2007年05月04日

コラージュする責任。

珍しく打ち合わせも書き物の締め切りなかったので、珍しく役者達と飲み、珍しく1時前に帰宅。

飲みの席でもほとんどが岸田國士と作品に関わる話に終始する。
岸田國士氏もこれだけ語ってもらえれば本望なのではないか。

今回、岸田さんの短篇7本をコラージュして1本の作品にしたわけだが、そしてもちろん許可を得てそうさせてもらっているわけだが、考えてみるとこれはとんでもないことだ。
「コラージュ」なんて言うと聞こえはよいが、要は作品をバラバラにして作者の意図と関係なくツギハギにしているわけだから。

もし、「梶原一騎コラージュ」なんつって、力石が死んだシーンから始まって西が鼻からうどんを出すシーンを挟み、飛雄馬が「俺の父ちゃんは日本一の日雇い人夫だあ!」と叫んだと思ったら西が鼻からうどんを出し、次の瞬間早乙女愛が大河誠とスキー場で出会って西が鼻からうどんを出し、次のシーンでは西が鼻からうどんを出すやいなや西が鼻からうどんを出し、最後は西が鼻からうどんを出してオワリ、
なんてことをやったら
「梶原一騎の作品は、主に西が鼻からうどんを出す」

という誤った認識を観る者に与えかねない。
岸田國士について考えれば考えるほど、岸田國士の作品に触れれば触れるほど、預かった人間としての責任を強く感じ、稽古に入る前の
「まあ、結果面白くなりゃ本人も天国で喜んでくれるだろう」
なんていう気持ちはもはやさらさらなく、こんなにも面白いものを7本もまとめて素材に使わせてもらうのだから、つまらないものが出来上がっちまった日にゃ、完全に俺の責任だ、と感じるようになった。

岸田さんがどんな思いで、どんな意図で台詞の一行一行を書いたのか、どんなにつらい思いをして、どんなに楽しんでト書きのひとつひとつを書いたのかを考えると、
今更ながら、カットした台詞をすべて戻したくもなるし、原作のト書きと全く違う指示に書き変えた上演台本を、少しでも元に戻したくなるのだ。

もちろん、これだけいじりまくっておいて、なにを馬鹿げたことを抜かしているのかとも自嘲する。
そして、潤色とは、演出とは、つまりは原作を誤読することなのだとも思う。

しかし、今回ばかりは、日を追うごとに作家岸田國士をリスペクトしてゆく自分を感じ、それに伴うプレッシャーも日毎に増し、だからこそ、このタイミングで氏の作品を手掛けさせてもらえた幸せを感じるのである。



keralino at 01:37