先日、自作小説をremixしながら考えた。
現代人は忙しい。しかしその中で近代民主主義教育の賜物である満たされぬ表現欲に悩む人も多い。その矛盾をどう解決するか。それは全ての人間を燃料として磨り潰しながら加速を続ける社会の中で幸せになるための重要な問題ではなかろうか。
その解決策として、remix小説を考えてみた。
remix小説とは、幾つもの無関係に作られた短編小説を切り刻み、ある小説の場面と別の小説の場面を乱暴に接続することによって、面白さを産もうという試みである。
この手法の良い所は、まずすでに素材となる小説が幾つかあれば、小説を書く必要がない、というところである。例えば暇を持て余していた学生時代に小説を書いていたが、社会人になってからはなかなか時間が取れない、という人には強く薦められる手法であることが、ここから分かる。
しかしそのような次善の策としてではなく、もっと積極的なものとしてこのremix小説という手法を捉えてみたい。これは小説というものの見方を変えることを要請しているのかも知れないのだ。
例えば、これから小説を書くときは、あとでremixすることを前提とする、と考えてみたらどうだろう。何が変わるだろうか。
まず、その小説が単品で面白いことすら要求されなくなる。もちろんそれを発表する際、完成作ではなく素材であることを明記しておくべきだろうが。また張った伏線を解決することも必ずしも必要なくなる。他の作品で解決してしまえばいいし、解決されていない伏線は他の作品との糊代になりうるかもしれない。
これは忙しい人間が小説をあいた時間に書くためには良い傾向ではなかろうか。少ない時間ではなかなか綿密な構成は望めないものだ。しかし緩い構成で書いた小説は素材と考え、それが溜まればremixして、書いた時点では思いもしなかった場面同士の意外なつながりによって面白さを得るなら、細切れにされてしまった時間でも有効に使えるかもしれない。
小説というものは、映画や漫画などの他のジャンルに比べて、細かいところまでコントロール可能である。それが小説の良さ(どこまでも緻密な設計が出来る)でもあるが、窮屈さにもつながる。全てをコントロールしてしまえば、所詮一人の人間の脳髄に収まる広がりしかその作品は持てないのだ。
ギリギリまでコントロール下において、絶妙にコントロールされない成分を導入する。それが小説を面白くする精髄である。
remix小説という手法の確信はまさにそこだ。書いていたときには自分でも気づけなかった作品同士のつながりを発見する。それは自分の知らない自分を発見することでもあるだろう。
それだけではない。全ての小説はremixするための素材であるとして、これからは小説を読むのだ。そうすれば青空文庫は死んだ作品の墓場ではなく、自分を見てくれと蠢きざわめく生きた作品たちに満ち溢れた場となるだろう。そして自分の作品も、他人の作品の素材として考えるのだ。自分の作品が切り刻まれ、種子となって世界に散らばっていくさまを見ることほど幸せなことはないと思うようになるのだ。
伝統的な文学研究者が考えてきたこととは違って、文芸にとって重要なのは作者ではないし、一つ一つの作品ですらない。重要なのは幾つもの作品が織りなす大きな流れである。作品というものには、必ず大きく露わにはなっていない隠された部分がある。切り刻んでremixすることによって、作品の隠された可能性を露わにすることができるのだ。
さあ、お手軽に革命を起こそう。今からこれからこの瞬間から!
現代人は忙しい。しかしその中で近代民主主義教育の賜物である満たされぬ表現欲に悩む人も多い。その矛盾をどう解決するか。それは全ての人間を燃料として磨り潰しながら加速を続ける社会の中で幸せになるための重要な問題ではなかろうか。
その解決策として、remix小説を考えてみた。
remix小説とは、幾つもの無関係に作られた短編小説を切り刻み、ある小説の場面と別の小説の場面を乱暴に接続することによって、面白さを産もうという試みである。
この手法の良い所は、まずすでに素材となる小説が幾つかあれば、小説を書く必要がない、というところである。例えば暇を持て余していた学生時代に小説を書いていたが、社会人になってからはなかなか時間が取れない、という人には強く薦められる手法であることが、ここから分かる。
しかしそのような次善の策としてではなく、もっと積極的なものとしてこのremix小説という手法を捉えてみたい。これは小説というものの見方を変えることを要請しているのかも知れないのだ。
例えば、これから小説を書くときは、あとでremixすることを前提とする、と考えてみたらどうだろう。何が変わるだろうか。
まず、その小説が単品で面白いことすら要求されなくなる。もちろんそれを発表する際、完成作ではなく素材であることを明記しておくべきだろうが。また張った伏線を解決することも必ずしも必要なくなる。他の作品で解決してしまえばいいし、解決されていない伏線は他の作品との糊代になりうるかもしれない。
これは忙しい人間が小説をあいた時間に書くためには良い傾向ではなかろうか。少ない時間ではなかなか綿密な構成は望めないものだ。しかし緩い構成で書いた小説は素材と考え、それが溜まればremixして、書いた時点では思いもしなかった場面同士の意外なつながりによって面白さを得るなら、細切れにされてしまった時間でも有効に使えるかもしれない。
小説というものは、映画や漫画などの他のジャンルに比べて、細かいところまでコントロール可能である。それが小説の良さ(どこまでも緻密な設計が出来る)でもあるが、窮屈さにもつながる。全てをコントロールしてしまえば、所詮一人の人間の脳髄に収まる広がりしかその作品は持てないのだ。
ギリギリまでコントロール下において、絶妙にコントロールされない成分を導入する。それが小説を面白くする精髄である。
remix小説という手法の確信はまさにそこだ。書いていたときには自分でも気づけなかった作品同士のつながりを発見する。それは自分の知らない自分を発見することでもあるだろう。
それだけではない。全ての小説はremixするための素材であるとして、これからは小説を読むのだ。そうすれば青空文庫は死んだ作品の墓場ではなく、自分を見てくれと蠢きざわめく生きた作品たちに満ち溢れた場となるだろう。そして自分の作品も、他人の作品の素材として考えるのだ。自分の作品が切り刻まれ、種子となって世界に散らばっていくさまを見ることほど幸せなことはないと思うようになるのだ。
伝統的な文学研究者が考えてきたこととは違って、文芸にとって重要なのは作者ではないし、一つ一つの作品ですらない。重要なのは幾つもの作品が織りなす大きな流れである。作品というものには、必ず大きく露わにはなっていない隠された部分がある。切り刻んでremixすることによって、作品の隠された可能性を露わにすることができるのだ。
さあ、お手軽に革命を起こそう。今からこれからこの瞬間から!