東京坂道さんぽ

2010年08月

すでに先週になってしまいましたが、僕も坂道記事を執筆しているみちくさ学会の総会が新宿のライブドアで開かれることになり参加してみることにあいなりました。



みちくさ学会の総会&1

それで新宿からとぼとぼと西新宿方面に歩き、ライブドアの会社がある住友の西新宿ビルの前にきて、まずはぱちりと一枚↑。
最近の住友不動産のビルは力が入っているなあとしんみりと思いながら、ふらふらとビル内へ。



みちくさ学会の総会&2

そして、エレベーターの乗り継ぎを間違えてあたふたしながらも、なんとかライブドアのある階に到着。
ついでに、入口にあったロゴマークもおきまりごとのようにぱちりと。(笑)


そして、いざ中に入ると、まだ総会開始まで時間があり、事務局の大谷さんいわく、会議室からの外の写真は撮ってもよいとのことだったので、何枚かの写真を撮ってみました。



みちくさ学会の総会&3

まずは西口のロータリーのあたりがちょうど見える場所で一枚↑。
遠くには東京タワーやら六本木ヒルズが見えていたりします。
このふたつが遠近同時に見えるのはなかなか新鮮だったかもです。



みちくさ学会の総会&4

そういう意味では、三越アルタラインの新宿通りと歌舞伎町新宿区役所ラインの靖国通りが同時に見える景色もなかなかびっくりでしたよ↑。


そして、そうこうしているうちに総会ははじまり、それほど堅苦しい感じではないのんびりモードで(と僕は思っただけですけど)会はすすみ、時間が過ぎるのも早くあっというまにおわってしまいました。

そのあとは、近くの高層ビルで懇親会もありました。
ちなみに、その時、居酒屋の窓から見えた景色の写真をさっそくアップされている方がいましたよ。→写真はこちら(@BLUE STYLE COM)。

というわけで、今回はさらりとこれでおわりますけど、みなさん興味のあるカテゴリーがはっきりしていたので、初対面のわりに話がふりやすくて話題も豊富だったのでなかなかおもしろい体験をさせてもらったかもです。

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今回はその1の続きです。
そんなわけで坂の中腹より。



道玄坂(NO.191)その2_1

前回最後の場所よりさらに坂上のほうへ上り、坂下のほうを眺めたものです。
もうこのあたりまでくると、繁華街度はうすれて、坂下と比べるとはるかに落ち着いた雰囲気になってきているようでした。

あと、ちょうど街路樹がきれているあたりの奥のほうにはちらりと渋谷マークシティーの高層ビルが見えていたりしますよ。



道玄坂(NO.191)その2_2

せっかくなので坂道側から、ちょうどマークシティーがよく見える位置でぱちりと一枚。
個人的には、ビル足元にあるマークシティーの駐車場にいくためのスロープが坂道に見えてきてしかたないんですけどね。(笑)

それはさておき、なんというか、渋谷駅まえあたりでは、アイレベルで意識しないでちらりとでもこのビルが見える場所は、あまりないと思われるわけで(意識して見上げればみえるところはありますけど)、そういう意味では「マークシティー」ときくと、名前のイメージやら中のお店や会社なんかのイメージを強く思い描くビルかもしれないかなあと思ってみたり。



道玄坂(NO.191)その2_3

そして、よくみると駐車場へ行くためのスロープの左隣にこんな青系オブジェ(龍というか蛇というかうねりというべきかわかりませんけどね)の通路がありましたよ。
誰がデザインしたかまではさらりと検索しただけではわからなかったのですけど、こういうオブジェといえば、アート作品をみんなに見てもらおうという意図みたいなのが、まあメインなねらいだとおもいますけど、実は(話すと長くなるのであれですけど)、排除系オブジェ(詳しく知りたい方は「過防備都市」なる本をパラリと読んでみてくださいな。)なんてのもあるみたいで、以外といろんな意味というか役割を与えられている場合も多いみたいですね。
(ここのオブジェもそうなのかどうかはいまのところ不明です。)



道玄坂(NO.191)その2_4

あと、このそばに(2枚目の写真の左下に見えてますよ)は、なんとも謎めいた“道玄坂道供養碑”なる石碑やら坂にまつわる案内説明の案内板がありました。
なので、その説明文もせっかくなので載せてみますね。

まずは樋口清之という学者の文が刻まれた石碑のほうには、
『渋谷道玄坂
 渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(一五二五年)その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄庵を造って住んだ。それでこの坂を道玄坂というといわれている。江戸時代ここを通る青山街道は神奈川県の人と物を江戸に運ぶ大切な道だった。やがて明治になり品川鉄道(山手線)ができると渋谷付近はひらけだした。近くに住んだ芥川龍之介・柳田國男がここを通って通学した。坂下に新詩社ができたり、林芙美子が夜店を出した思いでもある。これからも道玄坂は今までと同じくむしろ若者の街として希望と夢を宿して長く栄えてゆくことだろう。 』
と書かれていました。

それと、もうひとつは与謝野晶子の歌碑なるものもありました。
『  母遠うて瞳したしき西の山 
   相模か知らず雨雲かゝる

 歌人与謝野晶子が詠んだこの短歌は、明治三五年(一九〇二)四月に発行された東京新詩社の機関誌「明星」に収められています。
 晶子は、前年に、郷里の大阪府の堺から単身上京し、渋谷道玄坂の近傍に住んで、与謝野寛と結婚しました。処女歌集の「みだれ髪」も刊行しています。詩歌の革新をめざした寛との新婚生活でしたが、晶子にとって、身心の負担は思いもよらず大きなものでした。 歌人として、また妻としての多忙な日々のひとときに、住まいから近い道玄坂の上にしばしばたたずんで、西空の果てに連なる相州の山々を眺めていたのです。その山々の方向にあたる遠い堺の生家を思い、母親を懐かしんだのでした。
 みずから生家を離れて、新しい生活を渋谷で始めた晶子が、当時ひそかに抱き続けていた真情の一端を、この一首の短歌は語っているのです。
 なお、この歌碑に彫られている筆跡は、晶子自身の書簡による集字です。 』

ウィキペディアの道玄坂のページや上の樋口清之の文にもあるとおり道玄坂と関わりのある文学作品はたくさんあるみたいなのに、なぜ与謝野晶子の作品だけが立派な案内板に書かれているのかは不明ですけど、なにか意味があるんでしょうかね。

ちなみに、いつもの坂の木碑もこのすぐそばにあって、(汗)
『江戸時代以来、和田義盛の子孫大和田太郎道玄が、この坂に出没して山賊夜盗のように振る舞ったとの伝説がありました。しかし本来の道玄坂の語源は、道玄庵という庵があったことに由来すると考えられます。』
とありました。



道玄坂(NO.191)その2_5

そんなわけで、やっと坂上あたりまでやってきました。
写真はさらに坂上のほうを見たもので、246号と首都高速の高架が見えていたりします。

あと、地図を見れば、一目でわかるんですけど、写真右側のほうが、これまた知る人ぞしる円山町だったりしますよ。

そして、ひさしぶりにアースダイバーをぱらぱらと読みなおしてみると、渋谷はまずこの坂の中腹あたりから発展したそうで、ひとつがこの円山町という花街の存在であり、もうひとつが、江戸の人たちにとって最大の信仰であった「富士講」の本部がこのあたりにおかれ、この地が富士登山への出発地となっていたことが、その大きな原因ではないかとことが書かれていましたよ。
(今の状況でアースダイバーを再び読んでみると、ここ以外にもこれまた昔と違った視点で読めておもしろかったですよ。このこともなんかの形で坂道さんぽにフィードバックできればなあと考え中です。)


ということで、歴史とからめると一冊の本ができるんじゃないかというくらい深い深い道玄坂ですが、また資料がたまってきたらなんかとりあげるかもしれないですけど、今回のところはとりあえず、こんな感じで勘弁ということでおねがいします。。


地図
渋谷区道玄坂2

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所在地:渋谷区道玄坂2

どうげん坂と呼ぶそうで、そのほかにも道源坂や道元坂という別名があるそうです。
場所は、いわずと知れた渋谷駅そばの109から246号のある南西のほうに向かって上っていく坂道です。
しかも地図で確認すると坂道の地下(どれくらい深いかはわかりませんけど)を東急田園都市線が走っていたりして、けっこう複雑な地形構造になっているのかもしれないですよ。

そんなわけで、ここは人の多いときにしか歩くことがなかったものでなかなかうまい写真が撮れずにいたため延ばしのばしになっていたんですけど、最近やっと写真もとりつつ歩くことができたので、今回は2回くらいにわけて書いていこうかなと思います。
(なんか気がつけばさらに追加すると思いますけど。)



道玄坂(NO.191)その1_1
坂下より

もうこれは渋谷を歩いたことがあるかたなら言わずもがなの場所ですけど、JR渋谷駅前のスクランブル交差点のあたりから109のほうを眺めたものです。
ごらんの通りですけど、始発ちょっと後くらいの時間だったので、とにかく人がいなくて写真が撮りやすかったですよ。(笑)

あとはこの写真をじっと見ていると、109の左右にユニクロとH&Mの看板が見えていたりと、勢いのある会社の看板がどんと大きくあって、今はこういう時代なのかもなあとしみじみと思ってみたり。。



道玄坂(NO.191)その1_2
坂の途中より

次は109を横に見ながら、もうすこし坂を上り、坂上のほうを見てました。
こうして見ると、実際に坂道を歩いている時は、道を歩く人やまわりのお店や看板に気をとられて意識してなかったんですけど、実は道路沿いの街路樹がけっこう立派に育っていて、なかなかいい感じで見えていますね。

まあ、午前10時あたりを過ぎると、このあたりは一気に人通りも多くなり、道行く車も半端ではなくなり、道沿いには車がたくさん駐車しはじめて、坂の観察どころではないんですけど、この時間帯なら、人や車にじゃまされずじっくりと坂道を眺めることができてよかったです。



道玄坂(NO.191)その1_3
坂の途中より2

もうすこし坂を上り、坂下のほうを眺めながらぱちりと。
ここも実は手前の街路樹がトンネルつくっていましたよ。(笑)



道玄坂(NO.191)その1_4
坂の途中より3

さらに坂を上り、坂上のほうを眺めたものです。
坂道自体はカーブしながら上っていくのでなかなかおもしろい感じでしたよ。
ただ、なんだか写真だけみると普通な感じですね。(汗)

実際は、このあたりは渋谷でも指折りの繁華街なので両サイドに色とりどりのいろんな店構えをしたまちなみ(これをまちの都市計画なんかを考えるようなまじめで偉い人が見ると「ごちゃごちゃしていて息がつまる場所」なんて感じで自著なんかに書きそうですけど・・・)が続いているんですけどね。
(個人的にはこういうところをぶらぶら歩いて人物観察するのはけっこう好きですよ。)



道玄坂(NO.191)その1_5
坂の途中より

そして、前半最後の写真は、さらに坂を上り、坂下のほうを見たものです。
とりあえず、この写真なら、坂道の勾配具合やら周辺の繁華街具合がすこしわかりやすいんじゃないですかね。
なので、この左側の奥あたりがこちらもいわずと知れた百軒店(ひゃっけんだな)になりますかね。


という感じで、今回はいったんこのあたりで中断して、ちょっとばかし、いつもお世話になっている「江戸東京坂道事典」にもやはり、道玄坂についての説明があったので、すこし抜粋してみるとですね、
『いわゆる山の手の代表的な盛り場であるこの渋谷道玄坂付近も、江戸のころはきわめて寂しい野中の坂道で、(略)その当時はむしろ宮益坂(富士見坂)のほうが厚木道の立場として、茶店が並びにぎわっていたといわれる。』
とありました。
まあ、そういわれてみればそうですよね。
いまでこそ同じくらい発展してますけど。

あと、もうひとつ、
『戦後の道玄坂には恋文横丁とよばれるような占領治下の独特な風俗が誕生して丹羽文雄が新聞小説に描き、映画にもなったが、いまはそれもなくなってビルの敷地となっている』
とも書かれていて、あっ、そういえばこのブログでも恋文横丁のこと書いたなあと調べてみると、“恋文横丁と109”でとりあげていましたよ。
なので、かつての恋文横丁は、今の109とユニクロの入っているビルとヤマダ電機のビルのある場所あたりにあったみたいですね。



地図
渋谷区道玄坂2

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所在地:港区麻布十番1


ちょっと今回は港区の坂でまだ記録していなかった「あひる坂」という坂道が、いくつかの坂道本で紹介されていることを知り、そのあたりをぶらりとしてみました。
場所は、聞けばちょっとびっくりですけど、鳥居坂(NO.96)の坂下あたりというか麻布十番あたりというか、とにかく、そのあたりにある坂道です。



あひる坂(NO.190)1
坂上より

てな具合で坂上からの風景です。
ちょうどこの反対側(背後)は、鳥居坂(NO.96)の坂下でもあり六本木ヒルズなどにつながる大通りでもあるわけですが、この坂道はさらにそこから麻布十番の商店街のほうにむかって下っている坂道でした。
坂道自体はとても短くて、おそらく正面に見えている信号機のあたりまでのことをさしているみたいです。
途中からほぼ平坦な道になっているので、ここに坂名があるなんて気が付く人はまれだと思われますが、いちおう写真をじっとみてみると、手前の傾斜の部分がけっこう急勾配みたいでドーナツ型の滑り止め舗装がなされているのに、すこし奥へいくと麻布十番界隈の道と同じデザインの舗装にきりかわっているのがなんだか気になりました。
(むりやり平坦な道に整地された可能性もあるのかもと・・・。)
あと、遠くには暗闇坂 (NO.69)も見えていましたよ。



あひる坂(NO.190)2
坂下より

次は一気に坂下までやってきて、坂上のほうを眺めたものです。
なので、もう気がついているかたも多いかもしれませんけど、坂上のさらにむこうにみえているのが、鳥居坂(NO.96)ということになりますよ。



あひる坂(NO.190)3

最後は、2枚目の写真のすこし左側をみてみると、期間限定なのかどうかわかりませんけど、かなり浮いた感じで駐車場が見えていました。
そして、かつてここには麻布十番温泉なる温泉があったんですよ。
(↑取り壊される前の当時の写真が暗闇坂(NO.69)のページにもありますので、よかったらどうぞ。)

ということで、この「あひる坂」という名前の由来やらいつごろからこの坂道がそうよばれるようになったかどうかは不明ですけど、この“あひる”という坂名はすごく気になりますし、愛嬌のある名前なので、機会があればもっと調べてみたいかもですよ。(笑)


地図
港区麻布十番1

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