東京坂道さんぽ

そういえば以前に国立競技場そばを通ったときに坂道風景がすこし変わっていた場所がありましたね。


国立競技場南側の無名坂と人工地盤1
写真1

国立競技場そばのビクタースタジオがすぐ横にある場所の道路です。(写真1)
ここは地形的に、ビクタースタジオ前の仙寿院交差点から東側に上っている坂道です。

ここはみてのとおり国立競技場が建て替えられたときにあらたにつくられた人工地盤が上空を走っているんですよね。
もちろんこれは前になかったものですね。

写真1の左側には国立競技場があって、道路向かいの右側にもなにか(建設中のようですが)なにか関連施設あるようですが、なんというかそこまでして人工地盤をつくる必要があったのかな?とは思いましたね。
現地の坂道を通りながら。(^^)


国立競技場南側の無名坂と人工地盤2
写真2

まあそれはいいとして、こちらは坂上側にあたる東側から撮ってみたものです。(写真2)
日没直後だったので、なかなかな坂道風景だったかもです。
しかも坂下の人工地盤の柱がいい味だしていることもたしかです。

それにしても人工地盤、けっこうな構造物ですね。
でもまあ多摩地域のニュータウンなどにはこんな感じの土木構造物はいたるところにあって、あきらかにここより人通りもすくない場所はたくさんあるので、とりあえずスルーしてしまってもいいのかもしれないような気もしてきたのですが、どうなんでしょうね。
そういう意味ではなんというか今後の展開には期待しつつも、やはりどうしてここにこんな構造物をつくったのかなということは知りたいところではありますね。
批判とかそういうことではなく、街の構造的なことやどうしたらみんなが使いやすく快適になるかということを考える意味でも。


国立競技場南側の無名坂と人工地盤3
画像1

ちなみに、この地図画像は、今昔マップさんのウェブを画像保存させていただいたものですが、国立競技場が建て替えられる前と後を並べてみたものです。(画像1)
左側が古いほうの地図ですね。
そして、画像ではコレと書いて示した道がありますが、これは建て替えによりなくなってしまった道路です。
このブログでも過去に「明治公園と国立に挟まれた無名坂」と題して取り上げていたりします。
あとは地図で見比べてみると国立競技場がどれほど大きくなったかも一目瞭然ですね。
特になくなった坂道を起点に見てみると。
まあそれでどうなんだというところですが、今思うのはこうして無名坂とはいえ、この坂道のことを取り上げておいてよかったなあということですかね。

ちなみにちなみに、画像の左側に赤丸で囲んだ部分がありますが、実はこのあたりには、八幡坂や観音坂があるんですよね。
これらの坂道については、以前にトラベルjpの記事「村上春樹ファンの聖地、東京・千駄ヶ谷の八幡坂界隈を歩いてみよう」にて取り上げていたりします。
しかも、記事の最後の写真には、観音坂の坂下あたりから、建て替え中の国立競技場が見える写真も載せていたりするんですよ。

とりあえず、人も少ない場所なので、ワクチンも打ったことだし、またそのうちふらりと同じ場所&坂道から今の風景も撮りにいきたいなあとは思ってますが、現地に行ったらいろんな思いが押し寄せてきそうな感じはしていますかね。


ということで、ここ数日は「村上春樹ライブラリー」の話題を目にすることが多く、そういえばということで今回の千駄ヶ谷近くにある無名坂のことを思い出し、現地に行ってからまだ1年は過ぎていないこともあり、書いてみることにしました。

ではまた。


地図
東京都新宿区霞ヶ丘町5あたり

二子玉川に先月立ち寄ったら、なんと兵庫島公園のあるあたりの河川敷からも富士山が見えたんですよ。


二子玉川の河川敷からの富士山と水害の記憶1
写真1

それがこちらですね。(写真1)
かなりくっきり見えていました。
両サイドにマンションがあるので見えるポイントは限定されるんですけどね。

でもこんなにはっきりと見えるなんて知りませんでした。


二子玉川の河川敷からの富士山と水害の記憶2
写真2

こちらは二子多摩川の駅前からこの河川敷に行くためには必ず通る歩道で、スロープにもなっているので、ここに来たときは必ず写真に収める場所です。(写真2)

写真みて気がついた方いるかもしれないですが、このスロープの右側は以前は土がむき出しだったんですよね。でもどうやら最近整備されてコンクリートでしっかりと固められたものとなっていました。
2019年10月の台風でこのあたりは甚大な水害を被ったのですが、それを予防するためにあらたにつくられた堤防のようですね。
なのでスロープ自体も整備されたばかりということで、きれくなっていました。


二子玉川の河川敷からの富士山と水害の記憶
写真3

写真2のスロープの坂上あたりから富士山方向をみてみると、なんとかビルの間から富士山見えましたね。(写真3)


二子玉川の河川敷からの富士山と水害の記憶4
写真4

写真3ではわかりにくいので、望遠でとってみたものです。(写真4)
今回はnewプロレンズで撮ったこともあり、望遠粋でもくっきり撮れました。
以前の古いレンズだと、富士山が肉眼では見えているのに、望遠域で撮ると写っていないなんて悲劇がおこることもあっていろいろ現地で試行錯誤したんですが、このレンズなら大丈夫みたいです。(^^)


二子玉川の河川敷からの富士山と水害の記憶5
写真5

こちらは、写真2のスロープの工事前のものです。(写真5)
しかもあの2019年10月の台風で水害があった直後の頃のです。
あの水害ではこのスロープの部分も土砂は乗り越えていったので、スロープ自体にもまだ砂がたくさん残っていますよね。


二子玉川の河川敷からの富士山と水害の記憶6
写真6

写真5と同じ日のスロープからの写真です。(写真6)
こちらは写真2と似たアングルですね。
手前の電柱も曲がっていたり、橋向こうにもまだ土砂が残っていることがわかりますよね。
現地ではかなり衝撃を受けました。


二子玉川の河川敷からの富士山と水害の記憶7
写真7

こちらは兵庫島公園内の小山になっている場所で、この上にはベンチなどが設置されている場所ですね。(写真7)
河川敷の階段風景とも言えますかね。
手前に石碑があることもあり、たしかこのブログでも以前取り上げたかもしれません。


二子玉川の河川敷からの富士山と水害の記憶8
写真8

水害直後の同じ場所です。(写真8)
手前から奥に向かう途中に階段もあるはずですが、このときは完全に土砂に埋まっていました。
ひどいですね。

でも今は写真7のようにきちんと再整備されて緑あふれる空間になっているんですよね。
ほんとここを整備してくださった方には感謝ですね。

ということで、ちょうど台風シーズンで、写真も前に撮っていたこともあり、今回のような話を重くならない程度にしてみました。とりあえず、今回は現地でみたこの河川敷界隈での水害状況についてはこれ以上詳しく書きませんが、それでも知りたい方はネットでいろいろ書いている方もいますので、そちらのほうを参考にしてみてください。


地図
世田谷区玉川3丁目


日にちが過ぎてしまいましたが、トラベルjpの記事にて『成城学園前すぐ!富士山が見える名所、富士見橋と不動橋めぐり』と題して、成城の富士見橋と不動橋についてを取り上げてみましたので、よかったらどうぞ。


なお今回は珍しく坂道ではなく、橋を取り上げてみたわけですけど、やはりここは富士山が見える橋ということで、富士山つながりの場所として記事にしてみたところが大きいですかね。

あとは今回調べた感じでは、ここは地域でも有名な富士山見物スポットであり、そこがたまたま展望台などではなく橋だったという感じも見受けられて地形話の延長としても捉えられるのではないかと思ったこともあります。

ただまあ、今後坂道ネタがつきれば(しばらくはなさそうですが)違う展開になるかもしれないですが。(笑)

そんなわけで、ここからはいつものおまけ写真でも。


富士山も見える成城の富士見橋と不動橋1
写真1

富士見坂橋に設置されていた「関東の富士百景」の案内板ですね。(写真1)
ここが富士見スポットという意味で置かれていて、たまたま見えるポイントが橋だったという感じともとれそうですかね。

ちなみにこれと同じ内容のプレートが不動橋のほうにも設置されていました。


富士山も見える成城の富士見橋と不動橋2
写真2

こちらは富士見橋のほうに設置されている額縁のように富士山と界隈の風景を切り取って見られる眺望スペースにあったものです。(写真2)
記事のほうでは小さくて見にくかったので、ここにて拡大してみました。
ここは世田谷百景の場所でもあるんですね。
おそらく描かれている絵は浮世絵風に現在の橋からの眺めを描いたものだろうと思います。

ちなみに橋からの眺めを描いた絵といえば、記事でもすこしふれた画家・丸山永畝氏による古い木造時代の富士見橋の様子を描いた絵が有名ですが、この絵とは違うようですね。
(ネットで検索したら氏の絵を載せているサイトもあるので、気になるかたは調べてみてもいいかもですね。)


富士山も見える成城の富士見橋と不動橋3
写真3

こちらは記事でもふれた「成城みつ池緑地・旧山田家住宅」の外観ですね。(写真3)
なかなかの洋風住宅でした。
ただ散歩当日は閉まっていて中にははいれませんでしたけどね。


ちなみに成城に当時から住んだこの住宅を建てたような著名人の中に、知っている人は知っていると思いますが、民俗学者の柳田国男もいるんですよね。
氏はどうやら成城学園のまちづくりにも参画していたようで、実はこのまちの成り立ちとも関わりが深い人のようです。

そしてすこしばかり調べてみると、「定本柳田國男集 別巻第4」には氏が当時の富士見橋を訪れたことを記している項も残されていましたね。
以下は抜粋です。
『九月十九日 火よう 晴
清彦と富士見橋まで遠征。
警戒警報出づ。午時少し前、二時過とける。
西の垣根へ梅・椿を栽ゑて見る、草をとる。
放送局より電話、朗讀資料をくれといふこと。
三千子ちよつと來る。
英彦母子とまりに來る。暗くなつたので迎に出てやる。けふは市中燈火管制の練習なり。』

なるほどなるほど。


ということで今回はこんな感じです。

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