東京坂道さんぽ

2010年05月

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所在地:文京区湯島3


てんじんいし坂と呼ぶそうで、別名で天神男坂、またはただたんに、石坂とよぶこともあるそうです。
場所は、前に取り上げた中坂(NO.185)の北側に位置し、湯島天神内にある階段坂道です。



天神石坂(NO.186)1
坂下より

坂下からの風景です。
すでにここから小さな鳥居が見えているとおり、坂上は湯島天神の境内ということになります。
階段自体かなりの急勾配で短い階段坂といった感じで、それに加えて階段右側には灯篭が並び、左側には一面の緑という(現地ではちゃんと確認していなかったのでなんともいえないですけど、写真を拡大してみた感じでは、おそらく壁かなにかに緑がはりついているという具合ですかね)なんともいえないつくりになっていたかもです。

そして写真でも見えてますけど、ここにはいつもの坂の案内板があり、
『三十八段の石段坂である。別名は天神男坂。すぐわきにある、ゆるやかな坂・女坂に対して男坂という。
江戸時代の書物"御府内備考"によると、湯島神社(天神)参拝のための坂であったが、その後、本郷から上野広小路に抜ける通り道になったという。』
とありました。



天神石坂(NO.186)2
坂上より

坂下からではまわりに比較する建物などがなかったので、わかりにくかったんですけど、こうして坂上からみると、かなりの高低差(おそらく建物3階分くらい)を一気に短い距離で降りている様子がわかりやすいんじゃないですかね。
なので、ここでは特に高齢者の方なんかにとっては、階段中央のしゃれたデザインの手摺は必須アイテムかもですね。

ちなみに、写真左の灯篭のむこうに見えているのは梅の木らしいですよ。


地図
文京区湯島3

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赤坂の高低差ぶらり1

前回の赤プリ話の続きと言ってもいいのですけど、その赤プリまわりをまわっていたところ、気になる風景にでくわしたので思わずパチリと。
赤プリの南側の場所から、青山方面をなにげなく眺めたものです。(なので、この背後に赤プリがあることになりますかね。)
いちおう、ここから見えている手前と奥の道路は両方とも国道246(青山通り)だったりします。
そして真上を横切っている高架が首都高速ということになりますよ。

このあたりは外堀通りと246号が交差しているポイントみたいで、それに坂というか高低差まで組み合わさっていて、なかなかのダイナミックというか複雑な風景が見れてなかなかのものでしたよ。
しかも、左側の立派な木々の緑が以外とアクセントになっていて、なんとなくほっとするものも入っていたり。。
ただ手前も奥も見てのとおり坂道になってますけど、名前はついてないみたいでした。



赤坂の高低差ぶらり2

せっかくこの近くにあるので、今度は赤プリの北側までテクテク歩き、旧館のほうをぱちりと。
なかなか趣のある洋館といった感じでした。
ぼおーと見ていると、いろいろな時代の出来事が妄想できそうな雰囲気もあるような気がして、これはそのまま壊されずに残るということみたいなのでちょっと安心という感じですかね。



赤坂の高低差ぶらり3

そして、最後は・・・・。
これまた、赤プリのすぐとなりにあったかなり古めの家(と巨木)です。
もうここまでくると、芸術作品かもですね。(笑)



住所
千代田区紀尾井町しゅうへん

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今回は、2、3週間くらい前に話題になった「グランドプリンスホテル赤坂」、愛称、赤プリともいわれている、赤坂にあるホテル周辺を、気分転換がてら、ぶらりといってきました。



赤プリまわりをぶらり1

メトロ赤坂見附駅側というか繁華街側から、ホテルを眺めながら、ぱちりと。
1955年に「赤坂プリンスホテル」として開業して、2007年に、今の名前に改名したホテルの外観ですよ。
有名なホテルなので、詳しいことは、ウィキペディアの解説(→グランドプリンスホテル赤坂)を見てもらうとして、とりあえず、知っているかたも多いとは、思いますけど、このホテルは、2011年の3月末に閉館して、取り壊しがはじまるそうですよ。
1983年に、この高層ホテルが開業したそうなので、なんと、まだ27年しかたってないのに、取り壊しということですか。
ただ、その横にある1930年に建てられた旧館のほうは、残すということみたいですね。(安)



赤プリまわりをぶらり2

一枚目の写真の背後あたりには、こんな景色がひろがっていました。
かつて、お城の外堀として機能していた場所が、こんないい感じの釣り堀公園ならぬ、ボート散策できる場所になっているようでしたよ。
ちなみに、写真の池でさらに奥あたりに見えている高速道路のむこうあたりが、前にとりあげた“紀伊国坂(NO.142)”あたりということになります。
なにはともあれ、ほんと気持ちのいい景色でしたよ。



赤プリまわりをぶらり3

そして、赤坂方面から橋をわたり千代田区は紀尾井町に入り、ホテルニューオータニのわきを歩き、ホテルの北端あたりにやってきて、赤プリを見てみました。
来年のいまごろには、もう違う風景になっていると思うと、なんというか、なんですね・・・。

形自体は、のっぺらりんとしているので、あまり突飛な感じはなく、まわりより一回りも背の高いビルがあるなあというくらいの感じでしたよ。
ただ、いちおう付け加えておきますけど、このホテルの外観は、水晶の柱をモデルにしているということみたいです。
あと、はじめに言い忘れたので、ここで書きますけど、赤プリは、都庁やら代々木体育館をデザインしたことでも知られる丹下健三氏が設計したホテルだそうです。
なんていうか、個人的には、1994年に都庁そばにオープンした高級ホテルのパークハイアット東京がはいっている新宿パークタワーも同じく丹下健三氏の設計ということを思うと、パークハイアットなんかは、まだまだあと数十年はいけそうな感じがしなくもないんですけど、この赤プリはというと・・・・。(汗)
やはり、生活感だったりそういう面でも、まだまだ見えないなにかの点で、外国と日本の差が見えてくるようなこないような、そんな気がしてしまうほど、運営する側によって建築はものすごく変わってしまうんじゃないかとえらそうに思ってみたり。。(このあたりは「日本辺境論」てきにいえば、他国との比較ってやつですかね(笑)。)



赤プリまわりをぶらり4

今度は、3枚目の写真の場所から、西へ行き、外堀をわたる橋のたもとあたりから見えていた、なかなか強烈なスリーショットです。
ホテルニューオータニの新旧2館と赤プリですよ。
この景色も変わるかもしれないと、思うと、やはり思わず、ぱちりと。
あっ、そうそう、この3枚目の写真の橋のたもとと2枚目の写真のあいだには、このブログではまだとりあげてないですけど、“紀尾井坂”というなかなかいい感じの坂道があったんですけど、これについては、またそのうち坂道散歩したときにということで。。(その時は、赤プリはなくなっている可能性もありますけど。)



赤プリまわりをぶらり5

さらに、同じ場所から、外堀方面も見渡せたので、こちらもぱちりと。
ある意味、ものすごく東京らしい風景かもですね。
高速と水辺だけなら、どこかにありそうですけど、そこに高層ビルが奥に建ち並んでいるというのは、やっぱり、どこにでもあるものではないとおもうんですよ。
しかも、写真ではちょっとわかりにくいんですけど、現地では、かなりの3D感というか、立体的な高低差感満載な風景で、ほや〜という感じでしたよ。(笑)



地図
千代田区紀尾井町しゅうへん

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所在地:文京区湯島3


なか坂と言うそうで、別名、仲坂とも書くそうです。
場所は、実盛坂(NO.184) の北側に位置し、この坂上から道沿いにてくてくとすこしあるくと、中坂の坂上あたりにやってきて、同じく東西にのびている道を東へと下っていく坂道です。



中坂(NO.185)1
坂上より

坂上からの風景です。
ちょっとこの写真ではわかりにくいですけど、けっこうな急坂で、道自体もなんとなくカーブしている具合が、なかなかいい感じでした。
また、すぐ北側には湯島天神もあるためか、坂上はそれなりに落ち着いた雰囲気で、坂上の横断歩道を横切る時は、「おお!」という感じで、ふと立ち止まって坂上からの景色を眺める人も、僕が坂道散歩しているあいだにも、何人かいましたよ。



中坂(NO.185)2
坂の途中より

すこし、坂を下り、坂上のほうを見てみました。
新旧の建物がほどよくブレンドされた風景というかなんというか、たしかに両サイドの背の高めのビルもたしかに気になる存在ではありましたけど、以外と、圧迫感は感じなかったかもです。



中坂(NO.185)3
坂の案内板

ちなみに、今回は、二枚目の写真の場所から程近いところにあった、坂の案内板の写真をのせてみたのですが、これは、道路側から撮ったものです。
なので、この案内板の後ろは、擁壁らしき壁だったり家の壁が見えているとおり、人がはいるにはあまりにせますぎる隙間しかないんですけど、実は、この後ろ側に、坂の案内説明の文が書かれてあったんですよ。。(笑)
そんなこんなで、裏側にまわって説明をよんでいる時は、みちゆく人々にかなりあやしい目つきでみられましたけどね。。(汗)

それで、その説明によると、
『「御府内備考」に、「中坂は妻恋坂と天神石坂との間なれば呼名とすといふ」とある。
 江戸時代には、二つの坂の中間に新しい坂ができると中坂と名づけた。したがって中坂は二つの坂より後にできた新しい坂ということになる。
 また、「新撰東京名所図会」には、「中坂は、天神町1丁目4番地と54番地の間にあり、下谷区へ下る急坂なり、中腹に車止めあり」とあり、車の通行が禁止され歩行者専用であった。
 このあたりは、江戸時代から、湯島天神(神社)の門前町として発達した盛り場で、かつては置屋・待合などが多かった。
  まゐり来てとみにあかるき世なりけり
       町屋の人のその人の顔かお   (釈 迢空)』
とありました。

妻恋坂と天神石坂とのあいだだから、中坂ですか。
妻恋坂というのは、このブログでもすでにとりあげた妻恋坂(NO.170)のことだと思いますので、じゃあ、これまでとりあげた中坂と妻恋坂(NO.170)のあいだにある坂道は、どれも新しめの坂道ということになるんですかね。
でも、実盛坂(NO.184)なんて、けっこう昔からありそうですけどね。。



中坂(NO.185)4
坂下より

そして、一気に坂下までおりてみました。
なんとなく、カーブしていて、道も長めなので、ちょっとわかりにくいですけど、坂上と坂下の高低差はかなりのものなんじゃないですかね。
ただ、こうしてじっくりとこの風景をみていると、やっぱり電線がやたらと空中を横切っていて、ちょっと落ち着きない感じですかね。。

また、この坂下あたりのことが、「江戸東京坂道事典」に、ちらりと書かれてあり、『中坂下は里俗天神神芸妓とよんだ湯島の花柳街で、江戸時代にも山の手ではいちばん早くひらけた門前町であったが、いまでもこのあたりは古い東京のおもかげをどことなくしのばせる。』とありましたよ。


地図
文京区湯島3

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所在地:文京区湯島3


さねもり坂と呼ぶそうです。
場所は、ガイ坂(NO.183)のすぐ北側に位置し、坂道沿いにさらに北へてくてくと歩くと、実盛坂の坂下あたりにやってきます。



実盛坂(NO.184)1
坂上より

坂上からの風景です。
かなりの急勾配の階段坂道ですかね。
高低差も、ものすごく、ここから見るぶんには景色も以外とひらけている感じでしたよ。
それで、ふと写真をじっと眺めていて、気がついたんですけど、あまりの急勾配具合のためか、電柱が両サイドになく、なんだかすっきりした印象がありつつ、坂下の家々も低層で、ちょっと懐かしい感じというかよくありがちな、まちなかの住宅街といった雰囲気でなんだかおもしろいなあ思いつつも、もうひとつの自身の視点というか、建築を学んだ身としての目線(ちょっと冷めてるというか冷たい目線ですかね)としては、なんだかひとつひとつの家々の形も違うし、上からみるとそのごちゃごちゃ感がさらに際立ち、こりゃあ一体どうなってんだろう?なんて、思う自分もいたりして、なんだか分裂病になりそうな気分になってしまいましたよ。。(笑)



実盛坂(NO.184)2
坂の途中より

そして、階段の中腹あたりにきて、坂上のほうを眺めてみました。
この短いあいだに、おそらく一階半くらいの高低差を下りてきたと思われますよ。
しかも、この高低差と両サイドのビルのおかげで、なんとなく狭苦しくて、薄暗く、ちょっと寂しい感じがただよっているなあと思ってしまったんですけど、どうなんでしょうかね。



実盛坂(NO.184)3
坂下より

最後は、一気に坂下まで下りて、坂上のほうを見てみました。
こうして、あらためてみると、三階半か四階分くらいの高低差がありそうですね。
なんていうか、手摺だけピカピカ光っていて、階段自体がどこか古めかしい感じというかただ古いだけなのかわかりませんが、なんともいえないあじわいをだしているような、ないような・・・・。

ちなみに、ここには、いつものような坂の案内板があり、
『「江戸志」によれば「・・・湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり・・・」とある。また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が「江戸砂子」や「改撰江戸志」にのっている。この実盛のいわれから、坂の名がついた。
 実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現・埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。寿永2年(1183年)、源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎光盛に討たれた。
 斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首をとられても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めていたという。この話は「平家物語」や「源平盛衰記」に詳しく記されている。
 湯島の”実盛塚”や”首洗いの井戸”の伝説は、実盛の心意気にうたれた土地の人々が、実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる。』
とありました。
「”首洗いの井戸”の伝説」なんてのは、ちょっと気になったので、調べてみたんですけど、あまりうまいのがでてこなかったなか、いつもお世話になっている江戸東京坂道事典に、『坂下の南側一八番あたりに、むかし斉藤別当実盛の首塚があったと伝えられ、その塚をあばいた人々は祟りをうけていずれも怪死したという話までがつけ加えられている。』と書いてあったので、おそらくこのことなんでしょうかね。
ということは、今も残っているということなんですかね?それとも建物の下になってしまったのか(汗)。
ということは(←しつこい・・・)、その土地をならした人たちもしくは工事した人たちは、祟られたんですかね?

と、余計なことを妄想してしましたよ(汗)。。


地図
文京区湯島3

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