教授と學生『蠅の王』(ウィリアム・ゴールディング作)(第195回)

第195回 教授と學生『蠅の王』(ウィリアム・ゴールディング作)(その五)

讀書會、前回の讀書會から一週間後の山口教授宅。出席者、山口教授、彌生、松島、藤野(松島夫人)、黒田

山口教授 前回の續きだが、ジャック達が「ほら貝」のルールを無視して、海岸で踊り狂ふ有樣に、ラルフはすつかり嫌氣がさし、ピギーに向かひ、「ぼくは隊長をやめるべきかもしれない」と言ふ。本文を讀んで見よう。

 「きみが諦めたらぼくはどうなる」ピギーはぞつとするといふ口調でささやいた。
 「どうにもならないだろ」
 「あいつはぼくを嫌つてる。なぜだかわかんない。なんでもあいつの思ひどおりになつたらーーきみはいいさ、あいつに一目置かれてゐるから。それにーーきみならあいつをぶつ飛ばせる」(中略)
 サイモンが闇のなかでもぞもぞ動いた。
 「いままで通り隊長をやつてよ」
 「何を言つてゐるんだ、サイモン! きみはなぜさつき「獸」なんてゐないと言へなかつた?」
 「ぼくはあいつが怖い」ピギーが言ふ。「だからあいつのことがよくわかる。ある人間が怖いと、その人間が憎くなるけど、その人間のことを考へるのをやめられなくなるんだ。それで、そいつも根はいいやつなんだと思ひこもうとするけど、またそいつを見たら、喘息になつたみたいに息が苦しくなつてくる。言つとくけどさ。あいつはきみのことも憎んでゐるんだよ、ラルフーー」
 「ぼくを? なぜ」
 「わかんないけど。きみは火のことであいつを責めたし、きみは隊長で、あいつはさうぢやないだろ」
 「でもあいつは、自分はジャック・メリデューさまだと威張つてゐるぢやないか!」
 「ぼくは病氣で寢てることが多くて、さういふ時にいろんなことを考へたんだ。だから人間のこともよくわかつてゐる。自分のことがわかるし、あいつのこともわかる。あいつはきみには手出しできない。だけどきみが邪魔者でなくなつたら、きみのそばにゐる人間に手を出すよ。つまりぼくにね」
 「ピギーの言ふとほりだよ、ラルフ。これはきみとジャックの戰ひなんだ。だから隊長をつづけてよ」

 ジャックはラルフを憎んでゐるといふ、このピギーの言葉は、少年達が作つてゐる共同體が極めて不安定である理由を正確に言當ててゐる。ラルフは火を消した事でジャックを責めた、が、それは對立の切つ掛けに過ぎない。事の眞相はラルフが隊長で、ジャックがさうではない處にある。確かにピギーは「人間のこともよくわかつてゐる」。
 無理遣り「時事」に結び附けて冗談を言はうか。ジャックが核兵器開發に血道をあげてゐる北朝鮮の獨裁者で、ラルフがそれを阻止しようとしてゐるアメリカ大統領だとするね。獨裁者は大統領が國際社會を牛耳つてゐる事が腹立たしく、これには我慢出來ない。さうすると、差詰めピギーは、、、。

藤野 (山口教授の言葉を引取つて)ピギーは日本人になりますね。(眞面目に)先生の冗談は少々度が過ぎて笑へません。(しばし沈黙する)
 ジャックが豚を殺し、皆でその肉を食べた時、ジャックは皆に「ぼくはきみたちに肉を食はせてやつた」と繰返し言ひました。他人に認められたい、褒められたいといふジャックの慾求は熾烈なものです。ジャックに取つて、皆から能力を認められる事、それが詰り「隊長に選ばれる」といふ事なのですね。その隊長はジャックではなく、ラルフであるといふ冷嚴なる事實、これがジャックには激しい恥辱、我慢出來ない屈辱となつたのですね。

松島 フランスの思想家シオランの『告白と呪詛』といふ本が、紀伊國屋書店から出てゐます。その中にかういふ興味深い一節があります。讀んで見ます。

 不遇をかこつ人間といふのは、まつたくやりきれない存在で、なんでもかんでも自分に引きつけて考へる。絶えずわれとわが身に讃辞を捧げて、ひとさまが手向けてくれなかつた稱讃の、存分な埋め合はせをするのだが、その自己讃美たるや、とても彼の放つ冷笑と釣り合ふやうなものではない。幸運の子らよ、早くこつちへ來てくれ、と言ひたくもなる。數は少ないにせよ、成功を収め、世に容れられた者たちの中には、時に應じて人さまに先を譲る器量人がゐる。少なくとも、幸運児たちは、恨みつらみに身を焼くやうなことはしないし、その自己満足ぶりも、世に容れられない者たちの尊大さよりは、ずつと慰めになる。(出口裕弘譯)

 ジャックはラルフが島の集團に於ける「隊長」に選ばれた後も、依然として「聖歌隊・狩獵隊」のリーダーであるのですから、他人の目から見れば、シオランの言ふ「不遇」ではありません。しかし、ジャックの主觀としては、島の少年全員の「隊長」ではない事が、「屈辱」なのですね。「聖歌隊・狩獵隊」は全體の一部でしかありませんから。
 一方、ラルフは「隊長」としての役目を着實に果たす事が出來る、誠實で責任感がある有能な少年なのですが、勿論、彼にも「權力慾」はあります。ジャックより遙かに我慢強く寛容に見えるのは、「隊長」に選ばれた事により、彼は、「時に應じて人さまに先を譲る器量人」たり得てゐるからです。少なくとも彼はジャックのやうに「恨みつらみに身を焼くようなこと」はありません。

黒田 主だつた少年達が代表で調査隊を作り、例の「獸」を探してゐる時、野生の豚に出會します。その時、ラルフの内なる「權力慾」が露呈する優れた場面があります。ラルフが豚に槍を投げ、槍は豚の鼻面に命中しますが、槍が抜けて豚は逃げてしまひます。續きを讀んで見ます。

 「ぼくはやつたんだ」ラルフは腹立たしげに言つた。「槍が命中したんだ。手負ひにしたんだ」
 ラルフはみんなの注意を惹かうとした。
 「豚は通り道をやつて來た。それでぼくは槍を投げた。こんなふうにーー」
 ロバートがラルフにむかつて豚のやうにうなつた。ラルフが芝居の役に入りきつたやうな身振りをすると、みんなは笑つた。みんなはロバートに槍で突きかかる仕草をする。ロバートは逃げまどふ芝居をした。
 ジャックが叫んだ。
 「取り囲め!」
 たちまち輪ができた。ロバートは恐怖に怯えるふりをして、きいきい鳴く。が、そのうち本當に痛がりだした。
 「いたつ! やめて! 痛いよ!」
 槍の尻のはうで背中を突かれながら、ロバートはみんなのあいだをあたふた動いた。
 「押さへこめ!」
 みんなはロバートの腕や足をつかんだ。ラルフはふいに濃密な興奮にかられ、エリックの槍をつかんで、とがつてゐない端でロバートを突いた。
 「殺せ! 殺せ!」
 たちまちロバートは狂亂のていで絶叫しながら暴れた。ジャックが髪をつかみ、ナイフをふりたてる。(中略)
 ラルフも必死に近づかうとした。弱いものの、茶色い肉をつかみとらうとするやうな勢ひだつた。締めあげ、痛めつけようとする慾求が壓倒的に衝きあげてきた。
 ジャックの腕がふりおろされた。少年たちのうねる輪が歡聲をあげ、瀕死の豚の悲鳴を眞似た。それからみんなは地面に黙つて横になり、息をあへがせながら、ロバートの怯えたすすり泣きを聞いた。ロバートは汚れた腕で顔を拭き、けんめいに平静を取り戻さうとした。

 作者は、ラルフの中に「締めあげ、痛めつけようとする慾求が壓倒的に衝きあげてきた」と書いてゐます。たかが遊びとはいへ、ロバートを思ふが儘に嬲り、ラルフはサデイスティックな快楽を覺えてゐるのですが、それはロバートを嬲る事が大仰にいへばラルフの権力への渇望を癒すからだと思ひます。

山口教授 權力欲は「私たち生來のものだ」と、シオランは言つてゐるが、その通りだね。彼は代表作『歴史とユートピア』(紀伊國屋書店)に、かう書いてゐる。

 ある市民団の第一人者たらうとする誘惑を知らぬ者は、政治といふゲームをまつたく理解しないであらうし、他人を服従させて、これを事物にしてしまはうといふ願望も分らぬだらう。侮蔑の秘術を構成するさまざまな要素を見ぬく事も出来ないに違ひない。程度の差はあるにせよ、権力への渇望を抱かなかつた者はまれだ。それは私たち生来のものなのだ。(出口裕弘譯)

 また、シオランはこんな事も言つてゐる。自己の精神、生命力が「衰弱」してゐる時だけ、他人を許容出來る。ゆゑに、本當に自分自身が生きる爲には、他人を拒絶する事が必要である。「自由主義」とは「生命の衰弱」に他ならぬ。
 詰り、我々が生命力の充實を味はつて生きるには、他人に支配される譯にはゆかぬといふ理窟になる。勿論、支配するのは大いに宜しい。(讀書會、續く)

教授と學生『蠅の王』(ウィリアム・ゴールディング作)(第194回)

第194回 教授と學生『蠅の王』(ウィリアム・ゴールディング作)(その四)

(續、續、續讀書會)

山口教授 ラルフは「ほら貝」の集會を招集する。おチビ達の中から、「獸」を見たと言ひ張る者が出て來、その恐怖が年長者にも感染し始めたからだ。肝心の年長者もピギーだけが、「獸」の存在を明確に否定したが、その他の者は「獸」は島にはゐないと斷言しない。議論の収集が着かなくなり、大騒ぎとなり、集會は大混亂となつた。本文を讀んで見よう。

 ピギーはどすんと地面を踏んだ。
 「ぼくたちはなんなんだ。人間か。動物か。野蛮人か。大人が見たらなんと思ふ? ぎやあぎやあ騒ぐーー豚を狩るーー火を消すーーそして今度はこれだ!」
 影がひとつ、猛然と前に立つた。
 「黙れ、このデブ!」
 もみあひがあり、ちらちら光るほら貝が上下に揺さぶられた。
 「ジャック! ジャック! きみはほら貝を持つてゐないだらう! ピギーにしやべらせろ」
 ジャックの顔がラルフの間近に來た。
 「おまえも黙れ! いつたい何樣のつもりだ。偉さうにすわつてーー人に命令ばかりして。狩りもできない、歌も歌へないくせにーー」
 「ぼくは隊長だ。選ばれたんだ」
 「選ばれたからどうなんだ。役にも立たない命令ばかり出してーー」(中略)
 「きみはルールを破つてゐる!」ラルフはどなつた。
 「それがどうした」
 ラルフは懸命に頭を働かせた。
 「ルールだけがぼくたちの頼みの綱なんだ!」
 だが、ジャックはどなり返す。
 「ルールなんか糞くらへだ! ぼくたちは強いーー狩りができる!「獸」がゐるなら仕留めてやる! 追ひつめて、毆つて、毆つて、毆つてーー」
 ジャックは荒々しい雄叫びをあげて、ほの白い砂浜に飛びおりた。たちまち臺地の上で喧騷と興奮が渦巻き、少年たちが走りまはり、絶叫し、笑つた。集會はばらばらになり、みんなはでたらめに飛びまはり、椰子の木立から波打ちぎはへ行つて、そこから砂浜を走り、夜の闇のなかに消えていつた。

 「ほら貝政治システム」は少年達が考へだした有益な「法治システム」だつた。當然の事だが、「法治」である以上、「法」は通常強制力を持つて機能する。「法」の強制力を保證する「力」を缺く時、「法治」は成立せず、少年達の集團生活は無秩序な状態となる。今、讀上げた箇所には「力」を持たぬ「法治」の限界がまざまざと露呈してゐる。「法」を無視するジャックが象徴する「暴力」の前に「法」はとどの詰り無力だが、では、「法」が無力だとすれば、少年達が遭遇したやうな極限状態に於て、「法」は「無意味」なのか。決して、さうではない。「ルールだけがぼくたちの頼みの綱なんだ!」といふラルフの叫びは、島で暮す少年達の「命綱」が何であるか、その核心を衝く叫びだ。ジャックがその「命綱」を斷ち切つた時、忽ち、大半の少年達は「文明人」からジャックと共に「野蛮人」へと轉落する。少年達を「文明人」である「イギリスの子供」に留めて置いてくれてゐるもの、それは紛れもなく「ほら貝のルール」、すなはち「法」だつた。
 ところで、『蠅の王』は、松原正著『この世が舞臺』(「松原正全集第一巻」所収)で取上げられてゐて、そこにかうある、「法律は元首相を刑務所へ送り込む程の力を持つてゐる。といふ事は平時に於ける法の力は暴力や權力よりも強いといふ事」に他ならない。「元首相」とは田中角榮だが、成程、「法意識」の頗る希薄な日本國に於ても、「平時」に於て、「法」は權勢を誇つた田中角榮の「力」を凌いだ。

黒田 ロバート・ボルトの傑作戲曲「四季の男」(A Man for All Seasons) は、「大法官」トマス・モアと國王ヘンリー八世の確執を扱つた歴史劇ですが、そこにも「法」が持つ意味を説く大層優れた場面がありました。ヘンリー八世は學者文人として尊敬するモアを「大法官」の地位につけ、妃キャサリンとの離婚に、モアの同意を求めます。ヘンリー八世は愛人のアンとの再婚を企んでゐたのです。法王廳は離婚を認めず、「大法官」モアは敬虔なカトリック教徒であり、勿論、離婚を認めません。「なぜ陛下は、私の微々たる力添へをお求めになるのでございますか」とのモアの問ひに、ヘンリー八世は「お前は正直だからだ。いや、何よりも、正直者として知られてゐるからだ」と答へます。(「松原正全集第一巻」所収「ロバート・ボルトについて」参照)
 以後、モアは國王の離婚問題に關して、完全に沈黙するのですが、ヘンリー八世の腹心クロムウェルは、モアを陥れるべく、リチャード・リッチにモアの動靜を探らせます。モアの娘婿ローパーは、リッチを野放しにするのは大層危險であるとて、リッチの逮捕をモアに求めますが、モアは耳を貸しません。「たとひリッチが惡魔であらうが、法律を破らぬ限り、捕へる事は出來ぬ」と、モアは言ひます。ローパーはかう反論します。「惡魔に法の保護を與へようとなさつていらつしやる。惡魔を追ふ爲なら、私はイングランド中の法律を全て斬倒します」。モアは嚴しくローパーをたしなめます。「では、法律の最後の一本が斬倒された時に、惡魔が君の方を振向いたら、君は何處に身を隠すつもりだ。ローパー、法律は全て倒れてゐるぞ」。

松島 成程、モアがリッチを捕へる爲に法を無視すれば、モア自身が國王の離婚問題から身を隠す手立てが無くなるのですね。モアが黙秘してゐる限り、客觀的にモアが王の離婚に反對してゐると證明する事は出來ません。無論、「黙秘權」を行使するモアの眞意を「忖度」する事は出來ますが、それでは法的な効力を持つ證明にはなりません。

黒田 結局、モアが國家に叛逆したのか否かで裁判となり、リッチの僞證により、モアは有罪となります。モアは敗れますが、法は最後まで機能して、クロムウェルも「僞證」といふ非常手段を以てしか、有罪判決に持込めませんでした。リチャード・リッチがウェールズの検事總長に就任する事と引替へに僞證した事を知つたモアはかう言ひます。「何故だ、リチャード。全世界と引替へにでも、自分の魂を賣るのでは何の得にもならぬものを、、、たかがウェールズの爲にか!」

藤野 『蠅の王』に話を戻しますと、ジャックは「法」を踏み躙り、惡魔に魂を賣つて、豚肉を手にいれ、「野蛮人」の「王」になつたのですね。

山口教授 かといつて、我々が同じ状況に置かれた時、ラルフやピギーのやうに振舞へるかな。それとも我々が「法」の力を信じる眞の「文明人」であつた事が、これまでにあつたかな。我國領空を侵犯して北朝鮮のミサイルが飛んで來るといふのに、「憲法改正論議」すら出來ない國だよ。いや零すのは止めて、酒にしよう。

教授と學生『蠅の王』(ウィリアム・ゴールディング作)(第193回)

第193回 教授と學生『蠅の王』(ウィリアム・ゴールディング作)(その三)

(續、續、讀書會)

黒田 ジャックはラルフではなく、ピギーを毆ります。ピギーの大事な眼鏡が飛び、岩に當つて片方のレンズが壞れます。ピギーは眼鏡が無ければ、視力が殆どありません。ピギーに取つて、眼鏡はそれほど大切なものであるだけではなく、太陽光の焦點を合はせて火を熾す道具としても使はれてゐましたので、少年達全員が救出されるか否かにも關はる「壊してはいけない」ものでもあつたのです。それを片方のレンズだけではあつたが、ジャックが壊した。ピギーは片方しか目が見えなくなります。ピギーはジャックに「片目しか見えないんだ。いまに見てろーー」と言ひますが、ジャックはピギーに「ああ、見てゐてやるよ!」と言ひ返すだけで、謝罪しません。

松島 ピギーの眼鏡が割れれば、火が熾せなくなり、救出の爲の「のろし」を上げる事が出來なくなるだけではなく、折角手に入れた「肉」を調理する事も出來なくなります。ジャックは自らの不利益を招く愚かな行爲を何故行ひ、それを何故反省しないのか。コンラート・ローレンツは『攻撃』(日高敏隆、久保和彦譯、みすず書房)といふ本の中で、「理性的存在としての人間は、その原理の中に、道理の矛楯が見出だされた行爲をしたいと欲することはできない」と云ふ、この「カントの意見」が、「人間の自己認識を妨げる大きな障害」となつたとして、次の例を擧げてゐます。
 ネズミは他のネズミを殺す、詰り「種内淘汰」を行ふ動物であるが、ネズミよりも遙かに始末の惡い「種内淘汰」をやらかすのが人間で、「ネズミの場合には大量殺戮のあとでも、ともかく種を保つにたるだけの數は殘つてゐる」だらうが、「水素爆彈を使つたあとの人間については、それは極めて疑はしい」。未來の事に限らない。カントの人間觀は人類史にも適用出來ない。「智慧の實」を食べ、知性を持ち、樂園を追放された人間は、「最初の工具である手斧と火」を手に入れた。「この道具を、かれはすぐさま自分の兄弟を打ち殺してあぶり肉にするのに使つた。このことは、ペキン原人の住居跡からみつかつた出土品が證明してゐる。そこには、人間が最初に火を使つた跡とならんで、こなごなに碎かれ、まぎれもなく火に焙つたあとのある人骨」が横たはつてゐた。
 それゆゑ、ローレンツに言はせればかうなる。理性的存在である人間は、「道理の矛楯が見出だされた行爲をしたいと欲することはできない」、などといふカントの主張が間違つてゐる。カントは、普通の人間が、「自分がしたいからする行爲を、行爲の原理の中に論理的矛楯があるといふ純粹な理性的な認識によつておしとどめる事が出來る」と思つてゐるが、そんな事は土臺有り得ない。人間は「純粹理性」によつて動かない。

藤野 ジャックがピギーを攻撃の對象にして、ラルフを毆らうとしなかつたのは、何故でせう。

黒田 ジャックの暴力がラルフに向けられなかつたのは、この段階では、ラルフにはジャックを凌ぐ力があつたからです。ジャックはラルフに火を消した事を謝ります。本文を讀んで見ます。

 ラルフはやうやく嫌な口調でつぶやいた。
 「もういい。火を燃やしてくれ」
 さてひと汗かくぞといふ空氣で、みんなの緊張が少しほぐれた。ラルフはもう何も言はず、何もせず、足のまはりの灰を見下ろしてゐた。ジャックは大きな聲を出して活發に働いた。命令し、歌ひ、口笛を吹き、黙つてゐるラルフに何か言つた。返事の必要がない言葉なので、ラルフから反撥が來ることはない。ラルフは沈黙を守つた。誰もーージャックですらーーラルフにそこをどいてくれと言へず、仕方なくみんなはもとの焚き火から三メートルほど離れたところで火を熾しなほした。そこはあまり焚き火に適した場所ではなかつた。
 かうしてラルフは隊長の權威を取り戻すことができたわけだが、頭でいくら考へてもこんな方法があるとは思ひつかなかつただらう。ラルフの武器は、どんなものなのか説明できないけれども強力な武器で、その前にはジャックは無力だつた。ジャックは理由がわからないまま憤懣をつのらせた。薪の山ができるころには、ふたりは高い壁のあちらとこちらに別れてゐた。

 「ラルフの武器は、どんなものなのか説明できないけれども強力な武器で、その前にはジャックは無力だつた」とありますが、ラルフに「力」を與へてゐるのは、「ほら貝」の集會で多數がラルフを隊長に選んだ事實だと思ひます。詰り「政治システム」に基づく「隊長」としての「權威」なのですが、しかし一旦、少年達がこの「ほら貝政治システム」を信じないやうになれば、ラルフの「權威」は忽ち崩れる事になります。

山口教授 「ほら貝政治システム」によつて決定した事を、少年達全員が何時如何なる時も守れるのなら、「多數決」は有効に機能する。しかし、ある意見、立場を支持して、それが「多數決」により否定された時、「多數決」にどうしても從へない場合がある。例へば、ジャックにとつて、發見した豚を殺す事、これは焚き火を燃やし續ける事よりも遙かに大事な事だつた。焚き火を消した事をラルフとピギーに責められた時、ジャックはラルフを毆れないからピギーを打つ。それは詰り、豚を殺して肉を手に入れる事が「焚き火」に優先するとしか、ジャックには思へなかつたからである。多數の意見に反して自分の信念を貫く事、これは善き事ではないかと、假にさうジャックが考へたとして、ラルフやピギーがジャックを反省に追込む事は頗る難しい。ジャックは強いし、強い人間は兎角「謙讓」の美徳に缺けるからである。ジャックの「強さ」を否定する事が出來るのは、「ほら貝政治システム」ではない。このシステムには缺陷がある。もしも、集團内のより多數の人間が「力」による獨裁を望んだ場合どうなるか。「ほら貝政治システム」に基づく民主主義的手續により、「力が正義」となるではないか。勿論、その時、既に民主主義は消滅して、獨裁政治となつてゐる。しかし、民主主義には「獨裁」を選ぶ自由を否定する機能は無い。「力」を否定出來るのは「謙讓の美徳」だけである。そして、西歐文化に於て、「謙讓の美徳」を支へるのはキリスト教である。しかし、「謙讓の美徳」が、例へばニーチェの「英雄主義」を突附けられればどうなるか。
 ニーチェは「弱さに由來するものはすべて惡であり、強さに由來するものはすべて善である」との信念を抱いてゐたが、かうしたニーチェの「英雄主義」は、反キリストの「傲慢」に通じる。詰り、「汝の敵を愛せ」といふ「謙譲」を説くキリスト教の理想とは正反對である。ニーチェの「英雄」か、イエス・キリストの「理想」か、どちらが正しいかを決める事は、論理的には不可能である。それゆゑ、ニーチェ主義とキリスト教の教へとの間には、「倫理的不一致」が生じる。
 一體、「善」とか「惡」とかいふものは、これらの言葉を用ゐる人の個人的必要以外に、果たして客觀的基準が存在するのであらうか。もし存在しないのであれば、確かバートランド・ラッセルが言つたやうに、かうした「倫理的不一致」の決着をつける手段は「力」によるか、「プロパガンダ」によるか、その孰れかである。「力」によるのであれば、「強いものが正しい」となり、「強い者」が「善」を代表してゐる事になるが、「プロパガンダ」によるのであれば、或る集團内のより多くの人が、どちらを正しいと思ふやうになつたかによつて、決着がつく事になる。しかし、「善」とか「惡」のやうな根本問題について、我々は「多數意見」に常に從ふ事が出來るだらうか。出來まい。以上、僕が述べた事は、無論「論理の堂々巡り」だが、この「堂々巡り」には出口がない。それは詰り、「民主主義・數の正義」も「力の正義」も萬能ではない事を意味する。

藤野 ラルフに贊同するグループとジャックに從ふグループとの對立が不可避で、この「不一致」を解消する方法が無い事、及び兩グループの抗爭が、民主主義政治體制の崩壊過程に繋がる事が良く解りました。
 ところで、ジャックが「隊長」としての權威をラルフに認めてゐた時には、兩グループの對立は未だ決定的なものではありませんでした。先ほど、黒田さんが小説本文から引用された箇所の續きを讀みます。(本を開く)

 薪の山ができたところで、べつの危機が發生した。ジャックには火をつける手段がないのだ。するとラルフがピギーのところへ行き、眼鏡をはづしたので、ジャックは驚いた。ラルフ自身にも、自分とジャックとの關係はどこで壊れ、どこでまだつながつてゐるのか、解らなかつた。
 「すぐ返しにくるから」
 「ぼくも行く」
 ラルフの背後に立つたピギーは、無意味な色の海に浮ぶ孤島となつてゐた。ラルフは跪き、光の焦點を合はせた。火がつくとすぐ、ピギーは兩手を出して眼鏡を取り戻した。
 燃えはじめたこの紫、赤、黄色の夢のやうに美しい花々の前に、險惡な雰圍氣は溶けていつた。みんなはまるでキャンプファイアを圍む少年たちのやうになり、ラルフとピギーもその輪になかばひきこまれる格好になつた。

 この段階では、それは本當にかすかなものではありますが、ラルフとジャックの間に和解の可能性がある事が示唆されてゐると思ひます。

松島 「ラルフ自身にも、自分とジャックとの關係はどこで壊れ、どこでまだつながつてゐるのか、解らなかつた」とありますが、それは多分「感情」の次元ですね。「理性」の次元ではありません。「愛」や「友情」は「非理性」の領域から生まれます。その「非理性」が同時に「憎しみ」を生み出すのですから、「人間的」である爲には、「愛」と同時に「憎しみ」も不可缺といふ事になります。ローレンツもかう書いてゐます。

一切のいはゆる動物的なものを脱却した人間、暗い衝動を奪ひ去られた人間、純粹な理性的存在としての人間は、決して天使ではありえまい。そろどころか、天使とはまつたく反對のものであらう。(『攻撃』)(讀書會、更に續く)
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