教授と學生『栗山大膳』(森鴎外作)(第220回)

第220回「栗山大膳」(その一)

 讀書會、出席者、山口教授、松島、藤野(松島夫人)、黒田、葉月

山口教授 「栗山大膳」は大正三年に發表された鴎外の歴史小説だが、作者自身必ずしも滿足のゆく作ではなかつたらしい。「わたくしのすぐれなかつた健康と忙しかつた境界とのために、殆ど単に筋書をしたのみの物になつてゐる。」などと、エッセイ「歴史其儘と歴史離れ」に書いてゐる。確かに前年の大正二年に『意地』の表題を附けて刊行された「興津彌五右衛門の遺書」、「阿部一族」、「佐橋甚五郎」の傑作三篇に較べれば、小説的ふくらみに乏しく、單なる歴史的事實の叙述に終始してゐるやに見える。鴎外はこの後、「歴史其儘」から逃れたくなり、「歴史離れ」して、名作「山椒大夫」を書くのだが、「栗山大膳」は丁度「歴史其儘」と「歴史離れ」の中間地點にある。家老の利章(栗山大膳)が主君忠之(福岡の城主黒田忠之)に公儀へ謀反の企てがあるとて徳川幕府に忠之を告發したのは歴史的事實であるが、何故さうしたかについては、概ね鴎外の推測によつて書かれてゐる。特に、利章の心理について書いた部分は、さうである。

黒田 ともかく筋書が滅法面白いですね。小説的結構に富んでゐます。特に、利章が主君を無實の罪に陥れようとした處など、作り事のやうにさへ思へます。

葉月 (ノートを開き)粗筋を作つたので讀んで見ます。本文からの抜き書きが多いです。

 「筑前國福岡の城主黑田左右衛門佐忠之の出した見廻役が、博多辻の堂町で怪しい風體の男を捕へた。それを取り調べると、豊後國日田にゐる徳川家の見附役竹中采女に宛てた、栗山大膳利章の封書を懐中してゐた。城内でそれを開いて見れば、忠之が叛逆の企をしてゐるといふ訴であつた。」當時、忠之と利章との關係は一觸即發の状態であつた。利章が病氣を理由に頑として登城を拒み、それなら、忠之が「當方から出向いて面會する」とまで言つても、それすら拒むのである。
 そこに徳川家に對して「異心のない忠之を異心があると」、利章が訴へる事件が出來した。「いかにも忠之と利章とは極端まで緊張した間柄にはなつてゐる。今一歩進んだら忠之が利章に切腹を命ずるだらうと云ふ處まで、主從の爭は募つてゐる。併しそれは忠之の方で、彼奴どれだけの功臣にもせよ、其功を恃んで人もなげな振舞をするとは怪しからんと思ひ、又利章の方で、殿がいくら聡明でも、二代續いて忠勤を励んでゐる此老爺を蔑にすると云ふことがあるものかと思つての衝突である。忠之は憎みつゝも憚つてをり、其周圍の人達は憚りつゝも敬つてをつた利章が、どうして主君を無實の罪に陥れようとするか、誰にも判斷が附かぬのである。
 利章の密書は只忠之主從を驚きあきれさせたばかりではない。主從は同時に非常な懼れを懐いた。なぜと云ふに、忠之が叛逆を企てたと云ふ本文の外に、利章の書面には追而書が添へてあつた。其文句は、此書面は相違なく御手許に届くやうに、同時に二通を作つて、二人に持たせて、別々の道を經て送ると云ふのである。(中略)原來利章程の家の功臣を殺したら、徳川氏に不調法として咎められはすまいかと云ふことは、客氣に驅られた忠之にも、微かに意識せられてゐたが、此訴が江戸へ往つたとすると、利章は最早どうしても殺すことのならぬ男になつた。なぜと云ふに、逆意の有無を徳川氏に糾問せられる段になると、其讒誣(ざんぶ)を敢てした利章と對決するより外に、雪冤の途はないのである。」

 一體、ここに至る迄、二人の間に何があつたのでせうか。どうしても、話の續きを知りたくなる見事な導入部ですね。鴎外は小説を書くのが上手です。

松島 利章の父栗山利安も、忠之の祖父黑田官兵衛孝高(如水)の代から仕へた功臣であり、利章は忠之の父黑田長政が死ぬ時には遺言を聽いてゐます。父子二代に渡つての黑田家の功臣であり、徳川家の信認もあります。いかに封建世界の主從であるといへども、氣に食はぬからといつて、利章は忠之が自由に扱へる男ではありません。

葉月 「『栗山大膳』は、あきらかに、歴史小説として書き起こされてゐる。主君を堵(と)に安ぜしめようとする善意が、その善意ゆゑに、當の主君と深刻に對立しなければならないといふ矛楯をはらんでしまふ。」鴎外は、主君との生死に關はる葛藤を生む、さういふ「陰翳のある善意」を鋭く捉へてゐると、稲垣達郎は『森鴎外の歴史小説』で、述べてゐますが、その通りだと思ひます。ではこの「陰翳のある善意」とは具體的にどんなものでせうか。(續く)

教授と學生『佐橋甚五郎』(森鴎外作)(第219回)

第219回「佐橋甚五郎」(その三)

(讀書會、續き)

葉月 「佐橋甚五郎」の粗筋を續けます。佐橋甚五郎は甘利に仕へてゐます。遠江國小山(たほたふみのくにこやま)の城で月見の宴が催された時の事です。以下、鴎外の見事な文章を讀上げます。

夜が更けたので、甘利は大勢に暇(いとま)を遣つて、跡(あと)には新參の若衆一人を留めて置いた。
 「あゝ。騒がしい奴等であつたぞ。月の面白さはこれからぢや。又笛でも吹いて聞せい。」かう云つて、甘利は若衆の膝を枕にして横になつた。
 若衆は笛を吹く。いつも不意に所望せられるので、身を放さずに持つてゐる笛である。夜は次第に更けて行く。燃え下がつた蝋燭の長く延びた芯が、上の端は白くなり、その下は朱色になつて、氷柱(つらら)のやうに垂れた蝋が下には堆(うづたか)く盛り上がつてゐる。澄み切つた月が、暗く濁つた燭の火に打ち勝つて、座敷は一面に青み掛かつた光を浴びてゐる。どこか近くで鳴く蟋蟀の聲が、笛の音(ね)に交つて聞える。甘利は瞼が重くなつた。
 忽ち笛の音がと切れた。「申(もを)し。お寒うはござりませぬか。」笛を置いた若衆の左の手が、仰向になつてゐる甘利の左の胸を輕く押へた。丁度浅黄色の袷(あはせ)に紋の染め抜いてある邊である。
 甘利は夢現(うつつ)の境に、寛いだ襟を直してくれるのだなと思つた。それと同時に氷のやうに冷たい物が、たつた今平手が障つたと思ふ處から、胸の底深く染み込んだ。何とも知れぬ温い物が逆に胸から喉へのぼつた。甘利は氣が遠くなつた。(「佐橋甚五郎」)

 筋書と言ひながら、原文の儘です。鴎外のこの文章を刈込む事は出來ません。全く隙の無い、一種、異樣な程の緊張感を孕んだ文章だからです。一箇所でも外せば全體が壞れてしまひます。もう少し讀んで見ます。

 三河勢の手に餘つた甘利を容易く討ち果して、髻(もとどり)をしるしに切り取つた甚五郎は、鼬鼠(いたち)のやうに身輕に、小山の城を抜けて出て、從兄源太夫(げんだいふ)が濱松の邸(やしき)に歸つた。家康は約束通り甚五郎を召し出したが、目見えの時一言も甘利の事を言はなんだ。蜂谷の一族は甚五郎の歸參を快くは思はぬが、大殿の思召を彼此(かれこれ)云ふことは出來なかつた。(中略)
 天正十一年になつて、遠からず小田原へ二女督姫君(とくひめぎみ)の輿入があるために、濱松の館の忙しい中で、大阪に遷つた羽柴家へ祝(いはひ)の使が行くことになつた。(中略)
 「誰か心の利(き)いた若い者を連れてまゐれ」と家康が云ふ。
 「さやうなら佐橋でも」と石川が云ふ。
 良久(ややひさ)しい間家康の聲が聞えない。甚五郎はどうしたことかと思つてゐると、やつと家康の聲がする。「あれは手放しては使ひたう無い。此頃見方に附いた甲州方の者に聞けば、甘利はあれを我子のやうに可哀(かはひ)がつてをつたげな。それにむごい奴が寢首を掻きをつた。」
 甚五郎は此詞(このことば)を聞いて、ふんと鼻から息を漏らして輕く頷いた。そしてつと座を起つて退出したが、兼て同居してゐた源太夫の邸へも立ち寄らずに、それ切り行方が知れなくなつた。源太夫が家内の者の話に、甚五郎は不斷小判百兩を入れた胴巻を肌に着けてゐたさうである。(「佐橋甚五郎」)

 これで、物語の時間がこの作品冒頭に戻る譯です。家康に會つた喬僉知(けうせんち)が、その後どうなつたかは解りません。「天正十一年に濱松を立ち退いた甚五郎が、果して慶長十二年に朝鮮から喬僉知と名告つて來たか。それともさう見えたのは家康の僻目(ひがめ)であつたか。確かな事は誰にも分らなんだ。」と、鴎外は書いてゐるだけです。

松島 なるほど、作品冒頭に描かれた家康と喬僉知こと佐橋甚五郎の確執が良く解ります。家康が甘利殺害を廻つて、甚五郎を使ひ棄てにしたのは事實ですから、家康は二十数年ぶりに再會して、さぞ薄氣味惡い思ひをした事でせう。

黒田 甚五郎が濱松を出奔するきつかけとなつた家康の言葉、「甘利はあれを我子のやうに可哀(かはひ)がつてをつたげな。それにむごい奴が寢首を掻きをつた。」、これは殆どシェイクスピア作「リチャード二世」に登場するボリングブルックの臺詞と、同質だと思ひます。リチャード二世を暗殺したエクストンに對する、あの有名なボリングブルックの臺詞です。
 リチャード二世は詩人肌の國王で、劇中「空しき王冠」を初め、數々の名臺詞を吐きますが、優柔不斷で統治能力が欠けてゐます。國は亂れ、リチャード二世の從兄弟、ボリングブルックが叛亂を起し、リチャード二世を幽閉します。が、「王權は神から與へられたもの」と云ふフィクションが生きてゐる時代の事とて、國王權力を掌握したボリングブルックにとつて、リチャード二世は「生きてゐる恐怖」に他なりません。ボリングブルックは騎士エクストンの顔をじつと見詰め、「一人の友もゐないのか、私からあの生きてゐる恐怖を取除いてくれる者は?」と言ひます。エクストンはリチャード二世を殺害、亡骸(なきがら)をボリングブルックの前に運びます。二人の會話はかうです。

エクストン 王御自身のお言葉があつたればこそ、私は敢へてこの事に及んだのでございます。

ボリングブルック 毒を必要とする者、必ずしも毒そのものを愛しはしない。私もお前を愛しはせぬ、確かに私はリチャードの死を望んではゐたが、その殺害者を憎み、殺されたリチャードを愛する。良心の呵責をお前の仕事の報いとするがよい、犒(ねぎら)ひの言葉も王の恩賞も與へるわけには行かぬ、これからはカインのごとく夜の闇をさまよひ、決してその顔を日の光に晒してはならぬ、、、(福田恆存譯) 

 良く似た状況ではありますが、勿論、エクストンと甚五郎とは違ひます。エクストンはボリングブルックの言葉に愕然としたでせうが、甚五郎は家康の言葉を聞くと「ふんと鼻から息を漏らして輕く頷いた」のでした。

藤野 甚五郎は家康に嫌はれてゐた事をはつきりと知つたのですね。エクストンは愚者ですが、甚五郎はさうではない。

山口教授 「リチャード二世」の觀客は、ボリングブルックの言分が正當なる事を認める。「政治の領域」では避くべからざる行爲が、「道德の領域」では許しがたき所行となる事があるからだ。ボリングブルックは暗殺者を必要としたが、暗殺者を愛した譯ではない。これは認めざるを得ない。
 一方、「佐橋甚五郎」の讀者は、「甘利はあれを我子のやうに可哀(かはひ)がつてをつたげな。それにむごい奴が寢首を掻きをつた」と云ふ家康の言分に共感しながらも、それ迄の經緯を考へれば、家康の身勝手に反撥するのではあるまいか。「反撥」すれば、それだけ佐橋甚五郎に讀者の同情が集まる。この場合、家康と甚五郎は對等である。そして佐橋の意地が喬僉知となり、家康を脅かす。ボリングブルックのマキャヴェリズムの見事とはまた違ふ、佐橋の意地の見事だね。

教授と學生『佐橋甚五郎』(森鴎外作)(第218回)

第218回「佐橋甚五郎」(その二)

葉月 「佐橋甚五郎」の續きです。(ノートを開き)

 「濱松の城が出來て、當時三河守(みかはのかみ)と名告つた家康はそれに這入つて、嫡子信康を自分のこれまでゐた岡崎の城に住まは」せた。この信康が十八歳の時、主人信康より「年の二つ程若い小姓に佐橋甚五郎と云ふもの」があつた。
 或る時信康は城下のはづれを通つたが、「丁度春の初で、水のぬるみ初(そ)めた頃」である。「廣い沼の遙か向うに、鷺が一羽おりて」ゐた。その鷺を鐵砲で撃てるか撃てぬかで、佐橋は蜂谷と云ふ小姓と云ひ爭つた。「撃つて見るが好い」と蜂谷が云つた。「何か賭けるか」と甚五郎が云ふと、蜂谷が「今ここに持つてゐる物をなんでも賭けう」と云つた。「好し、そんなら撃つて見る」と云つて、甚五郎は信康の許しを請うた。信康は鐵砲を甚五郎に渡した。甚五郎は見事、鷺を仕留めた。
 翌朝の事である。小姓蜂谷が、「體中(からだぢゆう)疵もないのに死んでゐて、甚五郎は行方が知れなくなつた」のである。「死んだ蜂谷の身のまはりを調べた役人は、兼て見知つてゐる蜂谷の金熨斗附」大小の刀の代りに、甚五郎の物らしい大小の刀が置いてあるのに氣が附いた。甚五郎の行方は知れない。
 蜂谷の一周忌も過ぎた或る日、「甚五郎の從兄佐橋源太夫が濱松の館(やかた)に出頭して嘆願」した。甚五郎が見附かつたと云ふ。委細はかうであつた。蜂谷との賭けに勝つた甚五郎は、自分の大小の刀を蜂谷に遣る代りに、蜂谷の金熨斗附大小を望んだ。が、蜂谷はこの「大小は蜂谷家で由緒のある品だから遣らぬ」と云つた。甚五郎はかう云ふ。「武士は誓言をしたからは、一命をも棄てる。よしや由緒があらうとも、おぬしの身に着けてゐる物の中で、わしが望むのは大小ばかりぢや、是非くれい」と云つた。「いや、さうはならぬ。命ならいかにも棄てう。家の重寶(ぢゆうはう)は命にも換へられぬ」と蜂谷は云つた。爭ひとなり「甚五郎は當身(あてみ)を食はせた。それ切り蜂谷は息を吹き返さ」なかつた。甚五郎は蜂谷の大小を取り、代りに自分の大小を殘し、立ち退いた。佐橋源太夫は家康にこの話をして、甚五郎の助命を請うた。
 家康の返答はかうである。「甚五郎の申文(まをしぶん)や所行も一應道理らしく聞えるが、所詮は間違うてをるぞよ。しかしそちらも云ふ通り、弱年の者ぢやから、何か一應の奉公をいたしたら、それをしほに助命いたして遣はさう。(中略)甚五郎は怜悧な若者で、武藝にも長けてゐるさうな。手に合ふなら甘利を討(うた)せい。」かう家康は言ひ放つた。
 
 「序、破、急」の構成で云ひますと、ここまでが「破」の途中です。小説の展開部は更に續きます。

藤野 甚五郎は「所詮は間違うてをるぞよ」とだけ、家康は言つて、その理由を述べてはゐません。少々ずるいですね。

松島 家康も認めてゐる通り、甚五郎の「申文(まをしぶん)や所行も一應道理らしく聞える」、詰り一理はあるので、理窟を言ひ出せば、甚五郎と蜂谷とどちらが正しいか、水掛け論になる恐れがあります。爲政者としては、これは避けねばなりません。山口先生の紹介された小堀桂一郞の『森鴎外』に、かう云ふ件があります。

佐橋(甚五郎)は契約上の信義を專らの據り處として、その上に自分の一徹なる自我の伸長を圖らうとする。謂はば近代個人主義の資質を具へた奔放な青年である。一方これに配する壯年三十歳代の徳川家康は、表に命令と服從といふ武士の倫理を押し立て、裏に人間本然の性といつた見識を楯に取り、この二つを巧みに使ひ分けて結局有能な臣下を自分の思ひのままに動く道具として使ひこなす老獪な支配者である。(小堀桂一郞)

 甚五郎は蜂谷の金熨斗附の刀を欲しがつてゐて、鷺を廻る賭けで、刀を手に入れる機會を捉へたのでした。これは甚五郎の個人の利益です。しかし、その爲に、家康の家臣の間に爭ひが生じれば、徳川家武士團と云ふ集團の利益に反する事になります。これは集團の長としては是認出來ません。

山口教授 さう云ふ事になるね。江戸時代の武士の倫理の背後には無論「儒教」がある。日本の武家社會で獨自の發展を遂げた「儒教倫理」では、「個人」の利益よりも「共同體」の利益が重んじられる。G・B・サンソムは「江戸初期文化」に於ける「武家社會倫理」について、頗る興味深い指摘をしてゐる。少し長くなるが讀んで見よう。

(儒教各派の間には)はげしい反目といはぬまでもかなり意見の相違もあつた。しかし共通點として、忠誠と奉公との義務を公私道德の基礎とする考へ方を示してゐる。道德の定義についてはいろいろ違つた見解があるが、人間のもつとも大切なことは自己の福祉ではなく、自己の屬する團體の福祉でなくてはならぬと主張する點では一致してゐた。(中略)共同生活の眞の利益が何であるかを未決のままにして、ただ既存秩序を黙認することのみを助長する傾向のものであつたことは容易にわかる。しかし錬磨された非利己的行動の標準を確立したのは事實である。(中略)だから結局支那の聖賢の教へが日本固有の社會に適応するやうに、日本人によつて組織され變化されて、十八世紀のはじめには、日本のすべての階級に滲透しはじめてゐたといつてよいのである。(中略)その道義心は宗教的情操を根底とするものではなく、また神の應報を恐れることに據るものでもなかつた。西洋人の心に清教徒的な固着觀念をつくり、不斷の討究と絶望との極點にまでも人間を追ひやつた罪にたいする個人的感覺が、日本人の思想の歴史には、ほとんど役割をつとめてゐないのである。日本人は「善」と「惡」とがなんであるかといふ抽象的觀念に、ほとんど關心を持たなかつた。つねに問題としたのは徳行であり、それも、自己に對する義務よりも、自己の屬する社會に對する義務としてであつた。(G・B・サンソム著、福井利吉郎譯、『日本文化史』、創元選書)

 武家社會に於て問題とされたのは、先づ、「人間のもつとも大切なことは自己の福祉ではなく、自己の屬する團體の福祉でなくてはならぬと主張する點」であつたと云ふ、サンソムの指摘は、正鵠を射てゐる。佐橋甚五郎は、蜂谷との賭けに勝つて、當然の權利として蜂谷家の「重寶」である大小の刀を要求したが、これは、サンソムの捉へた「武家社會倫理」に從へば、「自己の屬する團體」の利益よりも「自己の利益」を上に置いたと云ふ事になり、「武家社會倫理」に反する。無論、この場合、何が「善」であり、何が「惡」であるかと云ふ問題は、全く問はれてゐない。しかし、甚五郎は、「武士は誓言をしたからは、一命をも棄てる。よしや由緒があらうとも、おぬしの身に着けてゐる物の中で、わしが望むのは大小ばかりぢや、是非くれい」と、また別の「武家社會倫理」を持出す。これには、蜂谷も「いや、さうはならぬ。命ならいかにも棄てう。家の重寶は命にも換へられぬ」と、「武家社會倫理」で答へてゐる。だが、サンソムの云ふ通り、この「倫理」は「共同生活の眞の利益が何であるかを未決のままにして、ただ既存秩序を黙認することのみを助長する傾向のものであつた」爲に、甚五郎と蜂谷と、どちらの言分が正しいかは判定出來ない。ただ、この「倫理」が、「非利己的行動の標準を確立した」ものであつたが爲に、家康の「甚五郎の申文(まをしぶん)や所行も一應道理らしく聞えるが、所詮は間違うてをるぞよ。」と云ふ御託宣を否定出來ない事になる。それゆゑ、甚五郎も家康の裁定を受け入れ、甘利を討たうとする。その結果、どうなつたか。(續く)
記事検索
プロフィール

kesunkeramutaki

カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ