東京坂道さんぽ

2014年01月

所在地:港区高輪4-10あたり


ざくろ坂と呼ぶそうで、別名で新坂ともよぶそうです。

場所は前に取り上げた「いちょう坂(NO.244)」のすぐ北側にあり、JR品川駅から第一京浜を渡り、大規模なホテルが建ち並ぶ間を通って、メトロ高輪台駅のある西側に抜けることができる道路があるのですが、その道が今回の坂道となります。


柘榴坂(NO.245)1
写真1

まずは坂上からの景色でも。(写真1)
さっき、この道は大規模なホテルのあいだをぬってふぬふぬと書きましたけど、ここから見る分には、坂の両側にちょうどいい高さの街路樹が植えられ、両側のホテルも建物部分においては坂に対してセットバックしている形になっているようで、地図で見る感じよりは圧迫感はないようでした。


柘榴坂(NO.245)2
写真2

すこし坂を下り、さらに坂下を見てみました。(写真2)
左側に坂に沿って長く隣接している建物が見えてますけど、こちらはグランドプリンスホテル新高輪のレストラン棟のようですね。
けっこうできてから時間が経過しているのか手前の街路樹ともけっこうなじんでいるような雰囲気かもですね。
あとは、坂道自体は見た感じは緩やかな傾斜具合ですけど、左のレストラン棟の地面部分を見てもらうとわかりやすいのですけど、実は坂上と坂下でけっこうな高低差具合だったりするみたいでした。

また、この写真の左側に坂の碑もちらりと見えていたりします。
なので、そのまま坂の碑の文を抜粋させてもらうとですね『坂名の起源は伝わっていない。ざくろの木があったためか。江戸時代はカギ形に曲り、明治に直通して新坂と呼んだ。』とのこと。
とりあえず、「江戸時代はカギ形に曲り」というのが気になったので、古地図で確認してみると、たしかにカクカクと曲がっていましたよ。
坂上から坂下に歩いた場合、下りながら坂道はいったん右にほぼ直角に曲がり、ほんのすこし歩くと、今度は左に直角にまがるとまた長い坂道が現れるというつくりだったようですよ。


図1:古地図との比較(柘榴坂)
図1

そこで、今回の柘榴坂(NO.245)と前回とりあげた、いちょう坂(NO.244)の位置関係をわかりやすくするため、グーグルマップに絵を描いてみました。(図1)
図のオレンジと赤の点線が、現在の柘榴坂(NO.245)といちょう坂(NO.244)です。
そして、赤線で描いたものが古地図を見ながらだいたい現在の地図にあわせるとこんなかんじだろうなと予測しながら描いてみたものです。
そうすると、みごとに位置関係があてはまるんですよ。
どう説明したらいいかわかりませんけど、とにかく、いちょう坂(NO.244)がかつての柘榴坂の場所の痕跡みたいなもの(記憶)を残した坂道の可能性が高くなったかもですよ。
そんなわけで、いちょう坂(NO.244)の記事の中で、「このすぐ北側にあるかつての柘榴坂が今のいちょう坂の場所にあったという説もあったりするのですが」と書いたのですが、どうやら古地図と見比べてみると、その説もあながち仮説というだけではとどまらないものなのかもしれないですね。


柘榴坂(NO.245)3
写真3

また坂道にもどりまして、今度は坂をすこしくだり坂上方向を眺めてみたものです。(写真2)
右はちょっと懐かしい感じのつくりレストラン棟に対して、左側にガラス張りの無機質な感じの建物があるのが、人によって善し悪しの意見が別れるところかもしれないですが、とにかく東京らしいかなと思ってみたり。


柘榴坂(NO.245)4
写真4

さらに坂を下り、坂下方向を見てみました。(写真4)
このあたりから今の品川駅前っぽい大規模なホテル棟が視界に入ってきだしました。

ちなみに、このあたりの昔のことが、いつもお世話になっている本「江戸東京坂道事典」に書かれてまりましたので、すこし抜粋させてもらうとですね、
『このあたりは旧高輪南町で、「東京府志科」の同町の条に「明治二年仲町を合せ五年又もと鹿児島久留米其他三四藩の邸地を併す」とあり、この坂道については無名坂としている。坂の北側はむかしの鹿児島(薩摩)藩下屋敷で当時は薩摩藩の高輪屋敷とよばれていた。明治維新後は官収され宮内省の用地となり、北白川宮、竹田宮、東久邇宮の三宮の御殿がつくられた。戦後、北白川宮邸宅は衆院議員宿舎、竹田宮邸は高輪プリンスホテルとなり、さらに東久邇宮邸跡は阪急系の高層ホテル「ホテルパシフィック」が建っている。』
とのこと。
なお、ここででた「高輪プリンスホテル」はグランドプリンスホテル高輪に名称変更、「ホテルパシフィック」は今はなくなり(でも建物は残っているようです。設計は坂倉建築研究所とのこと。wikipediaによるとですが。)、SHINAGAWA GOOSなる複合商業施設になっているみたいですね。
なので、写真4で左側に見えている大きなビルがSHINAGAWA GOOSということみたいです。


柘榴坂(NO.245)5

写真5

いちおう、写真4とだいた同じ位置より、坂上のほう見てみました。(写真5)
坂上あたりのほうも遙かかなたといった感じでしたよ。


柘榴坂(NO.245)6
写真6

そして、やっと坂下あたりまでやってきました。(写真6)
正面を横切っている道路が第一京浜で、その奥が品川駅ということになりますかね。


柘榴坂(NO.245)7
写真7

最後は、写真6でも見えていた歩道橋から坂上方向を眺めてみたものです。
こうしてみると、高低差具合もわかりやすいかもですね。
しかも昔とは違い、ほんとまっすぐな坂道ですね。


地図
港区高輪4-10あたり

今年もこの日がやってきてしまいました。
毎年言っているような気がしますけど、早いもので、もうあれから19年ですか。

さすがにこれだけ期間が過ぎると、時々、当時のことを忘れてしまう時もあるのですが、やはりこの日(1,17)が近づいてくるといろいろと当時のことを思い出してしまうという感じです。

そんなわけで、今年も去年までと同様、正月に実家の神戸に帰省したこともあり、番外編という形でここ数年続けている阪神大震災関連の震災モニュメントや遺構巡りの話でもしてみたいと思います。

今年は去年および一昨年とけっこう重い雰囲気のところを回っため、すこし軽めの場所をと思っていたところ、昨年、ふととある情報から派生して知った場所に震災関連施設があることを知り、満を持して帰省の時に訪れてみました。


19年_1
写真1

それがこちらですね。(写真1)
いきなりでなんでしたが、これはJRの六甲道駅のすぐそばの場所にある「イタリア広場」と呼ばれる場所です。
芝生の向こうになにやら滑り台のようなスロープ風のオブジェが見えていますが、それが今回の目的地ですね。


19年_2
写真2

近くに寄ってみるとこんな感じでした。(写真2)
まさにスロープ。
でも右側にはベンチもあって休憩所のような場所も見受けられました。


19年_3
写真3

そして、裏側にまわってみると・・・。(写真3)
なんと坂道になっていました。
そうなのです。
昨年、この場所の情報を知ったときは、心底驚いたわけですが、こんな場所があったとは。
ただ、この裏の芝生広場では、写真1でもちらりと見えていましたが、地元の子供たちが楽しそうにサッカーなどをしていて、正月ということもあり、けっこうな人がいたんですけど、この場所にいたっては、ご覧のとおり、坂道内(というか広場内)には人がほとんどいませんでした。


19年_4
写真4

そして、なにか手がかりがないものかと、だだっ広いこの広場内を探索してみると、やはりというべきか、写真4のような説明プレートがありました。
そこには、『イタリア広場/
この広場を1995年阪神・淡路大震災の犠牲者に捧げます。
設計:ラウラ・マッシーノ建築士、バルバラ・アニョレット建築士
イタリア建築協会、外務省、イタリア文化省建築および現代美術局発起による日本におけるイタリア2001年記念広場国際設計競技優秀者』
と書かれてありました。

なので、このことから、ここが阪神・淡路大震災関連の場所ということがわかったわけですが、正直、こんな広場があったことも、国際コンペがあったことも知りませんでした。
ある意味、今頃になってちょっとショックを受けてしまいました。


19年_5
写真5

その後、すこしまわりをぶらつき、坂の部分から坂下方向にこの広場を眺めてみたものが写真5です。
広場は写真5の奥のほうで突然終わっています。
これは広場の向こうに国道2号線という大きな道路が走っているためで、逆にいえば、目の前に見えているスロープは、実際のところ坂道というよりは広場のオブジェという扱いとして捉えたほうがいいのかもしれないです。
(だからこんなところでスケボーなどしたら、国道に飛び出てしまい危険なのですよ。もちろん広場内にもそういう行為は禁止と書かれてありますけど。)


19年_6
写真6

せっかくなので、広場に入って、スロープ部分にも注目してみました。(写真6)
軽くこの広場について解釈してみると、やはりこのスロープは、神戸の海から六甲山へと続く斜面をオマージュしたものだと思われ(写真6の遠くに見えているのが六甲山です)、この広場の思いが天に向かってのびていくということもイメージできるのではないかとも思いました。
そして二つのスロープの真ん中の、抜け道のような隙間は、その向こうにかつては現実の神戸の痛々しい姿が見えたのではないかとも想像しています。

とにかく、坂の頂上あたりが山のほうを眺める展望台にもなり、写真2に写っていた休憩場所が展望台の下にあるように、この広場のスロープは海(南側)に向かって下る形をしているのでちょっとした日よけになったり、天気が悪いときは雨宿りなどができるのかもしれないですけど、やはり今の寂しい状況をみるとこの立地においての広場という役目をはたしているのかは疑問がつくものではありますかね。(ここよりだだっ広くて人のいないところもたくさんありますが、あくまでこのJRと阪神の2駅が隣接している駅前の人通りの多い立地での話です。)


19年_7
写真7

次は、スロープオブジェの裏側(山側=北側)に再びまわって、さっきすこしふれたふたつのスロープの隙間の通路から坂下方向(南側=海側)を眺めてみたものです。
見た目はすごくかっこいいのですけど、ほんとこの隙間はどういう意味でつくられたんですかね。


19年_8
写真8

そして、こちらが現地にあった案内地図です。(写真8)
上からみるとこんな配置だったわけですね。
広場の隣には灘区役所ですか。
なるほど。


そんなわけで、今回の現地体験もあり、僕自身、このような場所で、なんというか人を寄せつけない空気が漂う広場に出会ったのはひさしぶりだったので、気になってしまい、ネットなどでこの広場ができた経緯などをすこし調べてみました。

すると、「EXPO 2005 AICHI,JAPAN」のサイト(http://www.expo2005.or.jp/jp/N0/N1/N1.6/N1.6.564/)にて、このイタリア広場のことが取り上げられていて、それによると、阪神大震災のために壊滅的な被害を受けたこの六甲道エリアの再開発のため、神戸市は再開発をまかせる建築家を選ぶ国際コンテスト(たぶんプレートにあった日本におけるイタリア2001年記念広場国際設計競技優」)を開催したそうで、そこで選ばれた2名のイタリア人女流建築家(ラウラ・マッシーノさんとバルバラ・アニョレットさんかな?)とその依頼を受けたアッソピアストレーレ社が、エミリアロマーニャ州の協力をへて「イタリア広場」を建築し、神戸市へプレゼント(寄贈でいいのかな?)することにしたそうです。
ただ、ここに書いてあった内容だけでは、このエリア全体においてイタリア人の建築家の方々が関わったかどうかまでは不明でした。
あと、この六甲道エリアは阪神大震災のために壊滅的な被害を受けたと書きましたが、実際のデータは、震災時、660世帯約1400人が住んでいて、家屋276棟のうち65%が全半壊したとのこと(ブログ: 越澤明(越沢明)と都市政策、歴史・文化のまちづくり、日本再生http://blog.goo.ne.jp/cityplanning2005/e/3f7b50d15da7b8f9050d75d079122f47より)。

ちなみに、「日本1000公園」(http://nippon1000parks.blogspot.jp/2012/07/651000.html)というブログに、このイタリア広場が計画された当時の経緯などが記録された神戸新聞の記事の抜粋を載せていらしたので、すこし引用させていただきます。
『2002/02/18
 神戸市灘区で進められているJR六甲道駅南地区震災復興再開発事業(五・九ヘクタール)で、防災公園の一角に、イタリアの都市のイメージを取り入れた広場がつくられることになった。「日本におけるイタリア年」を記念し、日伊の建築界が協力。基本デザインは、両国の若手建築家から、国際アイデアコンペ方式で公募している。 コンペは、昨年の「イタリア年」を機に、「日本におけるイタリア2001年財団」が日本側に呼びかけ、神戸市の協力で実現した。 駅南地区では、超高層ビルなどに囲まれる形で、芝生や樹木を中心とした〇・九三ヘクタールの公園をつくるプランが、まちづくり協議会などの参加で決まっている。広場予定地は公園の南端で、国道2号、移転予定の灘区役所に面し、南の玄関口にあたる約〇・三ヘクタール。 イタリア側は現代的な都市広場をイメージ、石材などを提供する用意もある。だんじりが集まる空間や、バリアフリーなども条件という。 公募の対象になるのは、一九六五年以降に生まれた日伊の建築家。審査には、建築家の槇文彦氏、安田丑作神戸大教授、オルセー美術館を設計したガエ・アウレンティ氏らが当たる。発表は六月。最優秀作に一万ユーロ(約百二十万円)が贈られるほか、神戸、東京などで開く「イタリア建築展」で作品展示する。 イタリア建築フォーラム日本実行委の理事を務める井口勝文京都造形芸術大教授は「有望な若手建築家を見いだすチャンス。イタリア側は神戸に親近感を持ち、復興に貢献したいと期待している」と話す。募集要項はホームページhttp://www.piazza-italia.org/』
(注意:参照先のブログで取り上げている神戸新聞のホームページでは、すでに該当する記事が削除されていたため、この抜粋がきちんとしたものかどうかを知るには、当時の新聞をあたるしかないので、あしからず。)

そうなんですね。
今、東京の国立競技場で話題の人でもある槇文彦氏も審査員だったのですね。


19年_9
写真9

最後に、もうすこし俯瞰的な絵もあればと思い、イタリア広場の北側にある六甲道南公園からの眺めを納めたものなど。(写真9)
こうしてみると坂道オブジェ、なんかかっこよかったです。
しかもこの手前の芝生公園自体が微妙に坂道というか傾斜しているのもまたこの場所らしいなあというか。
でも実はこの傾斜だけが当時の場所の記憶みたいなものを伝えているのではないかとも思ったのでした。


ということで、今年の六甲道の「イタリア広場」への訪問、実際に歩いてみて思ったのは、なぜここに「イタリア広場」だったのか?という疑問が先行して、もしかして理屈で震災関連施設(モニュメント)と呼んでいるだけのような気もしたのですが、ある意味、こういう場所もあるんだと学ぶこともできたわけだし、今後この場所が地域にどうなじんでいくのかも見所のひとつなのかもしれないので、それはそれで意味のある貴重な震災遺構の旅(散歩?)だったかもです。

所在地:港区高輪4-9-16あたり


名前はそのままなので、まずは場所なのですが、品川駅から西へ徒歩数分の場所に品川プリンスホテルがあるのですが、今回の坂道はなんとそのホテル内にある坂道です。


いちょう坂(NO.244)1
写真1

まずは坂下からの様子など。
品川の駅前からビルの合間をぬけてくるとここにやってきます。
坂道自体は、ホテルの敷地内ということもあり、このあたりは基本的に車が通ることはほとんどないようで、ほぼ歩行者専用の抜け道という感じでした。
あとは勾配具合もなかなかいい感じでしたよ。
またこのすぐ左側に、いつものように坂の碑があるにはあったのですが、「いちょう坂」と大きく書かれてあるだけで、坂名の由来などは書かれてありませんでした。
うわさでは、このすぐ北側にあるかつての柘榴坂が今のいちょう坂の場所にあったという説もあったりするのですが、とにかくこの説とあわせて、この”いちょう”という名がどこからでてきたのかは不明です。


いちょう坂(NO.244)2
写真2

坂をすこし上り、坂下方向を見てみたものです。
こうして見ると、ホテル内にある坂道というのがわかりやすいかもといいたいところなのですが、実は坂下にあるのは商業施設だったりするので、どこまでがホテルなのかというのがわかりにくい場所でもあるんですけどね。


いちょう坂(NO.244)3
写真3

さらに坂を上り、坂下方向を再び見てみました。
まわりの凝った意匠の手すりやら右側の品川プリンスホテルの窓群などがとにかく坂道におもしろい影響を与えていたかもです。


いちょう坂(NO.244)4
写真4

今度は、写真3とだいたい同じ位置より、坂上方向を眺めてみたものです。
このあたりから景色がぐっと開けてきていましたよ。
どうやら坂上に駐車場があるためか、ここからは車が通るために舗装もよくみるタイプのものになり、道幅も車が楽にすれ違えるくらいの大きな幅の道になり、勾配具合もすこし急になっているようでした。


いちょう坂(NO.244)5
写真5

さらに坂を上り、坂下方向を見てみました。
勾配具合が急なためか、このあたりからでも坂下あたりとはけっこうな高低差具合になっていました。
あとは、あらためて道幅を確認してみるとかなり広いですね。(車、3台分くらいはありそうかも。)
とにかく坂下あたりの様子とはまったく違う風景が楽しめるのはおもしろいですね。


いちょう坂(NO.244)6
写真6

そして最後は、坂上からの景色など。
坂下のほうをみると、なんかはるか彼方という感じでしたよ。
高低差も坂下のビルで確認してみるとわかるのですけど、6階か7階くらいの高さにはなっている模様。
いやはや、なんともおもしろい坂道を残していただいて、僕はうれしい限りでしたよ。(笑)


いちょう坂(NO.244)7

ということで、新年初の坂道話でした。
では今年もよろしくお願いします。


地図
港区高輪4-9-16あたり

おめでとうございます。

昨年は、なにかと坂道関連で人前に出ることも多くなり、カルカルにはじまり坂道講師関連などいろいろな方にお世話になりました。
とにかくこのブログがきっかけでいろんな方々に会うきっかけができたのはよかったなあと。

また、年末はかつてないほどにこの坂道ブログの更新頻度が落ちてしまい、年末に2013年の簡単な総括みたいなことも書こうと思っていたら、あっという間に年越してしまいました。。
でも、ブログ自体はネタはまだまだありますし、まだ公開していない坂道写真もけっこうあり、というよりこのペースで記事をあげていたら、都内の坂道だけでも紹介が終わるのがいつになるのか怖くなってきますので、今年はぼちぼちではありますが、もうすこし更新頻度を前の状態にもどせればなあと考えていたりします。

ということで、本年もよろしくお願いいたします。


あけましておめでとうございます。


追記(1月4日):
あ、そうそう。カルカルや講師のことは触れているのに、みちくさ学会の電子書籍のことはそういえば書いてなかったのですけど、この電子書籍も昨年の2013年に出たものなんですよ。とういうことで、よかったらどうぞ。
みちくさ学会が電子書籍化されましたー。

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