2011年09月25日

整理せずに一気に書く。論文ではない。雑記。

「奥様お尻をどうぞ」を無事閉幕し、「ケラリーノ・サンドロヴィッチ・ミューヂック・アワー#004」を終了したとたん、怒涛のように、やりきれないことが次々と襲い掛かってきた。

多くは大人の事情でここには書けない。

「やりきれない」といっても、致命傷という程のことではなく、であるなら、実はやりきれなくなんかない。

ひとつには、譲り受けたばかりの猫が病気になった。
数日間、高熱が続き、あれほど「みゃー」だの「にゃん」だのよく鳴いていたのに、ほとんど声を出さなくなった。原因は定かではないが、なんらかの感染症の疑いが強い、と医者は言い、予防接種は受けたものの、完全に防ぎきれるとは限らないのだ、と彼は続けるから、素人としては「はあそうですか」と言葉少なに頷くしかない。
なにしろ生まれて二ヶ月の子猫だ。高熱が何日も続くだけで、生命の危機といってもよい。

幸い、少しずつ容態はよくなり、まだまだ予断を許さないとはいえ、先程はじゃれついてくるほどになった。


もうひとつには、仕事のうえで、ある範囲の人達に対して、いくつかの幻滅を感じる事件が、まるで推し量ったかの如く、連続して起こったこと。それらの幻滅は物理的な側面より、精神的なポイントによるダメージだということ。とはいえ、問題はシステムにあるのではないかと、深く考え込むに至ったこと。

そして、これが実は一番大きな出来事(であると同時に、今この国に暮らしている以上当然のこと)かもしれないのだが、「震災以降の日本がいかに不条理な状況にあるか」を、改めて客観視してしまったこと。

万一、起こったなら、それはとりもなおさず「この世のおわり」に他ならなかったはずの事態が、いともあっさりと起こってしまった。
それが本当に起こってしまったのだということを、我々は一体どこまでわかっているのか。

現状、事態がまださほど絶望的な事態にまで立ち至っていないのではないかと、もしも人が思うとしたら、それは、短時間に数万、数十万単位の死者数を出すような破局でないから、に過ぎない。

今後、我々は二度と、これまでのような形で未来を、人生を、希望を、幸福を、語ることはできない。

誰も(俺もだ)真に責任を負おうとしない。

正義より、倫理より、良心より、ただ実利だけを見据える、打算と保身に満ち満ちた国。「私はそんな人間ではない」と目くじらを立てたところで、国の総意は世界の誰が見ても言い訳できないところにある。


誤解しないで頂きたい。俺は鬱々とはしているが、鬱病ではない。

ただ、目を反らさずに生きてゆく為に、今、このタイミングで、少しは頭を抱えこんでみたり、する必要があったのかもしれない。

「世界のおわり」以降(繰り返すが、それは今だ)を生きるための、自分なりの方法を模索しなければならない。

「やりきれない」ことではない。「やりきれない」ならとっくに死んでるよ。こうしてブログなんか書いてる時点で、生きてゆくと宣言したようなものだ。なにより、こんな極めて異常な事態を、この世の終末以降を体験することができてるなんて、なんて儲けものだ、と、ニヤニヤ笑いながら眺める、もう一人の自分を感じずにはおれないのだ。



keralino at 04:09コメント(7) 

2011年08月25日

よく(良い意味でも悪い意味でも)「働き過ぎ」だと言われるが、この程度で何が働き過ぎなのか、よくわからない。

たしかに、劇場入りの二週間前からは、毎度、ほとんど眠れない期間となる。この期間だけはたしかに働き過ぎかもしれない。

が、そんなもの、年間で合計したって、たかだか一ヶ月半から二ヶ月の話だ。

あとの10ヶ月は、夜中に執筆してれば昼間に眠ってるし、幕が開いてホッとする時期には17時間ぶっ続けで眠ったりもする。平均睡眠時間は、計算したことないけど、おそらく8時間から10時間と思われ、言ってみれば「自堕落」だ。

そもそも、台本書いていても稽古してても取材受けててもレコーディングしててもバンドでリハーサルしててもライブやってても、仕事してるという自覚がほとんどない。

俺は働いているのか。

遊んでいるだけなんじゃないのか。
だからたまに、ラーメン屋やコンビニでバイトしてみたくなったりするんじゃないのか。(ラーメン屋もコンビニも、バイトの経験あり。)

むしろ、数年に一作しか新作を発表しない劇作家や映画監督をみていると不思議で仕方ないのだ。

暇を持て余さないのか、そんなで。
人生は短いぞ。
俺はもっともっと遊びたいから、結果、働き過ぎと呼ばれるのだ。

keralino at 17:47コメント(2) 

2011年08月22日

またもや5ヶ月も間が空いての更新。
48にして生まれて初めてパソコンを買ったので、練習を兼ねて書き込んでいる。

しかしいきなり「未読コメント数333件」なんて出てこられちゃ、なんだか怖くなるじゃないか。
何ヶ月か前に読んだのにもうそんなに溜まったのか。
今はアレだけど、読みますよちゃんと、いつか、年内には。

そんなこんなで5ヶ月の間になにやったんだっけ俺。
舞台二本とライブ一本と隔月のINU-KERAと・・・・
あれ、そんなものか。
他にもこまごまとした仕事はしてるハズだけど、まあそんなもんだ。
人間5ヶ月間に出来ることなぞたかが知れてるな。

って、ここまで打つにのに40分。携帯なら5分で打ててる。

しかし、日本はどうなってしまうのか・・・・。
そんな大雑把なこと書いてもう疲れたからおしまい。


keralino at 09:06コメント(5) 

2011年03月28日

「執筆に専念するためにツイッターを控える」と宣言しておきながらブログを書いてたらしょーがないのだが、先日久しぶりに更新したブログは3・11の件に終止していたから、今後の予定などをツイッターより詳しく。

まず、なにより、ナイロン100℃の次回公演「黒い十人の女〜version100℃〜」の一般前売が一昨日開始され、抜群の出来のチラシ&ポスターもようやく完成し、来月には稽古も始まる。

市川崑監督が1961年に発表したフィルム・ノワール(なのか、正直わからないが)の傑作の、初舞台化である。

映画とは随分と感触の異なるものになろう。

会場は青山円形劇場。舞台をほぼ全方位から囲むこの劇場で行う公演では、いつもパノラミックな演出を心掛けている。

客席ごと作品世界に飲み込ませてしまうような演出だ。

言うまでもなく脚本は自作にあらず、市川夫人であられた和田夏十さんの手による映画用のシナリオを大幅に脚色する。

どうか期待して頂きたい。
5/20〜6/12まで。

正直、仕方ないとはいえ、チケットの買い控えが予想され、一同祈るような気持ちでいる。

改めて大きな事故がない限り、上演は決行する。中止や延期はないのでご安心を。そしてすぐにでもチケット買ってくれろ。


4月23日は犬山イヌコと隔月で開催しているトークライブ「INU-KERA」。会場はいつもの新宿ロフトプラスワン。

何度も言っていることだが、「INU-KERA」は俺にとってもっともリラックスできる場だ。

酒を飲みながらダラダラと三時間近く雑談するだけのこの時間に、どれだけ救われてきたことか。

こちらのチケットもローソンチケットにて発売中。初参加大歓迎。


「黒い十人の女」が終わると程なく、7月下旬から8月にかけて本多劇場、シアタードラマシティにて行う、古田新太との公演の稽古が始まる。

こちらはまだタイトルすら決まっていない。

古ちんとは4年前に「犯さん哉」という素晴らしくくっだらない舞台を一緒に作った。テーマも無く、ストーリーすら無きに等しい、出鱈目きわまりない作品だった。

ほぼ同様のキャストで贈る今回の舞台は、当初、ナンセンスではなく、ブラックコメディーに内容をシフトしようと話し合われていた。

そこに先日の大地震だ。

悩みに悩んだあげく、今回もナンセンス・コメディーでいくことにした。

今、ブラックでシビアな喜劇をやるのは、書くのも演じるのも観るのもキツいだろうと考えた末の結論だ。

徹底的にくだらない舞台にする。「で、結局なにが言いたいの?」とか言う奴はハナから来ないでよろしい。


舞台と並行して、バンド「ケラ&ザ・シンセサイザーズ」も精力的に動く。

夏が終わる頃にはベスト盤が発売できるハズ。そして年末か来年頭を目指して、次のアルバム。

来月には第一回の選曲コンペが行われる。

ライブは、6月に小さめのライブハウスでツーマンかスリーマンを、9月には「ミューヂック・アワー」の復活第一弾をロフトで、12月には少し大きめのハコで予定している。あくまで予定ですが。


そんな感じ。


あ、ナイロンは秋にもツアーを含む再演作をやる。


よろしく。

世の中は大変だが、我々はひたすら創作する。

keralino at 07:51コメント(14) 

2011年03月20日

256日も放置してもまだ残ってるのね、ブログの、なんていうんだっけ、ホームページじゃなくて、アカウントじゃなくて、なんか、ここ。

別に地震があったからとかではなく、ダラダラと書きたくて久しぶりに更新してみてるので、とくに面白いこととか胸を打つこととか書かない。ほっといてくれ。

と言いながらも、やはり地震のことを書くべきなのか。

俺は3月11日14時46分、恵比寿のキューブ8F会議室で打ち合わせ中だった。

議題は、5月20日に開幕するナイロン100℃「黒い十人の女〜version100℃〜」の稽古のこと。

来年の話や、夏の公演の話を済ませ、さてではいよいよ目前の話を、と、いくつかの問題点や要望を挙げていた時だった。

床が揺れた。

最初はたいしたことないように思えた。

が、揺れは強まり、なかなか止まらない。
会議室のガラス張りの向こうで、社員達が慌てている。デスクの上に積み上げられていた書類やCDが崩れ落ちるのが見えた。

会議室の巨大テーブルを囲んでいた我々7名ほどは、テーブルの下に避難し、「わあ」とか「やだ」とか「これは」とか、口から出てしまう言葉を、会話にならぬまま垂れ流したが、揺れはおさまらない。

少しして、ようやく落ち着いた。

「とりあえずコーヒーのお代わりでも」

と気を取り直し、「えーと、どこまで話しましたっけ」なんつって、去年の話は終わって、夏の公演の話も終わって、あーそうだ、目前の話ですね、
5月20日に開幕するナイロン100℃「黒い十人の女〜version100℃〜」の稽古のこと。
と、改めていくつかの問題点や要望を挙げていた時だった。

再び床が揺れた。

会議室のガラス張りの向こうで、またもや社員達が慌てている。せっかく積み直したデスクの上の書類やCDがまたもや崩れ落ちるのが見えた。

会議室の巨大テーブルを囲んでいた我々7名ほどはテーブルの下に避難し、「でー」とか「もうやだ」とか「なんで二回も」とか、ある者は「地震」と今更誰もがわかりきったことを口にした。

この時に俺は、携帯電話を掴み、テーブルの下で

「会議になりゃしない!」

とツイートしている。

今思えば呑気なものであった。

すっかり会議への集中力は失われてしまったが、それでもなんとか打ち合わせを終え、お疲れ様でしたと外に出て、タクシーを捕まえようとしたが空車が一台も見当たらない。

道路は大渋滞。

バス停には長蛇の列。

電車も止まっている。

仕方なく徒歩で帰宅することを決意し、緒川さんの携帯に電話するが、つながらない。

気がつけば、周囲には、同じように歩いて帰宅する人々が、祭のように押し寄せていた。

まだ誰も「帰宅難民」なんて言葉知らなかった頃の話。

早く懐かしくなりたい。


keralino at 04:40コメント(11) 
演劇・映画・音楽・その他、人生全般 

2010年07月05日

「2番目、或いは3番目」、早くも本日が東京公演の中日なのだった。

前半に観にきてくださった方々、本当に感謝しております。この不況時にな。

どんな舞台も中日を過ぎると、俺を含め、キャスト達も、そろそろ舞台と並行して、別の仕事をしたり、余暇を楽しんだりするようになる。

緒川さんはここのところ、ロクに眠りもしないで映画の撮影と二本立てだ。

何人かの役者たちも、楽屋で映像の仕事のシナリオを開いたりしているし、喜安は秋のナイロン若手公演の台本を執筆。

初日の風景が嘘のようだ。皆がイッパイイッパイで、すべてがワタワタしていた。

どんな芝居も、こうして落ち着いてゆく。
もちろん上演中は誰もが作品と集中して向き合うわけだが。

この時期の、開演2時間前ぐらいの、まったりした空気が好きだ。ああ、今回もここまで来れた、と感じる。



keralino at 13:09コメント(15) 

2010年07月04日

どうしても、現状では、演劇活動のスケジュールの空き時間に活動するしかなく、メンバー一同に対して非常に肩身の狭いケラ&ザ・シンセサイザーズであるが、来月、いよいよ本当にニュー・アルバムのレコーディングに入り、年末のリリースを目指している。

メンバー全員が作曲で参加すること以外、まだ具体的なアルバム・イメージなどを伝えるほど、俺自身何も見えてきていないが、おそらく、勢いよりも、ポップスとしての完成度に重きをおく作品集になるのではないか。

間もなく選曲の為のミーティングが行われる。そこで選ばれた楽曲を、あーでもないこーでもない言いながらアレンジしてゆく過程が、レコーディングで最も楽しい作業だ。この段階で、ボンヤリとしていたモノがどこまで明確なヴィジョンに昇華できるかによって成否は決まる。ボンヤリしたままだと歌詞もボンヤリしがちだし、出来上がって店に並ぶのもボンヤリしたCDになるだろう。

アレンジ作業にできるだけ時間を割かねば、と、新曲のデモを聴いて思ったのだった。

期待して頂きたい。

keralino at 15:36コメント(2) 

2010年06月30日

タイトルを決めたのは昨年末にシアター・コクーンで「東京月光魔曲」を上演中の時期だったと記憶する。

大体いつもそんなローテーションだ。ようやく「2番目、或いは3番目」が落ち着きつつある今は、年末の舞台のタイトルなどの概要の決定を迫られている。

というのは自分本位な言い分で、プロデュース・サイドとしては、幕が開くまで待ってくれていたわけだから、決めないわけにはいかない。

そんなわけで、芝居のタイトルやコメント文は、大変な仕事を終えてグッタリしている時に、決めたり書いたりすることが多いのだった。

それはともかく、ナイロンの新作「2番目、或いは3番目」の開幕から10日が経った。

「わが闇」「シャープさんフラットさん」「神様とその他の変種」と連続した三本では、特殊な環境下の物語ではあるものの、どの舞台でも、作者や演者と等身大、少なくとも身近に感じられる人間を描いてきた。

当然ながら、舞台設定は日本だし、明確にはしていないけれど、時代も現代だ。

そうした共通項から、上記三作を無理矢理「三部作」とするなら、カフカをコラージュしたインチキな実験作「世田谷カフカ」を経て、俺は一体ナイロンでどこへ行こうとしているのでしょうか。聞きたいぐらいだ。

「2番目、或いは3番目」は架空の国の町が舞台だし、何が起こったあとなのかも語られない。非常に抽象性の高い物語だ。

訪問者と住人たちの、断片的な交流を淡々と描くことで、何かを浮かび上がらせられないかと考えて書いていた。淡々とし過ぎるのもなんなので、笑いをまぶした。例によって、別役流のナンセンスな哲学から生まれる笑いが大部分。

ちょっと、まぶし過ぎたのかもしれない。
笑いによって、一見なんでもないように見える風景に透かして見せようとした、裏の様々な感情が、やや埋もれてしまった感はある。むつかしいよ。もし笑いがまったく無いとしたら、そうした情緒を汲み取れなかったお客さんにとっては、いよいよ「なんにも起こらない、退屈な舞台」ってことになってしまう。

また、笑いを、会話やシーンのスイッチ・チェンジの為、あるいは登場人物たちにとっての「生活の知恵/コミュニケーションのツール」として機能させたのも、なんというか、今回は有効だったと考える。

だから、少なからず、笑いは必要だった。
必要ではあったが、少し多過ぎた。

現時点での反省。

ただ、毎度ながら、死に物狂いで、精一杯やった。面白いと感じてくれる方もいれば、そうは感じない方もいるだろう。それは「仕方ない」というより、むしろ「好ましい」。イロイロな人がイロイロな見方でイロイロなことを感じてくれているなら、こんなに嬉しいことはない。


keralino at 21:48コメント(8) 

2010年05月20日

たしかに、慣れてみればツイッターは手軽なのだった。

20年以上会ってなかった人にも再会できたりするし。

二週間強であっという間に5000人近い方々が集まってきてくれた。

だけど、ブログはブログで素敵さ。別の魅力がたくさんある。なんと言ってもダラダラ書ける。あと、重くてアクセスできないなんてことが、まず、ない。

なんか、ブログが哀れに感じられて、こうして書いてみたが、今はあまり長居する暇はないのだ。
すまない、ブログ。

ただ、どうかブログよ、棄てられたなどとは考えないでほしい。長い付き合いじゃないか。付き合い始めの頃は毎日のようにやっていた。やりまくりだ。だって、誰だってそういうものだろう。

今は月に一度か二度になってしまったが、ここでハッキリ伝えておく。

いざという時に頼るのはやはりブログさ。

少なくともブログ上ではそう明言しておくよ。




keralino at 01:21コメント(20) 

2010年05月03日

ライブの宣伝になればとツイッター嗜んでみようと試みたが、無理。やはり俺のような機械音痴には難しすぎ。

まず、ユーザーネームを決めるのに一苦労。
KERAもKERALINOもすでに誰かが使用していて使えない、と機械が言う。

苦し紛れにつけたのがkerasandだ。なんだケラサンドって。俺をなにで挟む。

ようやく登録できたはよいが、やはりなにがなにやらだ。結局、よくわからないということだけつぶやいて、もう今日は眠るなう。


keralino at 03:59コメント(26)