教授と學生『ドン・ジュアン』(モリエール作)(第231回)

第231回 『ドン・ジュアン』(モリエール作)(その三)

(讀書會續き)

山口教授 サド侯爵が出て來るとなると、自由は果して良きものかと云ふ事になる。例の厄介な「自由のディレンマ」だね。(黑田の方を見る。)
 ドン・ジュアンは「神の僕」ではない。神の「縛り」が無くなれば、個人の個性の主張となる。ドン・ジュアンの中に樣々な人格が同居してをり、それが外に現れる。結果、近代人の樣々な相貌を見せる。ドン・ジュアンは「女誑し」にして、義侠心に富む武人、僞善者にして、神を畏れぬ豪膽な人物と云ふ譯だ。

黑田 「義侠心に富む武人」と云ふのは、エルヴィールの兄ドン・カルロスを、追剥ぎから助けたからですね。

松島 さうかと思へば、父親のドン・ルイに會ひ、敬虔なカトリックになつたふりをします。こんな風です。

ドン・ジュアン (僞善者を裝つて)はい、ごらんのとほり、迷ひの道からはつきり目がさめました。もはや昨夜のわたくしではございません。神さまは、だれしもの驚くやうな變化を、突如としてわたくしのなかに授けられました。神さまはこの魂に觸れ、この目を開いてくださいました。これまで長らく暮してきた盲ひた生活、半生のうちに犯した罪過の數々を省みて、慄然としてをります。(後略)

 これは、殆ど信仰者の臺詞です。「僞善者」と「信者」との間には多くの共通點があります。ドン・ジュアンの臺詞だけを表面的に讀むと、「僞善」と「信仰」を辨別する事が出來ません。それゆゑ、父親はドン・ジュアンに簡單に騙されるのですが、父親を一方的に「愚か」と切り捨てる譯にはゆきません。尤も、この點については、(僞善者を裝つて)と云ふト書きを役者がどう演ずるかにかかつてはゐますが。

藤野 最後は「動く石像」ですね。ドン・ジュアンが決闘で殺した騎士長が石像になつてゐます。石が口をきき、ドン・ジュアンを食事に招きましたが、ドン・ジュアンが行かなかつたので、家にやつて來ます。ここは、實に面白い場面なので、讀んで見ます。

像 待て、ドン・ジュアン、貴殿は昨日、拙宅へ食事に來ると誓はれたな。

ドン・ジュアン さやう。どちらへまゐつたらよろしいか?

像 手をかしていただきたい。

ドン・ジュアン さあ。

像 ドン・ジュアン、罪業が凝つては、不吉な死を招く。天の惠みを拒絶すれば、雷(いかづち)、なんじの頭上に落ちん。

ドン・ジュアン ああ! なんといふ氣持だ! 目に見えぬ火がおれを焼く、もうたまらぬ、體ぢゆうが燃えさかる烈火のやうだ。ああ!
(大きな閃光とともに、雷がドン・ジュアンの上へ落ちる。大地裂け、ドン・ジュアンを呑む。落ちた場所から大きな炎が吹き出す)

 ドン・ジュアンに神罰が下る場面ですが、神を呪ふ言葉も、これまでの犯した罪過を悔いる言葉もありません。彼は己が信念を貫いたとも言へます。結局、「ドン・ジュアン」では、「地獄に行く人間の榮光」が描かれてゐるのではないでせうか。

葉月 難しい解釋ですね。私には仰る事が良く解りません。

黑田 (葉月に)このテーマについては、勉強熱心な英文科の學生なら、或は讀んでゐるかもしれない頗る優れた文章があつてね。T.S.エリオットの「ボオドレエル論」の一節だ。こんなだよ。

 我々が人間である限り、我々がすることは善であるか、惡であるか、そのどつちかでなければならない。我々は善、或は惡をなす以上、人間なのである。そして逆説的に言へば、我々は何もしないよりも、惡いことをした方がいいので、少くとも我々はさうすることによつて人間として存在してゐることになる。人間の榮光は、救はれることにあるといふことに間違ひはないが、地獄に行けることが人間の榮光であるといふことも同じく本當である。政治家からこそ泥に至るまで、我々が知つてゐる惡人に就いて言へる一番ひどいことは彼等が地獄に行くことさへも出來ない情けない連中だといふことなので、ボオドレエルには地獄に行けるだけのものがあつた。(吉田健一譯)

 (葉月に)今、僕が讀んだ文章の末尾の一文、この中の「ボオドレエル」を「ドン・ジュアン」に置換へれば、「ドン・ジュアンには地獄に行けるだけのものがあつた」となり、藤野さんの發言と同じになる。だが、かういふ發想は日本の文化には無いものなので、僕も本當に解つてゐるかどうかは怪しい。いや、本當の事を言ふと、多分解つてない。日本人のごく普通の生活感情では、「惡い事をするよりは何もしない方が良い」であり、「地獄よりも極樂の方が良いに決まつてゐる」であり、もつと言へば、「極樂」に行けないのなら、「地獄」にも行きたくないであり、その點、昔も今も變はらない。

山口教授 地獄に墜ちたドン・ジュアンがどうなつたか。ボードレールが「あの世のドン・ジュアン」と題する詩に書いてゐる。面白いから讀んで見よう。(『惡の華』をひろげる)

 「あの世のドン・ジュアン」

ドン・ジュアンが地の底の河の方(かた)へと降りてゆき、
渡し守カローンに船賃の銅貨一枚やつたかと思ふと、
陰氣な乞食(「貧者」)が、アンティステネスばりの傲慢な眼(まなこ)を光らせて、
復讐の思ひこめた腕たくましく、むんずと櫂をつかんだ。

垂れ下がる乳房もあらは、着物をはだけた女たちは、
眞黑な空の丸天井の下に身をもだえては、
生贄に供された獸の大きな群をさながら、
彼の背後(うしろ)で、長い唸り聲の尾をひいた。

スガナレルは笑ひながら給金を催促するし、
ドン・リュイは指先をわななかせて、
その白髪頭をあざ笑つた大膽不敵の息子を、
岸辺にさ迷ふ亡者たちにさし示すのだつた。

喪服をまとひ慄(おのの)きつつ、痩せた貞節なエルヴィールは、
かつては彼女に戀ひ焦がれた、裏切り者の夫のかたはらで、
初めて誓つてくれた時の優しさが輝き出るやうな、
最後の微笑をせめてひとつ、ねだるかに見えた。

甲冑に身を固めてすつくと立つ、背の高い石の男(石像)が、
梶を握つて、黑い波を切つて行つた。
だが落ちつきはらつた英雄は、細身の剣をついて身を屈(かが)め、
舟の引く航跡(すじ)を視つめて、何ものにも目をくれようとしなかつた。
                         (阿部良雄譯)

 確かにボードレールは「ドン・ジュアン」に、「地獄に墜ちる人間の榮光」をみてゐる。(一呼吸おいて)このくらゐにしておかうか。

教授と學生『ドン・ジュアン』(モリエール作)(第230回)

第230回 『ドン・ジュアン』(モリエール作)(その二)

黑田 (葉月に)詰り「凡庸ならざる」眞正のドン・ジュアンには「快樂」を徹底的に追及する強固な意志がある。その爲には、身を滅ぼす事など氣にしない。これは形を變へた「絶對の探求」といふ事かな。

葉月 (黑田に)「女漁り」が「絶對」に「爲すに値(あたひ)する事」かしら。

黑田 (葉月に)「女漁り」の裏にあるカトリック批判をどう考へるか。『ドン・ジュアン』が「喜劇」である所以は、當時の常識であつたカトリックにおぶさり、カトリックの「常識」をひつくり返してゐるからだよ。凡庸な作家では、これはやれない。

山口教授 西歐でキリスト教を除外すると、総ての價値は相對的になる。『ドン・ジュアン』が書かれた時代は、「啓蒙思想」の「理性中心」の流行により、中世以來の「神中心」が打撃を受け、カトリック批判は絶對的な禁止事項ではない。だが、信仰はまだ生きてゐる。それにプロテスタントも勢力を伸ばしてゐる。尤も、離婚を可とするプロテスタントでも、「女漁り」は問答無用の地獄墜ちだがな。とまれ「理性」と「信仰」がせめぎ合ふ時代に、神も地獄も怖れぬドン・ジュアンが創造され、舞臺にかけられた。當時の社會に與へた衝撃は絶大だ。それ迄、「自明の理」とされて來た「結婚の祕蹟」が覆され、「性愛の快樂」に變へられたのだからね。これは「無神論」がなければやれない事だ。現代の「凡庸なナルシス」は、自分勝手に生きたいと云ふだけで、思想性など皆無だね。ドン・ジュアンの「無神論」に關しては、『ドン・ジュアン』に頗る有名な場面がある。

黑田 第三幕、「貧者」の場ですね。スガナレルとドン・ジュアンは、森の中で道に迷ひ、森に隠棲してゐた貧者に町へ出る道を教へて貰ひます。以下、二人の間にかう云ふ會話が交はされます。

ドン・ジュアン こんな森のなかでなにをしてゐるんだ?

貧者 わたくしに施し物をくださるお慈悲ぶかい方々のご繁栄を、明け暮れ祈つてゐるのでございます。

ドン・ジュアン そんならお前だつて樂な暮らしが出來ぬわけはなささうなものだが。

貧者 ところが、だんなさま、ひどく難渋いたしてをりますので。

ドン・ジュアン 冗談いつちやいけないよ。明け暮れ神樣にお祈りする人間だつたら、商賣が榮えないはずはなからうぢやないか。

貧者 まつたくの話が、だんなさま、ひとかけらのパンさへ咽喉(のど)にはいらないことが、珍しくはないのでございます。

ドン・ジュアン をかしな話だ。お前の心づくしもさつぱり神樣には通じないと見える。はつはつは! 神樣を呪つてみな、たつたいま一ルイ金貨をくれてやる。(中略)

貧者 いいえ、だんなさま、餓ゑ死にしたはうがましでございます。

ドン・ジュアン よし、よし。人類愛のためだ、これはお前にやつておかう。(後略)

 貧者は金よりも信仰を選んだのですから、この勝負はドン・ジュアンの負けです。では、一ルイ金貨を與へて、「人類愛のためだ、これはお前にやつておかう。」といふドン・ジュアンの臺詞は、負け惜しみなのでせうか。さうではない所以が、水林章の『ドン・ジュアンの埋葬』に書いてあります。
 通常、貧者に「施し」をするのは、神によつてもたらされる「救ひ」を願つてのことであり、「施し」の「眞の送り先」は「貧者ではなく神」であると、水林は言ひ、かう書いてゐます。ドン・ジュアンが「施し」にともなふ「神の愛のために」といふ「定式的表現」を捩つた「人間愛のために」(鈴木譯では「人類愛」)といふ文句(これは一六六五年の時点では、ほとんど「冒涜」である)と共に、「投げ與へた金貨は、疑ひもなく、神ではなくその反轉像としての惡魔の存在を想定してゐる」。詰り、「人類愛のために」と云ふドン・ジュアンの臺詞は、「施し」即ち「神の救ひ」を明確に否定した惡魔の臺詞だと云ふ事になります。水林に據れば、この「貧者のシーン」が「そのまま演じられたのは初演當日の一日だけで、第二回目の公演からは次の場面との繋ぎを殘してそのほとんどがカットされたといふ。」(『ドン・ジュアンの埋葬』)作品に含まれてゐる「毒」が餘りに強過ぎたのです。
 ドン・ジュアンは神を「冒涜」しました。「冒涜」と云ふ行爲は、當然の事ながら、神の存在が信じられない時には成立しませんから、『ドン・ジュアン』が初演時に持つた衝撃力は、ドン・ジュアンの惡行が、「神」を意識し、しかもその「神」を「殺さう」とした處にあつたのだと思ひます。詰り、彼は惡魔と手を握つたアンチ・ヒーローです。

山口教授 「神殺し」を企てるエネルギーが、人間を神の僕(しもべ)の身分から解放し、徹底的な人間中心主義、ひいては個人主義を育て、これがやがてフランス革命を生む原動力となつてゆく。水林章に據れば、フランス革命期に成立した「離婚法」では、夫婦の一方が「氣質または性格の不一致の單なる主張」をしただけで、「他の理由」をいつさい擧げずに「離婚」を申立てる事が出來たと云ふ。離婚を認めないカトリックの教へは完全に否定された譯だ。尤もその後のナポレオン政權により、この極端な「自由主義的、個人主義的」法律は廃止された。少々飛躍した物言ひになるが、ドン・ジュアンの「女漁り」と「無神論」の關係を歴史的に延長すれば、フランス革命期に現れたサド侯爵の思想に行き着く。すなはち「個人の自由」を最大限に主張する「個人主義」の極致だね。『惡靈』に出て來るシガリョフの名臺詞を捩れば、「私は無限の自由から出發して無限の虐待を行ふ、これがサディズムだ」か。(續く)

教授と學生『ドン・ジュアン』(モリエール作)(第229回)

第229回 『ドン・ジュアン』(モリエール作)(その一)

(讀書會、出席者、山口教授、松島、藤野(松島夫人)、黑田、葉月)

山口教授 フランス古典喜劇の傑作『ドン・ジュアン』を取上げる。テクストは岩波文庫に入つてゐる鈴木力衛譯だ。モリエール作『ドン・ジュアン』は1665年、パリで初演、大好評であつたが、十五回の公演の後、「喜劇」ながらもこの作品が含んでゐる「猛毒」の爲に、何時の世にも現れる、何か事があれば正義づらをして暗躍する「狂信家」、「僞善者」、「似非道德家」どもの妨害にあひ、上演打ち切りとなる。讀書會では、この「猛毒」の正體を突き止めたい。

藤野 上演禁止の理由として、作品のテーマが當時のフランス社會のタブーに觸れたと云ふ事が考へられます。さうすると、先づカトリック教會批判ですね。主人公ドン・ジュアンの行動がカトリックの教へを根底から否定するものであつたと云ふ事。

松島 ドン・ジュアンは修道女エルヴィールを誘惑し、修道院から連れ出し、妻にします。ところがドン・ジュアンは妻にした女には何の魅力も感じず、彼女を家に置き去りにして召使ひのスガナレルを連れ、女漁りの旅に出掛けます。ドン・ジュアンを諫めるスガナレルに彼はかう言ひます。

ドン・ジュアン 熱情や、涙や、ため息で、嫌がつて降参せぬあどけない清らかな魂を攻め落とす、かよわい抵抗のことごとくを、一歩一歩と打ち破る。操大事と氣をもむのをおさへつけ、思ひどおりのところへ女をそつと連れてくる。これほどの樂しみはほかぢやめつたに味はへない。だが、ひとたび手に入れたら最後、もう文句も希望もあつたものぢやない。美しい情熱は跡形もなく消え去つて、かうした戀の静けさについうとうとと眠りこむ。新しい女があらはれて、こちらの情慾をかき起し、ものにせずにはいられないほどの魅力で誘ひの水をかけてくれない限りはだ。

 ドン・ジュアンが語つてゐるのは「愛」ではなく、性愛の「快樂」ですね。貞操堅固な女の抵抗を打ち砕き、己が支配慾の滿足を味はふ。しかしひとたび女を支配すればそれも終りですから、新しい對象を搜す。さうなると、松原正が書いてゐる通り、「不特定多數の女と通じて樂しんでゐるうちに、女を愛する能力は奪はれて「性愛的無力」を招來するしかない。それゆゑ、ドンファンに異性への愛は無縁であり無力である。」(『松原正全集第二巻』、圭書房)かくて、ドンファンは、「消え去つた」性愛の「情熱」を取り戻すために、「新しい女」を求め續ける。一旦結婚したからには「死が二人を分かつまで、二人は最早二人に非ず、一人なり」と云ふキリスト教の結婚の掟は踏みにじられます。水林章の『ドン・ジュアンの埋葬』(山川出版)に據れば、カトリック教會にとつて、教會の執り行ふ「結婚」は「祕蹟」であり、「生まれてくる子供をキリスト教にのつとつて育てることを目的として、男と女のあいだに聖なる契りを打ち立てる」事を意味するのですから、ドンファン傳説を下敷きにしたドン・ジュアンの人物造形、ならびにエルヴィールに對する彼の仕打ちは、確實にカトリック教會の否定に繋がります。エルヴィールを捨てた後、ドン・ジュアンはシャルロットとマチュリーヌといふ二人の村娘を、結婚を餌に二人同時に誘惑するのですが、シャルロッテにはピエロといふ婚約者がゐました。ドン・ジュアンはエルヴィールを捨てただけで離婚してゐませんし、これはもう二重三重にキリスト教の侵犯になります。モリエールはカトリック信仰そのものを笑つてゐるのでせうか、それとも「性愛の快樂」だけを追及するドン・ジュアンが結局は「性愛的無力」に落込む樣を笑つてゐるのでせうか。

黑田 『ドン・ジュアン』の演出家が何を狙つて、どう演出するかに關はる大事な問題ですね。表面的に臺詞だけを見ると、ドン・ジュアンは「性愛的無力」どころか、最後まで意氣軒昂、「性の活力」を維持して女漁りに励んでゐます。「神罰を恐れて改心し、破滅を避けるやうに」と、必至でドン・ジュアンを諫めるエルヴィールの姿を見るや、スガナレルに向かひ、「おい、おれはあの女にちよいとばかり未練氣が出たよ、あの變つた新しさはなかなか面白い、投遣りな身なり、やつれた姿、涙のしづく」などと遊蕩児の本領を發揮する臺詞を吐く有樣です。私が演出家なら、「啓蒙思想」が流行した時代背景のもと、次第に形骸化し、力を失つてゆく「カトリック信仰」を笑ふ「ブラック・ユーモア」として舞臺を作りたいですね。

葉月 松島さんが紹介された水林章の『ドン・ジュアンの埋葬』がここにあります。(本を取出す)大層面白い箇所がありましたので、讀んで見ます。フランスの週刊誌『ル・ヌーヴェル・オブセルヴァトゥール』1994年九月1556號のある記事が飜譯されてゐます。

 彼(サッシャ)は比較的裕福な環境で育つた。(中略)十九歳になつて、サッシャは「夫婦といふものが慾望を殺してしまふ」ことに氣がついた。(中略)母親は息子に「一00三」(ミレ・エ・トレ)といふあだ名をつけたが、それはもちろんドン・ジョバンニがスペインでものにした一00三人の女たちを念頭においてのことである。...すべての女性を選擇するサッシャは、したがつていかなる女性とも深入りしないと決意したのである。「極論すれば、一晩の出來事、それが理想だね」と、彼は、魅力的な微笑を浮べながら告白する。

 この記事の後に、水林章は次のコメントを附してゐます。

 誰もが凡庸なドン・ジュアンになつてしまつた世界、それが今日のポスト・モダン的状況といふものだらう。(中略)誰もがドン・ジュアン化した社會において、神話としての<ドン・ジュアン>にいかなる有効的機能も、またいかなる存在理由も見いだされないことは、明らかではないか。ジル・リボヴェツキーのいふやうに、「ドン・ジュアンは確かに死んだのであり、それに代はつて新たな、そしてより不氣味な形象が立ち上がつて」きたのである。それは、眞性の個人主義の時代にいかにもふさはしい、「ガラスのカプセルのなかで自らに魅了されたナルシス」にほかならない。(『ドン・ジュアンの埋葬』)

 現代フランスの若者はサッシャのやうな「凡庸なドン・ジュアン」ばかりなのかどうか、私には分りません。ですが、『ドン・ジュアン』初演當時のやうな衝撃力を、ドン・ジュアンが失つたとは言へるでせう。興味深いのは引用文末尾の一文です。現代日本にも「ガラスのカプセルのなかで自らに魅了されたナルシス」が蠢(うごめ)いてゐるからです。彼等は結婚せず、余暇をすべてスマホやネットで過ごし、ネットにお氣に入りの寫眞や動畫を投稿し、おしやれで、人から褒められるのが大好きです。水に映つた自分の姿に「魅了」されて、溺れ死んだナルシスまでゆけば、それはそれで天晴れですが、決して「ガラスのカプセル」から出ようとはしない。安全かどうかを常に確認する習性がある爲、人から少しでも批判されるとすぐに傷附き、陰湿な惡意を胸の中に育てる。詰り「凡庸なナルシス」ですね。水辺にひ弱な花を何時までも咲かせてゐたい。それが彼等の願ひです。(續く)
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