教授と學生『栗山大膳』(森鴎外作)(第221回)

第221回「栗山大膳」(その二)

(讀書會、續き)

葉月 粗筋を續けます。

 栗山大膳利章(としあきら)の父栗山利安は、黑田官兵衛孝高(如水)に仕へた。孝高の子が長政、その子が忠之であり、忠之は後年利章と爭ふ事になつた。關ヶ原の戰前年、慶長四年に石田三成が「身方の諸大名を大阪へ集めた。利安等は四十八歳になつた孝高の妻櫛橋氏と、十六歳になつた長政の妻保科氏とを俵にくるんで、しかかごと云ふものに入れ、浴室の壁の下を穿つて持ち出し、商人に粧つた(母里太兵衞)友信に擔はせて、邸の裏の川端に繁つた蘆の間を通り、天滿の出入商納屋小左衛門方へ忍ばせた。」利安等は何とか兩夫人を逃がさうと謀り、機會をうかがひ、遂に「兩夫人を大箱に入れて、納屋の裏口から小舟に載せた。友信は穂の長さ二尺六寸餘、青貝の柄の長さ七尺五寸二分ある大身の槍に熊の皮の杉なりの鞘を嵌めたのを持たせ、屈強の若黨十五人を具して舟を守護した。」友信は舟番所を突破し、黑田如水のゐる中津川の城へ着いた。
 黑田長政は慶長五年關ヶ原の功に依つて筑前國を貰つた。「七年十一月に福岡城の東の丸で、長政の嫡男忠之」が生まれた。九年に如水が亡くなる。十九年に大阪冬の陣が起り、長政、利章は江戸を守り、福岡は利安が守つた。元和元年夏の陣には、忠之は利章を連れて大阪で戰ふ。元和「九年は秀忠が將軍職を家光に譲つた年である。秀忠親子は上洛する時、江戸から長政を先發させた。五十三歳になる長政は、忠之を連れて上り」、二条の城にゐて病で亡くなつた。「遺言は利章と小河内藏允(おごうくらのじょう)とが聽いた。遺骸は領國へ運んで、箱崎の松原で荼毘にした。此時柩の先へは三十三歳になる利章が手を添へ、跡へは二十二歳になる忠之が手を添へた。」

 (葉月)黑田官兵衛孝高は豊臣秀吉に仕へ、秀吉死後の難しい時勢を、我子の長政や家臣の栗山利安と共に乗り切り、孝高の死後、長政は利安、利章の父子に助けられます。長政が亡くなり忠之が跡を繼いだ時、利章は長政の遺言を聽き、利章は忠之と長政の柩を運んでゐるのですから、これは普通の主從關係を遙かに超えて、傍目には絶對的な結び附きがあるやに見えます。それが、何故、忠之と利章とが「生死の爭をする」やうになつたのでせうか。理由はかうです。

 「忠之は壯年の身を以て、忽ち五十二萬二千四百十六石の大名になつた。生得聰明な人だけに老臣等に掣肘せられずに、獨力で國政を取り捌いて見たかつた。それには手足のやうに自由に使はれる侍が欲しい。丁度先年中津川で召し抱へられた足輕頭倉八長四郎の子に、十太夫と云ふ怜悧な若者がゐた。忠之はそれを近習」に取り立てて、重用した。利章は國政から遠ざけられた。ここに問題が生じた。家臣の間が十太夫を嫌ふ者とこれに阿(おもね)る者とに分裂したのである。「然るに先代長政が臨終に、利章と小河とが聞き取つた遺言」には、國政萬端、三家老相談し、「重大な事は一應、之房、利安の兩隠居に告げて取り極める筈」になつてゐる。利章は第一家老である。長政の遺言は守られねばならぬが、それが守られてゐない。
 「そのうち罪なくして罰せられたものが一人と、罪あつて免せられたものが一人と、引き續いて出來て、どちらも十太夫に連係した事件であつた。一つは博多の町人が浮世又兵衞の屏風を持つてゐるのを、十太夫が所望してもくれぬので、家來を遣つて強奪させ、それを取り戻さうとする町人を入牢させたのである。今一つは志摩郡の百姓に盗をして召し取られたものがあつて、それが十太夫の妾の兄と知れて放されたのである。
 利章はたうとう決心して、一成、内藏允に相談して諫書」を作つた。「忠之は諫書を讀んで怒つた。十太夫に對する妬だと感じ、又穴捜しだと感じた」のである。「忠之は利章を呼んで叱りたかつたが、利章は黙つて叱られてをる男でないので、けぶたい思をして、面倒な話を聞くよりは、打ち棄てて置かうと思ひ返した。」
 さうかうしてゐる内に、利章の目には容易ならぬ事が出來した。寛永五年に、忠之は幕府から禁ぜられてゐる大船を造らせ、更に「十太夫の組下に附けると云つて、江戸へ屆けずに足輕三百人」を募つたのである。ここに至つて、利章は家老を辞職する。「忠之はうるさい物を除いた積でゐる」と、六年早々將軍家から、利章を復職させるよう命ぜられた。忠之と利章との間は、前にも増して、「不快な、緊張した間柄が持續せられてゐるうちに」、寛永八年、利章の父利安が亡くなる。十太夫は「家老の列に加へられて、九千石」を貰つた。九年六月、利章は忠之が幕府に「叛逆の企をしてゐるといふ」書状を、日田にゐる徳川家目附役に送る。九年八月、「忠之の許へ徳川家の使者が來て參府の命を傳へた。忠之は始て夢の醒めたやうな心持になつて、一成、内藏允を連れて福岡を立つた。」
 寛永十年二月、老中による取り調べが行はれた。「利章は只此度の事は聊か存ずる旨があつて申し上げた、先年自分が諫書に認めて出した件々、又其後に生じた似寄の件々を、しかと調べて貰ひたい、さうなつたら此度の事の萌芽が知れようと云つた切、口を噤んでしまつた。」一成、十太夫は主君に逆意が無い事を申し立てる。内藏允もさうである。
 裁決はかうであつた。「忠之は老中に西の丸へ呼ばれて宣告を受けた。不調法の廉があつて筑前國を召し上げられる。去りながら祖父以來の戰功と本人の實意とを認められて、新に筑前國拜領を仰附けると云ふのである。」三月初に利章は老中に呼ばれた。利章の申し渡された事はかうである。「諫書中にある政治向の件々其外は大抵相違ない。併し右衛門佐(忠之)逆意云々は偽に極つた。此上はかやうな申立をしたわけを明白に申せと云ふ事である。利章は答へた。諫書其外の申立を正當と御認めになつたのは有難い爲合せである。右衛門佐(忠之)に逆意があると申立てたのは、右衛門佐(忠之)の自分に對する私の成敗を留めるためであつた。若しあの儘に領國で成敗せられたら、自分の犬死は惜むに足らぬが、右衛門佐(忠之)は御取調を受けずに領國を召し上げられたであらう。此取計は憚りながら武略の一端かと存ずると云ふのである。役人席には感動の色が見えた。」利章は南部山城守へ御預となつた。「利章が陸奥國巖手郡盛岡の城下に遷つたのは、寛永十一年三月の末であつた。南部家では廣小路に立派な邸を設けてこれを迎へた。」

 (葉月)以上が、大凡の粗筋です。

松島 一連の黑田騒動の發端とも云へる十太夫の處遇はどうなつたのでせう。

葉月 坊主になつて高野山に籠る事になりました。十太夫の扱ひですが、研究者の中には、鴎外が書いてゐるやうな權力を濫用した人物ではなく、結構有能な官僚型の侍であり、十太夫と利章との對立は、結局、黑田家に於ける新舊勢力の争ひと見る向きもあるやうです。

黑田 さうなると栗山大膳利章なる人物の値打ちも、十太夫が惡黨ではない分だけ下がる事になりますね。作品中に「寛永十四年に島原の亂が起つた時、十太夫は高野山を抜け出て耶蘇教徒の群に加つたが、原城の落ちた時亂軍の中で討たれた。」と、十太夫を謀反人にしてゐるのも、鴎外の作り話といふ説があります。眞僞は不明です。

山口教授 「栗山大膳」は、鴎外が「歴史其儘」と「歴史離れ」の中間で書いた小説で、作品中の事實認定をやるよりも、これを一つの作品世界と見た場合、鴎外がこの作品で言ひたかつた事は何かを考へる方が大事だね。

松島 忠之に謀反の企みがあるとて、幕府に訴へたのは「武略の一端」であると、利章は言ひますが、一つ間違ふと、黑田家取潰しのおそれがあつた譯で、これは、黑田家を救ふ爲とは云ひながら、「武略」の一線を越えてゐたのではないでせうか。

葉月 關ヶ原で長政は徳川家を勝利に導きます。徳川家康は長政の働きを感謝し、「今天下平均之儀、誠御忠節故と存候云々、御子孫永く疎略之儀有之間敷候」といふ感状を長政に與へてゐます。要するに、徳川家は黑田家の子々孫々まで「疎略」に扱はないと云ふ約定で、利章はこの感状をいざといふ時の切り札に使ふつもりでゐたやうです。作品中に鴎外はさう書いてゐます。結局、使はずにすみましたが。

松島 なるほど。さうすると、利章は間違ひなく黑田家を救はうとしたのであり、從つて、主君を陥れようとした逆臣であつた筈がないと云ふ事になりますね。

葉月 利章と忠之が「生死の爭」となるほど、激しく對立した委細を、鴎外は作品の冒頭近くに書いてゐます。利章の忠之の爲を思ふ「善意」のゆゑ、爭ひが生じたのですが、しかし、この「善意」は「善意」であつても、そこに「陰翳のある善意」だと、稲垣達郎は述べてゐます。問題となるのは、この「陰翳」の中身だと思ひます。

藤野 私もこの小説の最初の方に主題の総てが書いてあると感じました。忠之と利章の爭ひを説明した箇所ですね。詰り、忠之は利章の奴、「彼奴どれだけの功臣にもせよ、其功を恃んで人もなげな振舞をするとは怪しからんと思ひ、又利章の方で、殿がいくら聡明でも、二代續いて忠勤を励んでゐる此老爺を蔑にすると云ふことがあるものかと思つての衝突」であると云ふ、二人の争ひを廻る鴎外の解釋です。

山口教授 利章の「意地」が忠之の怒りを煽つた。阿部一族や佐橋甚五郎の「意地」は見事だが、栗山大膳の「意地」には手放しで稱讃出來ぬ「陰翳」がある。封建世界に於ける武士の生き方で、鴎外は特に「意地」を價値あるものとしたが、「栗山大膳」では、その「意地」にもまた暗い、負の側面がある事を誤魔化さず誠實に書いてゐる。

教授と學生『栗山大膳』(森鴎外作)(第220回)

第220回「栗山大膳」(その一)

 讀書會、出席者、山口教授、松島、藤野(松島夫人)、黒田、葉月

山口教授 「栗山大膳」は大正三年に發表された鴎外の歴史小説だが、作者自身必ずしも滿足のゆく作ではなかつたらしい。「わたくしのすぐれなかつた健康と忙しかつた境界とのために、殆ど単に筋書をしたのみの物になつてゐる。」などと、エッセイ「歴史其儘と歴史離れ」に書いてゐる。確かに前年の大正二年に『意地』の表題を附けて刊行された「興津彌五右衛門の遺書」、「阿部一族」、「佐橋甚五郎」の傑作三篇に較べれば、小説的ふくらみに乏しく、單なる歴史的事實の叙述に終始してゐるやに見える。鴎外はこの後、「歴史其儘」から逃れたくなり、「歴史離れ」して、名作「山椒大夫」を書くのだが、「栗山大膳」は丁度「歴史其儘」と「歴史離れ」の中間地點にある。家老の利章(栗山大膳)が主君忠之(福岡の城主黒田忠之)に公儀へ謀反の企てがあるとて徳川幕府に忠之を告發したのは歴史的事實であるが、何故さうしたかについては、概ね鴎外の推測によつて書かれてゐる。特に、利章の心理について書いた部分は、さうである。

黒田 ともかく筋書が滅法面白いですね。小説的結構に富んでゐます。特に、利章が主君を無實の罪に陥れようとした處など、作り事のやうにさへ思へます。

葉月 (ノートを開き)粗筋を作つたので讀んで見ます。本文からの抜き書きが多いです。

 「筑前國福岡の城主黑田右衛門佐忠之の出した見廻役が、博多辻の堂町で怪しい風體の男を捕へた。それを取り調べると、豊後國日田にゐる徳川家の見附役竹中采女に宛てた、栗山大膳利章の封書を懐中してゐた。城内でそれを開いて見れば、忠之が叛逆の企をしてゐるといふ訴であつた。」當時、忠之と利章との關係は一觸即發の状態であつた。利章が病氣を理由に頑として登城を拒み、それなら、忠之が「當方から出向いて面會する」とまで言つても、それすら拒むのである。
 そこに徳川家に對して「異心のない忠之を異心があると」、利章が訴へる事件が出來した。「いかにも忠之と利章とは極端まで緊張した間柄にはなつてゐる。今一歩進んだら忠之が利章に切腹を命ずるだらうと云ふ處まで、主從の爭は募つてゐる。併しそれは忠之の方で、彼奴どれだけの功臣にもせよ、其功を恃んで人もなげな振舞をするとは怪しからんと思ひ、又利章の方で、殿がいくら聡明でも、二代續いて忠勤を励んでゐる此老爺を蔑にすると云ふことがあるものかと思つての衝突である。忠之は憎みつゝも憚つてをり、其周圍の人達は憚りつゝも敬つてをつた利章が、どうして主君を無實の罪に陥れようとするか、誰にも判斷が附かぬのである。
 利章の密書は只忠之主從を驚きあきれさせたばかりではない。主從は同時に非常な懼れを懐いた。なぜと云ふに、忠之が叛逆を企てたと云ふ本文の外に、利章の書面には追而書が添へてあつた。其文句は、此書面は相違なく御手許に届くやうに、同時に二通を作つて、二人に持たせて、別々の道を經て送ると云ふのである。(中略)原來利章程の家の功臣を殺したら、徳川氏に不調法として咎められはすまいかと云ふことは、客氣に驅られた忠之にも、微かに意識せられてゐたが、此訴が江戸へ往つたとすると、利章は最早どうしても殺すことのならぬ男になつた。なぜと云ふに、逆意の有無を徳川氏に糾問せられる段になると、其讒誣(ざんぶ)を敢てした利章と對決するより外に、雪冤の途はないのである。」

 一體、ここに至る迄、二人の間に何があつたのでせうか。どうしても、話の續きを知りたくなる見事な導入部ですね。鴎外は小説を書くのが上手です。

松島 利章の父栗山利安も、忠之の祖父黑田官兵衛孝高(如水)の代から仕へた功臣であり、利章は忠之の父黑田長政が死ぬ時には遺言を聽いてゐます。父子二代に渡つての黑田家の功臣であり、徳川家の信認もあります。いかに封建世界の主從であるといへども、氣に食はぬからといつて、利章は忠之が自由に扱へる男ではありません。

葉月 「『栗山大膳』は、あきらかに、歴史小説として書き起こされてゐる。主君を堵(と)に安ぜしめようとする善意が、その善意ゆゑに、當の主君と深刻に對立しなければならないといふ矛楯をはらんでしまふ。」鴎外は、主君との生死に關はる葛藤を生む、さういふ「陰翳のある善意」を鋭く捉へてゐると、稲垣達郎は『森鴎外の歴史小説』で、述べてゐますが、その通りだと思ひます。ではこの「陰翳のある善意」とは具體的にどんなものでせうか。(續く)

教授と學生『佐橋甚五郎』(森鴎外作)(第219回)

第219回「佐橋甚五郎」(その三)

(讀書會、續き)

葉月 「佐橋甚五郎」の粗筋を續けます。佐橋甚五郎は甘利に仕へてゐます。遠江國小山(たほたふみのくにこやま)の城で月見の宴が催された時の事です。以下、鴎外の見事な文章を讀上げます。

夜が更けたので、甘利は大勢に暇(いとま)を遣つて、跡(あと)には新參の若衆一人を留めて置いた。
 「あゝ。騒がしい奴等であつたぞ。月の面白さはこれからぢや。又笛でも吹いて聞せい。」かう云つて、甘利は若衆の膝を枕にして横になつた。
 若衆は笛を吹く。いつも不意に所望せられるので、身を放さずに持つてゐる笛である。夜は次第に更けて行く。燃え下がつた蝋燭の長く延びた芯が、上の端は白くなり、その下は朱色になつて、氷柱(つらら)のやうに垂れた蝋が下には堆(うづたか)く盛り上がつてゐる。澄み切つた月が、暗く濁つた燭の火に打ち勝つて、座敷は一面に青み掛かつた光を浴びてゐる。どこか近くで鳴く蟋蟀の聲が、笛の音(ね)に交つて聞える。甘利は瞼が重くなつた。
 忽ち笛の音がと切れた。「申(もを)し。お寒うはござりませぬか。」笛を置いた若衆の左の手が、仰向になつてゐる甘利の左の胸を輕く押へた。丁度浅黄色の袷(あはせ)に紋の染め抜いてある邊である。
 甘利は夢現(うつつ)の境に、寛いだ襟を直してくれるのだなと思つた。それと同時に氷のやうに冷たい物が、たつた今平手が障つたと思ふ處から、胸の底深く染み込んだ。何とも知れぬ温い物が逆に胸から喉へのぼつた。甘利は氣が遠くなつた。(「佐橋甚五郎」)

 筋書と言ひながら、原文の儘です。鴎外のこの文章を刈込む事は出來ません。全く隙の無い、一種、異樣な程の緊張感を孕んだ文章だからです。一箇所でも外せば全體が壞れてしまひます。もう少し讀んで見ます。

 三河勢の手に餘つた甘利を容易く討ち果して、髻(もとどり)をしるしに切り取つた甚五郎は、鼬鼠(いたち)のやうに身輕に、小山の城を抜けて出て、從兄源太夫(げんだいふ)が濱松の邸(やしき)に歸つた。家康は約束通り甚五郎を召し出したが、目見えの時一言も甘利の事を言はなんだ。蜂谷の一族は甚五郎の歸參を快くは思はぬが、大殿の思召を彼此(かれこれ)云ふことは出來なかつた。(中略)
 天正十一年になつて、遠からず小田原へ二女督姫君(とくひめぎみ)の輿入があるために、濱松の館の忙しい中で、大阪に遷つた羽柴家へ祝(いはひ)の使が行くことになつた。(中略)
 「誰か心の利(き)いた若い者を連れてまゐれ」と家康が云ふ。
 「さやうなら佐橋でも」と石川が云ふ。
 良久(ややひさ)しい間家康の聲が聞えない。甚五郎はどうしたことかと思つてゐると、やつと家康の聲がする。「あれは手放しては使ひたう無い。此頃見方に附いた甲州方の者に聞けば、甘利はあれを我子のやうに可哀(かはひ)がつてをつたげな。それにむごい奴が寢首を掻きをつた。」
 甚五郎は此詞(このことば)を聞いて、ふんと鼻から息を漏らして輕く頷いた。そしてつと座を起つて退出したが、兼て同居してゐた源太夫の邸へも立ち寄らずに、それ切り行方が知れなくなつた。源太夫が家内の者の話に、甚五郎は不斷小判百兩を入れた胴巻を肌に着けてゐたさうである。(「佐橋甚五郎」)

 これで、物語の時間がこの作品冒頭に戻る譯です。家康に會つた喬僉知(けうせんち)が、その後どうなつたかは解りません。「天正十一年に濱松を立ち退いた甚五郎が、果して慶長十二年に朝鮮から喬僉知と名告つて來たか。それともさう見えたのは家康の僻目(ひがめ)であつたか。確かな事は誰にも分らなんだ。」と、鴎外は書いてゐるだけです。

松島 なるほど、作品冒頭に描かれた家康と喬僉知こと佐橋甚五郎の確執が良く解ります。家康が甘利殺害を廻つて、甚五郎を使ひ棄てにしたのは事實ですから、家康は二十数年ぶりに再會して、さぞ薄氣味惡い思ひをした事でせう。

黒田 甚五郎が濱松を出奔するきつかけとなつた家康の言葉、「甘利はあれを我子のやうに可哀(かはひ)がつてをつたげな。それにむごい奴が寢首を掻きをつた。」、これは殆どシェイクスピア作「リチャード二世」に登場するボリングブルックの臺詞と、同質だと思ひます。リチャード二世を暗殺したエクストンに對する、あの有名なボリングブルックの臺詞です。
 リチャード二世は詩人肌の國王で、劇中「空しき王冠」を初め、數々の名臺詞を吐きますが、優柔不斷で統治能力が欠けてゐます。國は亂れ、リチャード二世の從兄弟、ボリングブルックが叛亂を起し、リチャード二世を幽閉します。が、「王權は神から與へられたもの」と云ふフィクションが生きてゐる時代の事とて、國王權力を掌握したボリングブルックにとつて、リチャード二世は「生きてゐる恐怖」に他なりません。ボリングブルックは騎士エクストンの顔をじつと見詰め、「一人の友もゐないのか、私からあの生きてゐる恐怖を取除いてくれる者は?」と言ひます。エクストンはリチャード二世を殺害、亡骸(なきがら)をボリングブルックの前に運びます。二人の會話はかうです。

エクストン 王御自身のお言葉があつたればこそ、私は敢へてこの事に及んだのでございます。

ボリングブルック 毒を必要とする者、必ずしも毒そのものを愛しはしない。私もお前を愛しはせぬ、確かに私はリチャードの死を望んではゐたが、その殺害者を憎み、殺されたリチャードを愛する。良心の呵責をお前の仕事の報いとするがよい、犒(ねぎら)ひの言葉も王の恩賞も與へるわけには行かぬ、これからはカインのごとく夜の闇をさまよひ、決してその顔を日の光に晒してはならぬ、、、(福田恆存譯) 

 良く似た状況ではありますが、勿論、エクストンと甚五郎とは違ひます。エクストンはボリングブルックの言葉に愕然としたでせうが、甚五郎は家康の言葉を聞くと「ふんと鼻から息を漏らして輕く頷いた」のでした。

藤野 甚五郎は家康に嫌はれてゐた事をはつきりと知つたのですね。エクストンは愚者ですが、甚五郎はさうではない。

山口教授 「リチャード二世」の觀客は、ボリングブルックの言分が正當なる事を認める。「政治の領域」では避くべからざる行爲が、「道德の領域」では許しがたき所行となる事があるからだ。ボリングブルックは暗殺者を必要としたが、暗殺者を愛した譯ではない。これは認めざるを得ない。
 一方、「佐橋甚五郎」の讀者は、「甘利はあれを我子のやうに可哀(かはひ)がつてをつたげな。それにむごい奴が寢首を掻きをつた」と云ふ家康の言分に共感しながらも、それ迄の經緯を考へれば、家康の身勝手に反撥するのではあるまいか。「反撥」すれば、それだけ佐橋甚五郎に讀者の同情が集まる。この場合、家康と甚五郎は對等である。そして佐橋の意地が喬僉知となり、家康を脅かす。ボリングブルックのマキャヴェリズムの見事とはまた違ふ、佐橋の意地の見事だね。
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