教授と學生『オレステイア三部作』ノート(第201回)

第201回 「オレステイア三部作」ノート(その二)

 古代ギリシア文明の中核にあつたポリスとは何であつたのか。ワインシュトックはかう書いてゐる。

現代的な言ひ回しで、おほざつぱ表現するならば、われわれは、アイスキュロスのポリスは國家であると同時に教會である、したがつて包括的な生活の秩序である、といはなければならないだらう。しかしかういふ言ひ方は、もつとも具合の惡い混亂を招き、つまりは全體主義といふ現代の怪物と混同される恐れがある。權力を政治的不可謬性といふドグマによつて持上げて、全能とし、したがつてそれを聖なるものとして語る全體主義の意圖を、アイスキュロスなら極惡のヒュブリスとして罰し、さつそくエリニュスを呼び出すことだらう。(『ヒューマニズムの悲劇』)

 ポリスは「國家であると同時に教會である、したがつて包括的な生活の秩序」であると言へば、確かに現代の「全體主義」を聯想させるが、しかしそれとポリスは根本的に違ふと云ふ、このワインシュトックの指摘が正しい事は、我々の目の前にある全體主義國家「北朝鮮」を見れば、良く解る。北朝鮮は國を滅ぼすICBMや核兵器の開發に血道をあげ、しかも、その愚挙を「政治的不可謬性」で「聖なるもの」として宣傳する、まさにこれは「權力」のみに奉仕する政治的プロパガンダに他ならず、そこには「悲劇的精神」のかけらも無い。ポリスは現代の全體主義國家ではない。アイスキュロスのポリスはその内部に「慈しの女神」でもあり、「復讐の女神」でもあるエリニュスを抱へてゐて、「聖なるもの」と政治的共同體ポリスとのあいだには絶對的な境界がある。ワインシュトックの言ふ通り、エウメニデスといふ「慈愛あるかに見えるこの女神たちの姿のなかには、たえず、自分たちを滅ぼす復讐の炎が燃えてゐることを、ポリスは片時も忘れては」ならない。ポリスは常に政治的正義を實現してはゐない。ポリスがエウメニデス=エリニュスを必要とするその事實が、ポリスが「政治的不可謬」ではない事を物語つてゐる。「オレステイア三部作」上演を通して、ポリス市民は、神々を崇拜し、自己満足の「眠りから揺り起こ」され、「神々の前に負ひ目」を意識し、「不安から勇氣」を生み出して生きて行くのである。

 詰り、「悲劇」はポリス市民に、ポリスを維持する上で必要不可欠な事、「神への絶對的畏れ」を教へる。この「畏れ」を通じて、ポリス市民は共同體との繋がりを意識する。トロイ攻撃に際し、「神託」により、アガメムノーンは娘を海神の犠牲に捧げる事を求められ、彼はその求めに應じた。この時、アルゴス共同體はアガメムノーンによつて宗教的に捉へられてゐる。そこには「神への絶對的畏れ」がある。それなくして、アガメムノーンは共同體の利益を血縁の情に優先させる事は出來ない。

 國家を維持するには、個人が國と繋がつてゐるといふ意識が必要だが、現代日本では、「個」と「全體」との絆が斷たれてゐるので、「全體」を超越的に捉へる事が出來ない。その爲に、「全體」の爲に「個」が犠牲になるのが馬鹿らしい事となつてゐる。全體主義國家北朝鮮には「悲劇的精神」が無いが、民主主義國家日本にも「悲劇的精神」が無い。

 アイスキュロスにならぶ悲劇作家、ソフォクレスの代表作は『オイディプス王』である。(この作品についても既に本ブログで取上げてゐる。)ソフォクレスはどのやうにして、神々を把握したのであらうか。オイディプス王はアポロン神の奸計に嵌り、自らの手により兩眼を潰し、テーバイから追放される羽目に陥る。「オイディプス王」の破滅的筋書きは、人間に取つて、「自分の内にも、自分の外にも、自分を超えたものにも、信頼するに足るものは何もない」(ワインシュトック)事を物語つてゐる。だが、悲劇「オイディプス王」のコロスは、「神から、自分の庇護者から離れたくない」と唱ふ。ソフォクレスは「神から離れたくない」と願ふ時に、神からヒューブリスを罰せられる人間の「悲惨」と、神の理不盡に反抗する人間の「偉大」を描く事が出來たのである。神々の存在を意識する事なしに「悲劇」もポリスもない。

 エリニュスを恐れ、ゼウスの加護を求め、アポロン神と張り合つた「悲劇時代」のギリシア人と異なり、「今日人間は何をおそれてゐるのだらうか。それは神でも死でも惡魔」でもない。我々は「人間以外には、何ものをもおそれてゐない」(ワインシュトック)のである。そこで權力者が民衆に絶對的政治權力による「平和」を約束する。權力者の危險を説く識者が民衆を「自由主義」に誘ふ。世の中に、「秩序を欲する善意」と「無秩序を喜ぶ惡意」が蔓延する。そこに「不安」が生まれ、「不安」に附け込む惡質なデマゴーグが力を得る。そして、我々は我々が絶對に頭の上がらぬ存在を持たぬのである。

教授と學生『オレステイア三部作』ノート(第200回)

第200回 「オレステイア三部作」ノート(その一)

 以下は、山口教授の『オレステイア三部作』(アイスキュロス作)に關する研究ノート抜粋である。

 『オレステイア三部作』については、ブログで既に取上げた。この作品がギリシア悲劇の中で持つ意義については、本ブログの當該箇所(悲劇論「オレステイア三部作」)を参照されたい。今回問題にしたいのは、『オレステイア三部作』が我々に何を教へてくれるかである。

 オレステイアを廻る悲劇では三件の殺人事件が題材として扱はれてゐる。孰れも、「國益」を優先させるか「血縁の情」をとるかといふ難しい選擇が、殺人に絡んでゐる。先づ第一の殺人は父アガメムノーンによる娘イーピゲネイア殺害であり、第二は妻クリュタイメーストラーによる夫アガメムノン殺害、第三は息子オレステースによる母クリュタイメーストラー殺害である。第一の殺人が第二、第三の殺人を誘發するといふ仕組になつてゐる。

 第一の殺人は、アルゴス王アガメムノーンが軍船を率ゐてトロイ攻撃に向かふ際、神託に從ひ、海神に娘を捧げ、海を鎭める爲に行はれた。アルゴス共同體の爲の娘殺しであり、アガメムノーンは血の繋がつてゐる人間の犠牲に於て、血の繋がらない共同體の人間の利益を圖つたのである。詰り家族への愛より共同體の利益を優先させたのだが、これは國王として當然の行爲であると同時に、人情にもとる行爲でもある。ゆゑに、第二の殺人が起る。クリュタイメーストラーは娘の敵とてアガメムノーンを殺す。「目には目を」と云ふタリオ(同害報復)の實踐であり、「血の復讐」である。だが、この殺人は、第三の殺人、すなはちオレステースの母殺しを生む。その動機は、第一に父殺しへのタリオであり、更に、クリュタイメーストラーが夫の従兄弟アイギストスを情夫にして、アルゴス王位を簒奪し、暴政をほしいままにしたからである。詰り、國王アガメムノーン殺害により失はれた共同體秩序を、オレステースが回復する爲である。

 アガメムノーンとオレステースの背後には、共同體の秩序を司るアポロン神がをり、クリュタイメーストラーを操るのは復讐の女神エリニュスである。エリニュスは母を殺したオレステースを追ひ廻す。アテナイに逃亡したオレステースはそこでアテーナー女神の主宰する法廷に於て、無罪判決を受ける。この判決に納得しないエリニュスは、エウメニデス(慈しみの女神)として市民から祀られると云ふ條件で、判決を受け入れる。アポロン神・アテーナー女神とエリニュスとの對立、及び和解は何を意味するか。エリニュスはアポロン神やアテーナー女神より古い、原初の世界の神なのであるが、法廷に於けるエリニュスの敗北が單に新・舊の神の交代劇を意味するのではあるまい。

 ワインシュトックは『ヒューマニズムの悲劇』(樫山・小西譯)に書いてゐる。「慈しみの女神」となつたエリニュスを祀る禮拜洞はポリスの中にある。一體何の爲にアイスキュロスは「血に飢ゑてゐた時代のけだものを、ポリスの城壁から追ひ出さずに、わざわざ、しかも勿體ぶつて、この同じ場所に野蠻を決定的に閉め出す目的でつくられたポリスの壁の内側に、導き入れ、市民權を與へる」のか。「これは、ただ恐れと不安をひろめる力だけが、新たな狼の時代の恐れと不安からポリスを守りうるといふ意味」でなくて何であらうか。「血まみれの苦痛のなかで生れたポリスは、明らかに、エリニュスがポリスの外へ追ひ出されるのではなく、ポリスのなかで慈しみの女神として支配することを許され、支配すべきであり、支配することを求める時にのみ、榮えることができる」事になる。「我々はまづ死すべき者たち、詰り、アガメムノーン、クリュタイメーストラー、オレステースの行爲と苦惱を手がかりにして、どういふ風に人間界の混沌がポリスの建設へと驅立てられるか」を知り、次いで、「どういふ風に全ての人間的分裂が、結局は、神々の世界の對立に基づくか」を見なければならない。「戰ひは萬物の父であるといふヘラクレイトスの有名な命題は、この悲劇的な世界觀を極めて簡潔な定式で言ひ表はした」ものである。

 このワインシュトックの指摘は頗る有益である。「血の復讐」、タリオ(同害報復)を實行するクリュタイメーストラーは、ポリスを極めて不安定にするが、他方、アガメムノーンの娘殺しは人情の自然に強く反するので、報復を求めるクリュタイメーストラーの感情は否定し難い。さうかといつて、復讐の女神エリニュスがのさばりだし、「血縁の情」ゆゑに荒れ狂ひ、復讐の連鎖を斷ち切らず、アルゴスの共同體秩序を回復しようとするオレステースを、母殺しへの「血の復讐」の爲に追ひ廻したら、ポリスの存續は危ふい。このディレンマは人間には到底解決不可能であり、神々の助けを願はざるを得ない。エリニュスを「慈しみの女神」としてポリスの内側に閉込め、祀り、さうしてエリニュスの存在を忘れない時にのみポリスは安定する。繰り返すが、エリニュスをポリスの内部に引き入れたのは、ポリスの人々がエリニュスの存在を忘れないやうにする爲である。「疫病神は慈しみの女神に變身したが、しかしこのために、不安をよびおこすその恐ろしさが消えたわけだはない。エウメニデス(慈しみの女神)は、決して、人間によつて飼ひ馴らされたエリニュスではない。」(ワインシュトック)

 ポリスが無ければ、ポリスに殉じて死ぬといふ行爲はあり得ず、「悲劇」も無い。詰り、「悲劇」は政治と密接不可分なのである。アイスキュロスを捉へた最大の難問は、「悲劇」によるポリスの維持といふ課題であつた。それは神々の存在をポリスの人々に如何に意識させるかといふ事にかかつてゐる。神々を忘れる事がポリス市民のヒューブリス(傲慢)なのであり、ヒューブリスはポリスを滅ぼす。

 ワインシュトックの文章を引かう。
 アイスキュロスの悲劇が歌ふのは人間讃歌ではなく、神の頌歌である。それは神を禮拜すること、ポリス共同體の全體のあの最高の儀式である。(中略)ポリスは、不安の目をさます役、(即ち)悲劇がなければ、安全をゆさぶられて毀れてしまふ。(中略)しかし悲劇もまたポリスがなかつたら成立たない。それは、劇場がポリスに基づいて建てられてゐるからといふだけでなく、特に悲劇が演じられるとき、人間が「浄化」されて、人間本來の在り方すなはちポリス市民となるからである。(中略)『オレステイア』はポリスそのものの眞實全體を主題としてゐることになる。
 人間は自らの悲劇的状況をただポリスのなかでのみ持ち堪へる事ができる。ポリスがなかつたら人間は失はれてしまつてゐる。人間であれ神であれ、誰もひとりでは、悲劇的矛楯に決着をつける事はできない。(續く)

教授と學生『風の便り』(太宰治作)(第199回)

第199回 「風の便り」

 黒田と葉月の間に、男子が誕生した。八月の暑い日であつた。二人は俊一と名附けた。
 以下は、黒田のパソコンに保存してあるファイル「雜記帳」からの抜粋である。

十一月○日
 俊一は三ヶ月になるが、元氣に育つてゐる。

十一月○日
 葉月は俊一にひつきりなしに話しかけてゐる。成程、母の言葉が、母語になる。

十一月○日
 ハイデッガーは對話形式の言語論『言葉についての對話』(高田珠樹譯、平凡社ライブラリー)に、かう書いてゐる。

問ふ人 しばらく前に私は、實にぎぎちないながら、言語を存在の家と名づけてゐました。人間が自分の言語によつて存在の呼び求めの中に住まふなら、私たちヨーロッパ人は、どうやら東アジアの人間とは全く別の家に住んでゐることになります。

日本人 假に、それぞれの言語が當地と彼の地とでは、單に異なつてゐるといふだけでなく、根本から別の本質のものであるとすれば、さうなりますね。

問ふ人 さうすると、家から家への對話といふのはあくまでほとんど不可能に近いといふことになります。

 ハイデッガーの「附記」によれば、問ふ人のモデルはハイデッガー自身、日本人のモデルはドイツ文學者の手塚富雄である。ただし譯者の高田珠樹によれば、兩者の對話が行はれたのは一九五四年だが、對話は「その際の會談を再現」したものではなく、「會談を基にこれまでハイデッガーが接して來た日本人を念頭に置きながら」、ハイデッガーが「創作」したものである。
 「言語は存在の家」であるとは、おほよそ、かう云ふ意味らしい。人間がある對象に向かひ、言語を用ゐて呼びかける。對象が應答する。その時、「呼びかけた」人間は、自己の存在を確認する。「呼びかけ」と「應答」を通した言語關係の中にのみ「人間は住む」からである。 
 引用した箇所で、「問ふ人」が「日本人」に對し、「家から家への對話といふのはあくまでほとんど不可能に近い」と發言してゐるが、「問ふ人」と有名な『「いき」の構造』の著者九鬼周造との間で行はれた對話を、「問ふ人」は念頭に置いてゐる。因みにここで云ふ「いき」とは「粋」の事である。九鬼は「問ふ人」に西歐の言語を用ゐ、「いき(粋)」について説明した。その際、「問ふ人」はかう感じた。日本語を解さない「問ふ人」には「日本語の言語精神は閉ざされた」ままであり、九鬼が西歐語を用ゐて「いき」を表現した爲、「いき」は西歐的なところに移つてしまつた。處が、九鬼が言ひ表さうと試みたのは、「東アジアの藝術と文學の本質的な點」であつた。「對話の言語が絶えず、論じられてゐたものを言ひ表す可能性を壊した」のである。

 ここには、頗る深刻な問題がある。「いき(粋)」を日本人は西歐人に説明出來ないのなら、逆に考へると、例へば「パンと自由との關係」を西歐人は日本人に理解させる事は出來ない。「パンと自由との關係」こそは、「西歐の藝術と文學の本質的な點」であるからである。

 夏目漱石の小説「それから」の主人公代助は、友人に「君は何故働かないのか」と質され、「働くなら、生活以上の働でなくつちや名誉にならない。あらゆる神聖な勞力は、みんな麺麭を離れてゐる」と答へる。だが、この代助の意見を友人も親も兄弟も、誰も理解しない。肝心の三千代も理解しない。

十一月○日
 太宰治が「風の便り」と云ふ書簡體小説を書いてゐる。太宰治自身らしい木戸一郎と、先輩作家井原退藏(井伏鱒二をモデルにしたと云はれる)の往復書簡より成るのだが、先輩作家井原の木戸を難ずる罵詈讒謗が甚だ愉快である。かういふ具合である。

作家の、人間としての魅力など、自分は少しもあてにして居りません。ろくな仕事もしてゐない癖に、その生活に於いて孤高を裝ひ、卑屈に拗ねて安易に絶望と虚無を口にして、ひたすら魅力ある風格を衒ひ、ひとを笑はせ自分もでれでれ甘えて恐悦がつてゐるやうな詩人を、自分は、底知れぬほど輕蔑してゐます。(中略)君は作品の誠實を、人間の誠實と置き換へようとしてゐます。作家でなくともいいから、誠實な人間でありたい。これはたいへん立派な言葉のやうに聞えますが、實は狡猾な醜惡な打算に滿ち滿ちてゐる遁辭です。(中略)このごろは全く行きづまつて、語學の勉強をはじめようか、日本の歴史を研究し直さうかと考へてゐるのださうですが、全部嘘です。君は、そんな自嘲の言葉で人に甘えて、君自身の怠惰と傲慢をごまかさうとしてゐるだけです。ちよつと地味に見えながらも、君ほど自我の強い男は、めつたにありません。おそろしく復讐心の強い男のやうにさへ見えます。自分自身を惡い男だ、駄目な男だと言ひながら、その位置を變へる事には少しも努力せぜ、あはよくばその儘でゐたい、けれどもその蟲のよい考へがあまり目立つても具合が惡いので、假病の如くやたらに顔をしかめて苦痛の表情よろしく、行きづまつた、ぎりぎりに困惑した等と呻いてゐるだけの事で、内心どこかで、だけど俺は偉いんだ、俺の作品は殘るのだと小聲で嘯いて赤い舌を出してゐるといふのが、君の手紙の全體から受けた印象であります。(井原退藏)

 ここまで先輩作家に批判されれば、木戸一郎も必死で仕事をせざるを得ない。木戸は井原にかういふ返事を書く。

 私のいまの仕事は、舊約聖書の「出エジプト記」の一部分を百枚くらゐの小説に仕上げる事なのです。私にとつては、はじめての「私小説」でない小説ですが、けれども、やつぱり他人の事は書けません。自分の周圍の事を書いてゐるのです。(中略)
「出エジプト記」を讀むと、モーゼの努力の程が思ひやられて、胸が一ぱいになります。神聖な民族でありながらもその誇りを忘れて、エジプトの都會の奴隷の境涯に甘んじて貧民窟で喧騷と怠惰の日々を送つてゐる百萬の同胞に、エジプト脱出の大事業を、「口重く舌重き」ひどい訥辯で懸命に説いて廻つてかへつて皆に迷惑がられ、それでも、叱つたり、なだめたり、怒鳴つたりして、やつとの事で皆を引き連れ、エジプト脱出に成功したが、それから四十年間荒野にさまよひ、脱出してモーゼについて來た百萬の同胞は、モーゼに感謝するどころか、一人殘らずぶつぶつ言ひ出してモーゼを呪ひ、あいつが要らないおせつかいをするから、こんな事になつたのだ、脱出したつて少しもいい事がないぢやないか、ああ、思へばエジプトにゐた頃はよかつたね、奴隷だつて何だつて、かまはないぢやないか、パンもたらふく食べられたし、肉鍋には鴨と葱がぐつぐつ煮えてゐるんだ、こたへられねえや、それにお酒は晝から飲み放題と來らあ、銭湯は朝からあつたし、ふんどしだつて純綿だつたぜ、「我等エジプトの地に於いて、肉の鍋の側に座り、飽までにパンを食(くら)ひし時に、エホバの手によりて、死にたらばよかりしものを、」(十六章三)あの頃、死んだ奴は仕合せさ、モーゼの山師めにだまされて、エジプトから出たばつかりに、ひでえめに逢つちやつた、ちつともいい事ねえぢやねえか。「汝はこの曠野(あらの)に我等を導きいだして、この全會を飢(うゑ)に死なしめんとするなり。」(中略)モーゼは、けれども決して絶望しなかつたのです。鐵石の義心は、びくともせず、之を叱咤し統御し、つひに約束の自由の土地まで引き連れて來ました。(中略)私には説明がうまく出來ませんが、本當にむきになつて、これだけは書いて置きたい氣がしてゐます。(中略)肉鍋の傍に大あぐらをかいて、「奴隷の平和」をほくほく享樂してゐるのも、まんざら惡くない氣持で、貧乏人の私には、わかり過ぎる程わかつてゐるのですが、でもモーゼの義心と焦慮を思ふと、なまけものの私でも重い尻を上げざるを得なくなります。(木戸一郎)

 成程、木戸いや大宰の覺悟は立派である。四十年に及ぶ曠野の流浪、それに耐へるモーゼの「鐵石の義心」、これを描かんとする作家の氣魄、流石は大宰である。しかし、「出エジプト記」を讀むと、モーゼの「鐵石の義心」を支へてゐるのは、エホバのモーゼに對する命令である事が解る。「我なんぢをパロ(ファラオ)につかはし汝をしてわが民イスラエルの子孫(ひとびと)をエジプトより導きいださしめん」(三章十)無論、かかる神の人間に對する絶對命令は、我國の文化にはない。從つて、「出エジプト記」を小説の題材に据ゑても、人間を超越した絶對的價値と、それを守らうとして守り得ぬ人間の凄まじい苦しみや葛藤を捉へきる事は出來ず、せいぜい「自由か、鱈腹食へる奴隷の平和か」といふ二種類の價値の選擇しか描けぬのではないか。いやいや、「自由」か「奴隷の平和」かと云ふ價値の對立すら我國にはない。北朝鮮によつて、我國の「安全」や「自由」がおびやかされてゐるにも關はらず、國會では相も變はらず太平樂をならべて「加計學園」である。
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