東京坂道さんぽ

2011年01月

所在地:台東区上野桜木1

かんえいじ坂とよぶそうです。
場所は上野公園の北側の言問通りというすこし変わった名前の道路とかぶっている坂道で、坂上のすぐ南には徳川将軍の菩提寺としても有名な寛永寺があります。



寛永寺坂(NO.201)1

坂下あたりの様子です。
みた感じはふつうの道路といった感じで勾配具合もかなりゆるやかでした。
このすぐそば(写真後方)には、この坂道から名前をとったと思われる寛永寺橋がJRの上をまたいでいたりします。



寛永寺坂(NO.201)2

もうすこし坂を上り坂下のほうを眺めたものです。
なんとなーく下っている感じがわかりますかね。
坂下あたりにある寛永寺橋は奥の右にカーブしている道のアイストップの位置にあります。
微妙に橋の上の白いガードレールや柵がなんとか見えている程度ですけどわかりますかね。。
ちなみに江戸東京坂道事典に、佐多稲子なる小説家が書いたこのあたりのかつての風景描写の一文が抜粋されていましたのでせっかくなのでちょっとのせてみますね。
『佐多稲子の「私の東京地図」は寛永寺陸橋が架設(昭和八年)してまもない時分のことを次のように書いている。
(略)寛永寺坂は夜目にもしろじろと広く、ゆるやかに登ってゐる。私たちは寛永寺坂を登らずにその下から右へ、これも日暮里の、出来上がったばかりの改正道路へ折れてゆくのだが、寛永寺坂の近代風に出来がったのもこのころで、坂と橋とをかねてゆるやかに登リながらひろびろとしカーブして、信越線、常磐線、何々線と数本の通ってゐる上を上野の山つづきの町へと渡ってゐるのである。』
このころの寛永寺陸橋のさらにJRをこえた北東側のあたりに、今と同じく立派な高架橋があったかどうか不明ですけど、この描写ではおそらくJR(寛永寺橋)をこえた北東側の部分までを寛永寺坂ととらえているみたいですね。



寛永寺坂(NO.201)3

そしてふと気がつくと坂上あたりまできていました。
とにかく写真うつりは普通な坂道ですね。



寛永寺坂(NO.201)4

そんな具合で坂の途中からはほぼ平坦な道だったので、④の写真のような桜並木のある道にでくわすまではほんとどこが坂上あたりなんだろうという感じでした。
この奥には谷中霊園があり、徳川慶喜の墓所もすぐ近くにあるそうです。
なので、今回は写真におさめてないですけど、この背後のほうに寛永寺があるということになります。
(というよりここの寛永寺があの有名な寛永寺だったなんて、帰ってからきちんと調べるまですっかり忘れていたので、写真におさめてなかっただけなんですけどね。。〈汗〉)

ちなみにここには、いつもの坂の碑があり、
『大正年間(一九一二〜二五)発行の地図からみて、この坂は同十年ごろ、新設されたように推察される。当初は鉄道線路を踏切で越えていた。現在の跨線橋架設は昭和三年(一九二八)八月一日。名称は寛永寺橋である。坂の名をとったと考えていい。坂の名は、坂上が寛永寺境内だったのにちなむという。寛永寺は徳川将軍の菩提寺だった。坂上、南に現存。』
とありました。


地図
台東区上野桜木1


追記(2011.5.8):
地震前に情報いただいていたんですけど、地震なんかがあって掲載忘れてましたが、とあるかたから投稿メールにて寛永寺坂駅についての話をいただいたので追記でのせておきます。
そのかたのメールによれば、なんと3枚目の写真の左手の青い壁(トタン?)のある建物のさらに左に見えているワゴン車の奥の建物はかつては寛永寺坂駅の駅舎だった建物だそうですよ。
(ちょっと僕の写真ではわかりづらいですけどね。)
寛永寺坂駅についてのくわしいことは、Wikipediaのページにのっているみたいですので、よかったらどうぞ。
寛永寺坂駅@Wikipedia

所在地:台東区上野公園18あたり

しん坂とよぶそうで、別名で鴬坂や根岸坂とよばれています。
ちなみに「鴬」は「うぐいす」とよびますけど、坂の碑には「鴬谷」と書いてあり近くのJRの駅名は「鶯谷」という漢字になっていたりします。
場所は上野公園の北東にあり、坂の途中にはJRの鶯谷駅の改札口もある坂道です。



新坂(NO.200)1


坂上からの様子です。
すぐうしろには上野公園があり、お寺も多い場所がらなこともあってかかなり落ち着いた雰囲気でした。
また坂の左側が霊園、右側が中学校というのもなんだかいろいろと考えてしまいますかね。
そんなこともあってか右側には背の高めの柵のような手摺が設けられているのに加え、霊園側にも歩道がきちんと設けられているなど、あらためて写真をみているとお年寄りと子供にやさしい坂道だなあと思ってみたり。
あとは右側(中学校側)の樹々がなかなかよい感じで道にせりだしていますかね。



新坂(NO.200)2


坂の途中からぱちりと。
霊園のあたりはぽっかりと空がひらけていました。
どこぞやの庭園と間違いそうな感じですけど、手前の塀のむこうはお墓ですよ。。



新坂(NO.200)3


そしてもうすこし坂を下ると、鶯谷駅の改札口が見えていました
なんとなく懐かしい感じのたたずまいですね。
しかも駅舎の屋根が瓦。
ありそうで以外となさそうな感じかもですね。



新坂(NO.200)4


さらに坂を下り、坂上のほうを眺めたものです。
坂道はまだ続きますが、ここは見てのとおり橋の上です。
なのでこの下をJRが走っています。



新坂(NO.200)5


今度はだいたい同じ位置より坂下のほうを見てみました。(写真⑤)
このあたりから新坂は勾配具合がちょっと急になっていく感じでした。
ひとつ気になったのは、道路と歩道が完全に分離されているのは見ての通りですけど、その間に緑色のフェンスがつけられているんですよね。おそらく転落防止のためかとおもわれますけど、そうなれば歩道の線路側にもなにかしらついていると思えばそうでもないし・・・。
これはなんなんでしょう?



新坂(NO.200)6


最後は坂下の様子です。
なんとなく車道の部分だけあとで増設されたっぽい感じがぷんぷんしますかね。
おかげで高低差具合がわかりやすいかもですね。
あと、この坂下一帯は、(江戸東京坂道事典によると)鶯の名所として有名だったらしくそのため鶯谷と呼ばれていたらしく、輪王寺の宮様がわざわざ京都からとりよせた鶯をこの一帯の林に放ったという伝えもあるらしいのですけど、現在は写真⑥のように見る影はないみたいですね。(ただ駅名としては残ってますけど。)


ちなみにこの坂道にははじめにもすこし書いたとおりいつもの坂の碑があり、
『明治になって、新しく造られた坂である。それで、新坂という。明治十一年(一八七八)内務省製作の『上野公園実測図』にある「鴬坂」がこの坂のことと考えられ、少なくともこの時期には造られたらしい。鴬谷を通る坂だったので、「鴬坂」ともいわれ、坂下の根岸にちなんだ「根岸坂」という別名もある。』
とありました。

あと、最後の最後にもうひとつ。(汗)
(これまた江戸東京坂道事典からの抜粋ですけど。)
『坂上の徳川霊廟のあたりは根岸下谷をこえて眺望はるかにひらけていた。そして花見のころには上野全山の桜花が見わたせるというので、下谷方面からの客でこの坂道は大いににぎわい、坂上のほうには茶店が軒をつらねた時代があったというが、いまはそのおもかげはなく自動車の往復せわしないアスファルトの坂道で、そのわきに一段高く歩道が設けられている。むかしはこの坂下にあった門を新門とよんでいたが、もちろん現在はない。』

とまあ別名で鴬坂ともいい坂上には上野公園もあるので、どんな坂道なんだろう?という期待もあったんですけど、実際はいろんな要素(橋やら駅そのたもろもろですかね)がおりまざった奇妙な感じの坂道だったかもですよ。


地図
台東区上野公園18あたり

またこの日がやってきました。
さすがにここまで月日が経ってしまうと、震災を経験した人も神戸には半分くらいしかいなくなってしまったというニュースもありましたけど、それはそれで仕方のないことなのかもなあと。
地震での経験を伝えたり、地震の経験を何かの形でライフスタイルに活かしていくのは大事なことなのかもしれないですけど、なんというかその考えに縛られてしまって身動きがとれなくなってしまうのもいけないかもなあと、最近というかこの1年くらいはよく考えるようになりました。
でも今日だけはその考えに縛られて(笑)いろいろと今後のことについて考えてみたいと思います。

あと地震とは直接関係ないですけど、この数ヶ月のあいだメディアでも騒がれているタイガーマスクさん系の贈り物の話、あれいいですよね。
僕自身、震災の時は神戸に日本中からボランティアの方々がきてくださっていろいろと助けてもらったり、支援物資を寄付していただいた側の身でもあるので、すごく気になっていました。
これからもこういう感じの活動はあってほしいですし、いろんな賛成反対の意見もあるやもしれませんがやっぱりそういう話題も報道し続けてほしいかもなあと。

そして、これは私事で恐縮ですけど、最近、みちくさ学会で神戸の坂道の記事を書かせていただきました。
記事には書いてないですけど、おそらく坂から見える風景や神戸のまちなみも16年まえとは全然違うものになってしまったんだろうなあという感慨が深く、なんていうか今回は新たな発見というよりもしみじみと過去の思い出を掘りおこしながらまわった感じの坂道散歩だったかもです。
また、この記事を書くときに村上春樹さんのエッセイ『辺境・近境』の「神戸まで歩く」を読み返してみました。
個人的には、このエッセイの文中に、
『それからもうひとつ、二年前のあの阪神大震災が自分の育った町にどのような作用を及ぼしたのか、それを知りたかった。』
とあるように震災への思いみたものも同時に綴られているような気がしてならないんですよ。
なんていうかこの村上さんの描いた風景を通して過去を知るというか、そういうある意味過去の神戸の景色がありありと心に浮かんでくる感じがよくてこのエッセイは何度も読んでいるんですよ。
そういうわけで、よくもまあ西宮から三宮まで歩いたものだなあと毎回のごとく感心しながらも、今回僕はエッセイの中や写真編でも登場した香櫨園の浜にぶらりと行き、エッセイに書かれた風景描写を思い出しながらあらためてその景色を眺めてみました。
下の写真はそのときのもので、位置はかなりちがいますけどアングルだけは似せたもので(汗)、手前の池のような水辺(海)のむこうに見えているのが芦屋の海辺の埋立地にある高層団地の群です。
地震当時はあのあたりも液状化現象などで大きな被害を受けましたが、今は見てのとおりの状態です。
ちなみにこのエッセイや写真篇でもでてくる村上さんの通った中学校は僕も通った中学なので、いちおう中学の先輩ということになります。だからというわけではありませんが、エッセイなんかを読むときは特に、(失礼かもしれませんけど)近所にかつて住んでいたとあるおじさんの日記を読むという具合のへんな気楽さを感じてしまったりと、やっぱりいろんな意味で気になる人でもあり影響はうけるかもですよ。
ただ村上さんの他のエッセイではたしか中学時代はあまり良い記憶がないみたいなことを書かれていたと思うのであまりそういうことを強く言えないですけど、僕自身も中学校の校舎内でとある事故にあって、右耳の聴力がほとんどなくなり今でもほとんど音がきこえない状態の続いている怪我をした過去があるので、どちらかというとネガティブイメージの強い場所かもしれませんけど。。
でも地震のときはそれがさいわいしていろんな大音響があまり聞こえなかったんですけどね(←きこえる方の耳を下にして寝るとほとんど物音がきこえなくなるためですね。。笑)。

ということで、この1月17日が近くなると、いつもそうなのですけど、このブログで地震関連の話を書くかどうかで迷ってしまうのですけど、やっぱり今年も書いておくことにしました。


20110117

あけましておめでとうございます。
ということで今回は上野公園界隈の坂道話の続きです。


所在地:台東区上野7

くるま坂と呼ぶそうです。
場所は上野公園の東側あたりにあり前回の信濃坂(NO.198)などでもでてきた両大師橋と坂上でつながっている坂道です。



車坂(NO.199)1

まずは坂上からの風景です。
坂上からみた感じはなんてことない高低差のある車道というか坂道ですかね。
ただ歩道はあまり広くなくて、さらにここが名前のついた坂道というにはなんだかちょっと違和感があるかもですね。



車坂(NO.199)2

そして坂の左側にはこんな風景がひろがっています。
写真左側の橋が両大師橋で手前にひろがっているのがJRです。
なので線路の奥に見えているのが上野公園ということになりますかね。



車坂(NO.199)3

すこし坂を下り、坂上のほうを眺めたものです。
やっぱりここでも坂道自体よりも両サイドの建造物と道とのかかわり具合が気になってしまいましたよ。


車坂(NO.199)4

そしてあっというまに坂を下り、坂下あたりより坂上のほうをみたものです。
こうしてみると距離が長いこともあってなだらかな感じに見えてますけど、坂道自体はけっこうな勾配具合がありました。
あとは手前のぐぐぐと急にカーブして下っている感じが、なんていうかこの上野界隈の雰囲気というよりは東京郊外やら神奈川のほうにありそうな雰囲気で(かなり個人的な思い込みですけどね)、ちょっとした違和感があったかもです。
それと手前の木ですかね。
坂上からの写真をみればわかりやすいですけど、なぜかポツネンと一本だけ植えられていて、しかもかなり元気よく育ってますね。
ここに昔からあったんではないかと妄想してしまうくらいの馴染み感があるかもですね。



車坂(NO.199)5

というわけこれが最後の写真です。
びっくりなことにこれはJRと反対側から車坂を眺めたものなのですよ。
木がじゃまして見えにくですけど、斜めに高架らしきものがあるのが見えていますよね。
よくある高架下の風景ってやつです。
どうりで坂道全体になんだか変な違和感があったというかなんというか・・・。

ただかつての車坂は予想通り今の様子とちがったらしく、江戸東京坂道事典によると、
『本来の車坂は明治一六年に上野駅が建設されるにあたってその敷地となって失われた坂で、文久の江戸図をみると、屏風坂の南にあって下谷車坂町へ下る坂道であった。車坂と車坂門との間を横貫していた道を下寺通りとよび、寛永寺の下寺がたくさん並んでいた。』
とあり、実際のところ、今の車坂は昔と別物の坂道と言ってもいいのかもしれないですよ。


そして最後の最後に(こちらも江戸東京坂道事典からの抜粋ですけど)、この近くで少女期をすごした樋口一葉の明治24年の日記の抜粋や関連する歌でもどうぞ。
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車坂下るほど、ここは父君の世にゐ給ひしころ花の折としなければいつもおのれらともなひ給ひし所よと、ゆくりなく妹のかたるをきけば、昔の春もおかげにうかぶ心地して、

山桜ことしもにほふ花かげにちりてかへらぬ君をこそ思へ


地図
台東区上野7

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