賢太郎の物書き修行

日々の事件やビジネスに関するコラム

システム開発のSEやPMを経験してICタグベンチャーに転職。プロジェクトマネジメントに長く携わる。5年間の物流会社の経営管理、事業管理を経て、現在はモンスター・ラボでシステム開発に従事。 http://monstar-lab.com/
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実直そうな字面ではないか。

俳優の仁科克基が田中実の自殺についてブログに書いている。ウルトラマンメビウスでの一年間の共演以前に、子供の頃に遊んでもらった記憶があると。ドラマ「刑事貴族」の時だろう。田中実の上司役が松方弘樹だった。

NHKの連続ドラマ小説「凛々と」で本格デビューして、その後刑事貴族で認められながら、あまり出演作には恵まれなかった。連続ドラマのレギュラー出演はウルトラマンメビウスが最後だったかもしれない。実直なイメージからなかなか役がつかなかったのかもしれない。

ご冥福をお祈りいたします。

みんなの党の山内議員がドラッカーの次の言葉を紹介していた。

「リーダーが先頭に立って事にあたり、人々を引っ張っていく姿勢など、まったくもって必要ない。有能な経営者ほど決断が少ない。ただ、優先順位だけを決めている」

優先順位に気を配る人は少ない。リーダーに限らず優先順位をつけることは重要だ。政府は今回の震災以降にたくさんの会議を設置している。これも優先順位が決まっていないことに原因がある。優先順位を菅首相が決めていれば会議は一つで良い。

「緊急災害対策本部」

この会議の中で、優先順位の高い順に一つ一つ片付けて行けば良い。

城繁幸さんが次の様に呟いていた。

「joshigeyuki 革命なんて一言も言ってないホリエモンが捕まって、革命を掲げている日本共産党がピンピンしてるのは実に不思議だ。たぶん、前者は意図せずしてそこに踏み込んでしまい、後者はまるっきり見当違いな道を進んでいるんだろう。 」

確かに。はからずも革命児となってしまったホリエモンに比べると革命を明言している共産党には優しいものだ。何がホリエモンと共産党を分けたのであろう。

ホリエモンが立ち入った革命は“大貧民の革命”だったのだと思う。強い手札がある瞬間を境に弱くなるという革命。情報技術にせよ、市場取引にせよ、ホリエモンがしてみせた/しようとしたものは、大企業やメディアが持っている手札の価値をゼロにするような話だった。これが検察をして社会秩序を乱すと認識された理由ではなかろうか。

一方、共産党が目指すのは“資本家”や大企業が持っている手札を奪って自分のものにする、或いは手札を持たない人に分け与えるというものだ。この場合、手札の所有者が代わっても手札を切るゲームの構造自体は変わらない。つまり社会秩序は維持される。仮に共産党の革命が成功しても検察機構は残る。

しかし、ホリエモンは検察の構造自体を変えうる提案をしただろう。例えば、ある程度の摘発がシステムで自動的に行われるといった様に。自らの存在を脅かされた時に人が激発する様に、検察も危機を感じてホリエモンに襲いかかったのではないだろうか。

ホリエモンが摘発されたり、フジテレビ買収を断念させられたことで一番得をしたのはメディアである。テレビ局は実質的に買収することが出来なくなった。拒否権を行使できるオーナーがいないということは、テレビ局は社員の共同運営組織になるということだ。社員が解雇もされず一定の発言権を保障されるというのは共産党的な共同運営組織に近い。

ソ連崩壊が示したのはこの様な官僚組織が如何に堕落し、腐敗するのかということだ。ホリエモンを寄って集って潰したメディアが崩壊していくことになるのではないだろうか。

“分析”という言葉の成り立ちはモノを刀で切り分ける意味の“分”と木を斧で斬り分ける意味の“析”であり、いずれも物事を分けるということだ。“わける”の二乗だから物凄く分けるということになる。しかし、分析をする時に、この分けることが足りないことが多い。

「売上げの分析をする」という時に、売上げ総額の推移だけを追っている場合がある。“売上分析”は本来ならば、商品分類別/顧客特性別が必須だ。商品分類も外形的な分類だけでも「形態/サービス内容」「シチュエーション」「価格」とあり、それぞれ三種類なら27分類になる。顧客も「年齢/創業」「年収/年商」「家族構成/事業構成」となり同じ様に27分類くらいはすぐに出来る。その組み合わせは729分類となるから膨大な分析作業が残される。実際には分析の前に簡単な感度シミュレーションをして、重要な分析に絞るが、「何故その分析を選んだのか」の説得力は同じ分析内容でも、網羅したなかから選んだのか適当に決めたのかで全然違う。

分析は、結局は、データによって他人に理解させることが目的だから、他人の反証を先回りして抑えないといけない。説明時点では、得てして用意したデータのほとんどが使わないものだが、その準備がないものは余り説得力を持たないものだ。だから、分析するには、一見して無駄になりそうなことを“背景”として愚直に実行する心が必要だと思う。

震災から一ヶ月半になろうとしている。今回の様な震災も含めた極私的な危機管理計画について書いておく。

地震や大型台風などの避けえぬ災害について、まずはその発生タイミングによって何をするかを予め決めている。今回の震災の様に、平日の日中発生した場合、無理に帰宅することはしない。今回も最初の三十分で帰宅しないことに決めた。そもそも、ただでさえ電車で二時間もかかるのだからダイヤが乱れたら大人しくする方が賢い。

同僚の中には僕よりも遠いのに車で帰ろうと言い出す者もいたが、諦めさせた。次にこの危機にあたって“約束”は全て無しにした。あらゆる予定はご破算で改めてやり直すことにした。同僚の中には土曜日に家の工事があるからどうしても帰りたいという者もいたが、そんな約束はこの危機にあたって真っ先に破るべきだ。案の定、工事業者は来なかった。

家族の安否確認は一度だけにする。何度も確認したくなるが、一度確認がとれたら家族を信用して自分の身を一番に行動する。しかし、災害対応の渦中になるべく身を置く。この体験は貴重だ。

特に気を使ったのは、気を楽にすること。“ケ・セラセラ”なのだ。

四月も下旬になって、新しいポジションでのミッションを自分なりに形成出来てきた。当初よりも低い位置から始めることになったが、それは仕方がない。

基本的には年商数十億円の事業所の番頭というところだが、番頭が目立つ会社に将来はない。だから、草々にお役ご免をしてもらうべく、“自動操縦”を目指すことにした。毎朝、意識しなくても顔を洗い歯を磨き、着替えをして電車に乗って通勤する様に、習慣を身につけることが大事だ。一日が24時間である様に、7日を一つの単位として経営のリズムを作っていく。

曜日ごとに必ずやる会議や資料を明示し、それに向かってそれぞれが作業するリズムを生み出す。思いつきの様に資料を要求し、報告を求めるのは良くない。調子の悪い事業所ほど思いつきの会議が多いか、逆に全く会議が無かったりする。“現場重視”の下に会議を軽視する向きもあるが、会議という“公式コミュニケーション”が下手な組織は非公式なコミュニケーションも下手である。

リズムを刻むマーチが経営には必要だろう。

あの震災で僕は東京に程近い千葉県市川市の会社に閉じ込められた。建物は液状化した道路に囲まれ、近隣の電車は~特に京葉線は数日間~止まってしまった。僕の自宅は遠く離れた横浜にあり、とても歩ける距離ではなかった。後からおびただしい人数が東京から千葉・埼玉・茨城・神奈川に歩いて帰ったと聞いた。

“都市の脆弱さ”と言われたが、仮に彼らが歩いて1~2時間の場所に住んでいたらどうだっただろう。山手線の内側にいくつもの高層住宅があり、都内で働く人が住んでいれば、停電の不便はあったかもしれないが、帰れないことはなかっただろう。一晩歩いてやっと辿り着けるような場所に毎日通っていることが異常なのだ。

震災の後に自宅待機などしていた人も多い。歩いても自転車でも通えないところで働くことが、生産性を脅かしているのだと考えた方が良い。

僕も含めて…。

池田信夫氏の「 原発事故は「文明災」か」で紹介されていた梅原猛氏の発言を見ていて以下の様なことを思った。

”道徳心”がある日本人-秩序ある被災者-も原発開発を推し進めた政治家も同じ日本人なのだからその心性に大きな違いはないだろうというものです。日本人に根付いた固着したコミュニティは、被災現場においても被災者の行動に規範をもたらした。コミュニティを大事にするムラ理論は「通産省-原子力研究機関(大学)-電力会社-原子炉メーカー」のコミュニティを大事にするために、「絶対安全を保証しろ」と迫る反原発派に「絶対大丈夫」と言ってしまい、必要な防護策を講じることを妨げることとなった。”わが町の秩序を守る”というのと”わが業界の秩序を守る”というのはどちらも同じことで、原発がドライに評価されず危険が野放しにされ危機に陥ったことと、被災者に現れる”道徳心”とは同根なのである。

池田信夫氏が呟き反響をよんだ件。

「捨てる勇気の時代」という記事で岸田航氏が指摘している「共感」との関係は面白い解釈だ。共感するから悲惨な震災の中でも秩序ある日本人でいられるのかもしれない。しかし、「目の前のことへの強い共感」は一方で残酷な無視も生む。「共感社会」の強力な連帯感は集団の中に強い「同調圧力」を生み、そのストレスは村八分という伝統的ないじめシステムになった。同調圧力は今回の自粛ムードを拡げたし、伝統的なメディア(テレビ・新聞・ラジオ)も新しいメディア(インターネット)も一様に自粛一色になった。

目の前の「犬」に感情移入して、人間の捜索からリソースを割くことや自治体の資源をペット保護に割くことは「八百万の神が坐す」日本では不思議ではなかろう。瓦礫の下から自衛隊員が写真を掘り起こすことも日本人なら微笑ましいエピソードだが、違う見方があるだろう。思うに、神坐す日本の民は今回の災害を“あるがまま”に受け入れ様としているのだ。ある種の諦観であろう。

この境地は震災の混乱から秩序を復旧する手助けになるだろうが、反省に繋がらない。先に投稿したように、津波被害が繰り返された土地に町を作ったことが被害を大きくしたが、それは津波を“避け得ざるもの”と諦めた点にある。過去に津波に襲われた地域が居住不適地として規制されていたならどれだけ助かっただろうか。

今回の震災は日本人の知らない日本人を知る契機となるだろう。

先に「東京都知事は石原慎太郎が当選するだろう」という記事を投稿した。結果はその通りで、対立候補は大差をつけられた。

先の記事では二つの指摘をした。東京都民は現状維持を求めるということと震災の不安に追い詰められて家父長的な石原を選択するだろうと。震災対応で行動する知事の姿は格好の選挙活動となった。有権者は先の見えない不安の中で、リスクが小さな石原氏を選んだ。

リスクは「何が起きるか予想のつかない程度」の問題だ。石原氏以外の候補者はどんな結果がでるかわからなかった。震災の不安はそれに拍車をかける結果となった。

「3.11(さんてんいちいち)」という言い回しが流行っている。この言葉を発すれば何か時代の節目を鋭く捉えている錯覚を覚えるようだ。この言葉を発すれば何か分かったような気になって思考停止するようだ。会社がうまくいかないのも、勉強が手につかないのも、全て「3.11」のもたらしたもの。

だから、僕は意識的にこの言い回しを使わない。同様に「千年に一度」も使わない。「自粛ムード」もスルーして飲みに行く。

しかし、なぜ「3.11」つまり、「東日本大震災」なのか。「1.17」=「阪神淡路大震災」ではないのか、「3.20」=「地下鉄サリン事件」ではないのか、「9.30」=「東海村JCO臨界事故」ではないのか。阪神淡路大震災は関東大震災以来の都市直下型の大震災であり、地震直後の大規模な火災で多くの犠牲者が出る点でも関東大震災と同じだった。今回の被害と同様に過去の災害の教訓が生かされていないという点でもっと本質的な反省がなされるべきだった。

「地下鉄サリン事件」はたった数人で大都市のインフラを麻痺させることが可能であることが実証された。その後の千葉東京間の送電線切断事故や大雪、今回の震災も含めて大都市東京が如何に脆弱であるかが省みられていない。東海村の事故では二名の死者と数百人の被曝者を出したが、放射性物質による継続的な被害より、誤解や無知に基づいた風評被害の方が大きく、原子力事業者は公共への情報公開や内容について研究するべきだったろうが、今回の東電のお粗末さを見ると他山の石として我が身を振り返ることなどなかったのだろうと思う。

“あの”「9.11」でアメリカは広大な国土で輸送手段が100年前に逆戻りする経験をした。テレビ会議やインターネットの普及が加速することとなったが、加えて非常事態での事業継続に関する研究が盛んになった。今回の震災で多くの外資系企業が迅速に本社機能を大阪や香港などに移転したのは、その経験が生きているのだ。

欧米で過去の大災害や事故が取り上げられるとき、そこには被害を最小限に抑えるという未来志向がある。日本では未だに「阪神淡路大震災」の時の市民の英雄的な働きや被害の大きさ、復興の努力などは語られる。しかし、本来ならば、火災を拡大しにくい町作りや被害に遇いやすい居住不適地からの住民の移住などがあるべきだったろう。災害時の指揮命令の明確さに加えて、非常事態における最高指揮官である首相の心構えについても考えられておくべきだっただろう。災害は起きるし、原子力発電プラントの事故も起きる。それを前提とした対応策(コンティンジェンシープラン)を用意しておこうと思う。

何故「東日本大震災」なのか?忘れっぽいからだろう。掛け声で「忘れない」のではなく、具体的な対策を積み重ねていこう。

と、予想する。

東京都知事は圧倒的に現職が強い。現職が出馬した選挙で対抗馬が勝ったことはない。当の石原知事がかつて美濃部亮吉の三選阻止を目指して望んだが敗北した。美濃部の社会主義政策で財政が悪化し行政は官僚化したにも関わらず、である。

鈴木俊一も三期目の箱モノ行政を批判されながら四選を勝った。だから、石原慎太郎の四選も勝つだろう。震災のショックで弱っている都民にとっては家父長的な石原の言動は受け入れられるのではないかと思う。

夏には大規模な計画停電を招くなもしれない東電管内。「強制的に契約アンペアを下げれば良い」というアイデアが聞こえてくる。テレ東のWBSでもそんな話が。このアイデアの実現可能性はどれくらいあるだろうか?

全国の世帯数約5000万の内、三割以上が東電管内にある。およそ1500万世帯。アンペアを変えるためには最低1500万台のブレーカーを交換することになる。この交換が仮に一時間4台出来るとすると、375万時間かかる。

コストは最低でも40億円くらいだ。そもそも短期間にそれだけの工数の電気工を投入したら、ほかの電気工事は全く出来なくなるだろう。第一に1500万台のブレーカーは全国の15年分の数なので調達は出来ない。ブレーカーは使い回せば良いという意見もある。

電気アンペアには6種類あるが、仮に全ての契約が同数だとしても20アンペアのブレーカーを交換する15アンペアのブレーカーはないので(これをとったら15アンペアの世帯は電気が来なくなる)、250万世帯分は足りなくなる。全国の二年半の需要。

しかも、取り外して必要な世帯に運んでというロジスティックスはかなり大変だ。結果的に、100億くらいかかるんじゃないだろうか。

経済的にも物理的にも難しいと思う。

関東で暮らしていると、東日本大震災のことを思いつつも「いつか来る」と言われている関東大震災のことを思い悩む人も多いと思う。さて、この大震災で何が最も困るだろうか?

【津波は心配ない】
今回の震災と違って、関東の場合は津波についてはあまり心配しなくても良いそうだ。津波は今回のように海中での断層崩壊型の地震に伴って発生するが、関東の場合は大規模な者は東京湾沖や相模沖で発生することになる。東京湾のように袋状の海岸線では津波は低くなり、逆に陸前高田の様にV字型の入り江では高くなるのだそうだ。だから、東京の津波は50センチくらいと想定されている。たぶん、多少川が逆流したりするだろうが、建物が流されるほどの被害は受けないだろう。

【揺れは怖くない】
今回の長周期の振動と違い、関東大震災では直下型の短時間の揺れが想定されている。この様な揺れには最近建てられたビルなどは平気だろう。問題は耐震強度が弱い古いビルや木造の住宅だ。東京でも西側の山の手には古い町並みがあり、倒壊と火災のリスクが高いと言われる。しかし、地震の起きる時間帯にもよるが、多くの人が火災から避難する猶予はあるだろう。

【帰宅困難の被災者は数百万人】
今回の震災では多くの人が帰宅困難者となった。早々に帰宅を諦めて会社に泊まりこんだ人も相当数いた中で、あれほどの人が徒歩で家に帰ろうとした。しかし、都心を地震が襲ったとしたら、会社への泊まり込みも出来なくなるだろう。電車は止まり数百万人の人が道路に溢れる。
地震で道路は歩きづらくなっているだろう。そして都心を囲む様に流れている川、そこに架かる橋が落ちているところもあるだろう。多くの人が路上で過ごすだろう。そして、それは何日間か続くに違いない。

東京は、かつて徳川家康が侵入を妨げる様に作った“孤立した都市”である。だから、橋が落ちると物流は寸断され、物資を都心に送ることは不可能になる。帰宅困難者の食料は直ぐに枯渇するので、どうにかして被災地の外に逃げるしかない。

斯くして数百万人の帰宅困難者の列が都心から延々と続くのが最も心配なことだ。

小飼弾氏が紹介している。
「放射能ほど測定しやすいものはない」ってどんだけ?
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51658186.html

「1018というのは100万の3乗ですから、これは100万mm=1km立方の空間中に、1mm立方の粒が3つあるのと同じというたとえも出来ます。」

放射能を帯びているとそんな微量でも測定出来るとは驚き。だが、逆に測定しやすくて間違うということはないのだろうか?そんな繊細な測定で誤差はどの程度なのだろう。本当に水から検出されたのだろうか。

今日の朝刊で「東京で水道水は乳児に与えてはいけない」と言われて、同じ頃に測定された結果は十分の一の数値。店頭からミネラルウォーターがなくなっただけという結果。必要な発表だったのか、疑問が残る。

昨日、会社の同僚が4トントラックで通行出来る様になった東北道、一般道を通って首都圏から仙台まで走った。ベテランドライバーでもある彼が「疲れた」とこぼすほど道路の状態は悪く気を使ったようだ。みんなの党の松田公太議員が自らハンドルを握って被災地に行ったのは大変な苦労だったろうと思う。

仙台市内の様子は聞くと思ったほどの被害は無かったという。もちろん、激しい揺れで物が飛び散ったりはしたが、建物の倒壊はあまりなかったということだ。直下型だった阪神淡路と違い、地震の衝撃はそれほどでも無かったようだ。だからこそ、今回の津波被災地でも深刻に捉えられず避難が遅れたのかもしれない。

確かに地震の衝撃はあっただろうが、今回の災害は「東北広域大津波災害」と名付けるべきだろう。だから、これまでの「震災対応」とは違った対応をしなければいけないのではないかと思う。震災では災害地域は被災の程度が斑で、無事な場所を拠点に復旧作業にあたれた。しかし、津波の様に根こそぎ被災すると復旧は被災地全体を地ならしすることからはじめる形になる。火災と違い瓦礫が沢山残っているので、その撤去だけで大変な費用がかかる。

地ならしして町割りを最初からする市街地建設の中に、それまでの住民の一般生活を共存することは難しい。だから、津波の被災地からは住民を集団で避難させて復旧までの生活を支援するしかない。それには三年くらいかかるかもしれない。東北各県の自治体への集団避難が一番だが、それ以外の自治体への避難も検討するべきかもしれない。三年くらいとするか、「移住」とするかも考えた方が良いだろう。

福島原発の事故で放射性物質が漏れているという話が東京からのエクソダスパニックを招いている。

実際に経済的理由や、仕事の必要で行動に移せない人が相当数いるので、大規模なパニックには至ってないが、原発の状況が変わらないとパニックが拡大する可能性はある。各国大使館が業務を大阪に移管したり、外資が首都圏脱出や海外脱出をしているため、動揺している人は潜在的にはたくさんいるだろう。

パニックを静める為に政府は放射線の数値を公開して国民を安心させようという話は良くあるが、それは無理というもの。第一に、その数値が何を意味するか良く分からない。第二に、「日常生活の何倍」とか「CTスキャンと同じ」とか言われても、そのことと健康被害の関係は分からない。エックス線ならまだしも、CTスキャンなど一般人には縁遠いし、日常生活の何倍までなら大丈夫なのか分からない。第三に、政府や東電が本当のことを言っているか信用出来ない。

何よりも、パニックになっている人たちは「安心」を求めているのであって、それは本質的にはお母さんの抱かれなければ手に入らない。

政府はパニックを防ぐことは諦めてコントロールすることに力を注いだ方が良い。

今日、ある教材の出荷準備作業を手伝った。一日中作業してほど良い疲れを感じつつ、「この作業って必要だったの?」と疑問を感じた。もちろん、これで稼いでいるわけだから、あった方が実入りはあるわけだが、なんの意味が…という疑問は抑えられない。

「これって、児童にiPad配って配信したらいいんじゃない?」

まず、教材の印刷代が節約出来る。CDなども配布していたが音声はもとより動画だって配信可能だ。それらの製造費用もかからない。

仕分けや梱包・出荷などの作業が必要なくなり、費用が削減出来る。仕分けや配達ミスもなくなる。ストレスフリーになるわけだ。印刷ミスだって直ぐに修正出来る。

なのに何故大量の教科書や教材を印刷し、全国に配布しているのだろうか。無駄という他ない。

今回の地震・津波の被害に福島原発の事故が加わったため、みんなの関心がそちらに向いているように思う。東京や神奈川に住んでいる人まで「福島原発はどうなった」とずっと騒いでいる。

騒ぎすぎ

福島原発の周辺に住む人にとっては放射線による被害や今後家に帰れるかを含めて心配だろう。これは、1)事故を招いた東電 2)原発誘致を決めた自治体 3)原発によるエネルギー調達を決断した国 の三者が誠実に対応すべきだ。しかし、福島原発から100キロも200キロも離れた関東の人が一々リアルタイムでニュースをチェックする必要はない。なぜなら原発からの放射性物質の飛散、放射線の漏洩は彼等には関係ないからだ。

彼等はあるはずもない放射線の影響に過度に騒ぎ立て、被害者の様に東電や政府を責める。しかし、彼等は被害者ではない。福島原発の電力の主な消費者は関東の住民や企業だ。彼等の為に原発周囲の人は身近にその建設を許したわけだ。

被害者でもなく、福島の地に原発が建設される一因とも言える人たちがあれほど原発に関心を持つ理由は分からない。もしかしたら、騒ぎ立てることで自分も被害者の列に並んでいるつもりかもしれない。

菅首相が震災現場や福島原発付近の視察を計画しているらしい。こういう話が漏れ聞こえてくる時点で危機管理に問題を感じる。警備の問題などで批判的な論評が多い。

しかし、リーダーが最前線を慰労するのは悪いことではない。ただ、やり方は良く考えないといけない。

今の震災現場や原発事故対応の最前線は、日々目まぐるしく変わる状況対応に四苦八苦していて、当ながら“最大限”の努力をしている。この際に必要なのは、叱咤よりも共感だろう。言葉の選択ひとつで現場の士気に影響する。

かりに前線に菅首相が出張るのであれば、それを気づかせてはいけない。官邸のスタッフなどで準備して、短時間でサッと引き上げるべきだ。伝えることは、「苦労を分かち合う」こと「信頼している」こと「感謝している」ことだ。

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