さてさて、前々回の記事で紹介した顕正会員の驚きの発言の破折をしてみましょう。

①「宗門だって御形木御本尊を作っているんだろ。顕正会で作って何が悪い」
②「血脈は浅井先生に流れている」


まず、今回は①について。
「裸だったら何が悪い」

単純にこの発言をした人に聞いてみたいのですが、誰が御本尊を書き表しても問題ないと思っているのでしょうか・・・?

もし問題ないのなら自分が書き表して、後輩に授与すればよい。
いやいや、絶対にダメですけどね。

木絵二像開眼の事には
法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。」とあります。

ここで出てくる「開眼」という言葉、これは非常に大事です。顕正会では絶対に出てきません。

紙幅の御本尊の場合、物質的に見れば元々は紙と墨・インクといった草木、非情です。
それが生身の御仏になるために、そこに非情を成仏させる必要があるのです。
これを開眼と言います。

開眼をすることによって、初めて御本尊は生身の御仏となるのです。

ちなみに開眼ができるのは「法華を心得たる人」とある通り、
血脈を相承された唯受一人の御法主上人のみであられます。

要するに「○○上人書写の御本尊」しか存在しないんですね。
間違っても一般信徒が御本尊を作製することはできません。仮に作製したとしても開眼されていません。

もし開眼をせずに勝手に御本尊を作製したのであればそこには鬼神が宿るんです。

木絵二像開眼の事では他にも
形は仏に似れども意は本の非情の草木なり。又本の非情の草木にも非ず、魔なり、鬼なり。

鬼をば奪命者(だつみょうしゃ)といふ。魔入りて功徳をうばふ。魔をば奪(だつ)功徳者といふ。鬼をあがむるゆへに、今生には国をほろぼす。魔をたと(尊)むゆへに、後生には無間の獄に堕す。
と大聖人が仰せであります。

勝手に作製したニセ本尊を拝んでいるととんでもないことになるのです・・・



「浅井センセーに血脈が流れているから御本尊は開眼されている!」
とか言って顕正会でのニセ本尊作製を正当化しようとする人がいるかもしれませんので、
次回は②を破折します。