2010年06月

2010年06月30日

タイトルを決めたのは昨年末にシアター・コクーンで「東京月光魔曲」を上演中の時期だったと記憶する。

大体いつもそんなローテーションだ。ようやく「2番目、或いは3番目」が落ち着きつつある今は、年末の舞台のタイトルなどの概要の決定を迫られている。

というのは自分本位な言い分で、プロデュース・サイドとしては、幕が開くまで待ってくれていたわけだから、決めないわけにはいかない。

そんなわけで、芝居のタイトルやコメント文は、大変な仕事を終えてグッタリしている時に、決めたり書いたりすることが多いのだった。

それはともかく、ナイロンの新作「2番目、或いは3番目」の開幕から10日が経った。

「わが闇」「シャープさんフラットさん」「神様とその他の変種」と連続した三本では、特殊な環境下の物語ではあるものの、どの舞台でも、作者や演者と等身大、少なくとも身近に感じられる人間を描いてきた。

当然ながら、舞台設定は日本だし、明確にはしていないけれど、時代も現代だ。

そうした共通項から、上記三作を無理矢理「三部作」とするなら、カフカをコラージュしたインチキな実験作「世田谷カフカ」を経て、俺は一体ナイロンでどこへ行こうとしているのでしょうか。聞きたいぐらいだ。

「2番目、或いは3番目」は架空の国の町が舞台だし、何が起こったあとなのかも語られない。非常に抽象性の高い物語だ。

訪問者と住人たちの、断片的な交流を淡々と描くことで、何かを浮かび上がらせられないかと考えて書いていた。淡々とし過ぎるのもなんなので、笑いをまぶした。例によって、別役流のナンセンスな哲学から生まれる笑いが大部分。

ちょっと、まぶし過ぎたのかもしれない。
笑いによって、一見なんでもないように見える風景に透かして見せようとした、裏の様々な感情が、やや埋もれてしまった感はある。むつかしいよ。もし笑いがまったく無いとしたら、そうした情緒を汲み取れなかったお客さんにとっては、いよいよ「なんにも起こらない、退屈な舞台」ってことになってしまう。

また、笑いを、会話やシーンのスイッチ・チェンジの為、あるいは登場人物たちにとっての「生活の知恵/コミュニケーションのツール」として機能させたのも、なんというか、今回は有効だったと考える。

だから、少なからず、笑いは必要だった。
必要ではあったが、少し多過ぎた。

現時点での反省。

ただ、毎度ながら、死に物狂いで、精一杯やった。面白いと感じてくれる方もいれば、そうは感じない方もいるだろう。それは「仕方ない」というより、むしろ「好ましい」。イロイロな人がイロイロな見方でイロイロなことを感じてくれているなら、こんなに嬉しいことはない。


keralino at 21:48コメント(8)