東京坂道さんぽ

2011年02月

今回はちょっと寄り道話です。
御隠殿坂(NO.202)を歩いたあとに言問通りをテクテクと歩いているとなにやら人だかりができてたのでちょっと立ち寄ってみました。
場所的には三段坂(NO.203)から徒歩数分のところにあったりします。



言問通りの喫茶店1

外観的には、年末に京都を歩いたせいか、実は今見てみるとなんだかあまり新鮮さはないのですけど(汗)、散歩当日はさすがにまわりにこんな木造でいい感じの建物がなかったせいもあって興味津々で、思わずパチリと一枚。
敷地内の案内看板には「旧吉田屋酒店」とあり現在は下町風俗資料館の付設展示場として使用されているようでした。
なんでも明治から昭和初期にいたる酒屋店舗の形態を保存する目的で昭和60年にこの地に移築復元された建物だそうですよ。
建物が簡単に壊されてしまう東京では珍しいつくりの建物なのかもしれないですね。



言問通りの喫茶店2

そして、このすぐとなりには「カヤバ珈琲」という知る人ぞしる喫茶店もありました。
僕はあまり喫茶店にはくわしくないので、お店の雰囲気その他もろもろについてはおなじくみちくさ学会で執筆されている塩沢さんの書かれた記事公式HPなどをみればなんとなくわかるかもですよ。
ちなみに喫茶店うんちくのない僕がなぜこのお店を知っていたかというと、ここの店舗の改修を実力派の若手建築家である永山祐子さんが担当したことでも有名なお店だったからですよ。
上の写真で見るかぎりはちょっとレトロだけど普通な家という感じの外観ですけど、中はとにかくモダンだけれどどこか懐かしい雰囲気のつくりになっていましたよ。(今回は食べ物目当てではなかったので外から見ただけではありましたけど・・・。笑)


住所
台東区谷中6あたり

所在地:台東区池之端4


さんだん坂とよぶそうです。
場所は上野公園内にある上野動物園の北西側徒歩数分の場所にあり、
言問通りの南側を通りと同じく平行に走っている坂道です。



三段坂(NO.203)1


坂上からの風景です。
すでに坂上からも坂下が見えているほど距離の短い坂道でした。
坂の碑がなければ、ほんとうに普通の住宅街にあるちょっとゆるやかな高低差のある道路といった感じしたよ。
ただよくみると三段坂という名前がつけられているとおり、坂上から1段さがって2段下がって3段下がると坂下なのねという感じの高低差になっていたりします。
ちょっとわかりにくいですけどね。。

というわけでここにも坂の碑があったわけなので、いつものようにそのまま抜粋してみますと、
『「台東区史」はこの坂について、「戦後、この清水町に新しい呼名の坂が、十九番地から二十一番地にかけて屋敷町の大通りに生まれた。段のついた坂なので三段坂と呼ばれている。」と記している。戦後は第二次大戦後であろう。清水町はこの地の旧町名、この坂道は明治二十年(一八八七)版地図になく、同二十九年版地図が描いている。したがって、明治二十年代に造られた坂道である。』
とありました。
ということはこの坂道がつくられたか名前がきちんとつけられたのは120年ほど前ということになりますかね。
いわゆる明治の坂道ですね。



三段坂(NO.203)2


そして一気に坂下までやってきて坂上の方を眺めてみました。
なんというか奥に見えている坂上よりなんとなく高い位置にありそうな大きなマンションが見えているあたりがなんとも都内の坂道っぽい感じですかね。
しかも写真をよく眺めていると奇跡がおきていました!
写真をよくみてください。
まずホップともいうべき1段目の、階段でいう踊り場の部分に近所の女子学生さんらしき人が見えています。
次にステップといってもいい2段目の場所には、なんと車がたまたまここを通ったのか駐車していたのか当時の記憶はあいまいですけど、とにかく女子学生さんよりすこし高い位置に見えています。
最後にジャンプ!といってもいい3段目の坂上にあたる一番高い場所がちょうど手前の車のおかげでわかりやすく見えていますよね。
これが奇跡といわずしてなんといえましょうか。(笑)
おかげで三段坂の名前の由来にもなっているであろう高低差のうねりみたいなものがすごくわかりやすく見えるかもですね。
とにかく現地ではとくにこれをねらったわけではなかったので、自分でも今回あらためてじっくりと眺めてみてちょっとびっくりという感じの写真でした。


地図
台東区池之端4

所在地:台東区根岸2あたり


おいんでん坂(もしくはごいんでん坂)とよぶそうで、御院殿坂とも書くそうです。
場所は、前回の寛永寺坂(NO.201)のもうすこし北側にある谷中霊園の中に坂上がありそこから北東に向かってくだる坂道です。



御隠殿坂(NO.202)1


坂上あたりからの風景です。
左側に坂の碑もちらりとみえているとおり、ここは御隠殿坂とよばれる坂道なのですけど、なんていうかまわりはゲゲゲの鬼太郎でも近くにでてきそうな雰囲気の場所で整備もあまり行き届いていないようでした。しかも僕のすぐそばおよび背後は谷中霊園の敷地なので当たり前ですけどお墓がたくさんあって暗くなってからここを歩くにはちょっと勇気がいるかもなあという感じでした。
道は二手に分かれてますけど、普通は右側の道を通ります。そして奥には陸橋が架かっていて、その下をJRが走っています。

というわけで、ここには上記したようにいつもの坂の碑があり、
『明治四十一年(一九〇八)刊『新撰東京名所図会』に、「御隠殿坂は谷中墓地に沿ひ鉄道線路を経て御隠殿跡に下る坂路をいふ。もと上野より御隠殿への通路なりしを以てなり。」とある。御隠殿は東叡山寛永寺住職輪王寺宮法親王の別邸。江戸時代、寛永寺から別邸へ行くため、この坂が造られた。「鉄道線路を経て」は踏切を通ってである。』
とありました。



御隠殿坂(NO.202)2


今度は陸橋の上から坂上のほうを眺めてみました。
この橋は御隠殿橋とよばれている(現地未確認なんですけどね・・)らしいのですが、かつての御隠殿坂はこの橋の西わきを根岸へ下る坂道だったそうですよ。(@東京坂道事典)
ということは、①の写真の左側の道のほうがかっての坂道のなごりなのかもしれないですね。

また坂下あたりは根岸の里とよばれて江戸時代から風流人や文人の好んで住むところであったらしく、明治時代にあっては正岡子規が竹の里山人と号して住んでいたことでも有名だったそうですよ。(@東京坂道事典)

そしてあともうひとつ、
『そのころのことを書いた高浜虚子の私小説「柿二つ」には子規との交際を次のように寸描する。
   知人の間に雑誌発行の事を通知旁々寄稿を依頼する手紙は大概彼
   から出された。二人は毎日のやうに手紙を往復した。手紙で間に合は
   ぬことは彼の病床で協議された。Kは三日にあげず御隠殿の坂を下り
   て来た。上野の森には野分が吹いてゐた。暑さが今日の野分で一時
   に退くであらうと誰もが心頼みにしてゐた。
      野分して蝉の少なき朝かな
   と彼は折節の即景を句にした。』
と東京坂道事典にあったのでせっかくなのでそのまま抜粋してみました。



御隠殿坂(NO.202)3


最後は(たぶん)御隠殿橋とよばれている陸橋より日暮里駅方方面を眺めたものです。
おそらくかつての御隠殿坂はこのすぐ手前あたりを左から右に下っていたのかもしれないですね。
あとはとにかく目の前にひろがっているJRの線路の数が洒落になってないのがものすごく気になりましたよ。。


地図
台東区根岸2あたり

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