教授と學生『玄朴と長英』(眞山青果作)(第207回)

第207回 教授と學生「玄朴と長英」(その二)

 玄朴と長英はお互ひの生き方を廻つて激しい言葉の遣り取りをするのだが、それは長英が玄朴から逃走資金を借りるといふ當初の話題から離れて、お互ひの過去に對する批判の應酬へと變化してゆく。そして、長英にはどうしても玄朴に問ひ質したい事があつた。二人の恩師であるシイボルトに關はる事である。シイボルトが日本地圖を日本國外に持出さうとして罪に問はれたのが、所謂「シイボルト事件」である。玄朴がこの事件にどう關はつたか、少々長くなるが「玄朴と長英」から引用しよう。

長英 シイボルト先生が罪に問はれる材料となつた國禁の日本繪圖を、天文方(てんもんかた)の高橋作左衛門に頼まれて長崎まで送り屆ける密使をつとめたのは誰だ。玄朴、顔色が變つたぞ。(中略)

玄朴 おれはあの時高橋氏に封書のまま頼まれて、中に何が入つてゐるか、もとより知らずに長崎までとどけたのだ。あとであの中に御法度の地圖があつたと聞いて、おれは實に高橋氏の無情を怨んだくらゐなのだ。(中略)

長英 お前の細君の兄さんだな。猪俣源三郎は何のために自殺したんだい。高橋作左衛門とシイボルト先生の間に、ふだん手紙の取次ぎをした、それだけの罪でさへ、猪俣は責を感じて切腹してゐるぢやないか。子供の使ひぢやあるまいし、封書のなかを知らなかつた? ははははは、誰がそれを聞いて信用する者がゐるんだ。(中略)

玄朴 おれは自首して出た。みんなの處刑後ではあつたが、立派に自首して出た。封書はとどけたが内容(なかみ)は知らなかつたと、有りの儘白状して筒井肥前守樣のお役宅に名乘つて出て、正當にお取調べをうけたのだ。そして無罪と事が落着したのだ。馬、馬鹿なことを云ふな。

長英 (嘲笑的に)然うかよ。ははははは。ぢや、まア、お前一人だけ好く助かつたもの、として置かう。なア玄朴。ただな、然し斯う云ふことだけは聞いて置けよ。おれがあの場合にお前だつたら、たとへ封書のなかみを知らずにとどけたにしても、高橋作左衛門はじめ十何人がお仕置きをうけ、義兄の源三郎が切腹までするなかに、おめおめ生きてゐるやうな際どい藝當は出來ないんだ。

玄朴 天地に俯仰して、おれは恥ぢるところを知らない。

長英 おれならだよ、馬鹿。おれなら體裁(きまり)が惡いと云ふんだ。一人殘つて生きてゐることが恥しいんだ。いや、自分一人だけ罪がなかつたと云ふことが苦しいんだ。たとへ内容は知らなくとも、おれなら日本總繪圖と承知の上に長崎へ屆けましたと、嘘をこしらへても、一緒にお仕置きをうけずにゐられないんだ。(中略)

玄朴 そりや、それや、、、、氣質の相違だらう。おれは死なない。(「玄朴と長英」)

 長崎のシイボルトに屆けた封書の中に、「國禁の日本繪圖」が入つてゐる事を、自分は知らなかつたと、玄朴は言ふ。しかし、長英は「子供の使ひ」ぢやあるまいし、「誰がそれを聞いて信用する者がゐるんだ」と言ふ。だが、幕府によつて「正當にお取調べをうけた」結果、「無罪と事が落着した」のである。詰り、玄朴は「法的に無罪」となつたのだが、それにも關はらず長英は玄朴の「道義的責任」を追及してゐるのである。「玄朴と長英」が發表されたのは大正十三年だが、平成三十年の國會に於ても、「モリカケ」問題とやらが大眞面目に取上げられ、「法的に何の問題も無い」安倍総理の「道義的責任」とやらが、何時果てる事も無く「白痴の語る物語」さながら「わいわいがやがや」語られ、それは「何の意味もありはせぬ」。「法律上の罪」とは異なり、「道義的責任」は當事者個人に属し、個人に屬する責任を、他人が論ふ事は出來ない。「子供の使ひ」であらうが、なからうが、玄朴が本當に「封書のなかみを知らずにとどけた」かどうかを、長英が知る事は出來ないからである。「玄朴と長英」を觀劇したり、脚本を讀んだ者は、玄朴の言ふ通り、長英が「自分の感情を他人に強いる」愚か者であり、「他人は他人で生きてゐる」事を認めようとはしない、詰り自他の區別がつかない昔ながらの日本人である事を知るであらう。だが、「玄朴と長英」の幕切れの臺詞はかうである。長英は、玄朴からどうしても逃走資金を借りる事が出來ずに、玄朴宅を辭す。その長英について、玄朴はかう言ふ。「ああ、俺はあいつが好きなのだ。同時に俺は、、、あいつが憎くてならない。(中略)あいつは、、、畳の上で死ねない奴だが、、、然し、おれには舊(ふる)い、最も懐かしい友人の一人なのだ、、、。」これは決して感傷的な臺詞ではない。それどころか極めて眞摯で頗る道徳的な臺詞なのである。玄朴が己が内なる長英と苦しい闘ひを繰廣げてゐる樣が、まざまざと浮かび上がつて來るからである。
 今日もいささかも古びてゐない「玄朴と長英」の一讀を、拙文の讀者に薦める。

書評『賢者の毒』(留守晴夫著)

書評『賢者の毒』(留守晴夫著)

 圭書房主宰留守晴夫氏が、簡にして要を得た名著解説であり、しかも實に鋭い時事評論でもある『賢者の毒』(圭書房)を刊行されたので、「教授と學生」はお休みにして、書評を書きたい。

 留守氏の師匠であり、私の恩師でもあつた故松原正先生の教へに從へば、人は「よろづ」の事に二つの態度を取る。一つは「デアル」であり、もう一つは「ベキ」である。「デアル」は現實をその儘に受容する生き方であり、「ベキ」は人生の價値に關はる。
 例へば、「あの世の裁き」なぞ無いのだから、人は安楽に安全に世渡りをすれば良いの「デアル」。しかし、これはどうしても譲れないと思ふ事態に遭遇すれば、人は損を覺悟で、瘠我慢をしても戰ふ「ベキ」。だが「痩我慢」は辛いので、萬事ほどほどが良いの「デアル」。けれども人はプライドゆゑに「ベキ」を貫く、、、、。つまり「ベキ」と「デアル」の堂々巡りは終る事はない。しかし、それも我々が「ベキ」を明瞭に意識しての上の事であり、「ベキ」が無くなれば、現實は全て「デアル」で良いの「である」。
 しからば、「ベキ」を支へるものは何か。御先祖樣の生き方の流儀である。それこそが、唯一特權を主張出來るものだからである。留守氏に據れば、西歐に於ては、「ソクラテスやプラトンを生んだヘレニズムの精神」であり、「舊約聖書のモーゼに始まりイエスやパウロを生んだヘブライのそれ」(『賢者の毒』)である。我國に於ては、森鴎外が歴史小説や晩年の史傳で書いた「意地」があげられる。が、『賢者の毒』跋文には、「關ヶ原の陣や大阪夏の陣にも奮戰した歴戰の勇士だが、四十一歳の時佛門に歸依」した鈴木正三(しやうさん)の「盲安杖(まうあんぢやう)」が特に取上げられてゐる。同書の一節、「かたのごとく世にそむかぬほどの人も、内心には科有(とがある)べし。心を敵にしてひとりつつしめ。心中のあやまり、人はしらねども、我慥(われたしか)に是(これ)をしる。」を、留守氏は引き、かう書いてゐる。

 正三の著しい特色は、己が「心中のあやまり、人はしらねども、我慥に是をしる」といふ類の、頗る眞率な自己省察が一貫して貫かれてゐる點にある。(中略)正三は七十六歳で死ぬ間際迄も、己が「心中のあやまり」を克服出來ぬ「餓鬼畜生」たる自らの爲體(ていたらく)を正直に告白し、嘆いてをり、「何とも成ぬ物ぢや」といふのは、さういふ彼の衷心よりの慨嘆である。然るに、「何とも成ぬ物ぢや」と痛切に思ひ知る事の無い輩(やから)が世間には多いから、「安く佛法を授くる」やうな愚かな眞似をやりたがり、またそれに容易く騙される手合も多い譯だが、「毒藥變じて藥と成(なる)と云(いふ)が如く、藥變じて毒と成。結句(けつく)怨(あだ)と成こと多かるべし」と正三は云ふ。(『賢者の毒』、跋)

 「デアル」に流される己が「心中のあやまり」を見詰め、「ベキ」を意識するがゆゑに「あやまり」を克服しようとして、壯絶な苦闘を鈴木正三は繰廣げたのであり、正三はそれを正直に記した譯だが、留守氏が『賢者の毒』で取上げた名作の數々は、全てこの「ベキ」と「デアル」の終る事の無い惡戰苦鬪の記録に他ならない。留守氏は書いてゐる。

日本と歐米とを問はず、「自らの心と心との格闘」無くして、優れた文學が生み出される事は決して無い。けれども、「自らの心と心との格闘」が成立つ爲には、在るが儘の己れの「心を敵にして」、それに「心ゆる」さず、それと眞劍に戰ふ生き方こそが、人たる者の全うな生き方だといふ事が信じられてゐなくてはならない。(『賢者の毒』、跋)

 すなはち「人たる者の全うな生き方」こそが、留守氏の最大の關心事なのだが、それは、人間は只の「蛆袋(うじぶくろ)」でも「糞袋(くそぶくろ)」でも斷じてあつてはならないとの留守氏の激しい信念に基づいてゐる。その信念を證す文章を『賢者の毒』から、何カ所か擧げて見よう。

「なんといふことを」としか云ひ樣の無い非情苛酷な現實がこの世には確實に存在する。人たるもの、まづはそれを怯(ひる)む事なく直視せねばならぬ、彼はさう信じてゐた。(アンブローズ・ビアス、「空飛ぶ騎手」)

「本氣で何かを始め」ようとする父を嬉しく思つた矢先に、父は慘死を遂げる。何とも救ひの無い話だが、この作品はヘミングウェイの「悲劇的人生觀の中心的構成要素、即ち、この宇宙の何ものかが吾々全てを打負かす、といふ考へ方の完璧な表現」であり、短編集全體の「どん底の情緒」の表現でもあると、アメリカの或る學者が書いてゐる。(中略)二十七年後、彼は名作「老人と海」に於て、何物にも打負かされぬ人間の無私のストイシズムの見事を描くが、それは人間の悲哀を知悉した男の、人間肯定への眞摯な祈り以外の何物でもなかつた。(アーネスト・ヘミングウェイ、「僕の父」)

「氣を紛らす事」の一切を剥奪された玄鶴の悲慘について篤(とく)と「考へる」のも、紛れもなく、人の人たる所以に他ならない。(芥川龍之介、「玄鶴山房」)

「李陵にとつて蘇武の存在は崇高な訓戒でもあり、いらだたしい惡夢でもあつた」と中島は書いてゐるが、如何に「やむを得ぬ」事情があつても、人たる者は「やむを得ぬのだ」といふ考へ方を自らに絶對に許してはいけないのか。しかし蘇武の純粹な生き方は實に美しく、それに比して惱み惑ふこの己の有樣はどうか。さういふ倫理的葛藤の眞摯、自己呵責の凄絶は中島文學の大きな魅力であり、その根底には彼の「ありうべからざるほど暗い」(武田泰淳)人間觀が存してゐる(後略)(中島敦、「李陵」)

 「デアル」と「ベキ」との精神の惡戰苦鬪こそが、人間として最も大切な事なのだが、『賢者の毒』は、東西の名作に、その「惡戰苦鬪」を探つた眞に貴重な「生きた學問」の書なのである。

教授と學生『玄朴と長英』(眞山青果作)(第206回)

第206回 「玄朴と長英」(その一)

 山口教授は久し振りに文學書房發行『文學研究』に寄稿した。以下がさうである。

 名著再讀『玄朴と長英』

 『玄朴と長英』は眞山青果が大正十三年に發表した傑作戲曲であり、伊東玄朴と高野長英の劇的對立と葛藤が見事な臺詞で表現されてをり、今日もなほ上演に耐へる。
 弘下二年(1845年)三月二十九日、長英は共に長崎のシイボルト主宰鳴滝塾でオランダ醫學を學んだ医師玄朴のもとを訪れる。長英は所謂「蛮社の獄」に連座して入牢してゐたのだが、大火に乗じて逃亡したのであり、逃亡三日目に學友玄朴の前に姿を現したのは、逃走資金を手に入れる爲である。しかし、玄朴は長英に「金は貸さぬ、火事から三日以内に牢屋敷に歸れば減刑される、ここは一先づ自首しろ」と云ひ、「歸れ、歸らぬ」の激しい口論となる。その言合ひの最中に、長英は種痘(牛痘法)に關する玄朴の飜譯原稿を見附け、思はず讀耽る。長英は天才肌の學者であり、西洋學問に抱いてゐる情熱は本物であつた。本文を引かう。

長英 學問の進歩は、、、全く凄いなあ。なア玄朴、一日も本を讀まずにはゐられなくなるなア。(と感慨深く云ふ)

玄朴 兎にかく、この牛痘法が日本全國に行はれると、どれだけ人間の生命を救ふか知れないことだ。おれは全力をあげて大成して見るつもりだ。

長英 遣れ、遣れ遣れ。何しろそりや大事業だぞ。

玄朴 高野。それにつづいて云ふやうだが、おれは然う思ふよ。何も大聲疾呼しなくとも、黙つて市井の間に隠れてゐても、人間のため世間のためにつくす手段は幾らでもあると思ふよ。

長英 然うだ然うだ。(無反省に同意して)全くだ、、、。(と寢ころびて、原稿を貪り讀む)

玄朴 (やや親しげな口調にて)高野。貴公に言はせると、この世界は蛆蟲の世界のやうで、今に新しい別の世界が忽然とわれ等の前にひらけるもののやうに云ふ。また貴公はその路びらきのために、選ばれて陣頭に立つて、覺醒の太鼓をたたいてゐるやうにも云ふ。然し和蘭の譬(たとへ)に、眞に新しきものはその靴の爪先に來らず、常にその踵(かがと)の底に隠れて來ると云ふ言葉がある。(「玄朴と長英」)

 玄朴は長英の過激を嫌ひ、中庸の徳を身に附けた。玄朴は温厚篤實な医師であり、長英のやうな溢れる才氣は持たぬが、頗る堅實な學者でもある。それが二人の會話から解る。だが、玄朴のやうに「中庸」が大事といふ事になれば、やけどを恐れて何もしない處にゆく危險が生じる。これは爲政者の側から見れば、「中庸」くらゐ共同體を運營するのに都合の良い生き方はないと云ふ事にもなる。例へば「種痘」を世に広めれば人助けになり、それが幕府轉覆に結び附く事はない。しかし、西洋の「法學」ではさうはゆくまい。西洋の「民主主義」は當時の日本では「過激思想」の最たるものだからである。「中庸」たる玄朴は「法學」を「封印」し、それゆゑ、二人はかう云ふ會話を交はす事になる。發端は長英が風呂敷に包んである本を見附けた事によるのだが、彼は、中身について玄朴に質問する。玄朴は答へる。

玄朴 うむ、あれか。君ならば見せても好いがーー然し讀むと人間が氣違ひになる本だ。一生風呂敷に封印して、蔵(しま)つて置くのだ。

長英 馬鹿にはするが、貴樣にも取柄はあるなア。斯うして金錢を惜しまずに泰西の本を買ひ集めて、黙つて一人で讀んでゐる點は感心する。(中略)

ーー玄朴、風呂敷づつみをひらきて二册の厚き本を渡す。

長英 うん、この匂ひよ、これだ。(と本を嗅ぎて、寢ながら見て)フォルク・レヒト。人民法ーー民法とでも飜譯するのかな。法律の本らしいが何を書いたのだ。

玄朴 高野、全く西洋と云ふ國は、われわれとは別な世界だなア。士農工商の四民を通じて、高下もなく貴賤もなく、上は宰相から下は賤民卑族に至るまで、みな一箇同權の民として規律されてゐるのだ。そりや人民としての義務はある、然し萬民に與へられた權利には何の差別もないのだ。今の治世に住んでゐるわれわれから考へると、まるで嘘のやうな話で、全く想像の外の世界だ。こんな自由な國が地球上の一方にはあるのにと思ふと、いまのこの日本を考へて、おれでさへ氣が變になりさうだから、貴公なぞ讀んだら、なにを爲出來(しでか)すかわからない。(中略)

長英 然う云ふ本があつて、お前はそれを風呂敷に包んで、封印までして置くのだな。(鋭く云ふ)

玄朴 この本の内容(なかみ)など、假りにも役人方の耳に入つて見ろ。何しろ今の西丸下(にしまるした)は、大將の水野を初め、和蘭ぎらひで手がそろつてゐるのだ。それこそ蘭學の命脈が絶えてしまふだらう。

長英 (書を障子に投げつけて)馬鹿、勝手にしやがれ。(「玄朴と長英」)

 長英と玄朴のこの遣り取りから僅か二十三年後に、明治維新が起こり、武家社會の身分制度は一挙に崩壊する。玄朴は世界情勢を正確に知りながらも、激動の世界をよそに、自足して眠り込んでゐる日本を覺醒させようとはせず、政治に關はらうとはせず、一介の医師である分際を守るのだから、さう云ふ玄朴の生き方への長英の激しい苛立ちは、無理がないとも言へる。だが、實を言へば、「將軍政治」の「壓政、蒙昧、野蠻」を批判する長英の方が、個人としては、玄朴よりも遙かに「身分制度」に捕はれてゐる「壓制者」であつた。玄朴は長英に言ふ。

玄朴 お前は西洋諸國の制度に比較して、封建の世襲や門閥の制度を詛(のろ)つてゐるやうだが、正直を云ふと、高野、その壓政のはげしいこと貴公の如きものはないぞ。君はその點では暴虐者だ。長崎以來君はおれを何んと呼んでゐると思ふ。馬喰、馬鹿勘、法印がへり、、、。貴公は鳴滝の塾にゐる時分から、どれだけ僕を辱しめ通したと思ふ。おれと同じ食卓に食事するのさへ、穢いもののやうに罵つて來たではないか。身分へだての心は、君ほど強い人はないと思ふ。その點に於て、きみはいつも暴君だ、虐王だ。(「玄朴と長英」)

 「世襲や門閥制度」の理不盡を激越に批判する者が、實は「門地」に捉はれ、家柄、格式により人を平氣で差別する自己矛盾に陥つてゐる不様(ぶざま)は、今日の日本でも良く見られる話ではあるが、それでも長英の玄朴に對する「暴君、虐王」ぶりはいささか度を越してゐる。明晰な頭脳を持つ長英が何故かうした没道德の振舞ひに及ぶのか。長英には「理想」があり、その「理想」ゆゑに、長英は生ぬるい生き方をしてゐるかに見える友人玄朴を無反省に罵つたのである。つまり、「理想」を持つたがゆゑに、長英の目が濁つて、己が姿が見えなくなつてゐるのである。
 長英の自暴自棄とも云へる行動、玄朴に對する甘えとも云ふべき粗暴な言動、それらに對する玄朴の理性的、抑制的な態度、かうした事から、作者眞山青果の同情は專ら玄朴の方にあるかに見えるが、青果の中には確實に長英がゐたのであり、次の長英の言葉は、幕藩體制を批判も擁護もしない、玄朴の「非體制」の弱點を鋭く抉つてゐる。

長英 お前は自分の尻に火がついてゐるのに氣がつかないか。火輪船(くわりんせん)でやつて來りや、上海から江戸まで、たつた四日で來られるんだぞ。一生懸命になつて内から雨戸をしめてゐても、外の夜明けを防ぐことが出來ると思ふか。うぬが國だのひとの國だのと、くだらないことを云つてゐられる時代なのか。(「玄朴と長英」)

 いかにも「將軍政治」は「外の夜明けを防ぐこと」が出來なかつた。だが「玄朴と長英」は大正十三年に發表されてゐて、既に明治維新は遠い過去の物語である。「將軍政治」や、玄朴の「非體制」の無力を批判する事に、この作品の力點がある譯ではない。この作品の特徴は、玄朴と長英の凄まじい葛藤が二人の對話だけで表現されてゐる事にある。つまり個と個の衝突が言葉と言葉のぶつかりあひで爲されてゐるのである。眞山美保は「父・眞山青果のこと」で、かう述べてゐる。

眞山青果はよく誤解をうけて大變古めかしい作家のやうに思はれてゐますけれども、非常に近代的な人なんです。これは亂暴な言ひ方なんですけれど、彼が生涯通じて一番明白に闘つたものといふのは封建思想ぢやないかと思ふんです。それで近代といふものをいち早く勉強していかうとしたーー彼は醫者の修行もしてますから、實證的な則物的な考へ方をもつてゐます。(中略)(青果は)近代劇を書いた數少ない作家の一人ではなかつたかと思ひます。(「玄朴と長英」は)全部非常に激しい對話でなされてゐて、日本的情感で逃げてゐないで對立していくところもさうですね。(「父・眞山青果のこと」)(續く)
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