東京坂道さんぽ

2009年08月

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所在地:文京区湯島3と千代田区外神田6


つまごい坂と呼ぶそうで、別名で、大超坂または大潮坂、大長坂、大帳坂とも言われていたそうです。
場所は、蔵前橋通りの北側に位置し、前回の清水坂(NO.169)の坂の途中より東へと下っていく坂道です。



妻恋坂(NO.170)1
坂上より

坂上から坂下のほうを眺めたものです。
いちおう写真でも、ドーナツ型のすべり止めの舗装(かなり雑な道路工事の跡もみられますけど・・・)が見えているとおり、けっこうな勾配具合の坂道で、このあたりは完全に裏道っぽい感じで車の行き来も少なくこのあたりから坂道を眺める分には悪くない感じでした。

ただ・・・。



妻恋坂(NO.170)2
坂上あたり

一枚目の写真と同じ位置から、今度は坂上のほうを眺めてみると・・・・。
まあ、こまかいことはあえて言いませんが(笑)、いちおうひとこと加えておくと、正面のつきあたりの道路が、清水坂(NO.169)ということになりますかね。


妻恋坂(NO.170)3
妻恋神社

あと二枚目の写真にもちらりと見えていたのですが、実は妻恋神社なる神社の入口もあったんですよ。(この写真は鳥居ですけどね。。)
妻恋神社についての詳しいことは公式HPもあるみたいなので、そちらをどうぞ。
妻恋神社のHP




妻恋坂(NO.170)4
坂の途中より

そして、もうすこし坂を下り、坂上のほうを見たものです。
なんていうか、このあたりは住宅街なのか、都内の駅前によくあるビル路地(?)のような道なのかわかりませんが、この坂道を歩いていると、どちらかというと、後者のような印象があったかもです。

ちなみにこの坂道にはいつものような坂の案内板はなかったです。
ただ、いつもお世話になっている江戸東京坂道事典に、
『「新撰東京名所図会」に、「妻恋坂は妻恋神社の前なる坂なり、大超坂ともいふ。本所霊山寺開基の地にて、開山大超和尚道徳高かりしを以て一にかく唱ふといふ」と記している。大超が開基した霊山寺が明暦の大火で類焼して浅草へ移転し、その跡に湯島天神町にあった妻恋稲荷社が移ってきて、以後、妻恋坂と呼ぶようになったのである。』
とありました。



妻恋坂(NO.170)5

最後は、坂の途中から以前にもとりあげた神田明神の裏参道がなにげに見えてたりしたので、ぱちりと一枚。

ということで、いちおう今回はこんなところですが、実は坂道自体はもうすこし続いているみたいで、このまま坂下のほうへ、道沿いに歩いていくと、途中から(地図で見ると)文京区から千代田区になり(これはこれで興味深いですね)、そこをさらに下っていくと、ちょっと大きめの通りにでて、そこのすぐそばの蔵前橋通り沿いにある交差点が“妻恋坂”という名になっており、おそらく、そのあたりまでが妻恋坂ということになるのかもしれませんが、今回は坂の途中までの分しか撮ってなかったので、また機会があれば、坂下あたりの風景も取り上げてみることにしますよ。



地図
文京区湯島3と千代田区外神田6(けっこう境界がややこしいです。。)

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所在地:文京区湯島3あたり

しみず坂と呼ぶそうです。
場所は、坂下が蔵前通りに面しており、以前にもとりあげた横見坂 (NO.15)のちょうど東側にある坂道です。



清水坂(NO.169)1
坂上より

坂上あたりから坂下のほうを眺めたものです。
見てのとおりけっこうな急勾配具合の坂道で、道幅とのバランスもなかなか悪くない感じでした。
まあ、しいて気になったことといえば、左側にある茶色系のマンションの敷地内からにょきにょきと元気よく育っている樹が、マンションの壁にはりついているように見えていたのが、なんともいえず、思わずにっこりしてしまいましたよ。
ただ、高低差はけっこうある坂道でしたが、まわりはけっこうな高さのマンションが建ち並んでいたので、景色を楽しむという感じではなかったです。



清水坂(NO.169)2
坂の途中より

そして、坂をすこし下り、坂上のほうも見たものです。
すこし歩いただけなのに、もう自分の背丈以上の高さを下りてきたみたいですね。



清水坂(NO.169)3
坂の途中より2

さらにすこしばかり坂を下り、坂下のほうを眺めたものです。
いちおう正面の坂を下った交差点のあたりが、蔵前橋通りということになります。
しかもここの交差点名は“清水坂下”というみたいですよ。



清水坂(NO.169)4
坂下より

最後は坂下からの風景です。
(ほんとうはもうすこしひいた場所(もっと坂下方向の交差点のあたり)から眺めたほうがいい感じに見えたんですけど、とりあえず、今回はこの写真しか撮ってませんのであしからず。。)

ちなみにここには、いつものような坂の案内板があり、
『江戸時代、このあたりに、名僧で名高い大超和尚の開いた霊山寺があった。明暦3年(1657)江戸の町の大半を焼きつくす大火がおこり、この名刹も焼失し、浅草へ移転した。
この霊山寺の敷地は、妻恋坂から神田神社(神田明神)にかかる広大なものであった。嘉永6年(1853)の「江戸切絵図」を見ると、その敷地跡のうち、西の一角に島田弾正という旗本屋敷がある。明治になってその敷地は清水精機会社の所有となった。
大正時代に入って、湯島天満宮とお茶の水の間の往き来が不便であったため、清水精機会社が一部土地を町に提供し、坂道を整備した。
そこで、町の人が、清水家の徳をたたえて、「清水坂」と名づけ、坂下に清水坂の石柱を建てた。』
とありました。

あっそうそう、この案内板の説明にもあるとおり、坂下に石柱があるとのことですが、これ、いつもお世話になっている「江戸東京坂道事典」にも写真つきで載っていたのですが、現地では散歩当時それがあること事態知らずに歩いていたので、まったく気がつきませんでしたよ・・・。
なので、また機会があればみてこようかなと思っていますよ。



地図
文京区湯島3あたり

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所在地:文京区本郷3と湯島2の間


からかさだに坂と呼ぶそうで、別名、かさだに坂とも言うそうです。
場所は前回の樹木谷坂(NO.167)の坂下からさらに蔵前橋通り沿いに西へと歩くと本郷通りと合流する地点があり、今回の坂道は、ちょうどそこの交差点あたりが坂上あたりになっており、そこから北へと下っていく坂道です。



傘谷坂(NO.168)1
坂上より

交差点からすこし奥に入ったあたりから坂下のほうを眺めたものです。
裏道てきな雰囲気のわりには、以外と6階以上のビル(たぶん)がにょきにょきと両サイドにならんでいるなあという感じでした。
しかも街路樹とみていいのか、敷地内の樹なのかちょっとわかりにくいものが道路から見えていたり。。



傘谷坂(NO.168)2

あと、一枚目の写真にもちらりと見えていましたが、(この奥が地図では幼稚園らしいのですが)道路沿いの壁にこんな絵が。。
しかも、偶然、坂の由来なんかが書かれている坂の案内板の裏側も見えているし。(笑)

ということで、その案内板には、
『傘谷をはさんで、向き会う二つの坂をいう。改撰江戸志という書物によると、傘谷は、金助町(旧町名)の北の方にあって、傘づくりの職人が多く住んでいた窪地である。それで傘谷、傘坂の名がついた。
金助町に生まれた歌人・岡麓は、大正12年の大震災で家が焼け、その焼け跡で、
“あさはかに 家居移しし 悔心 このやけあとに 立ちて嘆かゆ” とよんだ。』
と書かれてありました。



傘谷坂(NO.168)3
坂下より

そして、すこしばかり坂道を下ると、坂上からはすこしカーブして見えていなかったのですが、もうこのあたりまでくると勾配具合もゆるやかになり、坂下あたりにやってきたみたいだったので、坂上のほうを眺めてみました。
坂道自体は普通な感じですが、よくよく眺めてみると、街路樹はないかわりに、歩道の手すりあたりになんだか青々としたものがあるなあと。。



傘谷坂(NO.168)4

最後は、なぜ話題にしないのか(見えているのに!)と思われたかたもいたかもしれませんが、今までの写真でもちらちらと写っていたものです。
というか、写真そのままなんですけど、サッカーミュージアムがありましたよ。

しかも、坂上あたりには、 “サッカー通り”と書かれた立派な案内標識まであったりして、実はここサッカー通りという名の道でもあるんですよ。(ただ昔は金花通りと呼ばれていたこともあったみたいですけどね。)


地図
文京区本郷3と湯島2の間(地図でみると本当にまっぷたつです。。)

それにしても、今日の朝はびっくりでした。
もちろん地震のことですけど、なぜか今朝は地震の数分前に目がさめてしまい、その後、ゆらゆら〜という感じでした。
そして、早朝だったこともあり、寝ぼけていたのにもかかわらず、けっこうな揺れを感じたので、“ああ”と思いテレビをつけてみると(こういう時のテレビの対応のすばやさや何度も繰り返し情報を流すといういい意味でのしつこさみたいなものはありがたいですし、すごいですね)、都内で震度4、静岡のほうでは震度6!
しかも台風も近づいているみたいだったので、小一時間はテレビに釘付けでした。
この時はラジオ(FMですけど)かけても、音楽流れているだけだし、携帯もなにかそういう関係のサービスがあるみたいですが、まだ登録していなかったので、状況がわからず、結局、テレビがいちばんの情報源だったかもです。。
とりあえず、ここ数日、都内でも地震が続いているので、また自分でできる範囲で情報収集でもしていこうかなと思っていますよ。



天災

前の話のあとでの、この写真でなんですが、この木は地震で折れたものではありませんよ。
これは、2,3日ほど前に、ちょっと用事があって、そのついでにお茶の水に立ち寄った時に、古本屋めぐりをしつつ、この界隈は裏道を歩くと坂道が多いこともあり、大通りではなく裏道をわざと歩いていたらこんなものに出くわしてしまったわけなんです。(汗)
たしか最初にここを通った時には、なにもなかったはずなのに、帰りに同じ道を通ったら、こんな木が。。
見事にボキリと。
当日は雨が降っていたわけでもなく、ましてや雷も鳴っていなかったと思うんですけどね。
ちなみに、場所は明大のリバティータワーのすぐそばあたりです。
しかし、どうやったらこうなるんですかね?

ということで、なぜだか天災つながりの話になってしまいましたが、今日はあまり長々と書く気分でもないので、こんな感じでご勘弁を。

所在地:文京区湯島1


じゅもくだに坂と呼ぶそうで、別名、地獄谷坂ともいうそうです。
場所は、東京医科歯科大学の北側にあり、坂上は本郷通りに、坂下はこの前からたびたび登場している蔵前橋通りに面しており、さらにこの通りをはさんで、ずいぶん前にとりあげた横見坂 (NO.15)の坂下もみえていたりする坂道です。



樹木谷坂(NO.167)1
坂下より

まずは蔵前橋通り側の坂下より坂上のほうを眺めたものです。
見てのとおりすでにここからも坂上の様子がみえるほど、距離の短い坂道でした。
ただそのぶん高低差もそれなりにあり、道幅もそんなに広くないためか、坂道らしい坂道というかなんというか、それらしい雰囲気は歩きながら感じられたかなと。



樹木谷坂(NO.167)2
坂上より

そして、いっきに坂上まできてみました。
これといって思いつくことはありませんが、なんとなく落ち着いた雰囲気の坂道だったかなあ
というのが、歩いたときの印象だったかもです。

ちなみにここには、いつものように坂の案内標識があり、
『地獄谷坂とも呼ばれている。この坂は、東京医科歯科大学の北側の裏門から、本郷通りを越えて、湯島1丁目7番の東横の道を北へ、新妻恋坂まで下る坂である。そして、新妻恋坂をはさんで、横見坂に対している。
「御府内備考」には、「樹木谷3丁目の横小路をいふ」とある。
尭恵法印の「北国紀行」のなかに「文明19年(1487)正月の末、武蔵野の東の界・・・並びに湯島といふ所あり。古松遥かにめぐりて、しめの内に武藏のゝ遠望かけたるに、寒村の道すがら野梅盛に薫ず」とある。天神ゆかりの梅の花が咲く湯島神社の周辺のようすである。
徳川家康が江戸入府した当時は、この坂下一帯の谷は、樹木が繁茂していた。その樹木谷に通ずる坂ということで、樹木谷の名が生まれた。
地獄谷坂と呼ばれたのは、その音の訛りである。
なお、湯島1丁目の地に、明治14年(1881)渡辺辰五郎(千葉県長南町出身)が近代的女子技術教育の理想をめざし、和洋裁縫伝習所を創設した。その後、伝習所は現東京家政大学へ発展した。』
とありました。

また、Wikipediaには、本郷通りのことを「本郷通りは江戸時代に整備された日光街道の脇街道であり、徳川将軍家が日光東照宮へ社参する際に利用された街道である。」なんてことが書いており、このことと重ね合わせると、樹木谷という名の由来もすこし納得という感じです。



樹木谷坂(NO.167)3

最後は、おまけがてらです。
これは本郷通り側から撮ったもので、実は今回の坂道の坂上のすぐ真横にでーんと建っており、坂下からの写真でも右側になにげに見えていた「東京ガーデンパレス」というホテルで、見てのとおり正面の見た目(ファサード)が、けっこう凝ったつくりになっていたことから、現地でちょっと気になりぱちりと。(いちおう帰ってからしらべてみると、詳細についてはよくわからなかったですが、やっぱり有名な建築みたいでしたよ。)



地図
文京区湯島1

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