東京坂道さんぽ

2010年07月

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旧岩崎庭園といえば、このブログでも最近とりあげたとおり、上野公園そばのあの建物を思い浮かべるかもしれませんけど、実は「旧岩崎庭園」とよばれる場所は、まだもうひとつあり、それが六本木というか港区というか鳥居坂(NO.96)の坂の途中にあったりします。



とある街の風景(六本木の旧岩崎庭園)

それで、だいぶ前ですが、みちくさ学会の取材でふたたび鳥居坂(NO.96)を訪れたときに、坂の途中に「旧岩崎庭園」の案内板があったので、そういえばここにもあったなあということで、今回もふらりと敷地内にはいってみたというわけです。

写真は庭園とセットで計画された国際文化会館なる施設の中でこっそり(といってそれなりの覚悟でいけば誰でも入れますよ・・・)パチリと一枚。

ちょうどむこうのほうに東京タワーなんぞが見えていたもので、庭園そっちのけで撮ってしまいました(笑)。
いちおう庭園はこの右側にひろがっています。
まあ、気になる方は現地で実際にみることをおすすめしますよ。
なかなかいい感じの庭園で、なんともいえない感じでした。

ちなみに、はじめにも書いたとおり、敷地内には、「旧岩崎庭園」について書かれた案内板があったのですが、今回もせっかくなので抜粋してみると、
『 
 現在の国際文化会館の庭園の前身は、昭和四年(一九二九)に三菱の四代目当主岩崎小彌太(一八七九〜一九四五)が建設した岩崎家鳥居坂本邸の庭園です。この庭園は、京都の造園家「植治」の小川治兵衛の作庭によるものでした。「植治」の歴代当主小川治兵衛は数多くの庭園を作庭しており、近代日本庭園作庭の先駆者として著名です。
 本庭園は、崖に面した南側と鳥居坂に面した東側に植栽が施され、その内側に池を設けた池泉回遊式の日本庭園であり、入口部の岩組なども優れています。また、昭和五年の岩崎邸実測平面図と比較しても、作庭当初の姿を大筋において残していることがわかります。
 岩崎邸は昭和二〇年(一九四五)五月の空襲で焼失し、その後、昭三十年には国際文化会館が建設されました。この建物は前川國男・吉村順三・坂倉準三の共同設計による戦後日本の優れた建築ですが、旧岩崎邸の庭園との調和を最大限に考慮する姿勢が認められます。
 本庭園は、近代日本庭園として優れたものであるとともに、国際文化会館と調和した景観を作り出している点からも高く評価されます。

 平成十七年十月二五日

とありました。
さらりと調べればわかることですけど、いちおうふれておくと、岩崎小彌太とは、岩崎弥太郎の弟の息子さんということみたいです。
なので、案内看板の抜粋文を読んでもらえればわかるとおり、上野公園近くの旧岩崎庭園とは、かなりの濃さでつながりのある場所ということになるのですかね。
(そして、どちらも後世の人たちにほこれる名建築だったりするんですよ。。)

ということで、今回も脱線話ついでに、さらりと旧岩崎庭園についてふれてみましたが、これ以上あまりたらたらと書いてもなんですので、今日はこんな感じです。


住所
港区六本木5

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最近はとんでもない暑さが続き、少々バテ気味(というか夏風邪かも・・・)の状態で、明るい時に外を歩くのもおっくうなくらいの日が続いていることもあり、今回は気分転換がてら夜のまちをぶらりとしたときのことでも。



夜景中野編

これは、まあ、タイトルどおりですけど、ちょっと用事で近くまできたついでにひさしぶりに中野あたりにふらりとよってみたときのものです。
写真は駅前にデンとそびえたっている中野サンプラザのとある階から駅前のほう(南側)を眺めたものです。
なので中野通りと中野駅北口のロータリーあたりが見えているんですかね。
写真だけみると、ここはどこなんだ?という感じですけどね(笑)。
あと、遠くのほう(左側です)には新宿あたりの高層ビル群も実はぼんやりと見えているんですけど、写真ではちょっと見えにくですかね。

そして、中野といえば、個人的に思い出深いまちというか、このブログの過去ログを読んでもらえればわかるかもしれませんが、数年前まで僕が住んでいたまちです。
(にもかかわらずうえの写真のアングルで中野駅を眺めるのは初でしたよ・・・(汗)。しかも、この中野サンプラザ、なぜか駅前にでんとそびえている高層ビルなのに、住んでいる時は、一度も変だなあと思ったことがなかったような気がして、そういう意味では不思議な感じのビルなんですけどね・・・。)

そんなこともあり、なんとなく勝手知ったる気持ちでまちなかをぶらりとしてみたんですけど、やっぱり中野でしたよ(笑)。
ちょっとだけ変わっているところもありましたけど、基本的にはあまり変わってなくてほっ・・・という感じ。
今思うと便利なまちだったなあと。
まあちょっと騒々しいところはありますけど、駅前から離れると以外とまちなみも整理されていて(特に駅北側)、公園もそれなりにあるので、なかなか悪くなかったかもですよ。

ということで、いろいろ書いているときりがないのでこのあたりでとめておきますが、とりあえずその日は、変なかんがいにひたりながら、商店街を歩き、商店街裏のラーメン屋でラーメン食べて、それからドンキをぶらりとして、本屋によって、ブロードウェイを徘徊して、古本屋によって、中野サンプラザに上って、それから帰りました(笑)。
次回はまえにルームシェアしていたメンツでも誘って、またきてみたいものです。。


それにしても、暑い・・・。こんなときは夜景も焼け石に水ですかね・・・(笑)。エアコンがタクシーメーターに見えてきますよ・・・(しかも最近はガリガリ君の当たりがでない今日このごろです)。。


住所
中野区中野4あたり

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今回は旧岩崎邸庭園なる場所をちょっと前にぶらりとしたときのことでも。
場所は前回とりあげた切通坂(NO.189)のすぐ北側にあったりします。



旧岩崎邸庭園1
旧岩崎家住宅の洋館

入口からてくてくと、砂利道でもあり、すこしばかりの坂道にもなっている道を歩き、入館料を払って見学エリアに入ると見てのとおりの立派な洋館が見えていました。
ちょうど敷地北側の入口方向からの眺めです。
なかなか最近の建物では見られないこてこてしているというか重厚感あふれるというか、そういうデザインといえるかもですね。
とにかく手がこんでます。(汗)

そのほかにも説明すればいろいろあるんですけど、とりあえずこの近くにこの住宅についての説明が書かれた案内板があったので、そのまま抜粋してみますと、

『明治から昭和にかけての実業家岩崎久弥のかつての住宅。明治二九年竣工した。
設計者はイギリスのジョサイア・コンドル。上野の博物館(現在の東京国立博物館)や鹿鳴館など数多くの官庁の建造物の設計監督にあたり、一九世紀後半のヨーロッパ建築を紹介して日本の近代建築の発展に指導的役割を果たした。
同一敷地内の洋館・社交の場、和館・生活の場を併設する大邸宅は明治二十年頃から建てられたが、岩崎邸はその代表例であり、現存する明治建築として貴重である。
洋館(木造二階建て地下室附)正面に向かって左半分が主屋でスレート葺の大屋根をかけ、その右にやや規模の小さい棟が続く。両者のあいだの玄関部には塔屋がたち、角ドーム屋根となっている。南側のベランダには装飾を施された列柱が並び、全体的にはイギリス・ルネッサンス風となっている。洋館左側に建つ撞球室(ビリヤードルーム、木造一階建地下室附)とは地下道でつながれている。
洋館と撞球室は昭和三十六年に重要文化財の指定を受け、昭和四十四年には、和館内の大広間と洋館の袖堀一棟が追加指定を受けた。』

という感じで書かれていました。

ということは、この建物は築114年ですか・・・(汗)。
とりあえず説明では、建物のこともこまごまと書かれてますけど、気になるかたは実際に見学してみることをおすすめしますよ。

そして、タイトルや案内文にもあるとおり、ここは、あの岩崎弥太郎さん(ついドラマ龍馬伝を見てると“さん”づけで言いたくなりますよ・・・)つながりの場所でもあります。
なので、ネットで軽く調べてみると、岩崎弥太郎がここの土地を購入して、その息子である岩崎久弥がこれらの建物の建築設計をコンドルさんに頼んだという感じみたいですね。
あと岩崎家とこの家とのこまごまとした物語なんかもそれなりにはあるとは思いますけど、そのあたりの話は別の方におまかせしますよ。
ただ昔は今よりもっとひろい土地だったみたいですね。



旧岩崎邸庭園2

せっかくなので、ちょっとだけアップして、空を見上げながらパチリと一枚。
こうしてみると、壁なんかの掃除はちょっと大変そうかも(笑)。



旧岩崎邸庭園3

そして今度は洋館を南側から眺めたものです。
このあたりは、一度、建物内部を見学したあとに訪れることのできる場所でもあります。
なんだか日本の中にある建物ではないような気もしますけど、左側のほうをよくみると、実は和館のほうがちらりと見えていたりしますよ(ちょっと木がじゃましてますけど)。



旧岩崎邸庭園4

また、だいたい同じ立ち位置でうしろをふりかえると、なんとも広々とした庭園がひろがっていました。

このほかにもビリヤード室やら和館なんかも当時のままの姿で残してあったんですけど、全部のせてしまうのもなんですので、とりあえず、あとの詳しい施設のことについてはウィキペディアにまかせることにして、今回はこれぐらいにしておきますよ。
旧岩崎邸庭園


ということで、説明文にもあったとおり、この建物自体、当時としてもそのつもりがあったかどうかはさだかですが、かなりのハイレベル(実際に見たらわかりますよ、内部も含めてですね)のものだったようで、なんだかんだといって、そういう歴史にのこるような名建築を建てようとする気風みたいなものは今の丸の内なんかにもひきつがれているのかもなあと(かなり適当な予測ですけどね・・・)思ってみたり。

ちなみに敷地内の洋館内にはもちろん入れるのですけど、撮影は禁止されていたので、今回はとりあげませんでしたので、あしからず。


地図
台東区池之端1

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所在地:文京区湯島4あたり


きりどおし坂と呼ぶそうです。
場所は湯島天神の北側を走っている春日通りの道が今回の坂道ということになり、神社北側あたりからメトロ湯島駅まで下っているあたりを切通坂というみたいです。



切通坂(NO.189)1
坂上より

坂上からの景色です。
さすがに春日通りという地下には大江戸線も走っている大通りということもあり、道幅も広く、車の行き来もかなり多かったです。
右側には湯島天神の建物がいい感じで見えているなあと思いつつ、その左側には湯島ハイタウンなるバカでかい高層アパートがアイストップに見えていたりと、なかなかありそうでない感じの風景がひろがっていておもしろい感じでした。



切通坂(NO.189)2
湯島天神

坂から見える湯島天神はこんな感じでしたよ。
よくみると銀色のサッシがとりつけてある部分もあったりと新旧の建物がまざっているのかもなあと。



切通坂(NO.189)3
坂の途中より

今度は、すこし坂道を下り、坂上のほうをみてみました。
いつものことですけど、坂上のほうを眺めると、その坂道の勾配具合がわかりやすいかもですね。
そんな感じで、ここもけっこうな高低差はありそうですよ。



切通坂(NO.189)4
坂の途中より2

さらに下り、坂下のほうを眺めてみました。
見てのとおり、このあたりからグッとカーブしながら下っているようで、なかなかいい感じの曲がり具合と勾配具合だったかもです。



切通坂(NO.189)5
湯島ハイタウン

そして、4枚目の写真の左側にそびえ建っていた湯島ハイタウンをパチリと一枚。
なんだか各部屋の室外機のとりつけられかたが実に異様な感じがして、台風なんかきたら落ちてくるんじゃないかと心配してしまうくらいでしたが、まあ大丈夫なんでしょうね(笑)。



切通坂(NO.189)6
坂下より

最後は、坂下からの風景です。
もうちょっと坂上の方がすこしみえそうなアングルもあったんですけど、今回は湯島ハイタウンと坂道の関係がわかりやすい角度を選んでみました。
さすがに道幅のひろい切通坂ですけど、建物がここまで背が高くてのっぺらりんとしていると、さすがにスケール感もずれている感じがするんですけど、どうでしょうかね。。


ちなみにここにはいつものような坂の案内板が坂の途中にあり、

「御府内備考」には「切通は天神社と根生院との間の坂なり、是後年往来を聞きし所なればいふなるべし。本郷三、四丁目の間より池の端、仲町へ達する便道なり、」とある。湯島の台地から、御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、その名がある。
初めは急な石ころ道であったが、明治37年(1904)上野広小路と本郷三丁目間に、電車が開通してゆるやかになった。
映画の主題歌「湯島の白梅」“青い瓦斯灯境内を 出れば本郷切通し”で、坂の名は全国的に知られるようになった。
また、かつて本郷三丁目交差点近くの「喜之床」(本郷2-38-9・新井理髪店)の二階に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰り、通った道である。

二晩おきに夜の一時頃に切り通しの坂を上りしも 勤めなればかな   
     石川啄木  』
とありました。

そして、この近くには、坂道案内板にも書かれている石川啄木の歌にまつわるエピソードがかかれた案内板もあったのですけど、あまり立ち止まってよんでいる人もいなさそうだったので、せっかくなのでここにのせておきますね。
『この歌は、石川啄木(一八八六 ― 一九一二)の明治四三年(一九一〇)の作で「悲しき玩具」に収められている。文字は、原稿ノートの自筆を刻んだ。
当時啄木は、旧弓町の喜之床(現本郷二ノ三八ノ九・新井理髪店)の二階に間借りしていた。そして、一家五人を養うため、朝日新聞社に校正係として勤務し、二晩おきに夜勤もした。
夜勤の晩には、終電車で上野の広小路まで来たが、本郷三丁目行きの電車はもう終わっている。湯島神社の石垣をまさぐりながら、暗い切通坂を、いろいろな思いを抱いて上がったことであろう。
喜之床での二年二ヶ月の特に後半は、啄木文学が最高に燃焼した時代である。この歌は当時の啄木の切実な生活の実感を伝えている。
文京区内で、最後に残っていた啄木ゆかりの家”喜之床”が、この三月一八日に、犬山市の博物館「明治村」に移築、公開された。』
※移築されたのは昭和五五年三月一八日ですね。


あと、その他にも、いつもお世話になっている「江戸東京坂道事典」には、この坂は江戸時代よりまえからあったとか、島崎藤村の「春」や山本有三の「路傍の石」なんかにも、この切通坂やこのちかくあたりの描写なんかが書かれているという一文もあったんですけど、さすがにここまでのせてしまうときりがなさそうですので、とりあえず気になる方は各自で調べてみてくださいね。


地図
文京区湯島4あたり

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所在地:文京区湯島3


めおと坂とよぶそうで、別名、新坂ともいうそうです。
場所は湯島天神内にあり、境内から神社北側にある春日通りへと下る階段坂道です。



夫婦坂(NO.188)1

坂上からの様子です。
見てのとおりの神社やお寺にありそうな立派なつくりの階段となっていました。
しかもここだけ、階段以上に目立っている超立派なつくりの門が坂の途中につくられていました。
階段自体はなかなかの高低差の場所ということもあって、ちょっと足腰に不安がある高齢の方なら横の手摺をつかわないと苦しい感じの急勾配な階段かもしれないですよ。



夫婦坂(NO.188)2

今度は、もうすこし階段をおりて、坂の途中にある門のあたりから坂上のほうを見てみました。
なんとなく人工的なにおいのする階段ですけど、夫婦坂と名前をつけているくらいですから、やっぱり自然の地形になんとか階段をそわせていったものなんでしょうかね。



夫婦坂(NO.188)3

さらに階段をおりて、坂下から坂上のほうを眺めてみました。
それにしても立派なつくりの門ですね。(しつこいですけど・・・。)
ただこの門が坂の途中にあるから、坂上坂下からくる人をこばまない雰囲気が階段に漂っている感じですけど、これが坂下やら坂上に門があると、なんとなくそういうバランスは悪くなるのかもなあと。



夫婦坂(NO.188)4

最後は、ちょっと遠目の位置から、坂全体を眺めてみました。
こうしてみると階段の高低差具合(おそらく3階分くらいの)もさることながら、神社各建物の屋根の勾配具合がそれぞれ坂上にある本殿の位置からするするとちょっとした滑り台のようになんとなくそろえられていたり(これで例えば坂の途中の門がぽんととびでていたら、それはそれで見た目になんか違和感がでてくるかもしれないですけど、ここではそうしてないですよね)と、建物の配置計画やら高さ計画まできちんと考えてやっていたんだろうなあと、この神社を当時建てた人(今風でいえばデザインした人(汗))もなかなかそのあたりのことは頭を悩ましたんだろうなあなんて、ちょっと関心してみたり。
まあ、なんていうかこういう気持ちみたいなものがそれぞれの道路沿いでもいかされていたら、これまた気持ちのよい景色が日本でもひろがるのかもなあ、なんてえらそうに思ってみたり。。(汗)


ちなみにここにはいつものような坂の牌はありませんでしたが、境内案内図にここの階段のことを夫婦坂とよぶということが書いてありましたよ。



地図
文京区湯島3

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