、相手のフロントガラスへと突っ込んで絶命した。
彼はそれを見て良しとした。
しかしそれを見ても、良しとしなかった者があった。工事の現場監督である。その男は哀れな凡夫であった。
そのような存在に、怒髪天を衝く勢いの怒りようで迫られても、彼は気圧されることはなかった。自分は今や、道路交通システムと接続し、不死者へと存在の階梯を登ろうとしているのである。
彼は赤色誘導灯を一振りした。トラックが現場監督を轢き潰した。
現場にいた他の作業員たちは、事故車の周りに集まっていたが、何事かおかしなことが起こっていることに気づき、それが一体なんなのかも分からずパニックになって逃げていく。今やどうでもいい存在どもではあったが、手に入れたばかりの全能感に酔いしれた彼は、幼気な子供が蟻を戯れに殺すように力を振るった。
逃げまどう者たちの目の前で世界が歪んだ。彼のゆっくりと扇を振るように動かすような手の動きに合わせて、道路が左右に波打ち始めたのだ。
走っていた車がハンドルを切り誤ってスピンし、歩行者たちを跳ねていく。
一人の男が慌てて車の入れない脇道に入ろうとする。それを地面から竹のように次々と生えてきた柱が遮る。その先端に赤青黄色と色とりどりの標識が花ひらいた。
人々の脚に白線が絡みつき引きずり倒す。立ち上がった横断歩道の縞模様が逃げ場を塞ぎ、狭いところへ犠牲者たちを押し込める。こうして殺戮は近代の道路交通システムが追求して止まなかった卓越した効率性を確立していく。
自らの指揮棒が奏でる阿鼻叫喚に聞きいり、自らの絵筆が描いた地獄絵図を眺めて、彼はますます良しとした。
そして自慢げに赤色誘導灯を撫でさすりながら、次に自分が何をすべきか考えている。
パトカーのサイレンが近づいてくる。最初の一台を、意味を教えてもらった覚えがあるが思い出せない道路に描かれたひし形で突き刺し、慌てて逃げようとした数台をメビウスの輪状にループさせた道路に閉じ込めた。これで、しばらくは警戒して近づいてはくるまい。
一人一人の警察官はそこら中に転がっている肉塊がかつてそうであったような哀れな凡夫に過ぎない。しかし、それらを動かしているのは本物のシステムだ。
そのシステムが、システムと同化し大きな力を手に入れようとしている存在に気づいたのだ。
そのシステムにとって彼は、生物体にとってのガン細胞だ。システム全体の統制から離れ、輸送網から勝手に物資を取得し、際限なく成長を始めようとしている、滅ぼさざるを得ない存在。滅ぼさなけらば、自分が滅ぼされる存在。
それではガン細胞にはできないことをやってみせよう、彼は考えた。
地面が震え、地割れが起きて電柱が倒れる。そして電線や光ケーブルがちぎれて、垂れ下がり、地中から顔を出す。
彼はそれを掴む。彼の体がビクンと震える。高い電流が一気に駆け巡り、彼の筋肉が収縮する。そして発火して、焼け焦げ始める。
しかし彼は感じていた。体内に満ち溢れる情報を。
全地球を覆い尽くした通信システム。それはこのいくつもの小システムが緩く連結された巨大なシステムを円滑に運用させるのに不可欠な神経網だ。その脳なき生命体全体から、人類の脳程度にはとても治らない量の情報が眩い光に乗って送られてくる。
それが彼の体を貫き、膨張させ、勃起させ、破裂させた。
絶頂とともに内部を撒き散らし、生命体としての彼の活動は停止した。
しばらく遠巻きに見ていた警察官たちは恐々と彼に近づき、その「死」を確認した。
そして、それは通常の死として処理された。彼の体が通常の死体であるのと同じように。
一人の交通警備員が、おそらくは仕事のストレスか何かが原因で発狂し、現場監督や同僚を突発的に殺傷した。そして現場にあったいくつかの自動車を暴走させて歩行者を轢き殺し、事故の結果ちぎれて垂れ下がった電線を自ら掴んで自殺した。
そんな今の世の中ではどこにでも転がっている話として書類にされ、ニュースとして報道されてすぐに忘れ去られてしまった。
しかし、その「死」は本当に通常の死だったのだろうか。
彼の野望はどうなったのだろうか。単なるガン細胞としての存在を越えるために、道路交通網だけではなく、通信システム網にも接続しようとした彼の野望、血管だけではなく神経網も乗っ取ろうとした彼の野望は。
それは誰にもわからない。
もしかしたら、すでに変化は訪れているのかもしれない。ちょっとしたニュースや宣伝やドラマの端々に、彼の姿が現れる。ちょっとした雑音や人には聞き取れない音波の中に、彼の声が混ざる。人々の噂話に現れる「知り合い」とか「誰か」とは彼のことではなかろうか。匿名掲示板やSNSに突然現れては消える実態のない人物はもしかしたら彼ではなかろうか。
しかし、我々はそれに気づくこともできない。
我々は彼のようなシステムそのものではなく、システムの一部に過ぎないのだから。

あなたの時間

 ニュートンはこの世界には「絶対時間」という唯一の時計があれば済むと考えていた。嗚呼、なんと牧歌的な時代であったことか。
 アインシュタインの相対性理論がそれを打ち砕いた。特殊相対性理論によれば異なる速度で等速直線運動している二つの物体の時間の流れは、どこかで時計を合わせたとしても、ずれ続ける。二つの座標系で時間の流れが違うからだ。同様に、何かが同時に起こるかどうかも、観測者がどのような運動をしているかで変わってしまう。つまり、ある者にとって同時に起きたものが、他の者には同時に起きない。さらに一般相対性理論においては、物質の存在が時空を歪め、時間の流れも変える。この効果を計算に入れないと、人工衛星の時計を合わせることもできず、自分の位置を知ることも不可能である。また同じ惑星にいても、少し離れれば、標高や地殻の成分によって時間の進む方は変わる。
 ディラックは特殊相対性理論と量子力学を結びつけるために、粒子一つ一つが固有の時間を持つ「多時間理論」を提唱した。朝永振一郎はそれをさらに発展させた空間のすべての点が固有の時間を持つ「超多時間理論」により、場の理論の特殊相対論化を成し遂げ、ノーベル賞を受賞した。量子力学によれば、空間のすべての点は対生成しては対消滅している粒子・反粒子によって沸き立っている。それらがすべて固有の時間を持っている。この世界は遍在する時計によって埋め尽くされているようなものだ。
 その後一般相対性理論の量子化と共に、問題はさらに複雑化し、混沌の態を成しはじめたことは言うまでもない。
 必然的な帰結として、我々も異なる時計に従って生きていくことしかない。一時的に時計を合わせることはできるから、生まれたばかりの赤子と母親、付き合い始めたばかりの恋人たち、共に難所を乗り越えようとするチームは積極的に時計を合わせはするものの、徐々にずれていってしまうのは如何ともしがたい。
 それはこの世の構造的に仕方のないことなのだ。
 我々が不変だと思っているものこそうつろいやすく、光速度など本当に不変である者は我々の実感からはあまりに遠く、仰ぎ見るほかない。
 朝起きて時計を見る。十分に寝られた。いつも肌身離さず持っている時計は自分からずれていかないので安心だ。ただ機械的なずれが起きていないか、複数の時計でチェックする必要はあるが。
 もしすべての時計がずれていたらどうだろう? そういう疑問に悩まされた日々もあったが、もし量子力学により決まっている原子のスペクトル線によって時間を図る時計が一斉にずれているということは、それは私にも影響を与えている可能性が高く、それなら時間はずれていないと考えるべきだと得心した。
 得心するほかないのだ。
 ベッドから降りて、洗面台で歯ブラシをとる。分かり切ってることだが、いつもの癖で毛の感触を確かめてしまう。まだ湿っている。ここでは時間の流れが私の他の生活圏に対してひどく遅い。ではなぜ歯磨き粉の減りは遅くならないのか。そんなことを考えながら、歯ブラシを口に突っ込んで動かす。それだけで歯ブラシと右腕の時間の進みが遅くなる。右腕と左腕の年齢を合わせるために、定期的に左腕でも歯を磨く。
 冷蔵庫を開ける。異臭がする。何かが腐っているのだ。様々な場所から集まってきた食材たちは、生まれた時間も様々で、記載された製造年月日や消費期限を見ても、大した情報は得られない。冷蔵庫の中に巨大質量をぶち込んで時間の流れを遅くすることも考えたが、ちょっとした事故が起こり冷蔵庫の中が大変なことになったので、それ以降やっていない。
 匂いでだめそうなものは廃棄し、そこそこマシに思える牛乳と冷凍ブレックファーストを取り出す。絶対零度近くまで冷やされスタニュコビッチ効果でぷかぷか浮いているそれをトングで取り出し、電磁調理器に入れる。調理時間を使って、レポートを読む。彼女の目撃情報だ。
 彼女が私たちの前に現れる前に、どこから来たのか、どこで何をしていたのか。
 それこそが彼女の未来なのだ。
 最初は噂だった。「どこそこにいたでしょ」、「どこそこで見たよ。何してたの?」。自分の分身がどこかで目撃されているという情報に、彼女はひどくおびえた。私は別々の場所での時系列も定かでない目撃情報なんか無視しろと彼女をなだめた。
 しかし、それがミンコフスキー空間内の光円錐をこちらに向かって近づいていることは明らかだった。
 目撃された彼女は、全く言葉が通じず、他人が見えてはいるものの、何にも触ろうとせず、まるで違う時間の流れの中に生きているようだったという。
 他者との一切のコミュニケーションを絶っていた。にもかかわらず、その表情はとても悲し気だったという。
 あの時の彼女の取り乱し方を思い出すと、今でも心が痛む。私は彼女の人生の転機に何もしてやれなかった。もっとしてあげられたことがあったはずだ。
 ふとレポートから顔をあげる。どれだけの時間がたっただろうか。自分の時計を見ても大した時間はたっていないようだ。しかし、電磁調理器の中の冷凍食品は温められた後長い時間放置されすぎて、新しい生物圏が繁栄してしまっている。どんな殺菌技術でも全ての影の生物圏を除去することは不可能なので仕方がない。焼却箱に突っ込んで、簡易食を口に詰め込みながら出勤する。
 様々なものが亜光速で行きかう。時々事故は起こるが、それ以外の時はほとんど互いに無関心だ。
 お互い別々の時間に生きていれば仕方がない。
 時空が非常に歪んでいる場所では時間と空間を分けることが意味をなさず、泡立ちループし、ブラックホールの事象の地平面の内部のように時間が空間化され空間が時間化され、虚数時間から新しい宇宙が生まれてしまう。
 そんな状態で不特定多数の人間と自分の時間を比べようとしても、無力感に飲み込まれるだけだ。
 だから、出勤して仕事、とは言っても非常に孤独な作業だ。家で仕事をしてもいいのだが、気分を変えるために別に仕事場を作っただけ。
 どこかから届いた書類を処理し、組み合わせて新しい書類に加工し、またどこかへ送る。いつの時代に存在したのか分からない会社組織の決算報告。ほとんどは聞いたこともない会社との取引がいろいろと書いてある。
 そもそも自分が所属している会社に対しての認識だってあまり変わらない。いつどこで存在したものなのか全く分からない。今まで出会った人間でこの会社のことを知っている人間に会ったことはない。
 唯一の例外を除いて。
 それが彼女だった。
 彼女が現れて、取引先の会社の人間だと名乗ったとき、時間が止まったと思った。
 それは何も彼女に見とれていたわけではなく、単純にびっくりしたのだ。そんなものが存在するとは思っていなかったので、当然現れるとも思っていなかったのだ。
 一人用に借りた狭い仕事場にもう一つ机を持ち込んで、二人用の時計をそこに用意して、お互いの持っている情報を突き合せた。今まで一人ではなんの意味も持たなかった情報群が、他の時間からやってきた彼女のもたらしたものによって、全く違う角度から光を当てられた。最初は全く違うものについて語っていると思われたそれぞれの書類に、共通点が見つけられ、お互いがお互いの足りないピースとなっていった。
 仕事が楽しかった。
 自然に一緒にいる時間も長くなった。離れている間に時間がずれていってしまうことが仕事上面倒だったこともあるが、一緒に仕事をし同じ時間を共有することが何より心地よかったのだ。
 彼女はどこか私に似ているように感じられた。考え方も、物の感じ方もどこか共通していた。
 他人のような気がしなかった。
 私たちは一緒に暮らすようになった。
 今でもこの狭い部屋に机が二つある。あの頃の名残だ。しかし、その机も今はほこりをかぶって、時間の流れを視覚化してくれている。
 一度合わさったかに思えた時間もいつかは別れ、そしてほとんど二度と出会うことはない。そんなことわかっていたはずだ。なのに相変わらず私は彼女の影を追いかけ続けている。
 一緒に暮らし始めた頃、私たちはお互いの過去をよく語り合った。
 陳腐な話も懸命に聞いて、根掘り葉掘り細部を質問した。
 私の平凡な人生。コールドスリープした母親の胎内から62年かけて生まれた時には、すでに父親の死後(彼の時間で)数百年経っていた。私は眠り続ける母親の傍で大きくなっていったが、次第に二人の時間がずれ、結局私は母親が起きるのを見ることはなかった。
 そんな私にとって彼女の話は信じがたかった。ずっと作り話だと思っていた。
 それは神話だった。
 宇宙のあらゆる方角から一転に光が集まって、双子の子どもが生まれた。その双子の片割れがお前だ、と彼女は育ての親から聞いたという。
 その双子の片割れはどこへ行ったのかと聞くと、あとから考えてみると彼女によく似ていたという女がどこからともなく現れ、抱きかかえてどこへともなく消えてしまったという。
 そこから先は、しばらくは育ての親が彼女を育て、独り立ちしてからは、いくつかの会社組織を渡り歩くどこにでもある普通の人生を生きることになった。
 「作ってない?」
 「とりあえず私は作ってない。私にこの話をした人が作ってるのかもしれない。でもなんのために? わからない。でも過去のことなんてわからないことばかりだし、作られた話と作られていない話を見分ける術も私たちにはない」
 過去を共有することで、私たちはより強固な関係でつながれた気がしていた。
 にも関わらず、未来のことはあまり語り合わなかったと、今考えると気づかされる。あまりに茫洋としていたし、語る必要性も感じていなかったのかもしれない。二人でいることだけは確かに思えたから。それでよかった。それで幸せだった。そんな幸せな未来を感じられるだけで、今幸せだったし、これまでの過去もすべて意味のあるものに思えたのだ。
 宇宙のどこかにあるはずの本社に向けここで仕事を続ける旨の連絡をして、彼女は私の傍に残った。連絡が帰ってくるとは二人とも思っていないし、そんなことはどうでもよかった。
 ここでないどこか、今でないいつか、などどうでもよかった。
 ずっと二人の時間が続いていくとだけ考えていた。
 おそらくその時から私たちは、ずれ始めていたのだ。私の一方的な思いばかりで、彼女が何を考えていたのか、実はほとんどわかっていなかったような気がする。
 ふと吸い込まれるような宇宙の虚空を見つめ、ぼうっと放心しているあの表情の意味は何だったのか。過去への郷愁か、未来への不安か。我々から遠ざかる赤い光が暖かいのはなぜか。我々に近づいてくる青い光が不吉なのはなぜか。
 だんだんと彼女がそんな表情をすることが多くなっていった頃、あれが現れたのだ。
 部屋に帰ってきた私は、無意味にしか思えない作業に一日従事していた疲れで、服も脱がずに寝床に突っ伏した。まるですべての筋肉が綿になってしまったようだが、意識は濁りながらも決して眠りに付こうとしてくれない。目をつむっているせいか、物音や匂いに妙に敏感になっているのを感じる。温度や湿度の変化で建材がきしむ音は、彼女の足音の木霊に聞こえる。彼女の匂いがする。どこか時間の流れの遅い場所があって、そこに彼女の残り香が拡散せずに残っているのか。いや、以前も探したが見つからなかったし、むしろ探すことは、痕跡を消してしまうことにつながりかねないと結論付けたではないか。
 頼む、眠らせてくれ。自分で自分に詮無い頼み事をする。
 寝返りを打って、今朝読みかけたレポートの続きを読む。
 あの時ここへ彼女が現れるまでの軌跡、それを逆にたどることが彼女の未来を知ることだ。
 過去に遡れば遡るほど、情報は不確かになり、順序も定かではなくなる。そしてそもそも情報自体がまばらになり、消えてしまった残り香のように雲散霧消する。
 過去とはそういう物だ。
 しかし、未来よりずっとましだ、とも思う。彼女が未来へと去って行ってしまっていたら、私にはどうしようもなかったであろう。
 彼女が過去へ向けて去ってくれたおかげで、これら過去からやってきた雑多なデータが意味を持って私の前に立ち上がってくる。あの頃彼女と一緒に仕事をしていた時の感動が、少しだけよみがえる。
 彼女は、私たちの生活圏までそれが接近してきたとき、すでに覚悟を決めていた。言葉数が少なくなり、やりかけの仕事を急いで終わらせていった。
 「あなた」
 ある日、彼女は決意を込めた表情で私に話し始めた。
 「自分でもどうしてそうなるのか全く分からない。でも行かなくてはいけないみたいなの。未来が過去からやってきてしまったの」
 私には何のことか全くわからなかった。
 なぜ行きたくもないところへ行かなくてはいけないのか。なぜそんなことが決まっているのか。
 過去から未来への時間とは所詮幻なのか。
 「あなたのことは忘れない、って約束すらしていいのかどうか分からない。でも今、そう今、今という言葉が何を意味しているのか全く分からないんだけどこの今、この世界にただ一つ存在するのに絶対に手に入らないこの今の今」
 彼女は泣き始めていた。自分が何を言っているのか分からなくなっても、ひたすら「今」と続けていた。私は彼女を抱きしめることしかできなかった。
 「今、あなたを愛していることだけは本当。今は本当なの。今は本当なことはずっと本当よね。いつかそうじゃなくなっても、今は本当なことだけはずっと本当よね」
 何も答えられなかった。問いの意味すら理解できなかった。結び合わされた世界が解けていった。すべてが意味を失い、ガラガラと崩れていった。
 世界の意味を支えていたのは、過去を素材にしたあいまいな未来への物語だった。それが消えうせたとき、世界には彼女が言う今だけが残った。しかし、その今は目の前で現れては消える印象の束にすぎず、過去は目の裏に現れては消える心象の泡にすぎなかった。過去がなければ境目すらわかない今が、私の目の前をひたすら通り過ぎて行った。
 いつの間にか私も泣いていた。
 今、私は再び過去を素材に未来の物語を作ろうとしているのか。この世界の意味を回復しようとしているのか。
 私は気づき始めている。あの時現れた彼女の分身がどこから来たのか。彼女がどこへ向かったのか。
 私は気づく。あの不思議な彼女の目撃例は、過去に遡るとだんだんとお腹が大きくなっていくことに。妊娠しているのだ。
 これはつまり、あのとき彼女は私との子供を身ごもっていたということだ。私はまた泣きそうになる。
 どうにか時系列に並べた目撃例は途切れ途切れになりながら、聞いたことだけはある地名に向かっていく。彼女の故郷。彼女が拾われた場所。
 そしてそこから先は、不鮮明すぎて追うことができない。分かることは、お腹の大きな妊婦として目撃されていた彼女が、急に痩せてしまっていることだ。
 これ以上は無理だ。
 しかし、私は理解できた。私が理解できるだけの軌跡を残してくれたことを、彼女に強く感謝した。
 彼女の過去へ向けての旅が、その後どう続いたのかはわからない。私でなくって全く構わない。彼女が誰か、短い間でもいいから同じ時間を進む仲間を見つけて、幸せを共有してほしい。
 私は思い出す。彼女との別れを。
 あの日、ベッドから抜け出した彼女は、ドアから外に走り出した。気づいた私が追いかけた時には、彼女は彼女と瓜二つで同じ服装の人影と対面していた。
 二人は同時に手を伸ばした。
 「やめろ!」
 私の声で彼女が振り返る。彼女の分身も振り返った気がした。しかしそれは違う。時間の流れが逆な者が私の言葉を意味のあるものとして聞けたはずがない。
 彼女は言った。
 「私は確信してる。あなたに出会うために私は生まれた。だからこそ、あなたに出会うために私は行くの」
 二つの肉体は、両方とも私を見たまま、完全に重なり合った。
 凄まじい光が放出されて、私は吹き飛ばされた。
 気づくと私は病院のベッドにいた。
 原因不明の事故により、粒子反粒子消滅が起きて、大量のエネルギーが解放されたと説明を受けた。
 そういう言い方もあるかもしれない。
 しかし私はもっと的確な言葉を知っている。
 彼女は自分の質量の二倍のエネルギーを放出することにより、負の質量を手に入れ、過去に向けて自分の時間を逆進させたのだ。
 彼女の分身の目撃例を過去に向けて遡っていくのは、まさに彼女の旅を彼女の時間に沿って追いかけていくことだった。
 そして彼女が彼女の故郷で産み落とした娘。私と彼女の娘。彼女の手を離れてすぐに、過去に向けてその小さな質量の二倍のエネルギーを放つことにより、正の質量を取り戻して私たちと同じ向きに時間を取り直した娘。
 それもまた彼女自身なのだ。
 彼女は彼女の母親であり、私は彼女の父親であったのだ。
 全く意味がわからないかもしれない。私にだってわからない。なぜ彼女が不思議な輪廻の輪に囚われてしまったのか。なぜその鎖のつなぎ目を私が担うことになったのか。
 しかし、この無数の時間が縒り合わされた世界で、意味のわかるものの方があまりに希少なのだ。考えられるありとあらゆる私たちの人生の経路の干渉を積分した結果がこれなら、それを認めざるを得ない。
 今の私にはただ、私と彼女が量子的に絡み合ったあの瞬間の今を、言祝ぐ以外のことしかできないのだ。

(終)
この作品は次のAndroidアプリのコラボ作品として作ったものである。
あなたの時間
このアプリは午前午後12時間 1時間60分 1分60秒 以外の時間制を自分で作れる。
これがあれば、いつフランス革命が起こって、理性を崇める山岳派が恐怖政治を敷いても、これで十進化時間の時計を見せれば、反革命派ではないと納得してもらえて安心である。
初めてKotlinを使ってみたが、コトリン島に行ってみたくなった。

『パヴァーヌ』のヨーロッパ中心主義 及び 歴史の必然性について

『パヴァーヌ』は宗教改革がカトリックに潰されたヨーロッパにおいて、科学や技術、商業などの発達がキリスト教によって抑えられながらも、人々が強く生きていく様を説得力をもって描きだした歴史改変物の傑作である。
パヴァーヌ (ちくま文庫)
キース ロバーツ
筑摩書房
2012-10


内燃機関に取って代わられることなく発達した蒸気機関や腕木信号などの、現実には花咲ききらなかった技術に関わる人々の現実的な描写はディティール豊かで、読んでいて楽しいし、そこに人が生きている感じがする。
圧政の元でも知識を伝える草の根組織や人の根元に根ざした自由への欲望が遂に狭い世界をひっくり返すのも気持ちがいい。
ただ最後の科学技術に対する二面性に関するメタ的な(ナチスまで持ち出して実際の歴史を参照する)文章は蛇足だし、入れるならちゃんと物語に組み込むべきだ、という話はまあいいとする。
読んでいて気になり、今回の話の導入にしたいのは、「なんかものすごく自然に世界がヨーロッパだけだと思ってない?」という点だ。
話の筋がヨーロッパ中心なのは当たり前なので仕方ないとはいえ、世界史的視線を持とうと思えば、世界観の根幹にアラブや中国が微塵もないのはどうかと思う。いったいこの世界、ヨーロッパが長い惰眠を貪っているあいだ、広大なアジアの諸国は何をしていたのか。
そう考えると、この小説の世界観の根幹には何か欠陥があるようにも思えてくる。
しかしそれをちゃんと問おうとすると、「なぜヨーロッパに近代科学が生まれ、アラブや中国では生まれなかったのか?」という難しい問いまで引き受けてしまうことになるから厄介だ。
いくつかの答え方があるだろう。ジャレド・ダイヤモンドは『銃・病原菌・鉄』で中国ではなくヨーロッパで近代科学が生まれたのには、世俗の権力が分散していたからではないか、と仮説を出している。


中国では唯一の世俗の権力の中心である皇帝の命令で、簡単に科学研究が圧迫された。しかしヨーロッパは当時群雄割拠状態で、だから科学が権力からの圧力をあまり受けなかったのだと。
しかしこの考え方でアラブが近代科学を生まなかった理由が説明できるだろうか。
また反対からの答え方もある。山本義隆は『16世紀文化革命』で、科学革命の前に出版革命があり、宗教の権威だけでなく、市井の技術者までが出版で持っている知識を発表できるようになったことを描いている。
一六世紀文化革命 1
山本 義隆
みすず書房
2007-04-17


ではなぜそれほど印刷技術が普及したのか。それはその前に宗教改革があったからだ。ヨーロッパでは中世後期からワルド派異端やジョン・ウィクリフの運動など、聖書を民衆の言葉に翻訳しようという運動がかなりあった。それはカトリックの権威から真理の源泉である聖書を自分たちのものへと奪いかえす意味があった。
パキスタンの科学者フッドボーイはイスラム圏では印刷技術自体はあったが、それでコーランを印刷しようとは考えなかったと言う。手で写したものでないと聖性が宿らないと考えたのだ。
イスラームと科学
パルヴェーズ フッドボーイ
勁草書房
2012-01-31


しかしもしかしたらそれ以上にイスラム圏にはカトリックに当たる統一的な宗教権威が存在しないことが、作用しているのかもしれない。聖なる言葉を多少の乱暴狼藉しても取り返さなくてはいけない相手がいないのだ。
この考え方では世俗と宗教との違いはあれど、抑圧的な権威が近代科学の誕生にプラスと効果を果たしている。
より偶然的な因子を考えるなら、ちょうど良いタイミングのアメリカ大陸への到達があるかもしれない。16世紀文化革命以前の学問は全て結局は古典の注釈である。正しい知識とは古い本に載っている知識である。文化というものは古ければ古いほど進んでいて正しい。
それがかつての我々全てが共有する基本的思想だった。ルネサンスとはその最たるもので、古くて偉い文化に帰ろうというものだ。決してルネサンスは科学革命の前段ではない。歴史は蛮族の進入による文化凋落と古い文物の再発見によるルネサンスの繰り返しだ。その連鎖を断ち切ったのが16世紀文化革命と17世紀科学革命なのだ。
そのあいだに横たわるのが「古いものが正しい」という常識の打破だ。フッドボーイは未だにイスラム圏ではこの常識が残っていて、丸覚え教育へと繋がっていると書いている。そして宗教改革はここにおいてはなんらプラスの効果は及ぼしてはいない。
ここで重要なのが、おそらく山本義隆が描いた市井の技術者たちによる出版ブームなのだろうが、アメリカ大陸における文化や生態系の報告はその大きな源泉の一つだった。
これによりヨーロッパは初めて聖書に一切記述のない自然や文化と大量に出会ってしまったのだ(往生際悪くアメリカ大陸にヘブライ人の幻を見ようとした人間も多いが)。新しいものの波がルネサンスを押し流した。もちろんルネサンスが起きて文化的に発達した状態だったのが受け入れるための準備になっていたのであろうが。
ここまでを乱暴にまとめると、「近代科学の誕生にはいろいろな偶然の要素が絡んでいる」という面白くもなんともないものになりかねないのだが、分かることは、確かに当時のヨーロッパが近代科学の誕生の場として他より良い状況にいたことは確かだとしても、決してヨーロッパだけにしか起き得ない状況ではないはずだという事だ。
もしヨーロッパが惰眠を貪れば、人間の抑えきれない本能により、それまで沈滞していた歴史ある国の人々がむくりと起き上がって宗教的世俗的圧迫に打ち勝って世界をひっくり返していたであろう。その結果人間が幸せになるかどうかなんて御構い無しに。
最近の研究によれば、狩猟採集民は半日仕事をすればあとは遊んでいても生活ができ、食生活から自然に産児制限も出来て相当豊かだったらしい。狩猟採集民は農耕を知らないのではなく、知っていてもメリットを感じられないのでしないのだ。


もちろん環境が変化すれば死ぬしかなく、場合によっては絶滅するかもしれない。そうすると新しい種がニッチに入り込むだけで、自然界ではじっと起きていたことに過ぎない。しかし人間は変に知恵があったから、農耕なんか始めちゃって、おかげで人類は「技術発達→生産量増加→人口増加→環境悪化→生産量減少→人口減少→振り出しに戻る」という狩猟採集生活より貧しくなってから一万年近く全く生活の向上に繋がらなかった生死を賭けた発明と努力のループに陥ってしまった。ここに戦争など各種競争のファクターを加えれば、このプロセスは事実上不参加の揺らされないものとなる。人間は遺伝子進化の軛から離れ、崖を岩が転げ落ちるように文化進化の断崖絶壁を転げ上がる。人類の生活レベルが向上したのはたかだかこの二三百年に過ぎない。
これからも人間の技術は発達し続けるだろうがそれは我々の幸せと直接的関係はない。幸せになる確率の方がもちろん高いし、ここまでの成果は死亡率の低下といい自由度の飛躍的な向上といい目を見張るものだが、今後ともずっとそうとは全く限らない。しかしだからと言って我々にこれを止めることなどできないのだ。このプロセスにおいて個人にできることはかなり限られている。生物学と経済学の陰鬱な最適化の波に翻弄されるしかない。
『パヴァーヌ』において遅かれ早かれ世界はひっくり返ってしまったように。ひっくり返る前の世界だっていろいろ困ったところはあったけど、それなりに良いものだったのにね。
でも『パヴァーヌ』の登場人物がみんな単に翻弄されるだけの存在じゃなかったように、全く何もできないわけじゃない。
そして何ができるかを見極めるためには、自分が通ったあとに残していく廃墟を見つめながら後ろ向きに邁進する歴史という名の天使をしっかりと見据えなくちゃいけない。そのなかで我々が主人公ではないということも含めて。この世の中を動かしているのが、英雄などの個人の意思決定などではなく、冷徹な最適化のプロセスだと理解すれば、最適化のパラメータをどうにか変化させて少しでも望みの結果に近づけるという方針が立つ(もちろん歴史に必然性も普遍法則はないというポパーの小言を胸に刻み付け続ける必要性は忘れないこと)。
おそらく、私が思弁的SF小説というものに一筋の希望を見るはここら辺が理由なのだろう。
小説とは基本的に個人主義の宣伝ジャンルであるが、思弁的SFは対照的に「人類」を主人公に据えることが可能なものだからだ(『幼年期の終わり』を読もう)。個人という様々な物質の四次元の時空ワームの成す結び目を世界観の中心に据えるのに私は限界を感じている。しかし我々が「個人」という視点を捨てることはおそらくない(集団的知性を意思決定のベースにするのは、情報の伝達速度の面から言って判断のタイムラグが大きすぎ非効率であろう)。
思弁的SF小説は人類全体と個人のバランスをとりながら、あるのかないのかもわからない着地点を想像させてくれる。『パヴァーヌ』もそんな、架空の歴史を振り返ることで未来に思いをはせさせてくれる、いい小説であった。

佐原健二の顔芸ときぐるみ怪獣のリアルさと伊福部音楽 『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦・南海の大怪獣』


円谷英二の死後、最初に公開された東宝特撮映画である。円谷英二はこの企画に乗り気だったが、クランクイン直後に亡くなる。特技監督は愛弟子の有川貞昌、合成の名手だ。監督助手として爆発の名手、中野昭慶も名を連ねている。監督は長年円谷英二と名コンビを成した『ゴジラ』の監督、本多猪四郎、音楽は東宝特撮映画と言ったらこの人、伊福部昭、という豪華メンバーだ。ゴジラ作品と比べると少し知名度が劣るのが惜しい顔揃え。
キャストは、主演の久保明も時々特撮映画に出ていたが、特撮的には脇を占める、佐原健二と土屋嘉男であろう(もっと端役を見れば、堺左千夫とか当銀長太郎とか、東宝映画でよく見る顔が目白押しだが、そこら辺を語り始めると長いのでまた今度)。この二人が加わることで、平田昭彦がいないのが不思議なほど東宝特撮映画らしくなる。
で、本編だが。
脚本は正直退屈だよなあ、と思う。
中盤までは、怪獣が襲ってきて、逃げて、撃退して、また襲ってきて、逃げて、撃退して、をメリハリもなく繰り返していて、単調である。
眠かった。
後半にようやく話が動き始めて、退屈では亡くなったあたりで映画に終わりが来てしまう。前半をどうにかすれば、もっといい映画になっただろう。
しかし、見どころはいっぱいある。
まず、音楽。伊福部昭の音楽は、映画が始まった瞬間から見るものの心を鷲掴みにし、映画に全身を浴して、全身を耳にしてしまうような効果がある。ああ、これぞ東宝特撮、これぞ映画だよなあ、と本当に思う。
ただ、いかんせんレパートリーが少なく、使い回しが多い。幾つか見てしまうと、「ああ、またこれか」という思いに駆られることが多い。
ただ、今回はあまりそういう気分にならなかった。使いまわしてるのかしてないのかは、伊福部昭の映画音楽を全て聞いているわけではないので断言できないが、今回はそれなりに耳に新しく響いた。
それだけで楽しくなってしまうくらいには、私は伊福部音楽を愛している。
あと、怪獣のきぐるみ造形が素晴らしかった。ガニメの節足動物の口周りを再現したゾワゾワ動くギミックや、カメーバの首が飛び出すギミックは楽しいし、人間が入っていることを感じさせないイカやカニの多足造形も感心するし、なにより表面のテクスチャの表現も良く出来ていた。初期のウルトラマンの怪獣もそうだったのだが、表面の質感に工夫があると、それだけで怪獣の存在感が上がる。生っぽかったり、逆に無機質っぽかったりと、異生物間を様々に演出できる。最近の怪獣造形は、表面をなおざりにしていないだろうか? 素材感をそのまま出してしまったりしていないだろうか?
合成も爆発も当然よく出来てた。名手だからね。安心だね。
なんというか、円谷英二特撮の集大成という様相。円谷英二特撮が好きなら見る価値あり。
敵の設定は、不定形の宇宙生物が無人宇宙船を乗っ取って地球の南海に落ちてきて、それがモンゴウイカとかカルイシガニとかマタマタガメとか、実在の動物に取り付いて、細胞に同化し変化させて、怪獣にする、というちょいSFな感じ。もちろん人間にも同化し、目的は地球征服だ。
元ネタは、『遊星よりの物体X』や『遊星からの物体X』の元になったジョン・ウィンダムの『影が行く』だろうか。
影が行く―ホラーSF傑作選 (創元SF文庫)
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東京創元社
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ただ、怪獣が全て水棲動物で、二匹が無脊椎動物なのは、なんとなくクトゥルフっぽいよなあ(特にイカ)、と思っていたら、海外版はこの無定形の「宇宙アメーバ」を「ヨグ」と呼んでいるんだとか。なるほどね。
ただこのSF設定、キングコングから日本の怪獣映画が受け継いだ「南海幻想」の色が濃いこの映画の中で、多少無理が出てる気もする。冬眠が受け継いだ怪獣の伝説は結局何だったんだろうか。ま、そんなこと気にするだけ無駄か。そんなことより、こういう明らかに日本人が顔を黒く塗ってるだけの南海が舞台の怪獣映画、また作らないのかなあ。好きなんだけどなあ。太平洋の向こうに対する日本人の素朴で神話的なあこがれと畏怖がないまぜになってて。
あともう一つ語っておかなくてはいけないのが、佐原健二! 土屋嘉男が「イイモン」なので、あまりはっちゃけた縁起ができないのに対して、佐原健二は宇宙アメーバに取り憑かれる怪しい産業スパイで、最初から半分「ワルモン」なので、のびのびと演技している。やっぱり、この手の娯楽映画は「ワルモン」のほうが面白い。特に宇宙アメーバに操られている佐原健二の「顔面の筋肉ピクピク芸」は面白い。『ウルトラQ』の「2020年の挑戦」で、ケムール人が化けた万城目淳を演じた時は、非人間的な様子を表すために、耳を大きくピクピクしていた佐原健二。今回は、元々は二枚目主人公顔なのに、ヒゲを生やすだけで一気に胡散臭さがました悪人顔で、目の下をピクピクさせている。本当に顔面の筋肉の発達した人だったのだなあ。
ここでは書かないオチも含めて、正直一番記憶に残る役どころである。
みんなで見よう! 

これもクラウドファンドでお金集めたら、何とか続編できないかなあ 『おいら宇宙の探鉱夫』

先日、TRIGGERの『リトルウィッチアカデミア』がクラウドファンドkickstarterで資金を集めようとしたら、予想以上の集金ができて、大成功したことがニュースになったね。
これ以外にも、クラウドファンドで資金を集める話を良く聞く。それだったら、と是非ともクラウドファンドでお金を集めて欲しい案件がある。
作画ストーリーともすばらしい、クオリティだったにも関わらず、資金不足、特に全然売れなかったことが響いて、全6話中2話しか制作されなかった不遇の名作『おいら宇宙の探鉱夫』。何とかその続編をクラウドファンドで作れないものだろうか?

1話『



 2話



やっぱいいねえ。
なんで売れなかったのかねえ。題名に売ろうって気がなさ過ぎるから? なんでや、みんな『妖星ゴラス』好きやろ? キャラクターが地味? なんでや、ふきちゃん可愛いやろ! 名前が古風だし、カチューシャは『空飛ぶゆうれい船』みたいだし、声優は大正義日高のり子で、主人公とペアで乱馬とあかねだし。テーマも地味? 宇宙開発が嫌いな人間なんていない!(錯乱)

ま、それはいいとして。
音楽を川井憲次がやっているから、『パトレイバー』っぽいところがあっていい。やっぱ盛り上げ上手だね。
とジャブを打っといて本題に入る。
この作品の凄さは、なにより、科学考証が良くできてることである。それを絵に落とし込む努力も凄い。
細かいところでは、爆発の後溶けた岩石がガラス化するところとか、機械の間接が引きちぎられたあと、急速に蒸発して、気化熱で凍り付くところとか、遠心力で重力を発生させるとか、それを利用した人員輸送だとか、伝統の磁石靴とか、磁石靴を払って相手を浮かすテクニックとか、いろいろある。
でも、一番注目してみるべきは「慣性」と「真空」だ。この二つは世界観的にも、ものすごく重要だ。
物には「慣性」があるので、一度動き始めた物は、別の力をかけないと決して止まらない。地上では摩擦によって、すぐに物は止まるが、宇宙空間では、基本的に物は動きっぱなしなのだ。
頭では分かっていても、ちゃんとそのことを描写できる作品は少ない。その徹底ぶりに驚く。物体の動きを変えるときだけロケットを噴射するのを序の口に、外したネジが回りながら上に飛んでいくのに笑いそうになる。宇宙船がドッキングする瞬間に爆発で衛星が動き出すところが出色。地面という絶対的な基準点をもつ地上ではあまり身近に感じたことのない「相対速度」という概念が身に沁みる。ロケットを噴射して衝突を防ぐところは燃えるね。軌道を下方修正しようとするときに、船体のひずみを考慮に入れるとか痺れる。そのとき、船員の体を浮かび上がらせ、慣性を感じさせるところはにくい(船が下に行けば、体は慣性で上に残る)。
主人公の牛若が、何とか衛星へ帰ろうとするところも苦難の連続で見させる。コンピュータと自分の判断、どちらを優先するか悩むところなど、高度な判断を迫られていることをうまく描写している。燃料がなくなっても、デブリとの衝突の作用反作用をうまく使って、衛星に帰ろうとするのは、定番でうれしい。ちなみに、牛若が決死の覚悟で、真空中を少しの間通り抜けるのも、この手の宇宙SFじゃ定番。NASAや旧ソ連が実験や事故から収集したデータによると、人間の体は30秒、場合によっては1~2分だったら真空に耐えられる構造を持っている。しかし、このシーンの緊張感は凄い。一つの失敗が直に死に繋がる。腕に絡まるシートベルト、気圧差で耳から吹き出る血、衝突して大破する作業艇、そしてここでも慣性の法則。接触物のない宇宙では、途中で動きを変えようと思っても絶対に無理。最初の判断が絶対に修正できない非常な世界。そこで、せっかくたどり着いたのに、慣性が殺しきれないで、宇宙空間に投げ出されそうになる瞬間の絶望感。すばらしい。音のない演出が、緊張感を駆り立てる。
偶然背中を押してくれたデブリによって助かったと思ったら、自動ドアをクランクを手動でくるくる回して開けなくてはいけないところの「一難去ってまた一難」の呼吸は、シリアスなシーンでもコメディ的演出を忘れておらず、 感心させられる。そのあと、真空中で直射日光を浴びたのでものすごい日焼けになるところは、「おおちゃんとしてるじゃないか」となんだか安心してしまった。
あと、光もいい。 真空中では、光を吸収していく空気がないので、日向と日陰の差が激しい。コントラストがはっきりしているのだ。境界がぼやけないので、影が通常より長くなるときもある。日向では、目が開けられないくらい眩しくなる。細かいところだが、空気中と真空中での絵作りにきちんと差を作っているところが、作品にメリハリを付けている。
その描写がしっかりしているところが、「無重力」「真空」という、本来人類が産まれた環境とは全然違う、人類が生活していくには過酷すぎる環境に説得力を与えている。
そしてそこにどうにかこうにか生きている、「プロ」の大人たち。彼らは絶対にパニックにならない。少女ですら、目の前の死体にショックを受けていない。おそらく死が間近にある世界なのだろう。その中で、みな自分の仕事を必死にこなしている。 
そんな中に、一人紛れ込む形になってしまった子どもが、この物語の主人公。彼のする判断は、どう贔屓目に見ても、正しい判断とは思えない。しかし、それに苛立つのはお門違いというもの。彼の判断が間違いなのは、彼が「大人になりたい子ども」なのだから、当たり前なのだ。それこそ制作者が見せたいところなのだ。そして、暴走してしまう子どもを見守ることができる度量を大人が持っていることが、この作品の肝なのである。技術的な判断はしっかりできるのに、総合的判断能力が要求される危機管理はできない、というのは大人と子どもの違いは何か、という意味でも面白いではないか。
子どもが成長するには厳しすぎるこの環境、他に子どもが全くいないこの場所で、彼がどのように大人になればいいのかを、この物語は書こうとしている。氷川竜介がかつて書いたように、この作品はSFジュヴナイルとして、大きな可能性を持っていた。
それが可能性のままにされているのが現状である。牛若も、大人になれないまま宙ぶらりんにされている。
何とか、この作品に着地点を与えてあげられないものか。
そのためには、お金を集めなくてはいけないんだけど、お金を集めても、監督が若くしてすでに亡くなってるしなあ
はあ、どうすりゃいいんだろ。 

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(2006-11-22)
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漫画版(嘘)
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出版:徳間書店
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